登場者プロフィール
曽布川 拓也(そぶかわ たくや)
その他 : 早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教授理工学部 卒業理工学研究科 卒業1992年慶應義塾大学大学院理工学研究科数理科学専攻後期博士課程修了。博士(理学)。専門は数学、特に実函数論、算数・数学数育。著書に『数学的に話す技術・書く技術』(共著)等。
曽布川 拓也(そぶかわ たくや)
その他 : 早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教授理工学部 卒業理工学研究科 卒業1992年慶應義塾大学大学院理工学研究科数理科学専攻後期博士課程修了。博士(理学)。専門は数学、特に実函数論、算数・数学数育。著書に『数学的に話す技術・書く技術』(共著)等。
飯田 朝子(いいだ あさこ)
その他 : 中央大学国際経営学部教授文学部 卒業文学研究科 卒業1995年慶應義塾大学大学院文学研究科英米文学専攻修了。99年東京大学人文社会科学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は言語学。著書に『数え方の辞典』等。日本ネーミング協会理事。
飯田 朝子(いいだ あさこ)
その他 : 中央大学国際経営学部教授文学部 卒業文学研究科 卒業1995年慶應義塾大学大学院文学研究科英米文学専攻修了。99年東京大学人文社会科学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は言語学。著書に『数え方の辞典』等。日本ネーミング協会理事。
宮代 康丈(みやしろ やすたけ)
総合政策学部 准教授2000年慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。2011年パリ・ソルボンヌ大学(パリ第4)博士課程修了。博士(哲学)。専門は政治哲学、フランス哲学・思想。
宮代 康丈(みやしろ やすたけ)
総合政策学部 准教授2000年慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。2011年パリ・ソルボンヌ大学(パリ第4)博士課程修了。博士(哲学)。専門は政治哲学、フランス哲学・思想。
2022/10/25
ニューギニアのある部族の数え方
私は日本語の助数詞の研究をしてきました。助数詞は物の捉え方を研究する分野で非常に面白くて、欧米にはない概念です。
例えば鉛筆1本と傘1本は全然違う物なのに、何で同じ数え方をするのだろうとか、ホームランは別に形がなくボールは丸いのに、何で1本と言うのだろうとか、海外に行くと「論文1本書いた」と言うのはなぜかと、よく聞かれるんです(笑)。
今留学生を指導していますが、かなり日本語が流暢な学生でも助数詞は相当難しいようです。日本人として生きてきて自然に習得してきたことを、どうやって外国人に理論化して、それを分かりやすく説明するかを、ずっと研究し続けています。
私は算数・数学教育にかかわる立場ですが、最初に申し上げたいことは、誰がどう考えても鉛筆6本とノート5冊を足してはいけません。これは問題として間違っています。岡山大学の教育学部にいたときに、小学校の先生向けにそのことを口を酸っぱくして言っていました。
白いチューリップ2本と黄色いチューリップ3本と赤いチューリップ5本を足してはいけないと思っている子どももいる。その発想の方が正しいんです。
まず、「数えることの身体性」の話からいきたいと思います。下記の論文の図は、パプアニューギニアのある部族の、ものの数え方についての文化人類学の論文です。左手の小指から順に1、2、3、4、5、手のひらが6、手首が7、前腕部が8、肘が9、上腕部が10、肩が11、肩甲骨が12と、そうやって後、右に移って、37まで物の数を数える。このときには数という「概念」ではなくて「身体」に対応させて状況を把握する。これが一番原始的な数の数え方なんですね。
面白いですね。左から右に37まであるという捉え方ですね。パプアニューギニアの人たちは、小さい数は左側にあって大きな数は右側にあるような身体感覚を持っているのでしょうか。
あるかもしれませんね。37を超えたら2周目が始まるんです。
38から始まるんですか?
