登場者プロフィール
田中 真知(たなか まち)
その他 : 作家その他 : あひる商会主宰経済学部 卒業1982年慶應義塾大学経済学部卒業。1990年から1997年までエジプトに在住。アフリカ・中東各地を多様な視点から取材・旅行。著書に『たまたまザイール、またコンゴ』『旅立つには最高の日』等。
田中 真知(たなか まち)
その他 : 作家その他 : あひる商会主宰経済学部 卒業1982年慶應義塾大学経済学部卒業。1990年から1997年までエジプトに在住。アフリカ・中東各地を多様な視点から取材・旅行。著書に『たまたまザイール、またコンゴ』『旅立つには最高の日』等。
長谷部 史彦(はせべ ふみひこ)
文学部 教授文学研究科 卒業1991年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は中世・近世アラブ社会史。編著書に『地中海世界の旅人:移動と記述の中近世史』(編著)等。
長谷部 史彦(はせべ ふみひこ)
文学部 教授文学研究科 卒業1991年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は中世・近世アラブ社会史。編著書に『地中海世界の旅人:移動と記述の中近世史』(編著)等。
原田 範行(はらだ のりゆき)
文学部 教授1994年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は近現代英文学、比較文学、出版文化史。著書に『「ガリバー旅行記」とその時代』他。
原田 範行(はらだ のりゆき)
文学部 教授1994年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は近現代英文学、比較文学、出版文化史。著書に『「ガリバー旅行記」とその時代』他。
2021/10/25
フィクションの磁場としての旅行記
イギリス文学というのは主立った作品が旅行記の形態を取っていることが多いんですね。いわゆる近代小説が生まれてくる時に『ロビンソン・クルーソー』や、『ガリバー旅行記』とかが出てくる。ですから旅行記というのは、ヨーロッパではフィクションを作る1つの磁場になっているのだなと実感したことがあります。
他方で、私は大学1年のときにイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』を読みました。衝撃的だったのは旅行記なのだけれど、日々の記録が猛烈に詳しいこと。読んでいると、何か旅をしているハルドゥーンとある種の共通感覚が生まれてくるんです。でもハルドゥーンの記述も、いわゆる実録ではなく、メモをもとに再構成していると思うんですね。
ではフィクションではない旅の実録とはどういうものなのだろうと思い、クック船長の航海日誌の翻訳を始めたんです。それは本当に30分単位で、しかも複数の人が書くことで実録性を担保しようとしている。
ところが、やはり30分の経過でも、事実の描写がずれてきたりする。その、実録とフィクションの狭間みたいなところが旅行記は面白いなと感じています。
慶應義塾の東洋史にはかつて東西交渉史やイスラーム史がご専門の前嶋信次先生がいらっしゃり、旅行記、あるいはメッカ巡礼記について先駆的な研究をなさった。その前嶋門下の家島彦一(やじまひこいち)先生(東京外国語大学名誉教授)が、それを引き継がれて、特にメッカ巡礼記について深めていかれた。本塾の中東・イスラーム史研究には旅行記研究という特別の伝統があるので、引き継いでいかなければという気持ちがあります。
実録とフィクションというお話で言うと、まさにイブン・バットゥータの『大旅行記』(『諸都市の新奇と旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』、1356年完成)はかなり実録的で、モロッコのマリーン朝の首都フェズで口述筆記され、それをイブン・ジュザイイというアンダルス、グラナダ出身の文人が流麗な文章に直し、様々な補足を行って文学作品として整えたという経緯があります。口述筆記の部分は充分に実録的な性格を持っていますが、部分的にフィクションも織り込まれていると言えます。
