登場者プロフィール
小泉 徳宏(こいずみ のりひろ)
その他 : 映画監督(株式会社ROBOT映画部所属)法学部 卒業2003年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同年ROBOT入社。2006年『タイヨウのうた』で劇場長編監督デビュー。主な作品に映画『ちはやふる(上の句、下の句、結び)』等。
小泉 徳宏(こいずみ のりひろ)
その他 : 映画監督(株式会社ROBOT映画部所属)法学部 卒業2003年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同年ROBOT入社。2006年『タイヨウのうた』で劇場長編監督デビュー。主な作品に映画『ちはやふる(上の句、下の句、結び)』等。
佐々木 孝浩(ささき たかひろ)
研究所・センター 斯道文庫長、同教授専門は日本書誌学、中世和歌文学。1987年慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。博士(学術)。著書に『日本古典書誌学論』等。慶應かるた会会長。
佐々木 孝浩(ささき たかひろ)
研究所・センター 斯道文庫長、同教授専門は日本書誌学、中世和歌文学。1987年慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。博士(学術)。著書に『日本古典書誌学論』等。慶應かるた会会長。
浜野 希望(はまの のぞみ)
事務局 信濃町キャンパス経理課職員2018年慶應義塾大学総合政策学部卒業。慶應かるた会OB。2015年、2017年全日本大学かるた選手権大会優勝。2016年全日本かるた選手権大会準優勝。2019年名人戦東日本代表。
浜野 希望(はまの のぞみ)
事務局 信濃町キャンパス経理課職員2018年慶應義塾大学総合政策学部卒業。慶應かるた会OB。2015年、2017年全日本大学かるた選手権大会優勝。2016年全日本かるた選手権大会準優勝。2019年名人戦東日本代表。
2022/01/17
「畳の上の格闘技」
「競技かるた」は今でこそ『ちはやふる』のお蔭もあって、「かるた=百人一首」と皆わかってくれますが、以前は、「いろはかるた」と思われたり、なかなかわかってもらえませんでした(笑)。
一般の百人一首のかるた取りは、札を百枚バーッと散らし、上の句と下の句が続けて読まれて札を取る形ですが、競技かるたはそれとは違います。1対1で行うスポーツのようなもので、「畳の上の格闘技」という別称があるくらい。そもそも使う札は百枚ではなく、場には50枚しか並べません。
しかも、バラバラではなく25枚は自分の方に向いて並んでいて、それを自陣と呼び、残り25枚は相手の方を向いていて相手陣と呼びます。そして、並べるのは50枚ですが、読まれるのは百枚。つまり読まれても場にない札があるわけです。
競技かるたとはいかに自陣の25枚の札をゼロにするかという競技で、自陣の札を取れば1枚減りますし、相手陣の札を取れば、自陣から札を相手に1枚送ることができます。相手がお手つきをすると、自陣からさらに1枚送れるので、必ずしも取った数によって勝てる競技ではない。相手との駆け引きなど、いろいろな要素が混じり合って、1つのスポーツとして成り立っています。
競技かるたは誰が始めたんですか。
それまでバラバラだった競技のルールを制定したのは、作家の黒岩涙香と言われています。東京かるた会というものを明治37年に設立して統一したとのことです。
黒岩涙香は義塾でも学んでいた人ですね。
競技かるたのルールは相当複雑なので、映画で説明することはほぼあきらめました。試みたのですが、そうすると映画が終わらないので(笑)。「とにかく早くかるたを取る競技」ということがわかれば、楽しんでいただけるだろうと。
僕のイメージでは将棋に瞬発力が掛け合わさったような感じで、ただ早く取ればいいだけではなくて、札を送ったり送られたり、どこに札を置くかといった駆け引きがすごくたくさんある。選手によって戦術が全然違い、頭脳戦と心理戦とアスリート的なところがハイブリッドで混ざりあった競技という印象でした。
佐々木 将棋でいう棋譜的な流派というか、戦い方のパターンが分かれていたりするんですか。
浜野 自陣の札を主に取る人は「守りがるた」、相手陣を攻めて取る人は「攻めがるた」と言います。大きく分けるとその2つですが、守りの中でもどこが早いとか、どういう札を送るとか、いろいろあります。
札の分け方はそれぞれが25枚取って並べるのですよね?
