登場者プロフィール
岡本 健(おかもと たけし)
近畿大学総合社会学部社会・マスメディア系専攻准教授専門は観光学、コンテンツツーリズム学。2012年北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院博士後期課程修了。著書に『ゾンビ学』『巡礼ビジネス』等。
岡本 健(おかもと たけし)
近畿大学総合社会学部社会・マスメディア系専攻准教授専門は観光学、コンテンツツーリズム学。2012年北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院博士後期課程修了。著書に『ゾンビ学』『巡礼ビジネス』等。
宿輪 純一(しゅくわ じゅんいち)
その他 : 帝京大学経済学部教授経済学部 卒業博士(経済学)。映画評論家、宿輪ゼミ代表。1987年慶應義塾大学経済学部卒業。三菱UFJ銀行を経て現職。専門は経済・金融・映画評論。著書に『ローマの休日とユーロの謎―シネマ経済学入門』等。
宿輪 純一(しゅくわ じゅんいち)
その他 : 帝京大学経済学部教授経済学部 卒業博士(経済学)。映画評論家、宿輪ゼミ代表。1987年慶應義塾大学経済学部卒業。三菱UFJ銀行を経て現職。専門は経済・金融・映画評論。著書に『ローマの休日とユーロの謎―シネマ経済学入門』等。
山下 一夫(やました かずお)
理工学部 准教授[外国語・総合教育教室]1999年慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻単位取得退学。専門は中国文学、中国宗教、中国現代文化。訳書に『全訳封神演義』(共訳)等。
山下 一夫(やました かずお)
理工学部 准教授[外国語・総合教育教室]1999年慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻単位取得退学。専門は中国文学、中国宗教、中国現代文化。訳書に『全訳封神演義』(共訳)等。
2020/03/25
B級からハリウッドへ
私がゾンビを研究し始めたのは大学の学部時代です。中国文学の先生の教養科目で香港武侠映画の授業があって、そのレポート課題が作品を見て分析せよ、というものでした。レンタルビデオショップに行き、B級アクション映画の棚を見ていますと、隣の棚がホラーのコーナーで、視界の端にちらつくわけです、ゾンビの顔が(笑)。
実は今でもそうですけど、私はあまり怖い映画は得意ではなくて。
そうなんですか(笑)。
だから、当時はゾンビ映画は見たことがなく、死体が蘇って人を喰ってワー! キャー! みたいな話が何でこんなに数があるのか、と不思議に思ったんです。試しに1つ借りて見たら、まあ、低予算でひどい映画でした(笑)。でも逆に謎が深まったのです。何でこんなものがこれほどたくさん撮られ、誰が見ているのだろうかと。
いろいろ見始めますと、結構、質のいいゾンビ映画もあって、社会問題を考えたようなものにも出合うようになり、宝探し的に楽しんでいました。まさか研究書を書くようになるとは思いませんでしたが(笑)。
私は映画評論家ですが、1979年ぐらいから映画を大量に見始めたのです。ちょうどそのころ『ハロウィン』(1978年、米)とか、ダサいホラー映画が出始めた時期で、その中の1つとしてゾンビ物もあった。ジョージ・A・ロメロ監督の3部作(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』)が有名ですが、その後、おっしゃられた通り、B級映画が続くわけです。
そうしたらマイケル・ジャクソンの「スリラー」(1982年)のミュージックビデオにゾンビが登場して話題になった。その後、香港で『霊幻道士』(1985年)をサモ・ハン・キンポーが出し、2000年代になると『28日後…』(2002年、英)という、走るゾンビというなかなか衝撃的なものが出る。
走りましたよね。
このへんから変わってきましたね。映画『バイオハザード』の最初の作品も同じ年に出た。これはゲームソフトから派生したもので、ハリウッドが莫大な予算で制作し、一気にメジャーになった感がありました。
『バイオハザード』(2002~2016年)は6作出ました。そのあと『アイ・アム・レジェンド』(2007年、米)で、ウィル・スミスが主演でした。『ゾンビランド』(2009年、米)はホラーコメディーっぽくて、『ワールド・ウォーZ』(2013年、米)ではブラッド・ピットも主演するなど続々とゾンビ映画が公開されました。日本でも『カメラを止めるな!』(2018年)は基本はゾンビの話です。
