登場者プロフィール
武・アーサー・ソーントン(たけし・アーサー・ソーントン)
東洋大学文学部日本文学文化学科准教授ペンシルヴァニア大学 College of Arts and Sciences卒業。2013年にシカゴ大学よりPh.D. 取得。専門は比較文学、文学・文化理論。著書に『世界文学の中の夏目漱石』等。
武・アーサー・ソーントン(たけし・アーサー・ソーントン)
東洋大学文学部日本文学文化学科准教授ペンシルヴァニア大学 College of Arts and Sciences卒業。2013年にシカゴ大学よりPh.D. 取得。専門は比較文学、文学・文化理論。著書に『世界文学の中の夏目漱石』等。
尾崎 俊介(おざき しゅんすけ)
その他 : 愛知教育大学教育学部教授文学研究科 卒業1991年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。専門はアメリカ文学、ペーパーバック史。著書に『ホールデンの肖像』他。本年「英語教育」誌上で「サリンジャーに会いたい」を連載。
尾崎 俊介(おざき しゅんすけ)
その他 : 愛知教育大学教育学部教授文学研究科 卒業1991年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。専門はアメリカ文学、ペーパーバック史。著書に『ホールデンの肖像』他。本年「英語教育」誌上で「サリンジャーに会いたい」を連載。
蛙田 あめこ(かえるだ あめこ)
その他 : 小説家(ライトノベル作家)文学部 卒業2011年慶應義塾大学文学部英米文学専攻卒業。2018年『女だから、とパーティを追放されたので伝説の魔女と最強タッグを組みました』にてデビュー。学生時代は落語研究会に所属。
蛙田 あめこ(かえるだ あめこ)
その他 : 小説家(ライトノベル作家)文学部 卒業2011年慶應義塾大学文学部英米文学専攻卒業。2018年『女だから、とパーティを追放されたので伝説の魔女と最強タッグを組みました』にてデビュー。学生時代は落語研究会に所属。
2019/10/24
『ライ麦畑』との出会い
最近話題の新海誠監督の映画『天気の子』は主人公が16歳の少年で、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンと同い年。その子が島から家出してきて、少ししかない荷物の中に、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』があり、いつも読んでいるという設定ですね。
内容には言及していませんが、シーンの中の小道具として上手くこの本が使われていますね。
僕は最後にヒロインが空から落ちてくるのをその少年が受け止めるのが、「Catcher」の意味なんだろうなと思っているんです。
でも1つ、サリンジャーファンから言わせてもらうと、『ライ麦畑』を、カップラーメンのふたを押さえるのに使うのはあり得ない(笑)。我々にとっては『The Catcher in the Rye』というのはバイブルなので。
しかし、今、若い人に人気のアニメ映画でも、そのようにして使われるというのは、やはり今でも影響があるのかなという気がします。
そうですね。
やはり『The Catcher in the Rye』を論じるとなると、いつ自分が出会ったか、どう出会ったかというのがスタート地点になりますね。
自分自身のことで言えば、はっきりと覚えています。慶應に入学して、日吉に通っていた1年生のとき。日吉の裏側の商店街のある古本屋で野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』を買ったのです。
今、出ているのと違う版なのですね。
そうです。白水社の「新しい世界の文学」というシリーズの中の1冊です。僕が19歳のときで今から30数年前のこと。この本の初版が1964年で、僕が買ったのはその10数年後ぐらいですが、その頃になっても毎年10万部売れていたのです。
ちょうどその頃は、「ニューミュージック」が流行っていた時代で、テレビの歌番組によく出ていた西城秀樹や郷ひろみ、山口百恵といった人より、実は松任谷由実とか井上陽水のほうがレコードが売れていて、それが格好良かった。
『ライ麦畑』はそれに似ているんですね。すでに出版から10年もたっていて、白水社も宣伝していないのに毎年10万部売れる。「それは一体どういうものだろう」と買って読んでみたら「はまって」しまったんです。
ソーントンさんは、アメリカで読まれたんですか。
僕はアメリカ生まれで、一時日本にも住みましたが、高校生の頃アメリカで出会いました。
