慶應義塾

武士(サムライ)とは?

登場者プロフィール

  • アレキサンダー・ベネット

    関西大学教授

    ニュージーランド出身。高校生で初来日し、武道、武士道に関心を抱く。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。慶應義塾大学でThe Way of the Warrior(武士道)を開講。剣道7段、居合道5段、なぎなた5段。

    アレキサンダー・ベネット

    関西大学教授

    ニュージーランド出身。高校生で初来日し、武道、武士道に関心を抱く。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。慶應義塾大学でThe Way of the Warrior(武士道)を開講。剣道7段、居合道5段、なぎなた5段。

  • 桃崎 有一郎(ももさき ゆういちろう)

    その他 : 高千穂大学商学部教授文学部 卒業文学研究科 卒業

    2001年慶應義塾大学文学部卒業。07年同大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(史学)。07年同大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(史学)。専門は古代・中世の礼制と法制・政治の関係史。著書に『武士の起源を解きあかす』等。弓道3段。

    桃崎 有一郎(ももさき ゆういちろう)

    その他 : 高千穂大学商学部教授文学部 卒業文学研究科 卒業

    2001年慶應義塾大学文学部卒業。07年同大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(史学)。07年同大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(史学)。専門は古代・中世の礼制と法制・政治の関係史。著書に『武士の起源を解きあかす』等。弓道3段。

  • 眞田 幸俊(さなだ ゆきとし)

    理工学部 電子工学科教授

    1992年慶應義塾大学理工学部電気工学科卒業。97年同大学院博士課程修了。博士(工学)。専門はブロードバンド無線システム等。松代眞田家第14代当主。

    眞田 幸俊(さなだ ゆきとし)

    理工学部 電子工学科教授

    1992年慶應義塾大学理工学部電気工学科卒業。97年同大学院博士課程修了。博士(工学)。専門はブロードバンド無線システム等。松代眞田家第14代当主。

2020/02/25

武道から武士道へ

ベネット

私は高校のときに初めて日本に来たんです。部活を選ぶ時に、ホームステイ先のお母さんから「日本の伝統的な武道をやったらどうか」と言われたんですね。

『ベスト・キッド』という映画が流行っていたので、本当は空手をやりたかったんですが、その学校には武道は柔道部と剣道部しかなかった。剣道を初めて見て、「何だ、これは」と感動したので入部したんです。

でも、先生が恐ろしくて、しばらくしたら辞めたいと思ったんですが、辞めさせてくれない(笑)

桃崎

とてもつらかったと。

ベネット

本当に毎日、毎日、激しい稽古をさせられて。でもやっているうちにだんだんはまっていってしまったんです。

そして、どうせやるなら、剣道はどこから来たのか、文化としてのルーツは何だろうと興味を持ちました。サムライが昔やっていたことだという程度しか分からなかったので、高校の留学が終わった後、国際武道大学に短期留学をしました。

それで、武士文化の名残としての武道について専門的に勉強するようになったんですね。

眞田

私はこういう家だから、「何か武道をやっているか」とよく聞かれるんですが、実は武道は何もやっていないんです(笑)。

ベネット

そうなんですね。

桃崎

私は中等部から慶應ですが、中学に入ったら何か武道をやりたい、道着を着たいと思ったんですが、なおかつ痛くない武道がいいなと(笑)。そこで弓道部に入りました。

どうしても3段がほしくて大学院修士課程までやっていたら修士論文が書けなくて、1年落ちて修士を3年やりました(笑)。

中世を研究するようになり、武士の源流を辿っていったら、彼らにとっての原点の武道とはチャンバラではなくて、弓矢なんだということが分かったので、たまたま自分の経験が少しだけ生きたという感じです。

世界で人気の「サムライ」

眞田

私が、こういう家に生まれた、ということを意識し始めたのは、毎年長野に帰った際、眞田邸という家に寝泊まりしていた時です。門に「眞田邸」と書いてあり、小学生ぐらいから何だろうと思っていました。

江戸末期の造りです。参勤交代が緩められて、9代藩主の義母が地元に戻ってくる時に、お城の中には9代藩主と正室がいるので、どこかへ住まわせなければと、お城の外につくった家なんです。今でもそれが文化財として残っていて、長野市のものになっています。

ベネット

海外での武士の人気というのは、昔から非常に高い。時代にもよりますが、神秘的なイメージが強いんですね。明治になって多くの外国人が日本に来るようになり、侍の習慣とか、「ハラキリ」とかが浸透して、早い時期から「サムライ」という言葉は国際語になりました。