『バイオハザード』という転換
2000年代からのゾンビ映画を語る上では『バイオハザード』はやはり大きかったですよね。
あれはゲームから出てきて、ソニー・ピクチャーズ(コロンビア)がドーンと予算を付けてミラ・ジョヴォヴィッチが主演のハリウッドの王道的なつくりでした。
ゲームは1996年でしたね。やはりそれがヒットしたというのが大きい。いったん日本を迂回して、ゾンビブームがまたアメリカに帰っていったという感じですよね。
ゲームはアメリカでもよく売れたらしいです。やはり「死体だから殺しても大丈夫」ということがあったようです。
また、いわゆる不気味の谷というか、描画能力が上がってリアルになり、人間そっくりにはできないけどゾンビだったらいける、という技術的な制約があったのではないかと思うんです。
ぎこちない動きですね。最近のゲームだと、たくさんのゾンビがワーッと出てくるオープンワールド式のゲームが多いです。ネットワークでつながって4、5人のプレイヤーが一緒に戦うという、まさにゾンビ映画の世界を体感できるようなゲームもあります。
映画『バイオハザード』は、アメリカ映画の枠組みにゾンビを入れたという感じですよね。大体悪いことをするのは製薬会社で、国家的な陰謀と結び付いている(笑)。
こういう時間割りで映画を撮ると一般受けするというハリウッド文法が90年代の終わりから2010年代の頭にかなり進化し、それを反映したのが『バイオハザード』なのかなと思うんです。
最近、私は作るほうに回っていて、ドラマの監修や脚本をやっているんですが、アメリカの脚本というのは決まっているんです。最初の15分で登場人物を皆出して、次の15分で事件が起こり、30分でそれが悪化し、次で皆、悩んで、最後の10分で終わって皆、幸せと。
いわゆるハリウッド文法ですね。
だから、これを外れるタランティーノなんかは型破りということになるわけですよね。その型にはまった普通のハリウッドの映画のパターンで、だいたい主人公は生き延び、親しい友人が悲惨な死を遂げる。
なぜか主人公はほとんど無傷なんです。『バイオハザード』のミラ・ジョヴォヴィッチだって、ほぼ裸で走っていてなんで傷が付かないんだみたいな。その辺はまあご都合で、まさにゾンビもご都合で作れるから、それにはまりやすいですよね。
あとはやはりCG技術の進化ですね。おそらく、CGですごい映像を見せるという技術とハリウッド文法の進化が合流したところで、ちょうど『バイオハザード』が出てきたのではないでしょうか。
90年代から脚本が足りなくて、リメイクばかりになってしまっていた。とにかく新しいネタをどんどん入れろと2000年代はいろいろな種類の映画が出てきましたが、ゾンビ物もその1つでしょうね。
CGで言うと、『ワールド・ウォーZ』がすごかったです。波みたいにゾンビがワーッと襲ってくるという。
あれは鳥肌が立ちましたね。
CGだからこその動きの違和感。映像表現とゾンビの存在がうまく合っていた感じがありました。
伝染(うつ)る「キョンシー」の誕生
ゾンビの特徴は、死体で、意識がなく、人を襲って嚙みつくと感染してその人もゾンビになる。動きが遅くて、なぜか頭を撃てば死ぬ。時代が新しくなると、ウイルスによるパンデミックの話になってきて、動きが速くなり、動物もゾンビになったりします。
『ゾンビーバー』(2014年、米)とかありますからね。
基本は、やはり突き詰めないB級映画というのがゾンビ映画のいいところです。
キョンシーは18世紀に中国で成立するんです。キョンシーは漢字で「殭屍」と書きますから、硬直化した死体という意味です。つまり死後硬直で急に手がバーンと動いたりして、これは妖怪じゃないかと思ったのがキョンシーなのです。
なぜ、死後硬直という現象に中国人が18世紀まで気が付かなかったのか。それは中国は早くから火葬が普及していたからなのです。それが、満州族の清王朝が支配し、異民族支配なので反感を持たれないために古い儒教の経典にある土葬を復活させた。それによって中国人が18世紀になって初めて死後硬直に気が付いた。そこで発生したのがキョンシーです。
しかし、その頃の文献には、「キョンシーに嚙まれたらキョンシーになる」なんて一言も書かれていない。どうもこれは1980年代の香港映画、台湾映画が欧米のゾンビ映画のルールをキョンシーに被せたのではないか、と思っているのです。