実は一昨日までニューヨークにいたんです。すごく久しぶりに『The Catcher in the Rye』に目を通して、ペン・ステーションとか、セントラルパーク、メトロポリタン美術館を見てきました。メトロポリタン美術館の前の動物園の前も通りました。『The Catcher in the Rye』に出てくる動物園です。
でも最初にこの本を読んだときは、あまり印象に残らなかったんですね。どちらかというと同時期に読んだウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』のほうに僕は衝撃を受けました。
サリンジャーの世界が初めて何となくわかったのが、大学に入って寮生活を始めたときです。いわゆるイーストコーストの典型的な、プレップスクール上がりの子たちにたくさん出会ったときですね。
ルームメイトもポロシャツを着てラクロスチームに所属している、典型的なアメリカの体育会系の子でした。父親はウォールストリートで働いていて。そのときに初めてサリンジャーの世界を身近に感じました。当時は90年代でしたが、変わらないものだなと。
『ライ麦畑』でもシャワールームのところから隣室の子が出たり入ったりしているでしょう。アイビーリーグの寮にいると、あの雰囲気はとてもよくわかるんですね。
私はアメリカ系のミッションスクールに通っていたんですが、中学2年で読みました。そのときはちんぷんかんぷんでした。
私たちのような30代以下の世代にとって、サリンジャーは「おしゃれアイテム」なのです。「聞いたことある、それ、おしゃれ」みたいな感じで『ライ麦畑』を手にとったのです。「すごい悪口書く人だな、この人」という印象が強く残っています。
その後、大学生になった頃、私が尊敬する作家である佐藤友哉(ゆうや)という人を通して、サリンジャーに新たに出会いました。
最初は誰の訳で読みました?
野崎孝訳です。村上春樹訳(2003年)が出る直前だったので。
いろいろな人たちの最初の『ライ麦畑』体験を読むと、中学、高校のときに、異性の友達から勧められるというパターンが多い。ちょっと背伸びしたい時期に、「これ、いけてるよ」という感じで。
そうですね。私もそんな感じでした。
『ライ麦畑』の魔力
ソーントンさんが『ライ麦畑』は最初はあまりピンとこなかった、とおっしゃいましたが、大体、『ライ麦畑』を読んでピンとくる人と、ピンとこない人、人間はこの2つに分かれるんです(笑)。
『ライ麦畑』にはピンとこない人でも、『ナイン・ストーリーズ』にはピンときたりする。しかし、最初から『ライ麦畑』にはまった人は、終生サリンジャーに忠誠を誓うんです。もう神のようなものです。だけど『ナイン・ストーリーズ』から入った人は誓わない。
僕なんかは典型的に『ライ麦畑』にガツンとはまってしまった人間で、しばらくの間は、もう飯を食うときも、通学のときも、昼休みも、何度も読んだのにまた読む。出かけるときは常にこれを鞄に入れているという、非常に「やばい」読者になっていったわけなんですね。
『The Catcher in the Rye』に「はまった」人で一番有名なのは、ジョン・レノンを暗殺したマーク・チャップマンですね。
あと2人、有名な暗殺犯がいます。ロナルド・レーガン暗殺犯(未遂)と、もう1人、1989年に、アメリカのレベッカ・シェイファーという、当時大人気のアイドル的な歌手を射殺した犯人もやはり『ライ麦畑』を持ち歩いていたんです。
結局、『ライ麦畑』を読んではまる人というのは、潔癖というか、純粋なものにだけ関心を向けて、周りのものが非常に邪悪に見えてくる。何か大人の世界は汚い、といった感情が先鋭化してしまって、そういう奴らを倒してやれ、という気持ちになってくる面もあるのでしょう。
影響力の大きさというのはサリンジャーの魅力ゆえだと思いますが、危険なものも孕んでいる。でも、『ライ麦畑』にはまらない人は大丈夫だと思います。僕みたいなのが危ない(笑)。
私は「はまった」感じというのとは違うと思うのですが、わずかな数節がずっと頭から離れないということはありましたね。「モロウが敏感なら、トイレの腰掛板だって敏感だろう」(野崎孝訳)みたいな一文とか。日本語訳ではあるのですが、文章の巧みさみたいなところは、催眠術的だとすごく思いました。
私は、好きな悪口のところに付箋を付けているんです。
「語り」の力
ご自身の作品の中に、その言い回しが影響するということはありますか。
ありますね。私が手掛けているウェブ小説というのは、一人称で語るのが基本なんです。一人の主人公がその作品世界では絶対的な存在、みたいな形になるんですが、『ライ麦畑』の語りはそれにすごくマッチしていると思うんです。「一人称小説」の中では抜群に印象に残っている読書体験です。