まず百枚裏返して混ぜて、その中からお互い25枚ずつ取って、好きなところに並べます。
並べるときは表にしていいのでしょう?
そうです。定位置と呼ばれる範囲の中なら、並べ方は自分の好きなところに置いていいのです。
トップクラスの選手になると、お互いの並べ方の癖も、取り方の癖も把握しています。そこで駆け引きがあったりするんですよね。
すごいですね。僕は慶應かるた会の会長なのに何も知らない(笑)。
かるた競技者に必要なもの
浜野さんは、どういう興味から競技かるたを始めたんですか。
小学校の時、大学のかるたサークルの人が、日本文化を学びましょう、みたいな授業で模範演技をしていたんです。その頃はまだお正月にBSで名人戦やクイーン戦などの放送があったので、それを見て、格好いいなと思い、中学から競技かるたを始めたんですね。
中学校に部はあったの?
いえ、なかったので、近くのかるた会を探しました。偶然そこがかるたの聖地である近江神宮でやっているかるた会で。
それはすごいね。近江神宮は甲子園みたいなものでしょう?
ぜいたくにも中学校の頃は毎週近江神宮で練習していました。住んでいたのは京都だったのですが、大津は近かったので。
かるたにはまったのはどんなところだったのですか。
競技にいろいろな要素があるところでしょうか。そもそも百枚の札を覚えていなければいけない。競技ではお互いに札を並べたら、最初にどこにどの札があるかを暗記する時間が15分間あるんです。まず暗記力。また1試合が1時間強で、大会で優勝するにはそれを7試合こなすので集中力が必要です。
あとはもちろん体力、瞬発力、動体視力。数えたらきりがないぐらい、いろいろな要素があるところに魅力を感じて没頭していきました。
大変そうですけどね(笑)。
また、普通の大会だと、下は幼稚園児から上は80歳以上の高齢の方まで老若男女がともにできるんです。僕は中学生の時から近くの大学に行って練習し、いろいろな人と関わり、貴重な経験をさせてもらったと思っています。普通の中学生は大学生や大人と関わる機会がないと思うので、小さな頃からいろいろな世界を見ることができました。
いろいろな力が必要な中で浜野さんの強みはどこですか。
全部と言いたいところですが、メンタルでしょうか。相手に取られてしまったり、自分がお手つきしてしまったら、「ああ、駄目だ」と思いがちですが、そこをどう切り替えるかが大事です。
一試合一試合をどう戦っていくか、いろいろ考えることも多いのですが、ハートの強さでここまで強くなれたと思っています。
競技かるたを映画にするには
小泉監督は、もともと競技かるたのことをご存じだったんですか?
全然知りませんでした。末次由紀先生の漫画『ちはやふる』は読んでいましたが、映画化のお話をいただいてから本格的に取材というか勉強し始めた感じです。
もともと漫画の連載が始まったのは2007年末頃ですが、人気が出るにつれて、いろいろなところで映画化やドラマ化の話が持ち上がったらしいんです。様々な人たちがどうやって映像化するかに頭を悩ませてはあきらめ、紆余曲折、ご縁もあって僕のところに話をいただいたんです。
それまで実写の百人一首の映画はないですよね。
百人一首を要素として扱った映画はあったとは思いますが、競技かるたを題材にしたものはないでしょうね。
2時間ドラマで「百人一首殺人事件」とかがあったぐらいでしょうか(笑)。
映画にするにあたり、札を取る瞬間のスピード感が一番目立つし、すごく面白いと思ったのはもちろんですが、その札1枚1枚に歌が書いてあり、そこには意味があるということが物語として面白いところでした。これは他の競技やスポーツにはないポイントですよね。
サッカーボール自体には特にストーリーはないじゃないですか。競技場にある50枚の札それぞれに物語や感情が込められているところは、物語を作る上で、いわゆるスポーツ熱血物語とは一線を画す要素だと思っていました。
映画では畳の下から撮っている画面がありましたよね。札を透かして顔が見えるというのがすごく面白いと思ったのですが。
漫画の中の表現にもそれに近いものがあります。ただ、実写でこの撮影をするのはなかなかハードルが高くて、やるんじゃなかったと後悔しましたけど(笑)。
競技かるたはどうしても顔が下向きになるので、その表情を捉えようとすると、下から撮ったほうがきれいに見えるわけです。だから、末次由紀先生は、あのアングルを選んだのだろうと思い、映画でもポイントでそれをやらせてもらいました。
『ちはやふる』の影響
浜野さんは『ちはやふる』の漫画、映画はどのように受け止められました?