ゾンビももともと、「ヴードゥー教」(ハイチの宗教、ゾンビの起源とされる)の時は「嚙まれたら伝染(うつ)る」という特徴はないですよね。
ロメロの映画にしても、嚙まれてすぐには伝染らないですし。
吸血鬼のイメージも入ってきているのではないかと思うんです。
そうですね。宗教学的には、吸血鬼とキョンシーとゾンビと狼男はたぶん元が一緒で、狂犬病が1つのルーツとされていますね。狂犬病になると、においの強いものが嫌になり、夜間に徘徊する。
それと、死後硬直というのは手足が動いたりすると同時に、目や口から血が出るんですよね。それを見て、「あ、血、吸ってきたな」みたいな。
なるほど、まさに疫病と死後硬直というのが形を変えていろいろなところで現れてくると。
それがベースになってキョンシーになったりゾンビになったりする、ということだろうと思うのです。
「緩い企画」もOK
ゾンビがこれだけ広まったのは、やはりレンタルビデオ店がすごく大きかったと思うんですよね。
映画館に行くのではなくて、借りてきて見られる。そして、タイトルがすぐになくなるので、B級のものもどんどんソフト化された。
あと深夜アニメというのもあるのではないですか。今、深夜アニメでいくつかゾンビ物が出ていますね。かつてのビデオレンタル店と同様、タイトルがたくさん必要になった結果だと思うのです。
最近だと『ゾンビランドサガ』(2018年)がありました。
あれは面白かったですよね。
ゾンビが出てくる地域振興アニメなんです。僕はもともとアニメの聖地巡礼の研究をしていたので、びっくりしたんです。
2つの流れが合わさった(笑)
これはもう僕のために作られたものじゃないかと(笑)。『ゾンビランドサガ』の「サガ」は佐賀県の佐賀なんです。
女の子たちのゾンビが蘇って、グループになって活動している。しかも佐賀で(笑)。
ギャグ系のもので、パンデミックで広がっていくということではなく、ゾンビであることがバレないように、人間っぽいメイクをして、アイドル活動で佐賀県を盛り上げようという話です。
そういう緩い企画もできるところが、ゾンビ映画のすごいところですよね。
そうですね。やはり自由度が高いです。洋画でも珍企画がいっぱい。チャレンジャブルなのはサメ映画かゾンビ映画という。
『シャークネード』(2013年、米)とか(笑)。
アメリカ人、サメが大好きですからね。
吸血鬼とゾンビ
日本では実写映画の『アイアムアヒーロー』(2016年)が、かなり予算をかけて作った、しっかりしたゾンビ映画だったと思います。
あれは同じ年に『シン・ゴジラ』と、『君の名は。』があったので、かすんでしまったのですが、すごくいい映画でしたよね。
迫力のあるシーンが多くて衝撃的でした。見に来ていた高校生が泣いていましたから。
『アイアムアヒーロー』はたぶん、『アイ・アム・レジェンド』(2007年、アメリカ)の影響を受けているのかなと。
そう、あのタイトルをもじっているんですよね。『アイ・アム・レジェンド』の原作がリチャード・マシスンの小説『地球最後の男』(1954年)で、それがロメロの完全に元ネタなので、いわばそこでグルッと一周したんですよね。でも『地球最後の男』ではゾンビではなくて吸血鬼なわけですから、やはり吸血鬼からスライドしたんだなと。
『地球最後の男』の吸血鬼は、いわゆるドラキュラ伯爵っぽい吸血鬼では全然なくて、普通の人が徘徊しているような感じですよね。
ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897年)の吸血鬼像というのは実はかなりフェイクで、吸血鬼の実態からいうとおかしいんですが、いつの間にかわれわれは、吸血鬼というとドラキュラになってしまっている。
また、原作との違いもあります。原作のドラキュラは決してオールバックでもなければ、マントも着ていない、禿げたおっさんです。それが1920年代の舞台版ではマントを着てオールバックにしてしまった。それを映画もずっと受け継いでいるから、あたかもあれがドラキュラの姿のように思っているわけです。
そうですね。映画でも、ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)は、禿げのおっさんですから(笑)。
あれも怖かったよね。
あれこそ本当に怖い。
東欧でドラキュラ伯爵のお城とかいって、観光名所になっていますが、あれも後付けでしょうね。
