慶應義塾

小幡篤次郎を読む

登場者プロフィール

  • 川﨑 勝(かわさき まさる)

    南山大学経済学部元教授。福澤諭吉協会理事。『小幡篤次郎著作集』刊行委員。

    法政大学大学院社会科学研究科博士課程満期退学。他に『馬場辰猪全集』『福澤諭吉書簡集』『津田真道全集』等に携わる。

    川﨑 勝(かわさき まさる)

    南山大学経済学部元教授。福澤諭吉協会理事。『小幡篤次郎著作集』刊行委員。

    法政大学大学院社会科学研究科博士課程満期退学。他に『馬場辰猪全集』『福澤諭吉書簡集』『津田真道全集』等に携わる。

  • 西澤 直子(にしざわ なおこ)

    研究所・センター 福澤研究センター教授

    『小幡篤次郎著作集』編集委員。慶應義塾大学大学院文学研究科修了。専門は福澤諭吉の家族観・女性観を中心とする近代日本女性史・家族史。

    西澤 直子(にしざわ なおこ)

    研究所・センター 福澤研究センター教授

    『小幡篤次郎著作集』編集委員。慶應義塾大学大学院文学研究科修了。専門は福澤諭吉の家族観・女性観を中心とする近代日本女性史・家族史。

  • 大久保 健晴(おおくぼ たけはる)

    法学部 教授

    『小幡篤次郎著作集』編集委員。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は東洋政治思想史・比較政治思想。

    大久保 健晴(おおくぼ たけはる)

    法学部 教授

    『小幡篤次郎著作集』編集委員。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は東洋政治思想史・比較政治思想。

2022/09/06

中津藩上士の子として生まれる

大久保

本年2022年の3月末から慶應義塾と福澤諭吉協会による『小幡篤次郎著作集』(全5巻予定)の刊行が始まりました。

小幡篤次郎は徳川末期より福澤諭吉のもとで学び、1890年、慶應義塾の塾長に就任し、福澤歿後には塾頭をつとめました。塾外でも東京学士院会員や貴族院議員など歴任し、明治日本の文明化に向けて多大な貢献をしています。

よく知られるように、『学問のすゝめ』初編は福澤諭吉とともに小幡篤次郎が共著者となっています。

しかし一般には、小幡篤次郎の名前を聞いたことはあっても、どのような人物なのかよく知らない、という方が多いのではないでしょうか。

そこで本日は私が進行役をつとめつつ、企画の立案者の1人である川﨑勝さん、『著作集』の編集に携われている西澤直子さんとともに、小幡篤次郎の人となりや魅力について語り合いたいと思います。

まず小幡篤次郎の生涯からお聞きしたいと思います。小幡篤次郎は天保13(1842)年、中津に生まれたということですね。

西澤

福澤諭吉と同様、中津藩士の子として生まれ、福澤は西暦では1835年生まれですので、7、8歳年下となります。

福澤は、安政5(1858)年に江戸に出てきて、中津藩の中屋敷にあった塾で蘭学を教え始め、アメリカ、ヨーロッパを見る機会を得て、日本にとっての急務は、人材の育成であると考えるようになりました。そこで塾に優秀な若者を誘って、共に学び合うような場にしたいと考えました。そのときはまだ「社中」という言葉は使っていませんが、後の慶應義塾社中と言われるような仲間ですね。自分の故郷である中津に、いい人材はいないかと探しに行き、他の5人とともにスカウトされたのが小幡篤次郎です。元治元(1864)年のことでした。

江戸に出て福澤の塾に入り、それ以降、小幡は福澤を助け、長い間、慶應義塾の中で中心的な役割を果たします。

また、翻訳によって、西洋の文明を日本に紹介し、あるいは明治9年にできた東京師範学校中学師範科の設立に携わり、慶應義塾の塾長も務め、貴族院議員としても様々な議案に関わるなど活躍します。

川﨑

私は中津のことは全く知らないので、西澤さんに教えていただきたいのです。小幡家は上士で福澤家は下士ですが、そのランクはどれくらい離れていたのでしょうか。それから、中津藩には前野良沢がいたわけで、早くから蘭学が盛んでした。その学問的影響は福澤や小幡にどれくらいあったのでしょうか。

西澤

福澤と小幡篤次郎の父は同じ中津藩士ということになりますが、藩の中での立場は、福澤家は下士で十三石二人扶持、小幡家は上士で二百石取りの供番(ともばん)という差があります。

福澤は後に明治10年の『旧藩情』の中で、中津藩は上士と下士で非常に大きな格差があって、生活の水準も違い、教育面でも上士と下士では読んでいる書物も異なると述べています。