日露戦争で日本が軍事大国ロシアに対して勝利を上げることができたのはなぜか、ということから、武士に興味を持たれたこともありました。そして、新渡戸稲造が英語で書いた『武士道』(1900年)は世界のベストセラーになった。

桃崎

新渡戸はアメリカ人の奥さんのために書いたんですね。

ベネット

奥さんというより西洋人のために書いたのです。有名な話ですが、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領も数十冊買って、自分の友だちに配っている。「侍というものは素晴らしい。われわれもまねできるところもあるよ」と。侍が凛々しいもの、格好いいもの、正義のあるもの、と知られるようになった大きなきっかけが新渡戸の本です。

イギリスの作家のH・G・ウェルズも、『ユートピア』という小説の中では侍をヒーローにしている。

最近のことで言えば、先週行ったのですが、なぜか中国でも日本のサムライ文化、居合道と剣道が一部で流行っているんですね。

眞田

そうなんですか。

ベネット

中国では、侍文化、武士道イコール軍国主義、と捉えられて嫌われているのかと思ったら、実は若い人の中では剣道・居合道がおしゃれなアイテムになってきている。

アニメや漫画の影響もあるのだと思いますが、アジアでも侍が日本の若者と同じように、非常に格好いいものだ、人間としての見本になるような存在だ、というイメージが強くなっているんです。

欧米諸国でも、侍イコール人間の理想像というイメージが強いんですよね。新渡戸の本は、ロングセラーで、今でも結構関心が高いんです。

『武士道』をどう捉えるか

桃崎

世界に流布している武士像は、新渡戸の『武士道』が基になっていますね。しかし、英語で書かれて、それがそのまま世界の印象になっている新渡戸の武士像は、相当武士の実態と乖離しているんです。

室町やその前の鎌倉、平安の武士というのは本当に戦士だった時代です。一方、先ほど眞田さんは武道をされない、ということでしたが、江戸時代の武士は統治する人間であって、もはや戦う人間ではない。

ましてや新渡戸が『武士道』を書いた明治時代はもはや武士がいなくなった時代です。武士がこの世から消えた後に生まれた武士道論というのは、必ずや後世の美化が入っているはずなんです。鎌倉、室町の生の史料と読み比べてみると、残念ながらかなり実態から乖離しています。

武士というのは遅く考えて鎌倉幕府の成立の頃としても1200年頃には生まれていますから、明治維新まで6、700年もの長い間にそのあり方が様変わりしています。武士道といって一くくりで論じられる哲学は存在しないはずなんですね。

私は、やはり日本人が新渡戸の『武士道』から入るのは間違っていると思うのです。これはそもそも英語で西洋人向けに、しかも明治時代に書かれた、つまりイデオロギーの書なのであって、実体を伝えるドキュメントではないわけです。

ベネット

それはそうですね。

桃崎

「武士の生き方が人生のお手本になる」という考え方は、私はとても危ないと思っていて、なぜなら、武士は最終的に死ぬために生きている、からです。

江戸時代の武士は、人口比で言えば数パーセントの存在に過ぎない。そして明治になり、武士はいなくなったはずでした。ところが明治20年代には、学校で、「君たちは武士なのだから、勇敢に戦うことと天皇への忠義が大事なんだよ。そして公儀に殉じなさい」と言われるようになる。なぜか日本の男子の100パーセントが武士の末裔になっているという逆転現象が起こったわけです。

そして、最終的に武士の「討死するために生きている」という哲学は、現実に第二次世界大戦で「一億玉砕」という考え方になってしまった。

新渡戸の怖いところは、乃木希典大将が、明治天皇が亡くなったときに殉死したことを、日本人の道徳の最高峰だと褒めてしまったことです。

武士は根本的に世襲なので、職業選択の自由はない。そうすると、その世界で武士として戦うためには仕事として死ななければいけない。そのために精神的、肉体的に鍛錬をする。これは一種の武士の職業倫理ですが、農民や商人がこの哲学に沿って生きる必要は少しもない。つまり江戸時代の90数パーセントの人間には関係のない哲学で、もちろん現代の日本人にとってもそうです。

時代、地域、立場で違う武士道

眞田

武士道は、おっしゃるように時代とともにだいぶ変わってきている。例えば武田氏の戦国時代末の『甲陽軍鑑』を読むと、必ずしも死ぬために生きているわけではないだろうと思うんですね。