はい。そこは複雑な経緯を辿っているのですが、史実としては、もともとはルーマニアのトランシルヴァニア地方の「串刺し公」(ヴラド三世)です。
吸血鬼伝説は東方正教である東欧のもので、イギリスやフランスに吸血鬼はいない。カトリックの教義からすると、死後は煉獄があるのであり得ないから。ところが、聖書重視のプロテスタントで吸血鬼が復活します。
日本人のゾンビ受容
ゾンビってやはり黙示録(Apocalypse)の世界なんですね。世の終わりに死者がイエスとともに墓場から復活するということです。でも、日本人はその感覚を持っていないから、なぜ世の終わりで死者が墓場から出てくるのか、よくわかっていないと思うのです。
マイケル・ジャクソンの「スリラー」を見ても、あれが黙示録のパロディーだと僕らにはわからないんですが、あのマイケル・ジャクソンはイエスのパロディーかつオマージュで、墓場から死体が蘇るのは黙示録の記述に基づいている。
日本人がゾンビを受け入れる時、そこの一番重要なところがわからないから、いろいろ変容してしまうのではないか。その結果の1つが、「キモカワ」とか、そういう表現方法になっていくのかなと。
おっしゃる通りで、裏の意味や文脈は抜け落ちて、表現だけが入ってきてしまったのだと思います。だから、邦画のゾンビ映画って数はそれなりにあるんですけど、あまりヒットせず、一般の人が見て楽しむような映画にはなかなかならなかったんですね。
最近、いいゾンビ映画が出てくるようになったのは、やはりウイルスだと思います。ウイルス感染の恐怖は実感としてよくわかるのです。
今、まさに中国で流行っていますし。
日本の「キモカワ」の話で行くと、やはりハロウィンの影響が大きいのではと思っています。血糊を塗ったりするゾンビメイクですね。
日本でハロウィンがなぜ流行っているのかがそもそも謎ですが、なぜゾンビメイクが受けるのかというのも不思議です。でも、僕が今、この格好で「ドラキュラ伯爵です」と言ったら、「何言っているの、おまえ」となりますが、血を模した赤色を付けてゾンビだと言えば「まあ、そうかもね」という話になる(笑)。
楽ですよね。ドラキュラになるにはオールバックにしてとか、いろいろやらないといけないけど。
ゾンビのイメージは確定していないので、すごくやりやすい。
それで何か適当にうろうろと歩けばいいので。
だから、ゾンビメイクをして渋谷を歩いている女の子に、「ジョージ・A・ロメロって知ってる?」と聞いたら、ほぼ100%知らないでしょう。
それは知らないでしょうね。
『バイオハザード』も知らないかもしれない。だけど何となくイメージができていて、お互い、「あ、ゾンビだね」と認識し合える。この緩さがポイントだと思うんです。
長く続いているジャンルって、ある種の緩さがありますよね。「走ったらゾンビじゃない」と言われていたのが、皆が認めてどんどん広がっていく。これが、コンテンツが続いていく上で重要だと思うのです。
そうですね。「スリラー」を初めて見た時、ゾンビはちゃんと動けないはずなのに、統率されたダンスができるというのは、あり得ないからパロディーとして面白かった。でも、今はその感覚がなくなっていますよね。
「スリラー」のあの踊りはインドからとっているんですよね。インドの映画って『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995年)のように、スーパースターが真ん中にいて、周りの人が合わせて踊る。「スリラー」は典型的なインドの踊りがベースです。
インドでも『インド・オブ・ザ・デッド』(2013年)というゾンビ映画がありますね。
あれは素晴らしい。
冒頭に「スリラー」のオマージュがあります。
インド映画で面白いのは、必ず踊りがなければいけないのです。今、インドが一番映画を作っていてボリウッドが有名ですが、実は4種類ぐらい映画の産地がある。ボリウッドは明るいですが、南部のほうは電気が通っていないところもあるので、まだ幽霊的なものが出てくる余地があって暗い作品も多いです。
死者と人間の狭間で
ゾンビの怖さというのは複雑ですよね。第一義的には、襲われる怖さが1つ。後は、自分がゾンビ、つまり加害者になってしまうのではないかというところもありますし、自分が大事にしている人がゾンビになったらどうしようという、かなり複層的な怖さがあると思います。
最近のものでちょっと面白いのは、意識のあるゾンビが増えてきているんです。
確かにそうですね。