この小説のポイントの1つは、一人称小説であることですよね。
書き出しの「If you really want to hear about it,(もし君がこの話を本当に聞きたいんならだな〔野崎孝訳〕)」と言うところ。最初に主人公が「君」といって語りかけて物語が始まるわけです。この「君」が一体誰なのかというのが重要なところです。
実は『The Catcher in the Rye』を日本で最初に訳したのは野崎孝さんではなく、橋本福夫さんが1952年に訳し、『危険な年齢』という邦題で出したものです。原書の翌年ですからすごく早かった。では橋本福夫さんは冒頭をどう訳したか。
「もし君が」ではなく、「もし諸君が」と訳しているんですね。つまり「you」を単数ではなく複数とした。「もし読者の皆さんが」と始めてしまったのですね。橋本福夫訳はすごくいい訳なのですが、そこが僕は間違っていると思う。この小説は「もし君が」と単数の「君」であればこそ、読む者の胸に刺さるのです。
村上春樹さんも、「you」をどう訳すかで結構苦労したと語っています。僕は、この「you」が誰を指すのか一度も悩まなかった。つまり「僕」だと思った。世界中でただ一人、ホールデンは僕に話しかけているんだと思ったんです。
僕以外の人には聞かせられない内緒話を、ホールデンは僕にしているのだと。そのようにして、「僕に直接話しかけてくれる、じゃあその話を聞こうじゃないか」と、その世界に入り込んでしまうのですね。
そこがこの一人称小説の魅力で、サリンジャーが発見したすごく力強い語りのパターンだと思うんです。
なるほど、そういうことなんですね。
そして、次に最初はホールデンが僕に語りかけていると思っていたものが、読んでいるうちにだんだん「そうではない」と思えてくる。どういうことかというと、ホールデンが感じたり見たりしたことと似たことを、僕も考えたことがある。ホールデンのやっていることは、僕の感じたことと同じだ。だから「僕がホールデンなのではないか」と思うようになるのです。
その喚起力の強さはすごいと思うのです。
とても自然体で、パーソナルに話しかけてくる感覚がありますね。この作品の上手さはそこなのだと私も思います。
マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』の語りは、南部の黒人アクセントが入っている白人の話し方ですが、『The Catcher in the Rye』はニューヨーク、東海岸の、カトリックかユダヤの特徴が文体に出ています。サリンジャーはユダヤ系の血も入っていたので、そのリズム感も上手く出ているなと感じました。
会いたくなる作家
ご自身がホールデンと同じような寮生活を体験されると、何となく自分がホールデンと同じだ、という感じはしなかったですか。
その感覚というのはきっと多くの、アメリカの体育会系じゃない子たちが体験することなのだと思います。アメフトの人気者などはチアリーダーの子にもてる。ちょっとオタク系の文学少年や映画好きはいつも端っこにいる。そういった人たちには『ライ麦畑』は非常に響くものがあると思いますね。
アメフト部でもバスケ部でもない子たちは、「なんであいつらばかりがもてて、生意気で、態度がでかくて、野蛮でむかつく」と、心の底ではちょっと思っている。自分も高校生のときにそうだったなと。
『ライ麦畑をさがして』(2001年)という映画の主人公が、まさにソーントンさんが言われたような文学少年で、常に『The Catcher in the Rye』を手にしている。
寮生活の主役はアメフトの強い奴らばかりで、いじめられっ子である彼が、『The Catcher in the Rye』を読んでいるうちに、やはり僕と同じように、このホールデンは自分だと思ってしまう。それで、「僕のことを書いてくれたサリンジャーってどんな人なんだろう」と、サリンジャーに会いに行くという映画なのです。
こういう「サリンジャーに会いたい」ということをテーマにした映画が、他にも何本もあるんです。でも、例えば、漱石に会いたいとか、フォークナーに会いたいという映画はないですよね。
そうですね、確かに。
サリンジャーの特殊性というのはまさにそこで、自分のことを書いてくれたのだから、僕はその作者に会う義務がある、というような思いを抱かせてしまう。そんな作家は、サリンジャー以外にいるのか。
隠遁してしまって公に姿を見せなかったことも大きいでしょうね。『フィールド・オブ・ドリームス』(1989年)もそうなんです。
そうなんですか。
設定は黒人の作家に変えられていますが、それはサリンジャーがやめてくれと断ったからのようです。『小説家を見つけたら』(2000年)も、ショーン・コネリーが引退した作家を演じていますが、これも隠遁したサリンジャーにぜひ会いたいという、サリンジャーファンに共通する潜在的な希望が現れたものではないかと思います。