ただし小幡篤次郎は上士階級には生まれたのですが、天保年間に上士の間で対立が起こり、その時に小幡の父は、争いに敗れて隠居せざるを得なくなってしまったという事情があります。篤次郎が生まれた時には、すでに養子が小幡家を嗣(つ)いでいて、彼は長男として生まれながら、「篤次郎」という名前が示すように次男の扱いで、跡取りではありませんでした。

また、福澤は『福翁自伝』の中で中津に対して、ひとつのイメージを創出しているところがあると思います。例えば分限帳という位の高い順に書かれている、藩士の名簿のようなものがありますが、下士といっても、福澤家の名前は、分限帳全体の真ん中より前に出てくる。

つまり、上士の3倍ぐらい下士がいるわけで、福澤と同じ十三石二人扶持ぐらいの藩士がたくさんいる。ですから、二百石取りというのは位がすごく高いとも言えますが、一方でものすごく差があるかというと、福澤クラスの人が多いので、福澤が最下層で小幡が上層という捉え方をすると少し違うのかなと思います。

また、中津の蘭学の伝統ですが、前野良沢はたぶん江戸詰めで中津にはいなかったのではないかと思いますし、脈々と一つの蘭学の系統があったと捉えるのは難しいところです。しかし、歴代藩主の中に蘭癖(らんぺき)と言われるような、オランダに対して強い関心を持っている人たちがいて、例えばシーボルトの日記に一番多く登場する日本人は五代奥平昌高(1781~1855)です。薩摩の島津重豪(しげひで)の息子ですが、中津辞書といわれる日本最初の和蘭辞書、また蘭和辞書もつくらせています。

上京して福澤塾へ

大久保

福澤諭吉は嘉永7(1854)年、中津から長崎に出て、さらに安政5(1858)年より江戸の奥平家中屋敷内に蘭学塾を開きます。近年の研究では、その背後に藩儒・野本真城ら中津藩内の改革派による助力が存在したと指摘されます。その中の一人に、小幡の父、篤蔵もいました。ただ、このことについて、『福翁自伝』では触れられていませんね。

西澤

以前から野田秋生氏が紹介されていますが、小幡は野本真城(白巌)の塾で学んでいました。私が見ている資料は『鶯栖園遺稿』という、渡辺重石丸(いかりまろ)という野本塾に通っていた人が書いたもので、断片的ですが小幡がどう学んでいたかが書かれているものと、もう一つ、やはり同門の八条半坡(はちじょうはんぱ)という人の日記です。

渡辺重石丸は、野本塾で学んでいた人は野本派と呼ばれ、藩内である種、独特の雰囲気を醸し出しているグループだったと書いていますが、野本塾を中心としたネットワークが福澤にも小幡にも大きな影響を与えていたのではないかと思います。

八条半坡の日記を見ると、野本の塾のネットワークが藩内の、特に兵制改革、軍制改革で中心的な役割を担っている人たちと重なっています。西洋の軍備も導入するような改革を志向している人たちです。兄の三之助のほうが強かったかと思いますが、福澤もそこと接点があったと思います。小幡が福澤を最初にがどこで意識したかを考えるとそのあたりにカギがありそうです。

元治元年に小幡が他の五名の中津藩士、自分の弟(仁三郎〔甚三郎〕)や仲間と一緒に江戸に出てきて、福澤のところで初めて英学を学び始めたことは事実ですが、それより前に洋学や西洋に関する関心が全くなかったかというと、かなり疑問だと思います。福澤から一方的に言われて小幡が洋学を始めたわけではなく、洋学には関心があったのだけれど、江戸に行くのに迷いがあったのでしょう。

大久保

当時、小幡は20歳を超えていて、藩校の進脩館で教頭を務めていました。そこに福澤の誘いがあったということですね。

西澤

小幡自身が語っているのは、福澤が中津で江戸に行き自身のサポートをしてくれる人を探しているという話を聞いた。ただ、自分は事情があり、江戸には行きたくなかったので、福澤に会わないように避けていた。しかし、あるとき偶然会ってしまい、それで江戸に行くことになったと。ただもともと父篤蔵の弟竹下郁蔵を介して、幼い頃から福澤とは知り合いで、『西洋事情』も本になる前に読んでいたと述べています。

福澤のほうは、小幡が行きたくないと言っているのを聞いて、次男だから養子先を見つけなければいけない、江戸に行けば養子先はいくらでもあるからと、小幡だけでなく小幡の母親にもそう言って説得した、自分は誘拐してきたようなものである、と書いています。