それから、ゾンビと人間の「間」になってしまうような人が出てくる。今、大ヒットしている『鬼滅(きめつ)の刃(やいば)』という漫画作品(アニメもあり)がありますが、あれも主人公の妹が「鬼」になってしまうのだけど、人を襲わない、すごく微妙な存在になってしまう。人間は鬼を殺そうとするのですが、主人公が「いや、この子は人間を喰わないのだ」といって守る話なのです。
アメリカでも『ウォーム・ボディーズ』(2013年)という、イケメンゾンビと人間女性の恋の映画があります。実は話のもとは「ロミオとジュリエット」なのですが、それを「ゾンビ&ジュリエット」でやっている。この映画では、ゾンビになるとあまりしゃべれなくはなるのですが、頭の中の声は饒舌で意識はあるのです。ところが時間がたつと、「ガイコツ」という意識が全くなくなり人に襲いかかる別の存在になってしまう。ゾンビたちは人間と非人間の「間」の存在として描かれている。
ゾンビが、全くコミュニケーションをとれない存在ではなくて、とれそうだけどとれない。そのような他者を表し始めているというのが最近の面白い特徴かと思います。
ゾンビと会話をするというのは、かつてはNGでしたよね。
そうですね。『バタリアン』(1985年、米)ではギャグとして描いていましたが。
昔は吸血鬼でしたが、今のアメリカのドラマはゾンビのものが多いですよね。
はい。ロシアのですが、美女だけがゾンビになるというムチャクチャなものもある。美女ってどう判定するんだと(笑)。あれも普通に話して暮らせて、コミュニケーションがとれる状態なんですよね。
多くのゾンビ映画で、人と人との関係性、他者を排斥しまうのか、仲よくできるのか、第3の道があるのかが描かれています。片やパニックになる恐怖感をあおる迫力ある映像で、アトラクションムービーとして発展している一方で、個と個の関係を丁寧に描写するものもあって飽きません。
ロメロの意図したもの
アトラクション系のアメリカ映画にとって、ライバルはディズニーランドですからね。「映画に行きますか、ディズニーランドに行きますか」というところがある。
「リアル脱出ゲーム」というのがありますが、ああいう謎解きゲームの流行の中にもゾンビがあちこちに見られます。
そもそもロメロの『ゾンビ』(1978年)だって、ショッピングセンターから脱出するところがポイントじゃないですか。『アイ・アム・レジェンド』もそうだけど、脱出というのがキリスト教的なものを感じさせますよね。最後に脱出して、まだ残されていた聖なる地に行くという。
なるほど。モーゼというわけですね。
子どもの頃、『ゾンビ』を見て結構衝撃でしたよね。ショッピングセンターがゾンビで埋まっているところに、暴走族がやって来て、荒らしまくって、一体これは何なのかと(笑)。
当時は本当に怖かったですけど、数年前に見返したらそうでもない(笑)。
最後に生き残ったのは黒人と妊婦の女性です。それまではアメリカ映画の主人公にならなかった人たちですよね。
ロメロは、黒人問題は結構意識的にやっている感じがあって、黒人が白人に襲われる『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)も「黒人運動の裏返しか?」と言われた。たぶん、それから意識してやったのかなという気がします。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ではあまり意識していなかったようですが、その後はたぶん考えていますよね。だから、『ゾンビ』のラストシーンは、おそらくそういうメッセージが読み取られるだろう、と計算しているのではないかという気がします。
でも、それがやりたくてやっているのではないところがロメロのいやらしいところというか(笑)。
そうですね。ロメロだと、『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005年)という作品が、かなり価値観が輻輳していて、ロメロ作品の中では評価があまり高くないのですが、僕は割と好きです。『死霊のえじき』(1985年)も好きですけど。
第一人者ロメロも亡くなってしまいましたからね。
もう三年前になりますかね。『ロード・オブ・ザ・デッド』という作品を最後に撮っていたらしいという話があります。
多様化するゾンビ映画
『バイオハザード』が完結して、王道を全部攻めたじゃないですか。テレビドラマ『ウォーキング・デッド』(2010年〜、米)も今までの要素を全部詰め込んだような感じもあり、映画としては王道が難しくなっている感じがあるのでしょうか。