どうしてもスポーツやかるたなどの競技を漫画や実写映画にした時、本物とはかけ離れていることが多いんです。それがいい部分ももちろんありますが、競技かるたを広めるために、本物に近い形でやってもらえたらと思っていたんですね。
最初に『ちはやふる』の漫画を見た時、これはそっくりだなと。建物の描写や札を払うシーンも、実際の試合や場所も忠実に描かれていると思って感銘を受けました。映画も同じく、そこに人間模様を足したところも含めて、忠実に再現してもらったと思い感謝しています。
末次由紀先生は、ものすごく取材される方なんです。『ちはやふる』を描き始めて長いですが、もう取材することがないのではないかというぐらい今でも取材されています。
競技の合間の時間のない中、選手が何を食べているかということも見ているんですよね。
最近は『ちはやふる』の影響もあって、かるた会に入る人は本当に多いです。1学年に30人ぐらいいます。
とにかく増えて、練習場所を確保するのも大変なようです。
漫画連載当初からファンでしたが、こんなに読まれるようになるとは思っていませんでした。ここまで有名なものにしていただき、今ではプロ化の話や、東京オリンピックの時に文化事業の話もあったくらいです。
競技人口が増えると、そういうことがあるんですよね。やっている人が多くなると、プロ化の話とか大きな話が動き始めたりする。競技を広めていくという意味では、意味があったのかなと思います。
あと、「かるたをやっている」と言うと、すぐに「ああ『ちはやふる』のやつね」となるので人に説明が要らなくなりました(笑)。そこが一番変わったなと思います。
アメリカの日本研究者の中には『ちはやふる』そのものを研究されている方もいらっしゃるんですよ。日本古典文学の研究者人口もどんどん減っているのですが、『ちはやふる』のお蔭で、百人一首に興味を持ってもらえたことは研究者としても大変有り難いです。
藤原定家は選んでいない?
今、国文学の研究者の間でも、実は百人一首の研究が盛んです。しかし、百人一首というのは一種の鬼門で、僕などが迂闊にものを言えないところがあるのです。なぜならあまりにも有名で、ちょっとした思い付きを発表すると、集中砲火を浴びかねません。
というのも、「小倉百人一首」という呼び方が正式ということになっていて、藤原定家が選んだと言われていますが、これは実は確定した話ではなく、学界では、どちらかというと、「定家ではない」という説のほうが優勢なように感じられます。
そうなんですか。
一般の人は必ずそう思われていますよね。でも事実を追究していくと、僕もどちらかというと「違うのではないか派」なんです。
藤原定家が関与したというのは、『明月記』という定家の日記に書いてあることが理由とされています。1235(嘉禎元)年5月27日の日記に、息子為家の奥さんのお父さん、宇都宮頼綱から定家に、嵯峨にある別荘の障子(今の襖や衝立みたいなもの)に貼るための色紙の和歌を選んでほしいという依頼があったことが見えます。それが百人一首の起源だと言われている。でも、日記には百枚書いたとはなく、天智天皇から家隆・雅経までの古来の人の歌各一首としか書いてないんです。
嵯峨の西隣が小倉山なので、この日記を見て、『百人一首』と結びつけるのも当然のことでした。
ところが、現代になってから、百人一首とよく似ているのだけど、歌人と和歌が少し違う『百人秀歌』というものが見つかり、こちらがその日記に出てくるものではないか、という説が出てきています。
なるほど。
というのも百人一首における身分の書き方、一番わかりやすいのは最後の後鳥羽院と順徳院という天皇の名前ですが、定家が生きている時には、彼らはそう呼ばれていないんです。ただ、色紙自体には作者名は入っていなかった可能性が高くて、後の人が本の形にした時に加えたとも考えられます。ともかくも、定家の死後にその名前が贈られているのです。
一方の百人秀歌には後鳥羽と順徳が入っていなくて、身分表記なども定家が生きていた時代に合うのです。跋文的なものにも、定家が選んだようなことが書いてあったりするので、百人秀歌が定家の選で、百人一首は違うという説が生まれたのです。