非常に興味深いですね。
ジブラルタルの向こうの別世界
私は慶應の学生時代、小説家の辻邦生さんがとても好きで、大学1年の春休みに初めてヨーロッパに行きました。辻さんの書かれているものがギリシアやイタリア、フランスなどヨーロッパを舞台にしているものが多かったので。2度目のヨーロッパ旅行の時、スペインまで行ったんですね。そこから船でジブラルタルを渡ると3時間でモロッコに行けると知り、なんの予備知識もなく行ったのですが、そこでヨーロッパ以上のカルチャーショックを受けました。
着いたその日に、最初に声をかけてきた人に「今日はハッサン国王の誕生日でどこもホテルが空いてないから、うちへ泊めてあげる」みたいなことを言われ、そのあとお金をだましとられたり、そうかと思うと、ものすごく親切にされたり。
次に隣のアルジェリアに入ると、人が信じられないほど親切で、初めて会ったのに泊めてくれたり、ご馳走してくれる人がいた。アルジェリアは社会主義でありながら、人びとの中には敬虔なイスラーム信仰がある。でも、そのどちらもが自分が生きてきた環境の中にはなかった。実際に歩いてみると、本に書いてあることや、日本で学んできたこととは全然違う世界が広がっている、というのが自分にとって衝撃でした。
後になって西洋人の書いたイスラーム世界の旅行記、例えばエジプトだったらネルヴァルとかフローベールのものなどを読んでみると、そこにはいわゆるオリエンタリズム的な幻想が多分に投影されている。
人は、自分の立ち位置に応じて、相手を自在に物語化して解釈するんだなと思い、結局、旅について書くとは自分について書くことでもある。それなら自分はどのように書けるのだろうと思い、書き始めたんですね。
旅が駆動力になる物語
イギリスの文学というのは旅行記から生まれていったとおっしゃいましたが、いつ頃から、どんな経緯でそうなっていったのですか。
これは非常に古くからで、例えば中世のチョーサーの『カンタベリー物語』というのは、カンタベリーの大聖堂に向けてロンドンから旅人たちが集まり、“お伊勢参り”のような宗教的な機縁で行くわけです。話は、旅人たちが旅の途中で話すことが中心で、旅が1つの駆動力になって物語ができてくる。
チョーサーは14世紀でイブン・バットゥータとほぼ同時代です。他にも女性でマージェリー・ケンプという人がいて、彼女の書では宗教的な啓示を求めてエルサレムを旅するところがあります。これも、旅のプロセスが読んでいて面白い。そういった面白さが近代にも引き継がれ、小説ができてくる時の1つの駆動力として旅があるのだと思います。
駆動力というと、激しく動いている感じですが、実は引きこもりというのも、『ロビンソン・クルーソー』の小説などでは重要なテーマです。クルーソーはご存じのように無人島へ行ってしまいますが、あそこで幾度となく引きこもってしまう。引きこもりと、そこからの脱出の繰り返しみたいなものが描かれている。
ですから旅行記というのは、あるところからあるところへ出かけたという単線的なものではなく、行ったところで閉じこもり、そこからまた出発するという複線的なところがあり、それがある意味では人間の日常を描きやすい形だったのではないかという気がしています。
それは、イギリスの文学に特徴的なことなのでしょうか。
ある程度、特徴とは言えると思います。イギリスは海に囲まれていますので、近代になると海軍力で外に出ていく傾向がフランスに比べて強い。また、イギリスはもともと何をもってイギリスと呼ぶかという「イングリッシュネス」というのをよく問われるのですが、人種や文化的背景にもいろいろな要素がある。
そもそも英語という言語自体がロマンス語系とゲルマン語系が混ざり合っていて、イギリスとは何か、イギリス人とは何者かという議論が今日に至るまでずっとある。それゆえに逆に外の世界に対するある種のハードルを下げていったところはあると思います。
それが植民地主義や探検、民族学にもつながっていると。