そうですね。最近は一捻り二捻りされているものが多いです。『アナと世界の終わり』(2017年、英)というミュージカルのゾンビ映画があります。田舎町で鬱屈して、外へ出たいと思っている女子高生の話にゾンビが出てきて、最後は生き残って、外へ出て行くという話です。それが全編ミュージカルで、すごく面白い。日本では『屍人荘の殺人』(2019年)。ゾンビが発生して、立て籠もった洋館で殺人事件が起こる。何もそんな緊急事態にやらなくていいだろうという話ですが(笑)、ゾンビに囲まれたときだからこそ可能なトリックが使われたりします。
『ゼット・インク(Z Inc.)』(2017年、米)というゾンビウイルスが流行った後の世界の話もあります。パニックの収束後、誰かが会社のビルの一角の水にウイルスを混入し、その会社だけがゾンビウイルスに侵されてしまう。そのゾンビウイルスは怒りを解放するウイルスで、意識はちゃんとあるのに、理性がなくなってしまい、部下が上司を殺しに行くという話です(笑)。
確かに今は、テンプレすぎるとつまらないというのもあるのでしょうね。
確かにゾンビ映画は全部出切ったようなところがある。最後は木になっていくというものがありましたね。
『ディストピア パンドラの少女』(2016年、英)という作品です。あれも斬新なゾンビですよね。
この映画はウイルスではなく菌類という設定なのです。タイワンアリタケという、実在するキノコ類ですが、寄生してアリを操作する。これは本当にこの世の中にあるもので、アリの体の中に入って行動を操ることで増えていきます。それが人間に寄生するようになったという設定です。だから最後は木になるんです。生態系みたいなものを考えていて、すごく面白い。
ジャンルから要素へ
最近は、ゾンビに変異するのがムチャクチャ速いんですよ。嚙まれたら10数秒とかでなってしまう。
昔は嚙まれて死んでから、「起き上がったら撃て」だった。
牧歌的ですよね。今から考えると。
『バイオハザード』は、「あまりうまく調整できていない生物兵器」という設定でゾンビが出てきてしまったので、シリーズが進んでいくごとに調整されて、だんだんゾンビっぽくなくなっていきますね。
空を飛んだり、何か普通の化け物みたい(笑)。ゲームのためにいろいろなバリエーションを作っていったのでしょうね。それが映画に移植されることで、いろいろなバリエーションのゾンビが出てきたのでしょう。
ゲーム特有のステージというのが意識されていません? ここを突破すれば次のステージに行けると。
そうですね。ゾンビはたぶん、いろいろなものと合体しやすい。とりあえず何でもくっ付けられるという緩さがあります。
1つのジャンルが拡散していく時に、ジャンルではなくて要素になっていくというのは、いろいろなところで起こる現象ですね。かつてのSF映画は「SF映画とはこういうもの」というコアな形があったのに、一般に受け入れられるに従って、SFはただの要素になって、様々なバリエーションが出てきた。それとおそらく同じ現象です。だから、ゾンビで恋愛とか、ゾンビで歴史物とか、何でもできる。
確かにそうですね。個々の作品がまずあって、それで集合的なイメージが皆の中に何となく成熟してくると、「じゃあ、これはもう要素として扱って大丈夫だよね」という段階が出てくるということですね。
かつてだったら「ゾンビってこういうもの」と説明しながら話が進んでいったのが、もう皆わかっているんですね。こういう前提で作られるコンテンツがすごく増えている。
和風の展開
『鬼滅の刃』は、本当にゾンビ映画の最新にあるものだと思っていて、「間」の在り方も多様化している。また、この作品が面白いのは、鬼が死んでしまう時に主人公が優しくしてあげることによって、生前の自分の思い出みたいものを思い出して、昇華し、成仏して死んでいく。すごく優しい話です。
だから、ゾンビっぽくありつつ、かつ幽霊譚的なものがそこに入り込んでいる物語だと思います。
そうですね。またこの作品では「鬼」となっていますが、例えば『甲鉄城のカバネリ』(2016年)というアニメでは「ゾンビ」と言わないで「カバネ」と言っています。
和風ゾンビですよね。
そう、和風です。その時に「ゾンビ」と言ってしまうと、つまらなくなる。例えば『ウォーキング・デッド』だって「ウォーカー」ですよね。たぶん、直接ゾンビと言ってしまうとつまらないので、言い換えをしているのでしょう。