小幡篤次郎(左)と松山棟庵 慶応3(1867)年頃(慶應義塾福澤研究センター蔵)

小幡の語学の能力

大久保

小幡は江戸に出てから福澤の塾で英学を学び、その後、約3年で開成所の教授手伝に就きます。川﨑さんは、蕃所調所ならびに開成所のことを研究されていますが、小幡はどのようにして英語を習得したのでしょうか。

川﨑

開成所での教育内容についての公的な記録はほとんどないんですね。ただ、小幡は「学術抜群」と評されてすぐに第一等教授並に繰上げられるのだから、すでに福澤のところで実力をつけていたのでしょう。あそこにいた人は語学力がすぐついてしまうという不思議な能力がある(笑)。今の教育制度では全くわからない。そこに外国人教師がいるわけでもないのに、皆、ちゃんとした語学力がついていく。それは英語だけではなく、ドイツ語、フランス語もしかりです。明治の人たちは文法を学ぶのでもなければ会話をするでもなく、とにかく原書をいきなり読んで理解してしまうという、今では考えられない習得のシステムがあったようです。

後のことですが、札幌農学校だって講義は英語でテキストを輪読するだけですよね。私が推察するには、藩校は皆、漢文の素読が基本で、ただ繰り返し読んでいる中で自然とわかってしまう。だから、英語もそういうやり方をしてきたのではないか。

それともう一つは福澤のいた翻訳方と開成所との関係がどうなっていたのかもよくわからない。福澤のほうから何かわかりますか。

西澤

翻訳方と開成所の関係は、私にとってもこれから調べなければならないテーマですが、小幡がどうして開成所に勤め始めたのかを見ると、英語を学ぶ必要に迫られてか開成所で英学を学びたいという幕臣がものすごく増えて、慶応2年10月には150人を超え、教員が足りなかったという事情があったようです。幕臣の中から何人かを採用しようとなるなかで、小幡も候補にあがり、陪臣であることが問題にはなりますが、学術よろしく「翻訳もの」の力を買われて採用される。そして1年で教授手伝から教授に上がっています。

弟・仁三郎ともう1人、慶應に入学記録が残っている最初の人物の1人、伊予松山藩の小林小太郎も開成所に出仕しています。3人については藩主からのお礼状が残っていて、福澤塾からというよりは各藩の代表として採用されるという立場だったようです。

これは小幡が亡くなった後ですが、開成所で小幡兄弟が教え始めたら、その解説がすごくわかりやすいので、休み時間は小幡兄弟の前にだけ質問する人の列ができたというエピソードが「時事新報」に載っているんです。

大久保

開成所に勤めた慶応2年に、小幡は慶應義塾の塾長となります(1890年の塾長就任とは異なる)。さらに慶應義塾の建学の理念を示した『慶應義塾之記』の起草にも携わったといわれます。この間に福澤の中で小幡の評価が急速に高まっていったということでしょうか。

西澤

当時の塾長は学生の長のような形で今の塾長の役割とは違っています。慶應年間に入塾した学生たちの話だと小幡が入塾の手続きや案内のようなこともしていたようです。ただ、そのような中で、開成所にも行っていたのは不思議です。小林小太郎も小幡兄弟も開成所で教えていて、しかも、福澤は慶應3年になると再度アメリカに行って留守にしている時期もあり、その時期に義塾の中はどうなっていたのでしょうか。

恐らく、福澤は塾に入る前から小幡に対する期待を強く持っていたと思いますし、来てからの小幡は、期待にたがわぬ活躍をしたということかと思います。

大久保

小幡は明治4年に福澤の提言によって中津市学校が設立されると、初代の校長となります。西澤さんのご論文(「小幡篤次郎 その思想と活動 ―交詢社設立までを中心に―」『甲南法学』57号、3.4号、2017年)を見ますと、小幡は訳書科という科もつくったそうですね。中津での活動はどのようなものだったのでしょうか。

西澤

話が少し戻りますが、慶応2年5月に入塾した馬場辰猪によると慶應義塾の教授法は全く不完全なもので、定まった教師がおらず、互いに教え合い、年長から恩恵のように授業を授けられていた。開成所で印刷した30ページぐらいの英語文典を使い、ABCを教えぬまま、まずこの本を教えられたと言います。発音はいつも間違っていたのだけれど、当時は正しい発音を知っている者は誰もいなかったそうです。