また、桃崎さんの本を拝見させていただいたんですが、天皇家の子孫が地方へ行って、ある意味、生き残るために武士というものがだんだん成立していったんだろうと思いますし、「残心(ざんしん)」という考え方も、必ずしも死ぬためではなくて、身を守るためなんだろうと思うんです。

眞田家というのは、生き残るためにいろいろなことをやってきました。関ケ原の時に兄弟(信之・信繁)で分かれたのは、皆が死ぬのではなく家を残して生き残るためです。では江戸時代に徳川幕府に100パーセントの忠誠を誓っていたのかというと、実は維新のときには新政府側についている。

眞田の感覚から言うと、必ずしも身を滅ぼしてまで忠誠を尽くすということが武士道ではないと思っています。とにかく家と領民を守るというのが、われわれの武士道なんだと思うんです。

桃崎

確かに、時代によっても違いますが、武士は、本質的には死ぬために生きているわけでははなく、「生まれ持っての職業なので死なざるを得ないという限定があった」と言うべきなのでしょう。だから、もちろん皆生きるためにやっている、とも言える。実際、鎌倉、室町の武士は、実はほとんど死なないんですね。応仁の乱は、何百人もが合戦をしても戦死者が数えるくらいだったりすることもあります。

しかし、「生きるため」と言っても最終的な解決手段が殺し合いである以上、最後に討死する可能性はやはり避けられない。そうなったときに、そういうゴールが武士だけにあり得るならば、それに向けていつ死んでも後悔しないという哲学は持っておこうという、武士道はどちらかというと消極的な必要性に迫られた哲学だとは思います。

これは時代によっても地域によっても変わります。『葉隠』は旧日本陸軍で推奨されていたような本ですが、これが書かれた鍋島藩、佐賀藩は極めて特殊なところで、あの江戸の平和な時代に、本当に皆、死ぬことだけを考えて生きているかのようなことが書いてある。

明治維新をやり遂げた藩というのは、薩摩藩なども江戸時代の平均的な考え方では解けないところがあります。人命を軽視するし、男尊女卑がすさまじい。

もう1つ身分差もあります。武士というのはご主人様のために死ぬのが仕事なので、ご主人様である殿様は死ぬことは仕事ではない。これを日本では「忠」と言うし、中国では「義」と言いますが、自分の職分を果たすために、俸禄をもらって養われているものは、その命を主君の一大事に捧げるべき、という古代中国の思想が根底にあるわけです。

それが長い間に変容していったわけで、武士道という一言で説明できる理念の体系は、ぶっちゃけて言えば存在しない。時代、地域、立場によってすべてが違うのです。専門家として言えば、武士道なるものは幻想であって、古典として懐古される、古きよき時代、つまり実在しなかった歴史像だと思います。

「死ぬ事と見つけたり」とは?

眞田

武士道というものが個人では死ぬことだとしても、卑怯なことをしないことで家を残すという形で、特に江戸時代に名誉を重んじたというのは、「生き残るために死ぬ」という側面があるのかなと思うんです。

眞田家の場合も名胡桃(なぐるみ)城主鈴木主水(重則)という家臣は北条にだまされて城を明け渡し、腹をかっさばいて死んでいるんですが、その息子は最後まで藩主に取り立てられて家を残している。

だから、もちろん罪は負わなければいけないけれど、罪を負ったからといって、その家がつぶされるわけではなくて、ある意味それで名誉を保って、家として残っていく場合もありますよね。

ベネット

その通りですね。『甲陽軍艦』も、まさに武田家はどうやって生き残るのか、というのが大きなテーマです。強すぎてもいけないし、弱すぎてもいけない。賢すぎてもいけない。バランスをとって、どうやって生き残るか。そうしないと本当にお家が断絶になってしまうので、生き残るための術がたくさん書いてあるわけです。

生き残るための1つのマインドセットとして「生死超越」という言葉があります。生きるか、死ぬかを超えていくような精神性を持つ、つまり死を怖がらないことで、逆に生き残る可能性が高くなるということです。死を怖がる人ほど、逆に死ぬ可能性が高い。