つながっていると思います。近代初期のイギリスの文化的なキーワードの1つに、「Curiosity(好奇心)」というものがあります。国内がまとまっていれば、あまり国外に好奇心を感じないかもしれませんが、民族的にも言語的にも寄り合い所帯的なところがあり、それが、外へ出ていく力になったのではと。
すごく面白いですね。
「驚異的なるもの」との出会い
チョーサーの作品が巡礼記的な性格を帯びていたということですが、イブン・バットゥータも、イスラーム世界の巡礼記といった視点で考えていくと面白いんです。中世には、イスラーム諸学を修めたウラマーと呼ばれる学者の学問履歴書のような「バルナーマジュ」というものが書かれましたが、それが発展して「リフラ」と呼ばれる巡礼記になっていったと説明されています。
どうして学問履歴書が巡礼記になるのか。実はウラマーは移動し、遍歴しながら学んでいくのが学びの形として理想的であるとされていた。いろいろな場所でそれぞれの専門の先生のもとで勉強し、イジャーザと呼ばれる、このテキストについてマスターしました、という免許のようなものを集めながら旅をしていく。そういう免許証を集めてマドラサ(学院)などに就職するんですね。
Curiosityという話がありましたが、アラビア語では「アジャーイブ(驚異的なるもの)」と接していくことで知的な成長がある、という考え方があるのです。だから、驚異的なるものとの接触も巡礼記の中に書き込んでいく。このアジャーイブについての記述が肥大化したものが、イブン・バットゥータの『大旅行記』なんですね。
旅の経験が次第に蓄積され、それがその人のキャリアになっていくところがあるわけですね。
そうですね。驚異的なるものと言えば、例えばエジプトのピラミッドです。巡礼記の中でしばしば記述され、イブン・バットゥータも長めの記述を残している。
あるモロッコの中世の学徒がメッカ巡礼をして帰ってくると、学問の師に「ピラミッドは見て来たか?」と問われる。「たくさん勉強してきましたが、ピラミッドは見てきませんでした」と答えたら、「それはおかしい」と怒られ、もう1回見にいったという話が史料に出てきたり(笑)。
旅の非日常の経験も唯一神アッラーの御業としてあり、それを体験していくことが学問的、人間的な成長につながるという考えですね。
旅人を大事にする教え
驚異的なるものとは、例えば古代ギリシャで言われていた古代の七不思議とかもそうでしょうか。
いわゆる古代七不思議の1つにアレクサンドリアのファロス島の大灯台がありますが、これなどはまさにイブン・バットゥータも記述をしていて、アジャーイブ、驚異的なるものです。1326年に最初に立ち寄った際には灯台の最上部がモスクとして使われていましたが、23年後に再訪した時には朽ち果て、近くに寄れなかったと書いています。
バラウィー(1207年没)というスペインのマラガ生まれのウラマーが、ひもに石を付けて上から長さを測ったら132メートルの高さがあった。まさに「空中モスク」として活用されていた。その時代には信じられないような高さのタワーです。そういったものが実在し、これもやはり神様のなせる業であると。
すごいですね。でも、異教のものだったピラミッドはクルアーンでは否定されるわけですよね。そういうものも、神の御業として尊重していたのですか。
十字軍時代以降、異教に対して不寛容な姿勢を持つイスラーム教徒の学者や民衆が出てきて、古代遺跡を破壊するような動きが一部で現れてきます。例えばエジプトの古代遺跡で神像の顔の部分が削られてしまったりする。
そのようななか、イドリースィーという、アイユーブ朝末期の学者がピラミッド擁護論を書いています。ピラミッドはノアの洪水より前にできた、まさに神の御業なのだと。
それはもう、今のジハード団に聞かせたいですね(笑)。
イブン・バットゥータの旅は、お金はどうしていたのでしょうか。
当時のイスラーム世界は、ディヤーファ(もてなし)やサダカ(喜捨)がものすごく盛んな世界なんです。天国行きを願って他者に金品を施す。旅人を大事にしなさいということは、クルアーンの中にも書かれていますから、来訪者への援助は当たり前なわけですね。