38という概念はもともとなくて、左手の小指、左手の薬指という感覚です。右手まで行くと今度は左手からもう1回やり直していく。37より大きな数を数えることはほとんどなく、あれば2周目という言い方をするらしい。
では37進法のような感じでもあるわけですよね。
そういうことですね。
10進法、20進法はよく知られていて、その起源は10進法の場合は人間の指が10本で、20進法は足も入れると20本になることだと。どこまで本当かは分かりませんが、そういう説明がされると思います。
このパプアニューギニアの例を見ると、足には行かずに頭の方に行くのがなかなか興味深いですね。数える時に、どの指から数えるかは文化によって違うのですか。
違いがあると思います。やはり右利きの人が多いから左から数えるのでしょうね。
右手で指しますからね。指の関節で12進法を数える文化があると聞いたことがあります。1、2、3、4、5、6みたいに、4本の指に3つずつ関節があってそれを親指で示すことで12の数を表して、1ダースを1つ数えると折っていくような文化もあって、指だけで完結するものもあれば上半身を全部使うものもある。面白いですね。
古代ローマの頃は、1万くらいまでは両手の指を使って表すことが行われていたと聞いたことがあります。そのやり方でラテン語をしゃべらない、ローマの側から見ればいわゆる蛮族の人たちとの商売も成り立っていたと。
極端な話で言うと、「手で持って1個、2個、ああもう持ちきれないから、たくさん、お手上げ」なんです。体で数えている話なんです。当然そこには数としての抽象的な概念はなくて、1対1対応の話しかないと思います。
飯田さん、日本語にたくさんの助数詞があるのは考え方として1対1対応の話ですよね。
まとめて数えたりもしますが、日本語だと両手を使うことはあっても頭をグルっと回って、奇数で終わるということはないと思います。時々、指を折ったのか伸ばして数えたのかという議論は起こっていて、万葉集の恋の歌では、あと何日待てば君に会えるだろうと、指を折っています。だから日本語は指を折る文化で、アメリカは指を出して指していきます。フランスもそうですか。
フランスはアメリカと同じです。ただし数えるときに親指から始める仕草を見かけます。だいたい薬指、小指に来るとうまく上げられないぞという感じになります。
指が動かないですよ(笑)。
数える時に、ただ指を上げるだけの方もいますし、逆の手で1つずつはじきながら、1、2、3と数えていく方もいます。日本は折っていきますよね。
具体から抽象へのジャンプ
僕がなぜこの話を出してきたかというと、「1対1対応=数える」だと思っているからです。飯田さんがおっしゃった、「まとめて」というのも、まとめたものを1として対応させているわけです。
数学では写像という言葉を使うのですが、何と何を対応させるかという数え方があって、基本は1対1対応をすると。でも、何に対して1対1対応をするかが問題で、今の指を折っていくのか伸ばすのかという話も全部、体の部分と1対1対応するというのが数えることの基本的な立場だと思います。
つまり、必ず具体的な対象があるという考え方ですか。
そうです。だから小学校の教育が一番難しい。例えば、足し算する時に、「3+5」を1つずつ数えて足していく、「数え足し」という段階を良しとするのか、それともそこから離れて「3」と「5」という概念を思えと早く言うかということがある。
この、抽象的な概念へのジャンプはかなり小学校低学年では難しい。だから私は体を使って徹底的に数えさせてしまえと思っています。人間ですから、知能が発達すればどんどん勝手に抽象化していくのだと思うのです。
抽象化はすごく難しいですよね。私は小学生の子どもがいるのですが、指を折って数えているうちは計算はそれほど苦手ではありませんでした。だけどおはじきに置き換わったり、棒を「10」に見立てるようになると、先生は当然のごとく、この棒は「10」だから「13」は棒が1つとおはじき3つとおっしゃいますが、いきなり形も数え方も変わって分からなくなってしまう。