『葉隠』には「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な言葉があります。『葉隠』は1716年に鍋島藩の元藩主であった山本常朝の言葉が記録されている本ですが、この本は歴史背景、コンテキストを分かった上で読まないと非常に誤解されやすい。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉を軍国主義の時代に使うと、「おまえら、天皇のために死んでこい。それが侍だ。それが日本人だ」と簡単に言えるわけです。

しかし、『葉隠』を全部読むと、そういう意味ではない。要は今の侍は平和ぼけになっている、と批判しているんです。「おまえら、侍としてのプライドがないとだめ。セックスのことやお金のことばかり考えている。武士の本当の生きるべき道を忘れているじゃないか」と言うわけです。

「いつ死んでもいい、という覚悟をしろ」ということです。それは、特攻隊のように命を捨てるという意味ではなくて、「いつ死んでもいい」と思って生きていれば、より素晴らしい人生を送ることができる、より自分の藩のために仕事ができるという考え方なんですね。

それをよく「早く死ね」ということを言っているように解釈するんですが、逆なんです。武道家という立場からすると、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」ということは、剣道の捨て身と同じことだなと思うんです。相手に向かい合って「打たれたら、どうしよう」と悩むのではなくて行くときはドーンと行く。すると一本が決まるわけですよね。

要は動揺しないで、堂々と生きろと。それがサバイバルなんです。

限られた命をどう使うか

ベネット

新渡戸のものは、言われた通り、侍がもういない時代に書き上げた、いわゆる近代的な武士道論です。しかし忘れてはいけないのは、新渡戸自身も1862年に侍の家に生まれたことです。盛岡藩の割と上のクラスの侍の息子でした。だから子どものときに受けた教育、つまりその地域、その時代の武士道が現れていると思うんですね。

そうやって育った人間が西洋人に対して、日本はChristianity はないけれども、道徳心は欧米人とそんなに変わらない、日本人は野蛮人ではないとアピールするために書いた。

それは1つの武士道論としては有効だと思います。昔は私も結構批判していたんですが、分析すると、これは結構すごいことを書いていて無価値だとは思いません。

それが狂ったのが、やはり近代、特に昭和になってからの武士道理解で、1つのキャッチフレーズを恣意的に利用することになったのだと思うのです。

桃崎

おっしゃる通り1つのフレーズを抜き出してそれを謳うことは、ものの価値を誤らせます。私は学生に『葉隠』も『武士道』も全冊読ませました。

確かに死に方とは生き方のゴールなので、いつ、どうやって死のうかと考えないで生きていると、ちゃんとした人生にはならないだろう。どうせ人はいつか死ぬ。問題はどうやって死ぬかで、その限られた時間をどう有効に使うか、何に命を賭すかという問題ではあると思うんですね。武士だったら、主君のために命を賭す、あるいは守るべきコミュニティのために命を捨てる覚悟で戦うこともある。

戦うことを専業にしている人がいつも悩むのは平時への適応なんですね。戦時に存在感を発揮する人たちが、江戸時代に平時を初めて手に入れたとき、「転換しなきゃ、違う生き物にならなきゃ」と思い、「僕らは統治しよう。民をかわいがろう」という方向に変わっていく。

徳川家光が死んだ時に、松平信綱は殉死しなかったことで責められた。しかし、「今はそういう時代ではない。今、俺が腹を切ったら、家綱将軍は誰が面倒をみるんだ。全員が死んだら困るだろう」と考えたのです。

しかし、根がソルジャーなので、その部分が時に顔を出す。例えば幕末維新の戊辰戦争は必要なかったはずですよね。江戸の町は焼けなかったから、代わりに会津を血祭りに上げた。明治の官軍は薩長の武士なので、どうしても革命には血がほしかった。この血が無駄だということに気づかなかった。

ベネットさんがおっしゃった通り、武士道って生き方の指針としては有益なんですが、最後の最後、殺し合いによる解決を容認しているという点だけが危ない。ここにさえ気をつければと思います。

私もまったく無価値だとは思っていません。後先を考えないで飛び込むしか、次のステージに行けない時って、人生どんな仕事をしていてもある。その比喩として使うのはいいけれど、そのまま受け取ると命を投げ出すことになるので、ここは読み替えるべきだと思います。

「殺人刀」「活人剣」

ベネット

近世の侍というのは基本的に平時は仕事をそんなにしなくてもいい社会のエリート層です。だから、江戸時代の侍は「俺たちは何のためにここにいるのか」ということを結構早い時期、1630年代くらいから考えるようになっていた。どうやって自分の存在を正当化できるかということです。