1つには、西アジア、北アフリカといった地中海世界はイスラーム以前から交通が発達していて旅人の多い世界だったということがあると思います。だから移動する人たちを歓待する習慣があったのでしょう。
イブン・バットゥータはザーウィヤと呼ばれる、神との一体化を目指すスーフィズムの修道場に泊まっていたことが多いのですが、そこではしばしば食事が無料で支給され、さらに出発する時にはお金やモノ、服をもらったりしている記述が頻繁に出てきます。
来た人を歓待するという文化
2000年以降にグローバル化が加速する前は、ヨーロッパ以外ではお金を使わないで旅ができることが多かったですね。私は、1980年代にスーダンに4カ月ぐらい旅をしていましたが、使ったお金が全部で4万円いかなかった。交通手段にはお金がかかるのですが、田舎へ行くと、ご飯も全部出してくれるし、ここに泊まれという感じです。こちらから求めているわけではなくても、そうなってしまう。ものすごいホスピタリティーがある。
また、1990年代のザイール(現コンゴ民主共和国)を旅したときは、貨幣の価値が毎日変わってしまうので、とくに地方の村人たちはお金を手元に置きたがらない。お金が手に入っても、ババ抜きのようにすぐに使って別のモノに換える。モノをもらったほうがうれしいからTシャツや靴、時計といったものでやりとりをする。普通に身に着けているモノだけで1カ月ぐらい旅ができてしまったりしました。「わらしべ長者」の世界です。
基本的に、受け入れてくれるほうは来た人を歓待することでプライドを保ち、そして旅するほうは有り難いと思う。そういうやりとりが続いていくのは旅のよさだと思うのですね。それがすべていま取引になってしまい、払ったことに応じるサービスが基本になると、旅が狭いものになってしまう気がします。
カイロなどでも、知り合うとすぐに、「うちに来て食事しないか」という話になることが多い。訪問して、帰ろうと思うと、「まだ早い、まだ早い」と言われ、なかなか帰れないことがよくあります。
ずっとしゃべっている感じになりますよね。
まさに深夜までしゃべっている。日本に帰国するとそれがまず一番寂しく思いますよね。
イギリスの敷居の低さ
ヨーロッパ近代では啓蒙という大きい動きがあります。例えば中世からイギリスなどはグランドツアーという習慣があり、貴族の子弟の教育の仕上げみたいな位置付けでしたが、17、8世紀になると、ヨーロッパ大陸に盛んに渡っていき、そこでいろいろな社交界に出入りし、いろいろな人に会って話を聞くというのが1つの流れになってきます。フランス革命前まではそういう状況が続いていくのですね。
一般庶民の動きはどんな感じだったのですか。
庶民、特に商人の動きもかなり活発でした。フランスで宗教的に追われた人が、宗教的に比較的自由なイギリスに逃れてきたり。
例えば時計職人がフランスにはたくさんいましたが、ルイ13世の頃に、追われてイギリスに自由を求めてやってきて、それが近代産業革命の基礎になった。
産業革命が起きたのは、イギリスにいろいろな人材が集まってきたことが関係しているのですか。
そうですね。イギリスは国境のハードルがかなり低く、音楽でも、イギリスの音楽というより、むしろ外から来ている。モーツァルトなんかも小さい頃にやってきて、ずっとイギリスに憧れていたり。
イギリスはヨーロッパの中でも、旅行していて、何となくいやすい感じがありますよね。
そうですね。それこそ、今の英語も、誰がどう定めたかはっきりしていない。大体ルネサンスの後半あたりに各国が自分たちの国の言語をしっかりさせるんです。英語もスペリングなんか目茶苦茶だったのでロイヤル・ソサエティーの中に言語部門ができるのですが、それがペストで雲散霧消してしまう。結局、小説の中でそれぞれの作家たちが試して、次第に今の英語の書き言葉になり安定していくんですね。
フランスは、王様が強かったので王様のところで言語が整備される。なので、洗練されているのですが、ハードルが少し高い。イタリアも同じです。英語はその点、誰からもアプローチしやすいところがある。それも、今日いわゆるグローバル・イングリッシュとなった1つの理由だと思います。