小幡が考えていたのは語学として英語を学ぶというよりも、英語を通じて、それまで紹介されていない新しい学問、新しい知をどうやって皆で受容していくのかということだったのだと思います。中津市学校をつくった時も、いきなり難しい洋書に取り組むのは、ある程度、儒学の素養がある人でないと難しい。新しく学校をつくって様々な人に教えるとなると、訳書科をつくり、語学を学ばなくても内容がわかる翻訳本で学ぶことが必要だと考えたのでしょう。訳書科というのは翻訳された本で学ぶという意味になります。

見えてこなかった存在

大久保

このように小幡は福澤の活動に不可欠な存在だったわけですが、それではなぜ、これまで小幡の著作集は編纂されなかったのでしょうか。

西澤

馬場辰猪や鎌田栄吉は全集が出ていますし、同郷の中上川彦次郎にしても、磯村豊太郎や和田豊治にしても皆、立派な伝記があり、あるいは伝記をつくるために集めた伝記資料集も出ていますが、今まで小幡にはそれもなかったのです。

大久保

同時代の人々は、福澤の後ろには小幡がいて、小幡の後ろには福澤がいるという関係をよく知っていました。不思議なのは、それにもかかわらず、『福翁自伝』の中では、小幡の存在があまり明瞭ではないことです。

川﨑

『福翁自伝』は単純な自伝ではなく、あの時代に福澤が何を言いたかったということが中心になるので、政治との関係とか、そういうものが中心になってくるわけです。

小幡そのものは絶えず一緒にいたような人で自分の右腕だから、特にそこで名前を挙げて論ずるというまでもないというか。福澤の発言なのか、小幡の発言なのか、2人一緒のようなことがあるわけですよね。

福澤にしてみれば小幡の論と自分の論は一つであり、自分で語ってしまえば終わるということだから、小幡は自分の中にいるもので、分けて考えるような人物ではないということでしょうか。一体化してしまっている感じがどうしてもぬぐえない。

『自伝』はとにかく自己主張だと私は思っているので、それゆえ、そこには小幡を逆に出さないという感じなのだろうなと感じます。

大久保

小幡は「福澤の右腕」とよく言われるわけですが、今回、著作集を出す一つの意図として、「単なる右腕だけの存在として考えていいのか」という問いかけもありますね。

川﨑

問題の一つは『学問のすゝめ』の初編は小幡・福澤共著だということ。それは中津市学校として、中津に向けて出すには、福澤より小幡のほうが中津では顔が利くからと言われています。ただ、私にはそれだけではないように思われます。共著の意味をもう少し重要視したいと思っています。

「天は人の上に人を造らず」という有名な出だしの言葉を選んできたのは福澤なのか、小幡なのか。もしかしたら小幡が選んできたのを福澤流の文章にしたのかもしれない。これは私のまったくの妄想に過ぎませんが。

次に『文明論之概略』の中にある内地雑居批判論は、まず西周と津田真道が内地旅行推進論を『明六雑誌』に載せる。それに対して、福澤が「西先生ノ説ヲ駁ス」という形で『明六雑誌』と『民間雑誌』に外国人の来日を許すべからざるの論と内地旅行の駁議を書く。その後、小幡が「内地旅行ノ駁議」を続けて書いていく。そして福澤は自分の論文ではなく、小幡の書いたものを『文明論之概略』の中に取り入れ、小幡から教えてもらったという言い方をするわけです。

福澤の文体と小幡の文体は全く違うわけです。福澤の文体は今でも素直に読める。しかし、小幡は難しい言葉だらけで、今は使わない漢字がいっぱい出てくるし、漢和辞典にもない組み合わせの造語が頻出する。

丸山眞男さんの『「文明論之概略」を読む』では、福澤が書いたものを小幡が引用していると言うけど、小幡の文体と福澤の文体は違うわけだから、あの文章は小幡のものだろうと思うのです。骨子としては同じで、ただ、小幡のほうが非常に具体的で、福澤はやはり文明論という観点で論じられていると思われます。私のイメージでは、福澤は、彼の思想的な背景から言って内地雑居に反対していないと思います。しかし、あの時期には西らに対し反論しないわけにはいかない。

当時の議論は、自由民権期の演説会だと、特に政談演説会は自分の考えとは別に、論者に対し反対意見を無理やりでもつくって議論を成り立たせていくことがあります。内地雑居については、小幡が明確に問題点を挙げている。その現状は認めなければならないのに、それについて西先生は何も言っていないので困る、というのが福澤の議論の吹っ掛け方だろうと私は読んでいます。