今、曽布川さんがおっしゃった通り、そこはすごく大きな壁で、小学校の先生は夢中で進めていきますが、そこのジャンプが上手くできるかできないかで今後の算数の理解がだいぶ違ってくるのではと感じます。
全くおっしゃる通りです。私がよく言うのは、小学校低学年から下の主要3教科は図工、体育、音楽だということです。
身体性を前に出し、それを夢中にやることで、それが最終的に数の概念につながっていくんです。だから、将来子どもが算数をできるようにさせたければ、できるだけ外で遊ばせなさい。ジャングルジムを上らせておきなさい、テレビの音楽に合わせて踊らせておきなさいと言います。
その通りですね。音楽も音符は何音符、何拍子と、算数で倍数も約数も習わないうちから4分音符がいくつ分だと先生はおっしゃるのだけど、みんな全然分かりません。
そのあたりもリズム感や日常にある半分がこれぐらいの感覚というようなことを重視して教えなければ、いくら概念的に教えても身に付かないと感じます。
フランス独特の数の数え方
宮代さんはフランスにいらした時、数のコミュニケーションで戸惑った経験はありますか。
戸惑ってばかりです。日本語は10進法ですべての数を数えていくことができますが、フランス語での数え方はどうかというと、10進法、20進法、人によっては60進法が混ざっているという説明の仕方もありますが、結構複雑です。
例えば、70台の数字は「60+いくつ」という言い方をするので、「60+11で71」という捉え方をします。母語がフランス語の方は、「60+11」と言われてパッと「71」という数字が浮かんでくるのでしょうが、少なくとも私の場合はそこに慣れるのが大変でした。
さらに80台の数になると今度は20進法的に、「20」が4個で「80」という言い方をしていくので、だんだん頭がこんがらがってくる。
なぜこんなに面倒な言い方になっているのか。日本語も同じでしょうが、フランス語もラテン語からの影響があったり、その前のケルト系の人たちの考え方が入ってきていたり、言葉には歴史的な経緯が大きく響いています。呼び方の歴史には興味をそそる点がたくさんありますね。
当然、数学の中には1つには天文学的なものが入ってくる。だから60進法や20進法や12進法が出てくる理由も、だいたい天文学の話ですよね。1年が12カ月であるとか、歴史を辿ってみると確かに面白い。僕も今回フランス語の数の数え方をおさらいしてみたのですが、これで九九をやれと言われたら苦しいですよね。九九は「4×20+1」ですからね。
小学校の数学の先生は、教えるのが大変です。10進法の言い方もかつては存在しなかったわけではないのです。「70」、「80」、「90」に相当する言葉もあったのですが、アカデミー・フランセーズや辞書の編纂家たちの意向によって現在のような形に徐々になってきたようです。ただ19世紀末になっても、いわゆる10進法の言い方でやるべきだと述べている辞書もあったりします。
あまり見かけませんが2ユーロ硬貨がありますね。ユーロになる前に他の国ではギルダーなど、いくつか2という硬貨を見た記憶があって、こういう文化なんだなと思ったことがありました。日本では2千円札がはやらなかったですよね。
あれも日本人が2の倍数にあまり親しみを覚えない理由の1つですよね。
僕の感覚では、あれは「1」、「2」でいっぱいになったから一塊というような数え方がヨーロッパ人の心の中に染みているのだろうなと感じます。僕も見たことはないのですが、アメリカは2ドル紙幣もあるらしい。
アメリカだとクオーターといって25セント硬貨をすごくよく使いますね。
あれは2つ分けを2回していますね。5という単位も、もちろん指の本数ですが、10進法の塊の半分という意味もあるでしょう。日本人は半分分けと思っているかどうか。あっ、そう言えば江戸時代の金貨は1朱金4枚で1分、1分金4枚で1両小判だった。あれは半分分けかな。
紙幣や硬貨の単位が一番数の概念を文化的に表しているのかなと思っています。日本人は例えば1・5・10、7・5・3、5・7・5・7・7のように奇数が並ぶと美しいと思う感覚があるのだろうと思います。欧米でも詩歌を読んだときに、並びや音がいくつと数を意識したりしますよね?