よくクイーンズ・イングリッシュとか言われるから権利意識が強いのかと思ったら、実は文化的にはそうではないのですね。
そうですね。クイーンズ・イングリッシュとかキングズ・イングリッシュは、あまりにもイングリッシュネスがはっきりしないので、そういうものを作っていこうということだと思います。
何しろ、今のエリザベス女王の直接の祖先、ジョージ1世はドイツのハノーヴァーから来ていて英語がしゃべれなかった。それ故に民主主義が生まれたという。
イギリスはいろいろなところに言葉を広めるときのテクニックが上手くて、インドなんかでも英語を広めていく時に、例えばベンガル語とか、地域の言葉と英語の辞典をすぐに作ります。
そこはフランスとすごく大きな違いですね。私はカイロにいたときに、アリアンス・フランセーズというフランス語の学院に通いました。そこで使っている「サン・フロンティエール」(「国境のない」の意)という教科書はフランス人の1年の過ごし方で、夏はバカンスに行って飲み過ぎてしまったと書いてある。生徒の多くはムスリムなのに、「今日は飲み過ぎたわ」という例文を皆で言わなければいけない(笑)。
ところが、ブリティッシュ・カウンシルの英語教室のテキストは、労働者の権利というのはこれで、僕たちはそういうことを言う権利があるのだ、みたいな、ものすごく社会性に富んだ内容でした。
エジプト表象への憧れ
他方で、イギリスは、ルネサンス当時からエジプト表象、いわゆる「オリエント」への憧憬がかなり根強くあり、ロマン派などではそれが頂点に達しています。
18世紀あたりだと、すぐにエジプトの話が出てくる。サミュエル・ジョンソンが書いた小説『ラセラス』は、ラセラスというアビシニア、つまりエチオピアの幸福の谷というところで暮らしている第4皇子が幸福の谷を抜け出し、カイロのいろいろなところをめぐるという話です。
この舞台が全部、アビシニアからカイロです。ナイル川もずっとヨーロッパにおけるオリエントの代表的な表象だったのですね。
エジプトの場合、1つ大きな転機としてナポレオンのエジプト遠征がありますね。
この遠征の背景に18世紀のフランスにおけるエジプトブームがあったようですが、イギリスでもそういうエジプトブーム的なものがあったのですね。
もうルネサンスからずっとです。オスカー・ワイルドという19世紀末の作家の『幸福の王子』(The Happy Prince)という童話風の作品がありますが、ハッピープリンスは像の上で、いろいろな施しをしようとツバメに頼むのですが、そのツバメはエジプトに帰ろうとしている。私の仲間たちがナイル川で待っているんです、みたいに理想郷としてエジプトが言及されているんです。それがずっと1つのイメージとしてイギリスにはあるんですね。
『大旅行記』の驚異譚的な記述
例えば近世、16世紀から18世紀あたりでは、巡礼という人の動きはヨーロッパではどうだったのでしょうか。サンチャゴ巡礼やローマ巡礼は、中世に比べ、だいぶ少なかったのでしょうか。
カンタベリー詣でといったものは、それなりにずっと続くのですが、ヨーロッパはそれぞれ宗教改革が起きて、状況はかなり違うと思います。イギリスの場合、カトリックからいち早く離れ、早い段階でイギリス国教会をつくる。それを世俗化と呼ぶかどうかは別として、カトリックと、プロテスタントの国教会系でかなり分断されてきます。
そして、清教徒革命が起き、国王が国教会の長なのに革命で処刑されてしまう。その段階でいったん、聖なるものに対する意識は大きく変わって、実践的な宗教、あるいは理神論という神の教えを理性で理解していこうとする動きが出てきます。
巡礼の動きは、グランドツアーなどでも19世紀の最初ぐらいまでは一応残るのですが、とは言え、ほとんど商売で動いている。世俗化の勢いは、イスラーム世界に比べるとはるかに早いと思います。
イスラーム世界の場合、リフラという巡礼記の伝統が、19世紀の終わりぐらいまで連綿と続くのですね。20世紀にも、リフラのジャンルに入れていいような巡礼記が10点ぐらいあります。