さらに、定家の息子の為家が書いたという百人一首の本を、江戸時代に模写したものが見つかりました。写真版で見る限り、その筆跡は鎌倉時代のもので、為家が書いたかどうかは微妙なのですが、そういうものがあったということは、為家の時代までには成立していたとは言えると思います。そのようなものもあるので、為家が百人一首を整えたという説も有力だったりします。
そんなことになっているとは知りませんでした。
天皇や天皇をやめた院が当時の一流の歌人に命じて歌集を作らせる勅撰和歌集がありますよね。それに入っている歌を定家が選んでいるのですが、後鳥羽院と順徳院の歌は、定家が生きている時は勅撰集に入ってないんですね。
自分が仕えた人たちで、承久の乱で流されてしまったので無理して入れたとの考え方もあるのですが、定家が関与した『新古今集』『新勅撰集』までの勅撰集にほかの歌は入っているのに、二人の歌だけ入っていないのがおかしいのは確かなんです。
それらは為家が選んだ『続後撰集(しょくごせんしゅう)』という、定家が死んだ後に編纂されたものには入っている。ですから、為家が選んだとすれば、矛盾がとりあえず解決します。ただ、ここで断言すると、袋叩きにされる危険もあって、断定はしたくないんですが(笑)。
宇都宮家の別荘のために歌を選んだのは事実なのですよね。
それは間違いありません。そもそも個人の別荘に百枚も色紙を貼れるのかと言う人もいるんですけどね(笑)。
かるた遊びとしての発展
また、現在、歌人の肖像画(歌仙絵)と歌がセットになっていますが、百人一首にいつ絵が加わったかというと、江戸時代になってからではないかと言われています。歌を詠んだ人の姿をその歌と一緒に描くことは平安後期ぐらいからあるのですが、百人一首はもっと時代が下るのです。
かるた遊びになったのが江戸時代からですよね。
そうです。かるたはポルトガルから入ってきて、「うんすんかるた」(トランプを日本でつくりかえたカルタ)が変化して百人一首などになったと言われています。かるたの形の百人一首は江戸時代にならないと見られないのですが、17世紀には相当たくさん質の高いかるたが出回っています。
最初に誰が絵を描いたかというのはわからないんですよね。
わからないです。江戸の割と早い時期に出版されたものや手書きのかるたなどを見ると、細かいところは違っても、基本的な絵姿の定型ができあがっていることがわかります。猿丸が右手を上げているとかは、それ以前の別の作品の姿を真似しているのですが、わかりやすい特徴です。
様式が決まっているんですね。
ただ、浮世絵師なんかが現れてくると、違うバリエーションを作っていて、歌人が立ち上がったり後ろを向いたりします。
それから「小倉」と付いているのは、いろいろなバリエーションのものがあるからで、室町時代に将軍足利義尚が選んだとされている『新百人一首』というものもあります。文武天皇から始まって花園院まで、百人全部違う人の歌を選んでいます。江戸時代にはパロディーみたいなものも作られていますね。
定家の日記には百首選んだとは書いてないわけですから、どこかのタイミングで『百人一首』という名前をつけた人がいたということですよね。江戸時代には全国に広まったということですか。
江戸時代には百人一首の本やかるたがどんどん作られていました。地方にもたくさん残っていますし、普及版みたいなかるたもたくさんあります。それから慶應義塾創立の頃に刊行されたこんな絵入の豆本もあります(写真)。
かるたになったことがきっと大きかったのでしょうね。宣伝というか戦略が上手かったんでしょうね。百人一首までは、流行ったかるたはなかったんですか。
「伊勢物語かるた」とか、「源氏物語かるた」とか、論語を素材にしたり、漢文のものも含めて、ものすごい種類があります。百人一首にもいろいろな種類があるのですが、結局、一番上手く生き残ったのが「小倉百人一首かるた」なんですね。
百人一首は万葉集の時代から和歌が文芸として頂点を極めたと言われる定家の時代までを網羅して、それを学ぶだけでコンパクトに和歌の歴史や歌の読み方を学べるということから、室町時代ぐらいから和歌を学び始める人の教科書的なものの1つとされていました。
また、注釈書が室町時代ぐらいからたくさん作られて、江戸時代になると何種類も出版されています。百人一首を学問化した世界もあるんですね。
百人一首はJ─POP?