また『ライ麦畑で出会ったら』(2015年)、『ライ麦畑の反逆児』(2017年)と、近年も立て続けにサリンジャー映画が出ていますね。
太宰治とサリンジャー
僕がサリンジャーに夢中になっていた期間は2年ぐらいです。そこからパタッと「卒業」しましたが、今でも『The Catcher in the Rye』は僕の物語で、だからサリンジャーは僕のことをよく知っている、という気持ちから逃れられません。
お話を伺うと、私の中では太宰治がその位置にいる作家なのかなと思っています。先に『人間失格』に出会ってしまったので、多分サリンジャーが座る席に太宰が座ってしまっていたのです。『人間失格』の「ワザ。ワザ」のシーンなんて、「私だ!」みたいに思っていたんです。
なるほど、太宰治はわかる。太宰に夢中になっていて、あるとき、パタッと卒業したと。
太宰は高校のときに読んでいて、まさに「はまって」いたのですが、大学受験のために卒業してしまったんですね。
サリンジャーとの「再会」ですが、私が傾倒する佐藤友哉という現代作家が『ナイン・ストーリーズ』(2013年)という作品を書いていたのです。『ナイン・ストーリーズ』、そのまんまです(笑)。目次を見ると、「チェリーフィッシュにうってつけの日」から始まって、ラストの一編は、「テディ」ではなく「レディ」です。
なるほど。
佐藤友哉のデビュー作は『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』(2001年)というのですが、ここから続くのが「鏡家サーガ」と言われているものなんです。
ああ、「グラース・サーガ」になるわけね。
そうなんです。私の『ナイン・ストーリーズ』は佐藤友哉からなのです。その正典を読んでみたいということで、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』に辿りつきました。
ちなみに、佐藤友哉の最新作は『転生!太宰治』で、太宰治が心中に失敗して現代社会に転生してきて、女子高生地下アイドルと一緒に芥川賞を目指すというものです。サブタイトルは「芥川賞が、ほしいのです」。やはり太宰も「会ってみたい作家」というカテゴリーなのかなと思いました。
サブカルチャーからの支持
あるジェネレーションを代表するバイブルになるような本というのは、考えてみるとあまりないですね。自分にとって似たようなものは、カミュの『異邦人』かなと。あの本も一時はフランスの学生たちが必ず鞄に1冊持っているような本でした。
日本で『The Catcher in the Rye』がこれほど読まれていることは、アメリカ生まれのソーントンさんから見て不思議に思われますか。
ここまで日本で人気があることにはびっくりしますね。
実は、今年がハーマン・メルヴィル生誕200年ということで、「ニューヨーカー」に先々週、大きな記事が載ったのです。『MOBY-DICK』(『白鯨』)がどれだけ偉大な小説かと。
しかし、調べた限り、生誕100年のサリンジャーは、今年「ニューヨーカー」に大きくは取り上げられていません。「ニューヨーカー」はサリンジャーの若いときのあこがれだったので、がっかりしただろうなと。
むしろ日本のほうが、生誕100年をあちこちで祝っている感じでしょうか。
もちろんアメリカでも人気は相変わらずですけどね。バーンズ・アンド・ノーブルという、ニューヨークの一番大きな本屋さんの店員さんに聞いたら、「相変わらず売れるよ」と言われましたから。
日本では、サリンジャーが忘れられそうになる頃に、その時代の人気者が、「これ、いいよ」と言い出すんです。南沙織さんの『二十歳ばなれ』(1976年)もそうです。
蛙田さんは知らないと思いますが、僕たちの世代では、すごく人気のあった歌手で、彼女がすごく売れていた頃に、『二十歳ばなれ』という本の中に、サリンジャーの『ライ麦畑』にすごく影響を受けた、と書いた。
それからまた10年くらいして、1987年に、今度は小泉今日子さんがラジオ番組で、サリンジャーの『ライ麦畑』に感動した、という話をする。そうするとまたバッと広がる。
そういう感じで定期的に、トレンドセッター的な影響力のある芸能人が、これを取り上げるんですね。ある意味では『天気の子』での使われ方もそうかもしれない。
サブカルチャーへの出現はとても多い作家だと思います。私の世代だと、とても人気のある銀杏BOYZというロックバンドのアルバム『DOOR』(2005年)に収録された「惑星基地ベオウルフ」という曲の歌詞の中に「ストラドレーター」(『ライ麦畑』の登場人物)が出てくるんです。