イスラーム世界では12世紀以降、ムスリムの多様な聖者への崇敬が広がっていきます。生きている聖者もたくさんいたのでイブン・バットゥータの旅では、そのような生ける聖者に会うのも大きな目的でした。
彼はナイルデルタについて非常に詳しい情報を残していますが、その地を経めぐった理由の1つは、地中海の近くに住んでいる聖者に会いにいくことでした。そこで、「すごく大きな旅をすることになるぞ」と予言され、それが実際にそうなった、という物語の仕掛けになっています。
バットゥータは、東方はどのあたりまで旅をしたのですか。
デリー・スルターン朝の1つのトゥグルク朝に法官として仕え、インドに8年ほどいたのですが、そこで中国の元朝への答礼の使節団に入るのです。しかし、インドの南西のマラバール海岸から船出する時、大嵐が来て船が大破してしまい、答礼の品も全部なくなってしまう。
断定はできないのですが、恐らくコロマンデル海岸までは行っているけれど、ベンガルに行ったことは疑問視されていますし、そこより東はもっと怪しいです。
インドよりも東の話になると、まさに驚異譚の性格も濃厚に帯びてきます。泉州から元の都、大都(北京)まで行ったことになっているんですが、中国訪問は虚構でしょう。このあたりの描写は、生々しい旅をしている感じに乏しく、フィクションでしょう。
東南アジアでは、男性が犬の口をしていたとか、女性が裸のような状態でいたとか、いわゆる女人の国みたいなイメージも出てきたり、本当に驚異譚的になってくる。
何か、だんだん『ガリバー』に近づいてきますね(笑)。
急に実録性がなくなってきてしまう。ただ、かなり詳細にインドで得た東方の情報が書き留められているので、伝聞情報を文字化しているということでは一定の史料的価値があります。
実録とフィクションの狭間で
『ガリバー旅行記』には日本についての描写があります。『ガリバー』は1726年に出ていますので、日本は鎖国の時期。それで、日本では知られていませんがこの時期、ヨーロッパでは日本についての言及のある本がたくさん出ています。
例えば『ロビンソン・クルーソー』は無人島で暮らして戻ってきますが、実は続編があり、ユーラシア大陸を旅するのです。インドを経て中国へ行き、それからシベリアを経てヨーロッパに戻るという大旅行で、北京に入る前にクルーソーは日本へ行こうとします。ところが、日本は野蛮で危険だからというので周りに諌められ、結局、クルーソーの若い友人が日本へ行って8年過ごすことになる。デフォーという作家は、実録をベースにしてフィクションを作っている人なので、手元に十分な情報を集められず、そういう扱いになったのだろうと思います。
一方で、『ガリバー』を書いたジョナサン・スウィフトは、フィクションの巨人で、何か、創作のための重要なインスピレーションを日本から得たような感じで書いている。
デフォーにしても、スウィフトにしても、実際の旅の経験をもとにしたのではないのですか。
デフォーは、無人島に行くような旅はしていませんが、イギリス国内はよく旅をしていて、実はイングランドのスパイとしてスコットランドに潜入したりしていました。非常に精密で、各地域の人々の政治信条もよく分かる『グレート・ブリテン島周遊記』という実録旅行記を残しています。
スウィフトは、実録は書かなかったのですが、ダブリン出身で、ダブリンとロンドンを生涯に16回往復したと言われている。旅の距離は短いですが、そういう往復は、『ガリバー』的空想旅行の想像力に結び付いてきますね。
イギリスでは、空想旅行記と、実際に行って書かれた旅行記の2つのジャンルがあるのですか。
そうですね。いわゆる『ガリバー』のような、ファンタジーに近い空想旅行と、いわゆる旅行記風の紀行文、それと、例えばジェームズ・クックなどの精密な実録があります。クックの航海日誌は軍事機密なので、50年は海軍で保管されます。ただ、あちこちを探検航海するにはお金がかかり、革命後の王室にそんな財力はないので、国民的関心を巻き起こすために本を作るのです。これがいわゆる探検航海記です。
ですから、ジェームズ・クックをはじめとして近代の探検航海の主立った航海記は、実は最初は、国王の肝いりでゴーストライターが書いて、非常に冒険性の強い形で出ている。最近ようやく秘密解除になり実録が明らかになってきました。