フランスですと、アレクサンドランという12音節の韻律はとても有名です。詩だけでなく、演劇のせりふでも使われています。17世紀の古典劇には今でも上演される名作が揃っていますが、このアレクサンドランが使われています。せりふ1行ごとの末尾の発音も一定の規則で韻を踏むようになっていますから、声に出して朗読すると心地よいリズムになっています。
日本語の助数詞の特徴
助数詞の話ですが、日本にはたくさんの数え方があります。これは他の文化に比べて特徴的なものなのでしょうか。例えば中国と比べてどうですか。
日本語は豊富な部類の言語に入ると思います。一応、私が調査した範囲では500種類ぐらい助数詞と呼ばれているものが存在していて、ほとんど文献や一部の専門家しか使わないものもあるのですが、日常では120から130ぐらいは普段からよく使われている。これくらいが、大人の母語話者であれば使いこなせて当然という感覚のようです。
中国語も量詞というものがあって、これも調べると500ぐらいあるらしいです。だからある言語においてマックス500ぐらいまであると十分にいろいろなものを数え分けることができるというのが、人間の認知的な共通の感覚なのかなと考えています。
他に韓国語やインドネシア語やチベットの方言でも助数詞があって、日本語だけの特徴というわけでもない。ただ、これだけいろいろなものが数え分けられて、ホームランと傘と鉛筆が同じ「本」で表される、枠組みの広さは日本人独特の感性かと思っています。
ホームランを1本と数えるのは、やはり日本人独特ですか。
そうですね。日本語の数え方が独特で面白い感性だなと思うのは、形や機能に結構飛び付くこと。例えば1枚、1面、1個など形にくくりを付けたり、あるいは1台の車もあれば1台のパソコンもあれば、1台の機械など、台も広く使われる。
色や柔らかさや食べられるか食べられないかのような、もっと大事なことがありそうなのに、あえて機能や形に着目して全然仲間に見えないものも一緒に数えてしまうところは、すごく大胆で面白いと思っています。
飯田さんの本にロボット犬は1台と言うか1体と言うか1匹と言うか、というお話がありましたね。機能によって、どんどん状況が変わっていくというお話でした。
そうですね。だからその人が主観的にどう捉えるかによるのです。ただの1台のロボット犬であっても、ペットの代わりにかわいがっている人にとっては「1匹」であったり、ひいては「1人」と数えたり。
ドラえもんの数え方を大山のぶ代さんに聞いたことがあるのですが、ドラえもんは「1人、2人」だと大山さんはおっしゃいます。製造した段階ではネコ型ロボットだから1台かもしれませんが、のび太君を助ける特別な存在ということで、絶対に1台と数えてはいけないとおっしゃっていました。
数学屋の言い方で言うと、何と何を対応させているかの話になると思います。対応のさせ方が人によって違う。同じものだけれど、対応のさせ方は主観で変わってくるということです。
だから、黄色いチューリップ2本と白いチューリップ3本と赤いチューリップ5本は違うものだから一緒に対応させてはいけない、つまり足してはいけないんだと思う子がいるわけです。これはある意味正しい。
これを哲学的に分析すると、色が違うことで物も違うと考えた方がいいんですか。
人がどのように物と数を対応させるかは、かなり言語や文化によって変わってくることでしょうし、具体性を持った物から、概念としての数と捉えること、そこにはある種の断絶があると思います。
それこそネコ3匹と豆腐3丁は同じ3だと捉えるのが数としての「3」なのでしょうが、そこの抽象化は哲学的にも興味深いことのように見えます。
「数学とは、それぞれ違うものに対して同じ名を与える技術である」というとても有名なポアンカレの言葉がありますが、それは抽象化・普遍化の人間の能力かなと思います。具体的なものと結び付いた数の捉え方から一歩先に出るのが人間の能力なのでしょう。そういう意味で数を扱えることは、哲学では例えば古代のプラトンがとても重視していて、国家の指導者は算術を学ぶべきだとも言っています。
定冠詞を持つ言語文化の世界
私自身がフランス語でつまずいた例を挙げると、私が中学、高校で習った英語では、「数えられるものと数えられないものがある」という言い方で教わって、フランス語でも似たような教わり方をしました。
例えばコーヒーのようなものは数えられないんだというわけです。そこで、「ある一定の分量のコーヒー」という言い方をするのだと。こうした可算・非可算の違いは、名詞に付く定冠詞、不定冠詞、部分冠詞で示されると説明されました。
でもよく考えてみると、例えば喫茶店に行って「ある一定量のコーヒーを下さい」と言ってもどのぐらい来るか分からないですよね。当然ながら、実際の言語の運用では、もちろんコーヒー1つ、2つと言うことができます。
昔の教科書ではフランス語には数えられない名詞と数えられる名詞があると書かれているものもありましたが、比較的最近のはそうではない。話し手が対象を数えるものとして捉えているか、数えないものとして捉えているか。あるいは、聞き手に数えないものとして伝えたいのか数えるものとして伝えたいのかによって、冠詞の使い方が変わるのだと説明されていて、なるほどと思います。確かに実際の運用でも、言葉の仕組みとしてもそうなっている。