そうなんですか。
本当に人気のあるバンドだったので、私の世代にとっては、サブリミナル効果みたいな感じで出会っている作家かもしれません。
若い人でも、センスのある人はやはり読んでいて、それを自分の作品の中に入れていくんですね。それをまた若い人たちが受け継いでいく。そうであれば、非常に幸せな作家ですね。
サリンジャーの戦争体験
アメリカでもサリンジャーはパンクロックバンドのグリーン・デイのアルバムに出てきたり、あらゆるところでサブカルチャーへの影響はあると思います。何となく、サリンジャーが好きなのかなと思わせる作品も多い。
また、ビル・ゲイツはすごく好きだと言っています。あとブッシュ大統領(父)も好きだった。これは意外でした。20年前ぐらいまでは、「サリンジャーは過激すぎるので規制する」という保守的な宗教的団体がある中、共和党の保守的な政治家が大好きだと表明したわけですから。
確かに意外ですね。
世代的にサリンジャーとそれほど変わらず、第2次大戦に従軍したという共通体験があるのかもしれませんね。
『シャッターアイランド』(2010年)というマーティン・スコセッシの映画があります。この映画は、ディカプリオ演じる主人公がユダヤ人の強制収容所を見てトラウマを受け、アメリカへ戻ってきた後に、マサチューセッツ州の近くにある島の施設に行って事件が展開するんです。
サリンジャーのいた部隊はナチスのユダヤ人の強制収容所を解放したんですね。そのことがこの映画とかぶるのですね。スコセッシも意識しているのかなと、ふと思ってしまうようなところがあって。
サリンジャーはDデイ(ノルマンディ上陸作戦)に参加しているし、戦争には深く関わっていました。最近の映画『ライ麦畑の反逆児』の中でも戦争は大きなテーマとして扱われています。あまり表向きに戦争のことを書いている作品はないのですけれど、戦争体験はサリンジャーの中では大きい要素でしょうね。
サリンジャーはフェミニンな感じがする作家ですが、実は一番修羅場を経験しているとも言われている。
女性から見た視点
今の女性にもやはりサリンジャーは人気で、『MOBY-DICK』は読んでいないけれど、『ライ麦畑』は読んでいるという人は多いと思います。
僕は、「ホールデンは自分だ」というふうに入り込んでしまったから、女性はむしろ入り込みにくいのかなと思ったりもしたんですが。
そうではなく、「ホールデンはしょうがない子だな」みたいな感じで読むのではと。
「マッチョ」からは降りている作家だと思っていて、そういうところは読んでいて心地いいというか、「臭くない」というところもあるかもしれないですね。
最終的にホールデンは、小さい妹のフィービーに救われるわけです。そういったところが、ひょっとしたら女性が読んでいて心地いいのでしょうか。
そういうところもあるかもしれません。私は冒頭の「君」が自分のことだとは、つゆほども思いませんでしたから。精神病棟の隣の人かな、くらいに思っていて。
10年ぐらい前のドキュメンタリーで、サリンジャーにロリコンっぽい傾向があったと言われましたね。
小説の中ではそうは伝わってきませんが、アメリカでは今、「me too現象」などもあって、サリンジャーの女性観も見直しが起きている面もあるのかとも思います。
娘さんのマーガレットが書いた伝記『我が父サリンジャー』(2001年)の中に、お父さんは私が結婚すると言ったら急に冷たくなった、と書いている箇所がある。要するに、無垢な少女ではなく大人の女性になると、サリンジャーにとって、堕落したということになるのでしょう。だけどそんなことを言われても、いつまでも女の子ではいられない。
実の娘さんも、父親であるサリンジャーをロリコン的な感じで見ているところがあります。
ヒンクリーという、レーガンを暗殺しようとした人物は、そういう傾向が非常にあったようで、『タクシー・ドライバー』のジョディ・フォスターにすごい執着心があったのです。そういうところに影響を受けてしまう人もいるんですね。
いろいろな面でサリンジャーは多分嫌なやつで、友達としてもつきあいにくかっただろうと『ライ麦畑の反逆児』の映画を見ても思うのです。にもかかわらず、僕のような『ライ麦畑』ファンは最終的に許してしまう。
やはりそれは、ストックホルム症候群に近いと思っていて、ある時期、非常に濃厚な読書体験をしてしまうと、後からサリンジャーの嫌な面がわかっても、ファンは、「そうだろうね。だけど俺は好きだよ」という、善悪の彼岸になってしまうんです。サリンジャーファンにはどこかそういうところがあると思いますね。
日本語訳による違い
村上春樹は、サリンジャーをどう見ているのですか。
影響は濃いですよね。蛙田さんは村上訳は読みましたか?