例えば、ヘンリー・スタンリーのアフリカ探検記を今読むと、本当に誇張されていて大衆文学を意識して書かれている感じがあります。「矢が飛んできた、伏せろ!」みたいに、もう冒険活劇映画を見ているようです
違う世界を生きる人々
田中さんは、もちろんフィクションということはないと思いますが、物語性みたいなものを入れたくなる誘惑はありますか。
それはありますね。私は1960年生まれですが、60年代から70年代にかけては、ベトナム戦争やカウンターカルチャーの影響があって、とくにインドについては近代文明が失ってしまったものを投影するような書き方をした旅行記が多かった気がします。なかなか外国へは行けない時代でしたから、そこに書かれたインドが本当のインドだと勘違いしてしまう。
けれども、実際に行ってみると、そうそう神秘的なことなんか起きないし、当時の旅行記にありがちな「キラキラした目をした純粋な子ども」みたいな描写も、顔の造作がちがうだけで、じつはこすっからかったりすることもある。ただし、そういう見方にも自分のものの見方の偏りが投影されていないわけではない。いずれにしても、人は物語を通じてしか、自分の見たものや聞いたものを認識できないのではないかと思います。そういう意味の物語性からは逃れられないですね。
エルサレムに行った時、こんなことがありました。空港からタクシーに乗り、エルサレムの旧市街まで行ってほしいと言ったら、パレスチナ人の運転手が、「エルサレムなんか行かない。アルクドゥスに行く」と言う。パレスチナ人にとっては、あそこはアルクドゥスという場所なんです。
エルサレムは、ユダヤ人やキリスト教徒たちの生きている世界に存在していて、パレスチナ人はアルクドゥスという世界を生きている。空間的には同じ場所であっても、それぞれの所属する文化に応じて、違う名前や違う文脈の中にその場所を位置付けて物語化している。
複数のレイヤーが重なっているような感じで、それぞれの人が、それぞれのレイヤーを生きている。これは今の時代の特徴でもありますね。書く側からすれば、どのレイヤーのどこを書くかで、無限に違う記述が生まれるのだと思います。
ご自身のことをどの程度、旅行記述のなかで出していこうと思われていますか。
いろいろな形を試していますが、私は、基本的に情報はあまり書かず、あくまでもその場所にいる人、カイロだったらカイロにいる人がどういうスタンスで何を感じながら、何を見て生きているのかに興味があります。
エジプトに住んでいるこのおばさんは、一体何を大事にしているのか。人は誰でも幸福になりたいけれど、必ずストレートには幸福になれなくて、何か妨げているものを抱えている。そういう矛盾の中にある人間のあり方みたいなものを、いろいろな土地の中で描きたいと思っています。
田中さんの『孤独な鳥はやさしくうたう』は素晴らしいですよね。まさに切り取り方というか。短編小説のように切り取ったものが非常にきれいに並んでいる感じがして。
有り難うございます。
旅行記の描くリアリズム
私は授業で、文学におけるリアリズムを教える時に、『ロビンソン・クルーソー』でクルーソーがハリケーンに遭って12日間嵐が続いたというところの、船員たちは生きた心地がせず、恐怖のあまり何もできずに12日間を送ったという描写を使うのですね。
学生に、この文で、一番の嘘はどこかと聞きます。大体ハリケーンの方向が違うとか、緯度が違うと言うのですが、実は一番の嘘は、「12日間恐怖のあまり何もできなかった」という部分です。
当時の帆船で12日間何もせずにいたら、たちまち沈没してしまう。それを船員たちが恐怖のあまり、何も手につかなかった、と書いたところがデフォーのリアリズムなのだ、これはヨーロッパにおける文学的発明だと話します。
旅行記では、それをやらないと読み物として成り立たないんですね。30分ごとに帆を変えて云々と記録していたら読むに堪えないものになる。12日間、船員たちは恐怖のあまり動けなかったと書くのが旅行記の醍醐味だし、リアリズムの原点になっているのだと思います。