例えば柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の『兵法家伝書』という本があります。柳生宗矩というのは剣術の名人で、将軍の指南でもあった。『兵法家伝書』は柳生新陰流の技の教科書であると同時に、その剣術の考え方をどのように統治で生かすかという書です。

そこに、「殺人刀(せつにんとう)、活人剣(かつにんけん)」という有名な言葉があるんです。「殺人刀」というのは殺人の刀ということです。「活人剣」の剣は「つるぎ」です。社会に悪い奴が出てくると、万人の生活が乱れてしまうけれど、そういう奴が出てきたら、侍がパッとその悪人を殺す。そのことによって、「殺人刀」が「活人剣」になるんです。

要はピース・キーパー、警察です。ピース・キープのためにはやはり常に戦う覚悟をしないといけない。戦争がないのに、それを維持することは非常に難しいわけです。だから一生懸命、武芸もやっていた。

眞田

「殺人刀」「活人剣」ですか。

ベネット

「殺人刀」の「刀(とう)」は刀ですから片刃です。一方、「活人剣」と「剣」と呼ぶのは両刃なんですよね、これは相手に対して刃を向けると同時に、自分にも刃を向けているわけです。それは、相手の悪を切ると同時に、自分の中にも悪があるということを覚悟しないといけないということなんです。だから剣を使うことができる侍の責任がすごくある。

これは平和を求めていたとも言える。平和だからこそ侍が必要で、侍としての責任がある。そこが大きなポイントだったと思うんです。

大道寺友山(だいどうじゆうざん)の『武道初心集』という本が『葉隠』と同じ時代に書かれていますが、その中で「侍は常に死を覚悟しないといけない」と言う。侍というのは戦うことが文化のベースにあって手柄を挙げて武勇で名が知られると、プライドが非常に高いので、酒を飲んでけんかになったら切り合いになる。ちょっとしたことで「この野郎」と、すぐ暴力になってしまう。『葉隠』などを読みますと、そのような話が沢山出てきます。

いつそういうことになってもおかしくないから、「死を必ず覚悟しろ」と言うんですね。死ぬことを覚悟することで、油断せずに危ない場面を避けることができ、それによってより長く仕事ができるということです。だから、死の覚悟が武士道の中心概念ではあるんだけど、文字どおりの〝犬死〟の無駄な死とは違う。

武士の存在意義

桃崎

そうですね。どうしても平和のためには、それを荒らすものは力で押さえつけるしかない時があって、これはまさに武士の存在意義そのものです。いわば平和のための暴力です。必要悪としての暴力ということが、たぶん武士を長生きさせたんだろうという気はします。

もちろん武士も人間ですから、本心は死にたくないはずだけど、鎌倉時代とか、室町時代の武士を見ていると、「あ、これは死ぬ時だな」というふうにスイッチが入って、死ぬための戦い方に切り替わる時が、やはりあるわけですね。

昔から家の継続性ということは必ずあって、戦で卑怯な振る舞いをすると、孫や子どもたちがつまはじきにされて、生きていけなくなる。だから「孫のために、俺は今から行って死んでくる」という遺書が鎌倉時代や南北朝時代にはあります。

活かすための死。誰かが死なないといけない時がある、という仕組みがある。そうやって活躍して討ち死にすると、『平家物語』とか『太平記』に「何のなにがしは、この戦のときにこんなに頑張った」と書いてもらえる。それを皆が読み、社会から存在価値が認められる。いわば一種の履歴書になるんです。

卑怯に振る舞った人間というのは、子孫もその後の社会で生きていけない。中世は平時が20年と続きませんから、死というものが、社会の持続性のコストだと思っていた部分もあったのかなと思うのです。

ベネット

その通りでしょう。だから死ぬべき瞬間はいつなのかということが一番のポイントだった。いずれみんな、人間は死ぬわけだから、死ぬべき時、死ぬべきでない時を判断するのが武士の一番難しい選択肢だったんですね。間違えると犬死と言うわけですよね。

桃崎

むやみに死ねばいいというわけではない。1つしかない命の使いどころですよね。

統治するプレッシャー

眞田

江戸時代は、眞田みたいな大名、統治する側からすると、必ずしも平和な時代ではなくて、いつおとりつぶしになるか分からなかったわけです。現に原八郎五郎の乱、恩田木工(もく)(民親(たみちか))の日暮硯の時代には、眞田も場合によっては家がつぶされる可能性があった。