ですから恐らく日本語の1匹か1人かと考えるのも、話し手がどのように捉えているか、どう聞き手に伝えたいかということと関連している面はないでしょうか。
定冠詞を持っている言語は、かなり輪郭がはっきりした概念を持っているイメージがあって、言語の分類からいくと助数詞も特に必要としません。
定冠詞、不定冠詞もなく、文法上のジェンダーがない言語は名詞自体の輪郭が非常にぼやけてくるので、数える際にはクッキー型で抜くような感じですが、抜いたものを数えることで枠組みが助数詞の役割になっていると私は仮説を立てています。
世界地図で見ると米作りをしている地域は助数詞をたくさん持っている傾向が強いんです。一方、かつて狩猟民族がいたようなところでは、複数形があったり定冠詞・不定冠詞の区別があったりする。生活様式によって名詞の感覚がだいぶ助数詞に影響を与えていると考えています。
小学校の算数教育で言うと、数は1個、2個である個数という概念と、もう1つ、量の概念があります。量の量り方がすなわち単位なのだろうと思うのです。
飯田さんが本に書かれている、単位とは置き換えが利くものであるという見方は、1つの見方としてもちろんいいのですが、量をどう捉えるか、それを数の形に変換するのが単位であるとも言えるわけです。狩猟であれば、ウサギを1匹捕った、2匹捕ったで済むわけですから個数の概念で済むんでしょうけれど、穀物だとそうはいかないから量の概念が大事になってくるのではないか。
実はここは算数教育のポイントでもあります。1個、2個と数えられる数の話はいいのですが、問題は分数です。分数には量の概念が入ってきてしまう。3分の1は全体があってそれを3つに割ったものです。量の概念がゴチャゴチャ入ってくるので分数は難しいのです。
だから3分の1+2分の1は5分の2ではないのが子どもは分からない。数だと思えばそれでいけそうな感じがするのに、そうではなくて量の概念だから違う定義をしている。
量をしっかり把握するには客観性も重要ですよね。何かを取引する際に自分にとってはたくさんだと言っても相手には少ない量だったりすることもあると思うので、離れた人たちが貿易をする際に、しっかりと量の単位化をすることが重要だったのではないかと思います。
うちの娘も分数にはすごく苦労していて、あれは通分させたり約分したり、また次なる技術が必要ではないですか。そうするとバケツに水を何杯入れてという具体性に戻ってしまうので、せっかく抽象化した算数の能力がまた具体化しないと理解できなくなる。行きつ戻りつがもどかしい感じはします。
数学が「分かる」とは?
おっしゃる通り、そこが小学校教育は難しいんです。それに比べれば大学の数学の講義をすることなんかははるかに簡単。小学1年生に今おっしゃったことを教えるのはものすごく難しい。
具体と抽象を行き来するというのが重要だということですか。
はい、それはもうどんなレベルでもそうです。大学のある授業で、それ自体も十分に抽象的なものですが、あるレベルから見てそこからもう2段抽象化するんです。ところが、その抽象化に皆付いてこられません。
しょうがないから具体例として、皆が普通にできるであろうところまで下りてきて、また2段上の抽象化に行って、また戻ってくるということを繰り返しながら、2段上の抽象化を感覚として我慢できるようにする。散々やっているうちに慣れてきてしょうがないと思えると。
数学は比較的、正解があるではないですか。正解に向かって論理的に考える力を身に付けることが一番大事なことですか。
論理的に考えていれば十分だと思います。論理的に考えずに過程をすっ飛ばすワープ技術だけを身に付けようとする人が多過ぎる。ワープ技術だけでは、そもそも覚えるのが苦痛ですから。
このことは私が何十年も考えたことですが、分かるとは何ですかという話に行き着きます。
まず1つ言うのは、「論理的に分かる」は認めない。論理的に分かるというのは、たいてい言葉を連ねただけです。そうではなくて感覚的に分かったと感じられるのが分かったである。そこまで考えろと言うのです。最初は論理的に受け入れて、こういう構造であるなと理解していくしかない。しかし、最終的に感覚的に分かることに辿りついてほしい。
既に持っている経験や知識とどれぐらい深く結び付いているかが大事で、それが一体化したと思えた時に感覚的に分かるんだと思います。
数そのものは私たちの目には見えないわけですよね。2匹のネコは見えても「2」という数の概念自体は見えません。そういうものを感覚的に捉えられないと数学の世界はわからないということになるのでしょうか。
おっしゃる通りで、たくさんやっていくうちに自分の感覚の中で確たるものだと思えるかどうかです。「2」とは何ですかというときに、それを確たるものとして思えた時に「3」というのが分かった、個数が分かったと言えるのだと思う。
いちいちそんなことを考えなくてもできる人は、かなり概念として抽象的なものを認識したと言えるのでしょう。
道具によって数の概念は変わる?