本当にそうですね。私も、アフリカを旅行している時、圧倒的に動いている時間より待っている時間が長かった。何もないような村で、船を待つと本当にやることがない。でも本当は何かやっています。食べていたり、トイレへ行ったり、水浴びしたりしているのだけど、自分の中では本当に何もすることがないまま2週間がひたすら過ぎていく。
でも、それをそのまま書くと、読むほうはとても感情移入できない。その言葉にならない2週間の、待っている感じみたいなものが表現できると、その旅行記にはリアリティーが出てくるのだと思います。
アフターコロナの旅のかたち
コロナ禍になり、移動が難しくなってしまったのはとても残念です。人はとにかく昔から移動していたのだと思います。
人間が動物と違う点の1つは縄張りがないことです。もちろん、現代の世界では国境はありますが、それは生物学的な縄張りとはちがう。動物は基本的に自分の生存にかかわる範囲でしか移動しません。
しかし、人間は、直接生存にはかかわらないこと、例えば「驚異的なるもの」や何か大事な価値を見出すためにも移動する。しかも、イスラーム世界の旅がそうだったように、そうやって移動してきた旅人を拒絶しない。違う人がいきなり訪ねて来ても攻撃しない。
それによって、互いの情報や持っているものを交換したりしてきた。そういう営みが、人間の文化を練り上げてきた。その意味でも、旅をすることは人間にとってすごく大事なことなのだと思います。
コロナもそうですが、2000年代に入ってグローバル化が進んだことで旅のリスクが高まった面があります。ネットを通じて暴力的なイデオロギーが広がり、さらに「アラブの春」以後、武器が移動の自由を獲得してしまった面もあって暴力のグローバル化は深刻です。
その一方で、ネットを通じてローカルに発信されたものを、われわれはいながらにして読むことができる時代です。そこには、自ら旅をするのとは違った発見がある。非日常の土地を旅するのではなく、それぞれの日常を旅の視点で見つめる。日常が非日常化してしまった感のある時代だけに、足元の日常を丁寧に見つめ、生きることも旅の1つのかたちになる気がします。そこに新しい旅行記の可能性があるかもしれません。
歴史研究者としては、「過去への旅」もいいと思っています。過去の世界にどっぷり浸かっている間は、全然違うことを考えられるわけです。例えば、最近、17世紀初めのカイロで商品の計量を生業とした人が書いた珍しい歴史書を見つけ、その研究をしているのですが、著者がウラマーの修業を積んだけれども、こういう仕事しかできなかったと書いていたり、市井の人が描く大都市のいろいろな問題がとても興味深い。
一計量人の描写から17世紀前半のカイロの世界が鮮明に見えてくるので、そういうものにどっぷり浸かっていると、本当に旅に似通った高揚感があると思っています。
ポストコロナ、ウィズコロナ時代を考える時、まず考えなければならないのは、ここ20年程のグローバライゼーションと、それに連動したツーリズムが、ある種、短期的利益を基本に据えてきたことではないでしょうか。
例えば新幹線網ができて地方に新幹線が来ても、その地方のものは、結局東京に集まってしまう。いろいろな意味でやはり短期的な利益を優先した形でグローバル化やツーリズムがあったのだと思います。
ポストコロナ社会はもっと多様な、各地域の人たちがそれぞれの生活を営めるような、鉄道で言えば新幹線ではなく、ローカル線で行くようなところを大事にしていくことに、本当のグローバル化への鍵があるのではないでしょうか。コロナは、それに対する1つの警鐘みたいなところがあるという感じがしています。
もう1つ、長谷部先生がおっしゃったように、旅行記の面白みは、空間的なものと同時に時間的な部分です。現代人は今のことには関心が向くのですが、歴史的想像力が弱まっていると言わざるを得ないところがあると思います。そういう時間的な想像力、あるいは歴史的な想像力も、旅行記を読むことで培っていけるのではないかと思います。
(2021年8月25日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。