そういう時代になると、上の者からすると、きちんとした生き方をして藩をきちんと治めないといけない、というプレッシャーはものすごくあったと思うんです。

現に眞田も沼田藩をつぶされている。これは当時の藩主がある意味で見栄を張って、農民から過大な徴税をしてしまったことが基なんです。だから戦乱の時代のように、武力がある種の評価基準になっていた時代のほうが統治するのはクリアでやりやすいんです。平和な時代になると、武力が強いほうが偉いのではなく、生き方をきちんとしないと、下の者も治められないという背景もあったのかなという気はします。

だから、死ぬために武士道があるというよりは、きちんとした生き方をして、周りからきちんとした評価を得ないといけなかったと思うんですね。

いまだに沼田では眞田って評判が悪いんです。1700年代の半ばぐらいですから、かれこれ300年ぐらい前の話ですが、今も「上毛かるた」の札に一枚「天下の義人茂左衛門」というものがあり、身を挺して幕府に訴えたことが残っている。訴えられるのが眞田家です。そういう意味では、家としては恥を残してしまったということだろうと思うんです。

なんとか長野の本家のほうは生き残りました。でも危なかったと思います。統治するプレッシャーというのはすさまじいものがあったろうと思うのですね。

ベネット

そうでしょうね。武士といっても、藩の中でその身分によってまた責任が違うわけですよね。つまり理想とされる生き方というのはそのランクによって相違がでます。

藩主の下の家老たちはいろいろとアドバイスをする顧問役ですよね。

眞田

アドバイスをするほうが「押込(おしこめ)」といって、場合によっては藩主を取り替えるんですよ。

「この藩主は駄目だ」と蟄居させて、次の藩主を持ってくることがある。「藩を残す、家を残す」ということが第一目標で、必ずしも藩主、大名だから絶対ではない。家老は家老で、場合によっては自分が腹を切らなきゃいけないという覚悟で、それをやりますよね。

ベネット

そうですね。諫死(かんし)というんですか。

桃崎

諫めて死ぬんですね。武家社会は、建前上は完全なピラミッドになっていますが、実はナンバー・ツーには主君を諌める責任がある。諫めて死ぬということが1つの責務でもあって、死ねばいいというものでもないし、押込をすればいいというものでもない。絶妙なバランス感覚が常に追求されている。

諫死は、南北朝時代にすでに行われています。関東に足利の弟の家系の鎌倉公方の足利氏がいるんですが、必ず毎世代、兄貴の家系の京都に反抗するんですね。

ナンバー・ツーが関東管領の上杉ですが、この上杉はトップの暴走を制御するためにいるわけです。制御できなくなった場合、「あれほど言ったのに、もう責任を取りきれない。私が腹をかっさばいて死にますからやめて」と言って止めたことが、足利義満の頃に一度あります。私が知る限り室町時代で唯一の諫死です。

主君押込というのは武士の伝統そのものです。主君が駄目だと共同体が沈んでしまうので、共同体の生き残りのためには駄目な主君には引っ込んでもらうしかない。

鎌倉幕府は源氏が頼家、実朝で途絶えた後は、執権北条氏が京都から藤原氏、摂関家の将軍を呼ぶとか、あるいは皇族をくださいとか全部、鎌倉幕府の主君を決めている。日本の歴史というのは、摂関政治もそうですが、一番上手く権力をつかめるのはトップではなくて、ナンバー・ツーというところがあるんです。

武士道と騎士道

桃崎

1つ疑問なのは、戦うのが仕事であり、名誉を重んじて、領主であるという点で、武士と西洋の騎士はすごく似ているのに、なぜ西洋人は騎士道を持っていながら、武士道に憧れるのでしょう?。

ベネット

30年もずっと聞かれていることで、まだ自分も納得できる答えはないんです。騎士道も、十字軍の「騎士団」の考え方から、17、8世紀のいわゆる紳士の生き方として捉えられるものまで変化してきました。

1つ言えるのは、侍、武士の場合は、結局共同体を守るということが名誉ですよね。それに比べたら、騎士はそうでもないと思います。当然名誉に関する考え方というのが重要視されてはいるのですが、それは自分個人のものなんです。