だけど言い換えをすることで、そこで採用した言葉のイメージがまた流れ込んでくるんですよね。
なるほど。日本独特ということで言えば、僕はガチャガチャ文化が面白いなと思っています。「フルーツゾンビ」というシリーズが出ていて、「パイナップルがゾンビになっちゃいました」みたいなキャラクターが出てくる(笑)。
すぐに「かわいく」なってしまいますよね。キョンシーもあっと言う間にかわいいものになってしまいましたからね。
宿輪 最初は白黒っぽくて怖かったですよね。
香港映画の『霊幻道士』は怖かったけど、いわばそのパクリである台湾の『幽幻道士』(1986年)の主人公がかわいい女の子のテンテンで、それが子どもの人気を得て、「コロコロコミック」で特集までされました。
怖いものが受け入れられる時に、「怖い」と「かわいい」とはたぶんそんなに隔たっていないという気はします。
そうですね。四方田犬彦先生の『「かわいい」論』でも、かわいいものとグロテスクなものは、実は同居しているというような話が書かれていました。だから、キモカワとか、グロカワとか、最近はコワカワとか、実は同じ要素を持っているとも言える。
ゾンビが表象する世界
ゾンビって意識とか希望がないじゃないですか。単に徘徊していて、人を見れば嚙みつくだけの存在でしょう。それって何となく今の社会的な風潮も映し出しているような気がして、危惧があります。
何かになりたいとかがなく、今のままの状態が続けばいい。いい会社に就職しなくてもいいし、結婚もしなくていい。友達とずっとこのまま過ごしていけることが僕の希望です、みたいに言われてしまうと、やはり教授としては「ちゃんと世の中で頑張って、一廉(ひとかど)の人になってよ」と言いたい(笑)。
今、日本はちょっとゾンビ化しているみたいな感じはありますよね。中国はいろいろ問題があるにしてもすごく活気がある感じなので。
すごくアグレッシブですよね。
ロメロの『ゾンビ』は、ショッピングモールでゾンビがウロウロする。これは、当時、アメリカが大量消費社会になって、皆、彷徨(さま)よっている状況をロメロは描いたのだ、というようなことをアメリカの批評では結構言われた。
ロメロ自身がどこまでそれを意識していたかは微妙だと思いますが、確かにそういう見方はできる。宿輪さんが言われた今の日本の状況は、それと似ているかもしれません。
私は「シネマ経済学」という学問の分野を作って商標登録したんですが、日本はゾンビ企業というのも結構多いんです。
ちなみに、中国語ではキョンシー企業(殭屍企業)と言います。
そうですか、やっぱり。最近は「スマホゾンビ」というのもありますね。スマホをいじりながら、周りを見ずに歩いて人にぶつかっていく。あれは確かにゾンビ的ですよね。
宿輪さんの感じられることもすごくわかるのですが、一方で学生と話をしていると、結構バトル・ロワイアルなギスギスした世界に生きているんだなとも感じます。現状維持風に見える部分もありつつ、一方で下に落ちてしまうことの恐怖みたいな部分を常々感じているのかなと。他人が何を考えているのかわからない世界の中で安全に生きていくためにはどうしたらいいんだろうと、守りに入っているようにも見える。それがおそらく、向上心のなさみたいなものの裏返しなのではないかという気がします。
そのような状況が、特に『鬼滅の刃』のような、残酷な世界の中で、微妙な人間模様に分け入っていく作品の人気の1つの理由なのかなと。ゾンビ物というのは、話を人間同士の争いにも、ゾンビ対人間にもできますし。ゾンビに個性を持たせれば、ゾンビ同士の関係も描ける。複雑な今の世の中の状況を寓話的に描くのに、非常に有効な道具なのだと思うのですね。
確かにそうですね。
あとは僕のもう1つの専門の観光に関わりますが、今の日本は「外国の人はどんどん来てください」と言っている。その中で、オーバーツーリズムのような形の弊害が言われるようになると、どうしても排斥の方向に向かう心理が出てくることにもなりかねない。
「ゾンビは入ってこないでください」と言ってドアを閉めるのと似ていると。
そうですね。たぶん今の日本人は、外国人も含めて、身近な他者とどうやって付き合っていくのかということに敏感になっているのだろうと思います。そういう状況では、ゾンビ物はある種の教材として非常に有効に機能するのかなと。
ゾンビコンテンツは、われわれの社会の様々な面を映し出していると言えそうですね。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。