ペーパーバックエディションで読みました。
野崎訳と比べてどうでしたか。
正直、ものすごく読みやすかったです。野崎訳のように「奴(やっこ)さん」とか言わないし。野崎訳はやはりすごく古い訳だなあ、と思うのです。
僕は世代が違うので、やはり野崎訳が圧倒的にいいんですよ。村上訳も読んだのですが全然ダメ。
例えばアメリカ人って、「アーム(uhm)」と言うじゃないですか。あれを「あーむ」と書くんです。野崎さんはそういう擬音語みたいなものは訳さないんですが、村上さんは訳す。でもそれが日本語としてすごく違和感がある。
これはサリンジャーの本というより村上さんの小説だと思うのです。サリンジャーを訳しながら、自分の作品に変えているような感じがして、僕はあまり好きではないですね。「cool as a cucumber」を「キュウリみたいにクール」とか、そのまま日本語に訳すところが僕が嫌いなところです。それを僕の一番大切なこの本の中でやるから(笑)。
だけど、やはり村上さんが自分の小説のように『Catcher』を訳しているということは、村上さんの感性と、サリンジャーの感性が非常に近いのでしょうね。だから訳しているうちに自分の小説になってしまうところがあるのだろうと思います。僕は村上ファンではないので、余計なことするなよ、というところはあるんですけど。
タイトルの喚起力
私はオリジナルしか読んでいないので、村上春樹さんの翻訳は非常に気になってはいます。オリジナルの文章は非常にリズム感があって、ニューヨークのイーストコーストの話し方がすごく伝わってきます。これが翻訳でどのように表現されているのか。
野崎訳はすごくよく考えられているんですよ。言われたような、ホールデンのしゃべり方やリズムをどうやって日本語に置き換えるかすごく研究されたらしいです。
彼がこれを訳していた頃、植草甚一というエッセイストがいました。彼はそれまでの日本語にないような口語的な文章を書いていた。「きのうは雨が降ったから、ジャズばっかり聴いていたよ」みたいなエッセイです。その植草甚一の非常に口語的(colloquial)な文章というのは、すごく評判になったんです。
根拠はないのですが、野崎さんは、植草甚一の非常に斬新な口語体を読んで、「これだ」と思って、それで若い人の口調で訳し始めたんじゃないかと思うんですね。野崎さんのこの訳は、当時とすればかなり画期的なことだったのだと思います。
それこそ「奴さん」もそこから出てきているんじゃないか。それまで翻訳の文章で「奴さん」なんて言い方は出てこないわけです。
野崎さんが偉いと思うのは、この後10年以上してから新訳版を1984年に出したことです。これが今も読める版ですが、旧版とは訳が全然違う。
え、そうなんですか。
もう何千カ所というぐらい、言葉の一つ一つを、細かく変えています。
でも、同じ出版社から、野崎訳と新しい村上訳が、同時に今でも売られているというのはすごく珍しい現象で、この小説以外ないですよね。
村上訳は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で、野崎訳は『ライ麦畑でつかまえて』なので、私もそれぞれが別個の作品というか、そういう気持ちで読みました。
でも、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルは少し変ですよね。『The Catcher in the Rye』だから、「ライ麦畑でつかまえる(人)」でしょう。それを「つかまえて」というと、「僕がつかまえる」のではなく、「僕のことをつかまえてくれ」というイメージで読むじゃないですか。
でも、そのタイトルにしたのは、野崎さんの大発見だと思います。このタイトルはすごい。これが『ライ麦畑の捕手』だったら絶対売れない。だけど『ライ麦畑でつかまえて』と言われると、「私は誰かにつかまえてもらわないとダメだから、つかまえてくれ」というイメージになる。そこで、読む人は、「では私がつかまえてあげましょう」といって買うわけです。
孤独なホールデン
アメリカでは、サリンジャーのすぐ後のビートジェネレーションの作家のジャック・ケルアックや、ジェームズ・ディーンの『Rebel Without a Cause(理由なき反抗)』、そして60年代の「Civil Rights Movement(公民権運動)」などが出てきた原点にはサリンジャーがいるとも言われています。