浜野さんは競技をやっていく上で、内容や意味も学んでいったんですか。
競技かるたを始める人は99%競技から入っていて、和歌が好きで競技を始めようとする人はわずか1%ぐらいです。私もほとんど意味を知らなくて、いつも勉強しようと思っては断念してしまいます。
競技かるたには、最初の何文字か聞けば取れるという「決まり字」というものがあるのですが、私たちは正直それが命なので、トップ選手でも中の言葉は覚えていない人がいるんです。
最初だけ覚えるんですね。
今、こうやって競技かるたが流行ってきているのだから、われわれトップ選手はそういったところも学んで伝えていかなければという自覚だけはあります。
ぜひそうしてください(笑)。
でも、逆に音としてはすごくよく聞いているわけですよね。この札の響きがいいとかはあるんですか。
ありますけど、あくまでも音としてなので。
僕は映画を撮っている際、和歌にはいろいろなストーリーがあるのでその内容に共感できることもありましたね。百人一首には恋の歌が多いので、少女漫画である『ちはやふる』との相性がすごくいいですし、よく読んでいくと、ほぼ内容が今で言うJ─POPなんです。
なるほど(笑)。
「好きだ、好きじゃない」とか「好きじゃないふりしてやった」とか、現代の若者にも通ずるような心情が描かれているんですよね。千年前ぐらいの人たちがほぼJ─POPのようなことを歌っている。これも確かに「歌」なんだ、これはもう現代性がバリバリあるではないかというところが魅力的でした。
現代の青春物語とも相性がとてもいいし、すごく青春を感じるような描写が百人一首の歌の中にもある。歌っている本人たちは、きっと今の若者たちが詩やラブレターを書くようなノリで歌を詠んでいたんだと思うとすごく身近に感じるんですね。
人間には変わらない部分もたくさんあるんだな、と思えてよかったです。
そういうところを感じている方も多いかもしれませんね。確かに和歌というのは恋が非常に重要な素材で、百人一首も43首が恋の歌です。でも、最初の頃はラブレター代わりに恋の歌を贈り合ったりするのですが、だんだん与えられたテーマで恋の歌を詠むようになってくる。
要するに、自分が恋をしていなくても、男であっても、お題が女の人の気持ちを詠まなければならないものであれば、ある恋のストーリーを頭の中に思い浮かべて、その感情や状況を詠まなければいけないんです。極めて文学的な、フィクショナルな性格が恋の歌には強いのです。
そういうことも知って味わい始めるととても面白い。しかも、上手くいった恋の歌は極めて少なくて、片想いとか、一度会ったけど別れてしまったとか、つらい歌ばかりなので、感情移入しやすいんですよね。
読手と競技者との対峙
読手(読み札を読む人)の方は、和歌を相当勉強されているかもしれませんね。
そうですね。僕は中高では合唱部でしたが、合唱は、自分の中で歌の意味を解釈して取り組むので、おそらく読手の人も、この札を読むときは、こういう感情で読むのがいいと思っているのではと思います。もちろん一首一首で読み方が変わってはいけないのですが、気持ちが違うということはあるかもしれません。
それは面白いですね。
B級読手、A級読手、専任読手とランクがあって、専任読手という選ばれし読手は、今、7人か8人ぐらいしかいない、トップオブトップの方です。その方たちの話を聞くと、相当和歌を勉強されているようです。
発音の仕方が変わってはいけないんですが、西側の人と東側の人で読むニュアンスがちょっと違うみたいなこともあるみたいですね。
和歌を詠む際、アクセントをどこに置くかというのは、和歌の学問の一分野になっています。でも、『古今集』には、どう読めというのはあるのですが、百人一首のアクセント本は見た記憶がないかな。濁って読むかどうかという清濁の指摘はあるかもしれませんね。
競技での読み方は教科書みたいなものがあって、意味ごとに息継ぎをすると決まっています。単語の途中で呼吸を入れたりしないように。
必ずしも「五七五七七」で切るというわけでもない?