福澤・小幡の共同作業

川﨑

それから、ウェーランドというと福澤だけれど、ウェーランドの原書を買ってきたのは小幡です。英語の書物については小幡の着眼点は非常に優れていた。それで、小幡が「これ、面白いよ」と福澤に渡したのを福澤が読んでいくというような関係ができていたのではないか。だから、両者は相互関係にあった。

話が少し飛びますが、後に「時事新報」が発刊されると、「不偏不党」をモットーにします。しかし、あれは単に政府に対する隠れみのであり、全て、福澤と小幡が立案して読んでやるのだと明言している。全て福澤と小幡が「検閲」しているわけです。福澤の党派性の表れる言論機関と私は位置付けています。

つまり、「時事新報」に掲載されたものは福澤・小幡の考えで、その議論の中から一つの方向へ導いてい くスタイルを取っていた。これは『学問のすゝめ』以来、一貫して小幡と福澤が共同してやってきたことではないか。だから、福澤の陰で小幡が支えたのでもなく、言ってみれば二人の共同作業ということが前提にあるのではないか。

『西洋事情』以降ずっと福澤が絶えず出してくる問題を、しっかりと原典から、根拠を示しながら伝えていこうとしたのが小幡だったのではないか。だから、合体して一つの作品をつくり上げた関係と言えるのではないでしょうか。

大久保

つまり、一つの工房のような形でつくり上げているイメージでしょうか。これまでは福澤諭吉という光があまりにも強すぎ、小幡はその右腕という位置付けでしかなかった。しかし、実際には互いに切磋琢磨し、福澤自身も小幡から多分に影響を受けていたのかもしれません。

『文明論之概略』でも、福澤は緒言の中で小幡について、「就中(なかんずく)、小幡篤次郎君へは特にその閲見を煩わして正刪(せいさん)を乞い、頗る理論の品価を増たるもの多し」と記しています。

トクヴィルの翻訳をめぐって

大久保

小幡の著作活動の注目すべき点はジョン・スチュアート・ミルとトクヴィルという、福澤が文明論や地方分権をめぐる政治論を展開する上で、非常に重要な思想的源泉となる著作の翻訳を行っていることです。

『上木自由之論(じょうぼくじゆうのろん)』は、フランスの思想家トクヴィルが著した『アメリカのデモクラシー』の中の出版の自由に関する議論を、小幡が明治6年に英訳版から重訳した翻訳書です。トクヴィル受容の点でも、また出版自由を論じた点でも、非常に早い時期に公刊された貴重な作品です。

小幡はその後、明治9(1876)年になると同じくトクヴィル著『アメリカのデモクラシー』の英訳版から、「義気」(public spirit)や、「政権」(government) と「治権」(administration)の区分ならびに集権と分権について論じた箇所などを訳出し、『家庭叢談』誌上に発表しています。これらの翻訳は、同じ頃に執筆された福澤の『分権論』(明治10年)の中で紹介されており、福澤は小幡によるこれらの翻訳から影響を受けていたと推測されます。

よく知られるように福澤の『分権論』は、不平士族の反乱が問題化する同時代の政治状況について正面から論じた作品です。そのなかで福澤は、小幡によるトクヴィルの翻訳を引用しながら、人々が「政権」ではなく、それとは「源を異」にする「治権」、すなわち「公共の事」に与る「地方分権」を確立し、「自治の精神」に根差した「愛国心」を養うことの重要性を唱えています。

私はこの間、大学院の演習を通じて、トクヴィル著『アメリカのデモクラシー』の英語版と小幡の訳文を比較しながら検討していますが、いろいろ面白いことがわかってきます。

まず、小幡の訳は時折難しい言葉が使われていますが、全体としてとても読みやすく、翻訳として完成度が高いと言えます。儒学の深い素養の影響もあり、訳文は簡潔でありながら、本質を突いた訳文であるという印象を受けます。

さらに英文と比較すると、小幡の翻訳意図が浮かび上がってきているように思える箇所にいくつも出会います。

ささやかですがその一例として、「仏人トクヴィル氏の著書「デモクレーセ イヌ アメリカ」中より合衆邦人の義気を論する一篇を訳す」では、愛国心を自然的なものと合理的(rational)な性格を持つものとに区分するトクヴィルの議論が翻訳されています。特に後者の合理的な愛国心は、福澤の『分権論』の中で、「道理」に適う「推考の愛国心」として紹介されます。