サリンジャーが日本でここまで多くの読者に支持されてきたのは、日本でも例えば学生運動とか、大人や政治家たちの汚い、何でも妥協する世界に対する反抗というようなものが背景にあったのでしょうか。
それはあったと思いますよ。村上春樹など僕よりもう一回り上の人たちの世代の頃には、日本でも学生運動などが盛んでしたから、それに対して自分たちの純粋さと、社会の邪悪さへの告発を、この『ライ麦畑』が代弁してくれたと。
『The Catcher in the Rye』に出てくるエートス、大人社会に反抗する気持ちというのは、今だと例えばシリコンバレーのアップルなどの企業に受け継がれているようにも思えるんです。
サリンジャーがある意味ルーツである、「皆と同じことをするな」という考え方をビジネス界が、「それは格好いい」と取り入れて、メインストリームの文化になってしまったところがあるような気がします。
そうかもしれませんね。逆に、これからの若い人が『ライ麦畑』を読んで、どう思うんだろうという興味はありますね。この先、果たして読み継がれていくのか。
僕自身は上の世代の人に「これ面白いよ」と言われて読んだのではないので、若い世代に勧める気はない。上の世代から「君たちの気持ちにぴったりだよ」などと言われたら、逆に読まないと思うのです。
そうかもしれませんね。
僕も若いときは、『ライ麦畑』の魅力は、純粋さ、イノセンスにあって、邪悪な世界に対し、イノセンスの側にいる自分をホールデンが代弁してくれているんだ、と考えていたんですが、最近、少し読み方が変わったのです。
冒頭で、アメフトの対校試合をやっていますね。一番人気のある行事だから全校の生徒が皆そこにいる。だけど、ホールデンだけは一人離れて、運動場が見える丘の上にいるのです。そして自分は高校を退学させられる。試合を遠くに見ながら、自分はこの友達とは違うところにいるんだなと思い、彼なりにグッドバイを言うわけです。
ここに自分がいるべき場所がなくて寂しい、一体自分の居場所はどこにあるのだろう、という気持ちを強くホールデンに感じるんですね。居場所がない寂しい気持ちというのは、特に若い、中高校生ぐらいのときは強烈に感じると思うのです。この本はそういう「俺の居場所はどこなのだ」という気持ちを書いているんだと思うようになったんです。
だから今の若い人も何かのきっかけでこれを読んだら、おそらく、自分の寂しさと同じものがここにある、と感じられると思うので、この小説はまだこれから先、読まれ続けていく可能性はあると思っています。
「生きづらさ文学」として
サリンジャーの文学は「生きづらさ文学」ではないかと思うのです。私は「小説家になろう」というウェブサイトで小説を連載しているのですが、そこでは、トラックに轢かれて死んでしまって、ドラクエとかファンタジーの世界に転生していくという小説が非常に流行っていました。現実世界は生きづらい。だから、その現実から飛び出したいわけですね。
私たちはエンタメとして書いていますが、アプローチはまったく違っても、サリンジャーの文学には同じテーマ性みたいなものはすごく感じています。そのように「生きづらさ文学」として、この後も読まれていくのかなと思うんです。
あと、最初に尾崎さんが、『天気の子』でカップラーメンのふたに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を使ったことに憤慨されていましたけれど。
ええ、そうでしたね。
世代なのかもしれないですが、あの感覚はよくわかるのです(笑)。おしゃれなアイテムである『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をカップラーメンのふたとして日常と一緒に置いておきたい感じ。これにはグッときたのですね。
なるほど、そういう感じ方もあるんですね(笑)。
そうなんです。「新海誠はわかっている、その感じなんだよ」みたいなものがあったんです。
なるほど、世代によって全然感じ方が違うということですね。でもそれを受け継いで、蛙田さんがこれから一人称小説で何か生きづらさとか、そういうものを発信できるわけで、それはサリンジャーの影響と言えなくもないですね。
遠いかもしれませんが、恋人の先生みたいな立ち位置の作家なんです。それで、私も「サリンジャーの孫」みたいな感覚は持っています。おじいちゃんですかね(笑)。
サリンジャーの血がつながっているということで、期待しています。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。