そうです。
読手さんの読み方というのは、本来の和歌の読み方とは違うと伺ったことがあります。
和歌の読み方というのは披講(ひこう)といって、今でも毎年歌会始をやっていますが、伸ばして読むのが正しい。でもそれを競技かるたでやっていたら間延びしてしまう(笑)。
しかも身分が高いと5回繰り返して読むとか、繰り返す回数が違ったりするんです。今でもそういう発声の仕方を守っておられる方々もいらっしゃいます。
録音機がない時代は、口伝で伝えていくしかないですよね。
一応楽譜みたいなものがあって、線でこんなふうに伸ばせとか、声を震わせろとか書くんですね。
試合では読手との距離が影響したりはするんですか。
ほとんど変わらないですね。ただ、専任読手の方にも読み方の癖はあるので、トップレベルの選手はそういう癖を摑み取っています。この読手は母音の「あ」や「お」が漏れやすいとか。いくら気を付けていても、こちらはそれに慣れているのでわかります。
そこまで把握しているんですね。すごい世界ですね。
だから、選手と読手の間にも言ってみればバトルがあって、読手は全員が公平に取れる環境を作らなければいけないけど、選手は読手の特徴を懸命に摑もうとするんです。
海外への普及
今、私は全日本かるた協会の広報部に所属して、YouTubeで生放送しているタイトル戦の解説をしているのですが、流れてくるコメントには海外のものが多いです。そのくらい海外への普及は広がっていて、1、2年に1回、世界大会が日本で開かれています。
コロナ前は、近江神宮で団体戦をしていましたが、そこでは各国語で「頑張れ」とか、「次1枚」という掛け声が飛んでいました。今はこういう状況なので、Zoomでつないでオンラインで競技かるたのゲームを使うこともあります。
ひらがななのでかるたを通じて日本語の勉強をしている人もいます。また、日本から海外に留学に行ったかるたの選手に現地で広める活動をしてもらっています。
映画『ちはやふる』は海外の映画館で上映されたのはわずかな範囲ですが、政府の映画祭のようなところでは日本映画としてよくかけていただき、多くのリアクションをもらいました。
意味がわからないかなと思っていたのですが、意外とそんなことはなくて、皆さん、ストーリーも完璧に理解され、驚くほど受け入れてくれましたね。歌の意味まで伝わっていたかどうかは微妙ですが、歌に何か意味があるんだなということは、おそらく伝わっていたと思います。
日本人より海外の選手のほうが歌の意味は絶対知っていますよ。
そうかもしれないね。日本文化に興味を持って始める方が多いので。今、私がやっているオンラインの教育プラットフォーム、FutureLearnの日本文化を伝えるコースでも世界169カ国、累計約2万5千人もの登録があって、熱心に勉強してくださっています。今度、百人一首のコースを作ればいいかもしれないですね。
現在強い海外選手はいるんですか?