ここでトクヴィルは、loyalty を、前者の自然的な愛着に基づく、一種の宗教とも言える愛国心の一形態として説明しています。興味深いのは、小幡がこのloyalty に「尊王」という訳語をあてていることです。それにより読者は、小幡の訳文を通じて、「尊王」思想のような愛国心は自然的な愛着による一時的なものであり、これからの世の中はそれとは異なる、政治や行政への参加に基づく合理的な愛国心が求められている、と理解するのです。ここからは、小幡にとって翻訳は単に学問的な営みであるだけでなく、実は一つの政治的行為でもあったことがうかがえます。

ちなみに、福澤の『分権論』と対比すると、実は福澤が小幡の訳文に、断りなく加筆している箇所があることもわかります。

福澤は『分権論』の序文で、「この書一篇は、我社友、随時会席の茶話を記したるもの」と述べています。小幡や福澤は、「会席」を通じて、自らの学問的成果を披露しつつ、現今の政治について語り合ったのでしょう。学問と政治との間を往還しながら討論を繰り返す、当時の慶應義塾の姿が目に浮かぶようです。

こうして彼らはトクヴィルなど西洋の思想家の著作に触れ、そこから知的触発を得て、眼前に広がる明治日本の政治課題に取り組んだのです。

川﨑

明治8年に讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が出る。その時にまともにその批判をしているのは「郵便報知」だけで、小幡の署名で、明らかに讒謗律に対する批判として記事が出されます。ほとんど注目されていませんが、これも小幡の功績です。

ただ、明治6年段階だとあまりそういう出版の問題は、直接は出てきていなかったのではないか。その中で出版の自由の問題を出していく。しかもまだ自由民権運動以前ですから、自由の問題を考えるものとしても非常に早いものです。

きっとトクヴィルを読んで感激したのだろうし、福澤はそのときどう思ったのか分かりませんが、共に「郵便報知」を支援し、書き手でもあったわけです。結局、小幡は出版の自由を強調することの意味を他の誰よりも意識していたのではないか。その結果、福澤がいろいろな著作を出していく中で、福澤を守っていくことになったのではないか。

だから、文明の先達者というと福澤のイメージがありますが、そういう基本的なことのリーダーシップを取った人物だと私は小幡を評価したいと思います。

トクヴィルは自由民権運動が起こってから騒がれるわけだけど、その時よりも『上木自由之論』のほうがインパクトはあったわけで、津田の『泰西国法論』とミルの『自由論』が植木枝盛などに影響を与えて自由民権運動に行く。その思想的根拠を与えたものの一つが『上木自由之論』であったと見ているんです。

大久保

ご指摘の通りだと思います。

出版の自由を取り締まっていくと専制に至るという、政治哲学的にも重要なトクヴィルの議論が、この時期に翻訳にされたことは、明治思想史上においてもきわめて大きな意義があります。

「吾党」を背負う小幡

大久保

小幡と福澤の関係がだいぶ明らかになってきましたが、同時に小幡は実務の面でも慶應義塾を支え、重要な役割を果たしていきます。

西澤

私は、小幡は福澤とはまた別に、明治の近代社会をどうつくっていくべきかを考えていたと思います。彼の封建制から郡県制にどう変わっていくのかという視点は、単に徳川からの変化ではなく、六百年来の変化を考える中で封建から郡県への転換をどうしていくのかという関心だと思います。

その中で、慶應義塾で何を学生たちと一緒に読み、議論すべきかを考え、トクヴィル、あるいはミル、それから海外の宗教論などを翻訳・紹介してきた。小幡は学生を教え、一緒に議論しながら、自分の著作にまとめていったのではないかと思います。

先ほど述べた開成所のエピソードの一方で、学生たちにとって福澤の授業は非常に簡単で分かりやすかった、でも、小幡の授業はすごく難しかったという回想もあります。おそらく開成所での授業は、技術を教えるものであったけれど、慶應義塾ではそうではない。小幡は日本語訳で読んでも、原書と同じだけの情報量を得られるようにしたかった。トクヴィルなりミルなりから得た、概念や理念を伝えたかったのだろうと思います。そのためベースが分かっていないと理解できないと思うところを意訳したり、省いたりしたのではないでしょうか。

また、小幡の中では「吾党(わがとう)」という意識がすごく強くあり、福澤とは別の考えを持っているのだけれど、一つの大きな仲間内であるという意識は持っていたのだと思います。そして、だんだんその吾党のために、小幡が背負う部分が多くなっていってしまった。明治10年以降、西南戦争があり、義塾の経営が傾いていくと、義塾を維持していかなければという気持ちが小幡は福澤よりも強く、その仕事がどんどん増えていった。