武士はそれが昔のことでも、ずっと眞田家の名誉を大切にしますね。

眞田

そうですね。

ベネット

だから名誉というのは個人のものではなく、先祖や子孫と全部つながっている。でも、騎士の世界ではそれが比較的ないです。

桃崎

今、十字軍とおっしゃいましたが、騎士の背後には必ずキリスト教があるんですね。

ベネット

そこなんですよ。だから、死んでからのご褒美というのは天国に行くことです。

桃崎

なるほど。一向一揆と似ていますね。一向一揆というのは頑張って戦うと必ず極楽往生できるというシステムです。ただあれは素人集団で、武士は信仰のためには死なない。少なくとも中世ではそうです。

昔は氏神同士も戦争していますが、ただし絶対神のために戦っているわけではない。陳腐な言い方をすれば、やはり一神教かどうかの違いが大きいですね。あくまでも武士の場合、今、勝つための信仰であり、死んだ後に苦しまないための信仰です。これを突き詰めれば実利なんですね。神の正義のために戦う、ジハードをする人は日本にはいない。

今に生きる武士道とは

桃崎

眞田さんは今でも大名家のご当主でおられます。今日ではもう華族制度がなくなっていますが、1つの共同体として、家臣団だった人たちとの付き合いもまだあるわけですよね。現代日本で、かつてのある種の封建的な秩序の生き残りである方々にとって、今後、どのようになっていくのが幸せだとお考えでしょうか。

眞田

旧華族の方々の話を聞くと、今でもある意味、文化財の守り人というところが多いわけです。ただ現実問題として戦前のような華族制度があるわけではないので、やはり経済的には無理があるんですよ。うちの場合は幸いにして、ほとんど全部、市に寄贈して、市で管理していただいているのでかなり楽ですが、それでもいろいろあるんです。

信之の霊屋は重要文化財なんですが、漆の塗り変えを40年ごとにやらなきゃいけない。これが見積もると4億ぐらいする。われわれはとても持ち切れないんですよね。

桃崎

結局、君臨するにはコストが必要ですが、収入源だけ取られて、責務だけ残ってしまったようなところがあると。

問題はいつまで、誰がそれを負担すべきかということですね。もちろん文化財はそれを持っていた人だけの責任にしていいはずがない。

眞田

とても大学の先生ではやっていられないです(笑)。だからそういう意味では祖父が本当に最後のお殿さまでした。仕事をしていなかったですから。

眞田家というのは、伝統を常にかなぐり捨てて生き残ってきた。昭和の時代も、これをやったら孫たちが食べていけないというので祖父は父に職を持たせたのです。とにかく時代に合わせて、家を残すにはどうすればいいのかということに最適化してきた。だから私は今、武道はやっていない(笑)。

桃崎

武士が命を捨てるという話と似ていると思います。何を残そうかという話は、つまり何を捨てるかという話と同じですから。そういう決断を、たぶん武士はしてきたんだろうと思います。

ベネット

春学期の私の授業を受けた学生が最後の日に、「先生、実は私の父が松平家の当主なんです」と言うんです。確かに松平家の分家で何代目と言われたか覚えていませんが、長男だから次の当主になると。

ずっとアメリカで勉強をしてきて、英語はすごくできるんだけど、日本の歴史とか、武士道や侍文化があまり詳しくわからないので焦っていると言う。大学生になって、これから自分が松平家の当主になるということが、どれだけ重たいものかと感じ始めたと言うんです。

眞田

それはよく分かります。私は父親が早くに亡くなったので、15歳のときに代替わりしたんです。中学3年生でしょう。それはプレッシャーを感じましたね、

いくつかの昔からの伝統的な行事が残っているのですが、お寺のお住職が、「若さまは堂々としていればいいんですよ。ただ、うろたえてはいけません。うろたえたら、周りの者は助けられません」とおっしゃった。だからある意味、それが今の武士道というか、うろたえたら負けなんだろうと思うんですよね。

桃崎

それはおそらく武士道だけにとどまらない、君主論なんでしょうね。中国では君主は徳さえあれば、技能も強さも別に要らない。周りがそれは担うと。ただしきちんと君主然としていてくれという。

眞田

そう言われました。昔は行事の際に覚えるべき言葉を丸暗記していたんですが、最近は間違えたら、周りがなんとかしてくれると思っています。そのほうが周りもやりやすいんですね。

桃崎

そういうことは過去に何度も起こってきたのでしょうね。だから墨守しないといけない伝統って、意外と新しいものだったりする。実は伝統を死ぬ気で守ることにはさほど意味がないことが多いと思います。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。