昔から日本にいて競技をしていて、母国に帰っていった強い選手はいますし、そういう人が普及してくれると、その国は強くなりますね。
人生が変わる1枚
競技かるたは段位は十段まであり、九段と十段は功労段です。トップレベルのA級と呼ばれているのはA級四段からになります。大会で勝っていくと上がっていくシステムで僕はA級六段です。
おお、すごい。
浜野さんは名人戦でも必ず勝ち進みますし、選抜選手権というトップクラスの選手だけが行く大会にも必ず出ているので、間違いなくトップクラスの選手です。
名人戦の予選が西と東であるのですが、まずそこに出るのに1年の成績などで選抜されなければいけません。2年前に東で代表になり、西の代表と戦いました。そこで勝てば名人戦に出られる試合、1勝1敗で迎えた3試合目で残り札が1対1。
出た!
1対1だと読まれたほうがほとんど勝ちです。それで、相手のほうが出てしまって、名人戦に行けなかったことがありました。
それは悔しいよね。
1枚で人生が変わるんだなと。
それだけでドラマになりそうですね。浜野さんが学生チャンピオンになった時、塾長奨励賞の推薦文を書かせていただいたので、非常に印象深いです。その後も頑張っておられるんですね。
東の代表になるというのは尋常じゃないですよ。
東の会場は文京区大塚のかるた記念大塚会館というところです。記念会館といっても本当に狭いんです。正直、畳の目も改修してほしいと思うのですが(笑)。西はもちろん近江神宮ですから。
東にもそういうのがほしいよね。鶴岡八幡宮あたりにしたほうがいいのではないかな。そのうち海外の選手が強くなったりするのかもしれないですね。
A級選手はすでに何人かいます。
だんだんそうなると思います。日本の古典研究でもどんどん優れた研究者が出ていますから。
千年残る歌
競技かるたは何歳から始めてもよくて、子供がやるから親世代も一緒になってやろうという人がかなりいるんですよ。親子で切磋琢磨して練習するとよく聞きます。
ここのところずっと慶應が強いでしょう?
強いです。団体戦では2年前に大学選手権で初優勝しました。スポーツの世界と一緒で、強いところには強い人が集まってくるので、最近は強いです。
浜野さんは百人一首をやろうと思って慶應を選んだわけではないんですか。
そういうわけではないです。僕は大学では自分の練習は正直あまりしておらず、後輩の指導とか同級生に強くなってほしいという思いで、かるたをしていました。
教える側であるからこそ学べることがたくさんあって、福澤諭吉先生の教えである半学半教の精神に従っているところです。人のためにやってきたからこそ、ここまで強くなれたのかなというのはあります。
いい話ですね。競技をしている方々に中身も理解していただけるよう、われわれも頑張らなければいけないですね。
ぜひ、よろしくお願いします。末次先生や小泉監督の『ちはやふる』が火付け役となってここまで広めてくださったので、何か恩返しをしないといけないと競技者皆が思っています。もちろん、よりかるたを広めることもそうですが、意味を知って、歌の解釈をして競技に臨まないといけないですね。
今回こういう機会をいただいたのでこれから勉強しようと本当に思いました。それが競技における自分の成長にもつながると思うので、いつかは名人になって、もうひと花咲かせたいと思います。
楽しみにしています。
映画のせりふにも書いたのですが、千年前の歌が今も残っているのはすごいというのは、頭では理解できるのですが、実感としては持ちにくいと思うんです。
でも、脚本を書いていくうちに、千年前のものが今に残っているということは、今の僕らが作った何かも千年先に残る可能性があるということだと思った時、何か腑に落ちるものがありました。
だから、百人一首やかるたを考える時に、過去のことだけではなくて、千年先のことも併せて考えると、より千年前のことも想像できるのではと思うんです。千年先の自分と似たような人たちに対して何が残せるのか、を考えてみても面白いのかなと思いました。
面白い話ですね。J─POPでそういうものを作ってもいいわけですよね。
今日は有り難うございました。
(2021年11月19日、三田キャンパスにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。