福澤は亡くなるまで本を出し続けますが、小幡は明治21年を最後に、単行本は出していない。また交詢社は福澤が書いているように、発案も小幡であると思いますが、その実務は彼で、「時事新報」にしても、福澤がどれだけ記事の校閲をしたかは怪しいし、小幡の負担はどんどん大きくなっていったのではないかと思います。その結果、福澤のサポート役という印象が強くなってしまい、伝記も著作集も出なかったのではないでしょうか。小幡がいなければ慶應義塾の業績はないと評価されているように、小幡がいたからこそ、続けてこられたという部分は、やはりすごく大きいと思います。

慶應義塾は『慶應義塾学事及会計報告』を明治23年から出し始めます。これも小幡が緒言を書いています。義塾がこれだけ大きくなってしまったからには、義塾がどういう教育をしているかを世間の人たちに知らせなければいけないし、会計報告もきちんとしないと寄付金も集まらないと言っています。そういったことを伝えるのも小幡の大きな役割でした。

なぜ地方自治に関心を持ったか

西澤

今回、小幡の著作集をつくる際に思ったことは、明治10年頃までの小幡の著作、翻訳活動が福澤に与えた影響は非常に強いし、小幡は福澤に言われてやっていたわけではなく、自分なりの関心で、どういうものを翻訳すべきかと考えていたのだということです。その関心の一つは私も地方自治の問題であったと思います。そして、なぜ小幡が地方自治に関心を持ったかと言えば、中津藩の上士階級に生まれたということが大きかったと思います。

実際に版籍奉還以後、廃藩置県までの中津藩の行政を担った人たちは小幡の仲間だった人たちで、税制から何からすべてが変わっていく中で、現場でどう対応するかが重要な課題であると小幡はわかっていた。だから彼には、封建制から郡県制へどう変えていくのか、ということが基本にある。そこで地方自治への関心が強くなっていったのではないかと思います。

福澤の場合、早くに江戸に出てきており、福澤の周りの中津藩の人たちは、実際に版籍奉還から廃藩置県までの混乱を収拾しなければいけない立場にはなかった。福澤は小幡が訳したりまとめたものを見て「そういうことも問題なのだ」と思い、自分の著作にそれを取り入れるという構造があるのではないかと思います。

そこを明らかにしないと福澤の業績もわからないし、明治の変革期に実際に行政にいた人たちが何を考え、どう新しい社会をつくっていったのか、というところも見えなくなってしまうかと思うのです。

大久保

その通りですね。ところで、明治13年に交詢社ができますが、川﨑さんは交詢社の研究もなさっています。交詢社はどのような目的で創設され、そのなかで小幡はいかなる役割を果たしたのでしょうか。

川﨑

交詢社は、最初の1、2年は官僚から政治家、思想家など、あらゆる層の人たちが入っている。それから地域も非常に多岐にわたり、慶應出身者が中心につくった団体だけど、それだけではなく、政府に対抗する一つの言論機関として位置付けていたのではないかと見ています。

ただ、明治14年の政変以前は、福澤が井上馨、伊藤博文から新聞の相談を受けるような時期ですから、福澤としては言ってみれば、旧体制側ではない政治家たちを含んだ一つの言論機関をつくっていきたいと思っていた。それは福澤がずっと『西洋事情』以降唱えてきた、文明化の象徴としての議論を中心に置いた存在として位置付けるということです。

小幡がどう動いたかはっきりとは見えないのですが、とにかく小幡を軸にして、荘田平五郎、矢野文雄、馬場辰猪らのメンバーが議論をしながら交詢社をつくり上げていった。外部から見た場合、やはりいくら違うといっても、一つの政治「的」団体としてみなされてしまうのは当然の成り行きだと思う。小幡自身が中核にいて指導していく中で、『上木自由之論』以降はトクヴィルが思想的に一つの支えになっているのではないかという感じがします。

ところでギゾーやバックルについて小幡は何か述べていましたか?

大久保

福澤はギゾー、バックルの文明史、文明論に関心があったのに対し、小幡はむしろミルやトクヴィル、つまり言論の自由や地方自治などに関心を向けた、ということになるでしょうか。

川﨑

そこは何か2人の違いを見いだす手掛かりがあるのではないかなという感じがします。

大久保

また、小幡がミルの『宗教三論』を翻訳していることも興味深いですね。そのあたりから、小幡自身の文明観や構想が見えてくる可能性があるのかもしれません。

西澤

『宗教三論』には旧中津藩士の桑名豊山という校閲者がいます。幕末、慶応年間に京都留守居家老をやっていて、その後、版籍奉還から廃藩置県まで中津藩の大参事を務め、廃藩後に慶應の中で小幡のそばで小幡の講義のノートを取っていた、儒学者ともいえる人物です。のちに彼は明治11年11月より各郡の郡長として、地方行政に携わっていきます。この桑名豊山がなぜ『宗教三論』の校閲者になったのか。