今、小学校でそろばんをやらなくなりましたよね。そろばんをやらなくなったことで日本人の計算能力や数の概念は何か変わっているのでしょうか。
概念や能力が変わったとまではいかないのですが、影響は出てくるだろうと思います。ただ、飯田さんや私が子どもの頃と比べて、まだ数十年なので社会全体を壊すほどのことにはならないと思うし、計算機があるので、あまり表に出てこないんですよね。
ただ、高校だと化学の時間に電卓を使って計算しますが、うっかり2桁間違えて1リットルの水に食塩が2キロ溶けると書いてしまう人がいます。どう考えても、そんなことはあるわけないんだけど、そういうことを平気で書いてしまう。
そういう意味では僕は量の概念が忘れられる可能性があるかと思っています。だからこそ、逆に低学年では身体的・感覚的なものを育てる教科を大事にしたい。
私もそろばんはそんなに得意ではありませんが、3桁ぐらいの足し引きだと頭の中でそろばんをはじいて答えを出す昭和の人間です。しかし、娘にそろばん的に説明すると全く分からない。この世代差は大きいのかなと感じていました。使う道具によっても計算の概念が変わってくるのではないかと思ったのです。
おっしゃる通りです。僕はあちこちで、小学校に上がる前の子どもにあまり数字を教えるなと言っています。概念がよく分からないのに数字を教えてもしょうがないんです。
だけど概念が分からなくても数字の並び方を覚えただけで、極端に言えば高校生でやる積分の計算ができることになってしまう。
「1」の次は「2」で、「2」の次は「3」で、「3」の次は「4」でということが覚えてさえいれば、その延長線上で結果はマルがもらえてしまいます。それは危険だと思うんですね。だから数の概念は訳の分からないものであるというほうが正しいと私は思っていて。数字なんか変なものだと思います。でも、誰も聞いてくれない(笑)。
確かに、数学ができると頭がいいと短絡的に考えますよね。概念が固まっていないうちに小手先だけで扱えるのは扱えるけど、おっしゃるとおり、いずれつまずいたり誤解が生じたりする気がします。
身体感覚に結び付いた単位
英語でも同じだと思いますが、少ない量というか長さを表すときに1指分、2指分という言い方をすることがフランス語ではあります。ウイスキー1指分、「ア・フィンガー」と言うのと同じです。こうした表現のように、日本語でも身体に結び付いた、似たような表現はあるのでしょうか。
単位としてはあると思います。1尺や1咫(あた)のように手の広さを表すものです。「咫」は、上代の長さの単位で、親指と中指を開いた長さに相当します。自分の手に合っているお箸の長さは「ひと咫半の長さがよい」などと言います。
フランスはフランス革命の時に度量衡制度を一気に変えようとしました。メートルは一番有名な例でしょうが、人為的にいろいろ統一しようと日常感覚と食い違っているようなことも思い切ってやってしまう。暦(革命暦)もその1つだったように思います。
革命暦は1日を10時間、1週間を10日、ひと月を30日にして、各月の名前も変えた。暦は週や月のイメージや体感とも結び付いているはずです。理由はいくつかあるにせよ、人々の生活とそぐわなかったのか、革命暦はやがて使われなくなった。
時間の長さのようなものも身体性かもしれませんが、日常感覚や日常生活とズレてしまうと通用しない単位があるんだなということが、フランスの例では見えてきます。
日本でも尺貫法が変わった時には混乱はあったのでしょうか。
明治時代は混在して使っていましたよね。ものによって尺貫法をそのまま使ったり、ヤード・ポンド法に変えたり、イギリス式とアメリカ式の数え方が混在したり、かなり混乱はあったと思います。
例えばパンの数え方の1斤(きん)は、1ポンドから来ていて、きちんとした客観的な重さがあったのですが、それも分からなくなってしまって、どんな大きさでもパンの塊は1斤と数えようと決めてしまった。そんな緩くなった例もあります。