中津で右に出る者がいないほど儒学の素養はありますが、その人がミルの英文を読んで小幡の訳を直せたとは思えない。なぜ桑名に校閲をさせたのかというところに、小幡が『宗教三論』を誰に伝えたいと思ったかが見えるのではないかと思うのです。

大久保

具体的にはどのような読者層を念頭に置いていたのでしょうか。

西澤

小幡は継続して地方自治に関心を持っていて、しかも福澤より政治的な関心、政治体制に対する関心は強かったのではないかと思います。だから、交詢社も一つの政党だと捉えられてもいいと考え、私擬憲法案を出していったのではないか。

一方で、交詢社の仲間を紹介しあったり、情報交換のネットワークの核に小幡がなっています。小幡にと って交詢社は一つの世務諮詢、世の中の情報を交換し合う機関でもあった。特に中央と地方の情報量の差をなくそうという気持ちが強かったのではないか。やはり政治のあり方を考えた時に、都会でも地方でも、同じ情報量を持つことが重要であると思ったのだと思います。

そう考えると、『宗教三論』も中央の学者だけではなくて、新しい政治体制が根付いていくために、そのベースにあるものを、より多くの人に理解してもらいたいという意図があったのではないか。そのための仲介役として、儒学の素養があり、解釈の橋渡しができることを期待して、豊山に読ませたのではないかと思っています。

著作集刊行の意義

大久保

川﨑さんは小幡だけではなく、『馬場辰猪全集』『植木枝盛集』『福澤諭吉書簡集』(岩波書店)、『津田真道全集』(みすず書房)、『馬場辰猪日記と遺稿』(慶應義塾大学出版会)など、同時代の人物の著作集や全集の編集と刊行に広く携わられています。今、150年前の彼らの著作集を刊行する意義をどのように考えられていますか。

川﨑

正直なところ、困っているのですが、私が関係した著作集は全く売れない(笑)。

しかし、売れないからこそ資料として残さなければいけない。この機会を逃したら、恐らく二度と小幡は日の目を見ないと思います。少部数でも、とにかく活字にして誰でも読めるようにして、その所在を明らかにしておくことが重要です。

西澤

そうですね。福澤先生は面倒くさいことは皆、小幡に押し付けているのではないかとも思えて、ずるいなと思っています(笑)。

ただ小幡の著作、特に明治10年ぐらいまでの著作はとても重要です。それは小幡を知ることだけではなく、その時期に日本に訪れていた変化がどんなものだったかを知るためにです。それを知ってもらうことに『著作集』刊行の一番の意義があると思います。

大久保

これまで、時代の中で傑出した思想家や政治家を顕彰する形で、全集や著作集が編まれてきました。しかし、明治維新から150年が経った今日、個人の顕彰よりも、むしろその時代に何があったのか、できる限り資料を残していくことが重んじられるようになっています。

今回の『著作集』も、小幡篤次郎の顕彰ではなく、むしろ当時の人々がどのように生きていたのかを示す歴史的な資料として、貴重な価値があります。こうした著作集の編纂こそ、明治日本の誕生をより歴史学的かつ客観的に検討するために重要であると考えます。

さらに近年、海外の学者による明治維新研究が盛んです。小幡に関しても、エジプト・カイロ大学の学者であるハルブ・ハサンさんなどによって研究が進められています。

歴史的な研究に寄与する重要な資料を残していく営みは、世界史の枠組みを問い直すという観点からも、きわめて貴重な意義をもちます。

川﨑

明治150年という話がありましたが、明治100年の時は政府がイケイケドンドンで、一種の「国威発揚」のような、言ってみれば偉人の顕彰だったわけです。今はそうではなく、しっかりと批判対象として資料を見直すということですね。そして、それに基づいた出版活動というのは出版文化論の観点から見ても非常に大事です。その一つとして小幡の著作集が取り上げられたことは非常に嬉しく思います。

小幡の場合、福澤のように誰もが知っているような人ではないけれど、とにかくこの全5巻の『著作集』の刊行を通して、基礎的な小幡篤次郎像というものが確立されればよいなと思っています。

大久保

有り難うございました。多くの読者の方が小幡に少しでも興味を持ってくださり、『著作集』を手にとっていただければと願っています。

(2022年6月22日、三田キャンパスにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。