そうすると、1斤は1ポンドではないわけですから単位ではないわけですよね。
今はいろいろな会社からパンが出ていますが、みんな1斤と呼んでいて重さは違うので、「パンの塊」という意味ですよね。
フランスの中では10進法にしようという考えと、20進法、60進法がよいような考え方のせめぎ合いがずっとあったのですか。
フランスの中にも、10進法的な言い方で60、70、80、90台の数を言う地域はありました。南や東の一部では20世紀になってもそうであったようです。フランス語を使うベルギーやスイスも10進法的な言い方です。ただ、ベルギーだと80台はフランスのように20進法的な言い方をするようです。
今、SFCにコンゴ民主共和国の留学生が来ています。コンゴ民主共和国の公用語はフランス語です。ただ、数字の「70」と「90」については、フランスとは違って10進法の言い方をするとその留学生は言っていました。
なぜ10進法的な言い方をするのか。同じフランス語を使うとはいえ、コンゴ民主共和国はもともとベルギーの植民地だった地域だからですね。数というのは普遍的なものに思えますが、数がどう呼ばれるかは政治や社会の問題とかなり深く結び付いているのだなと、その時気付きました。
使う単位、使わない単位
アメリカにいた時、身長1メートル50センチといってもピンと来ない人が多かったですね。やはり普段からの身体感覚としてフィートが染みついていてメートルは分からないよと。普段から使いこなしている数や時間の経験値で、単位は成り立っているのではないですか。
靴を買いに行った時に「23センチの靴を下さい」と言っても「What?」という感じで、いちいちシンデレラみたいに全部を履かないといけなくて不便でした(笑)。
液体の量を表す際、日本ではシーシー(cc)という言い方で料理のレシピに書いてあると思うのですが、フランスのレシピではセンチリットル(cl)という単位がよく使われます。1センチリットルは10シーシーです。
だからフランスのレシピを見ながら料理をしていると、なんか味が薄いなと思う。どうにも妙だったのですが、センチリットルで測っているのでシーシーの感覚で料理をしていると10分の1になってしまうことに気付きました(笑)。
ヨーロッパはセンチリットルですよね。お酒の瓶もたいていセンチリットルと書いてある。
デシリットルと算数で習いますが、あれはどこの国で使っているのですか。
どこでも使っていません。あれは日本の算数教育のためにある単位だと言っていいと思います。実際に1デシリットルは、小さなコップに1杯。そうすると体感しやすいんです。
そのために、わざわざあるんですね。
センチリットルと同じで、もともとの考え方としては当然あり得ます。それが算数の例にちょうどいいので使っている。
よく算数の自由研究で身の回りの単位を調べるのがあって、ヤクルト1本は70シーシー、牛乳は1リットルか1000ミリリットルと冷蔵庫の中から引っ張り出して調べるのですが、1デシリットルのものは見たことがないので、架空の単位かなと思っていたのです(笑)。
10分の1のデシや10倍のデカなどは、まず使わない補助単位ですよね。デシメートルもあまり記憶にない。
もっとたちが悪いのは、平方センチメートルは、1平方メートルの100分の1ではありませんよね。1センチの四方で1万分の1ですから分からなくなってしまいますよね。
それこそ数字だけで暗記するのではとても覚えられなくて、感覚的に理解するしかありません。だから最終的に戻ってくるのは、量はもちろんですが、体を使って数えるという感覚、直感として捉えるしかないと私は思います。
数え方も数学のほうから見るとまた違った面白さがありますね。今日はすごく勉強になりました。
(2022年8月19日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。