登場者プロフィール
望月 良一(もちづき りょういち)
その他 : 有限会社望月洋服店会長経済学部 卒業1958年慶應義塾大学経済学部卒業。三田通りで長年慶應の学生服等を扱う望月洋服店を経営。2001~2006年まで三田商店街振興組合理事長を務める。
望月 良一(もちづき りょういち)
その他 : 有限会社望月洋服店会長経済学部 卒業1958年慶應義塾大学経済学部卒業。三田通りで長年慶應の学生服等を扱う望月洋服店を経営。2001~2006年まで三田商店街振興組合理事長を務める。
近藤 正人(こんどう まさと)
その他 : 株式会社テレビ東京常務取締役(スポーツ局、五輪・技術基盤担当)文学部 卒業1980年慶應義塾大学文学部卒業。同年、東京12チャンネル最後の新入社員として同社に入社。
近藤 正人(こんどう まさと)
その他 : 株式会社テレビ東京常務取締役(スポーツ局、五輪・技術基盤担当)文学部 卒業1980年慶應義塾大学文学部卒業。同年、東京12チャンネル最後の新入社員として同社に入社。
前田 伸(まえだ しん)
その他 : 株式会社東京タワー代表取締役社長法学部 卒業1987年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。銀行勤務を経て、2005年日本電波塔株式会社(現東京タワー)代表取締役社長に就任。株式会社マザー牧場代表取締役社長。
前田 伸(まえだ しん)
その他 : 株式会社東京タワー代表取締役社長法学部 卒業1987年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。銀行勤務を経て、2005年日本電波塔株式会社(現東京タワー)代表取締役社長に就任。株式会社マザー牧場代表取締役社長。
2019/04/25
五重塔から東京タワーへ
東京タワーは昨年末に「還暦」を迎えたのですが、東京タワーがなぜ建ったのかと言えば、電波塔が必要になったからなのですね。昭和28(1953)年にNHK、日本放送がテレビ放送をスタートさせ、その2年後にTBSも開局します。その後も次々とテレビ局の開局が控えている中、首都圏の平野の中心部にどうしても電波塔を早くつくらなければということでした。
複数の候補地があったようですね。
上野公園、芝公園、それから私の両親(前田久吉夫妻)から聞くところでは、今のニューオータニの場所も候補地だったようです。
今、東京タワーが立っている場所は紅葉山(もみじやま)と言われていて、戦前、紅葉館(こうようかん)という社交場がありました。明治29(1896)年に福澤先生が「気品の泉源、智徳の模範」で有名な「慶應義塾の目的」という演説を行ったところです。そこが空襲で焼失し、戦後その土地が空いていたのです。
隣地の増上寺も、戦災でほとんど焼失してしまって、梵鐘と日比谷通り沿いの、今、国宝になっている門くらいしか残っていなかった。相当の復興資金が必要ということで、紅葉館のあった土地と増上寺さんの敷地の一部を久吉が購入させていただいたのです。
最近、増上寺さんの大僧正と、今、檀家総代である徳川ご本家の方、お二人からもともと増上寺にも五重塔があって、それが赤く輝いていたと言われました。
それは面白いですね。
昔、東海道を上ってくると、最後の品川宿から江戸城への中間地点が徳川家の菩提寺、増上寺で、そこの五重塔はランドマークでもあったそうです。それも戦災で失われた。
そう考えてみると、東京タワーって、五重塔のようなものなのかなと思いましてね。大僧正と徳川さんから、「大事にしてくれよ」と言われました(笑)。
偶然か必然か分かりませんが、現在の場所にタワーが建つことになったのですね。
私は中学校が正則中学という芝公園の奥にあるところで、そこまで三田から通っていたんです。ですから、毎日のようにあのあたりの小山の道を歩いて帰ってきていたんです。当時は、このあたりに将来そういうものが建つということも全然知らなかったですし、あそこは人がめったに通らない場所で、通るのは学生ぐらいでした。
中学2年のときだったか、大きな財布があのあたりに落ちていましてね。友達と3人で「これはすごいな」と話していたら、おじいさんが来て、「ああ、俺のだ、俺のだ」と言って持っていっちゃった(笑)。あそこらへんは林というか小山でしたね。
東京タワーの隣地の六本木寄りで、海軍の水交社(すいこうしゃ)があったところは今、東京メソニックビルが建っていますが、そのあたりが一番小山の高いところです。
昭和32年頃に東京タワーの工事を始めたときも鬱蒼とした小山だったと言われていますね。
望月さんは東京タワーがだんだん建っていったときは、どのように感じられていましたか。
東京タワーが建ったのが、私がちょうど大学卒業の年ですが、最初は一体何ができるのだろうと思っていました。皆が、「タワーができる、できる」と言うのですが、3分の1ぐらいできたところで、しばらく、上の部分ができなかったんです。
高い塔ができて「地震でも来たら危ないな」とか、「台風も怖いな」、と不安な気持ちが先立っていました(笑)。でも、実際にできてみると、そんなことは全く忘れてしまって、「すごいな」という印象しかなかったですね。すぐにでも行ってみようと思って行くと、人、人、人でびっくりしました。
完成直後は大行列でしたから。
人が多くて。ぐるぐるぐるぐる切符を買う人が並んでいて。バスプールには、はとバスがたくさん止まって次から次へバスが来て、4、50人の団体客がいっせいに降りてくる。皆で「またにしよう」と言って帰りました。実際に昇ったのは2、3年後でしたね。
それまでは昇らなかったんですね。
そうなんです。私の弟はごく最近まで昇ったことなかったと言っていました。何か見慣れてしまっているんですね(笑)。
印象的だったのは、鹿児島から三田にお嫁さんに来た人がいるのですが、お母さんの具合が悪いというので、しばらく帰ってこなかった。その人がお母さんが亡くなられて戻ってきて、東京タワーを見たときには涙が出たと言っていました。やっと東京に来られたというのでね。
東京タワーを見て感激する人というのは多いんですね。
東京タワーに1番近い会社
僕は、生まれたのが東京タワーの約1年前ですから、だいたい同い年なんですね。
中等部に入学した頃、綱町パークマンションという、日本の億ションのはしりがちょうど建設を始めるぐらいのときでした。その頃は中等部の屋上から東京タワーがはっきりと見えて、「近いなあ」といつも感じていました。
ところが、東京タワーに最も近い会社に就職することになりまして(笑)。私は「東京12チャンネル」時代の最後の新入社員なんです(81年テレビ東京に社名変更)。入社当時の社屋は芝公園4丁目という住所でしたが、前田さんのところにお借りしていた形になるんですよね。
はい。完全に1棟をお貸ししていましたね。古い設計図を見ても、日本教育放送の本社屋と、創設のときの名前で敷地内に建設されています。
これは全くの噂かもしれませんが、当時、東京オリンピックを控えて、ホテルにすることも考えられていたとお聞きしたことがあるんです。それが途中でテレビ局になったと。
きちんと聞いたことはないのですが、建物の設計図にホテルという名前が残っているものもありますね。
私が入社したのは1980年ですが、当時、朝に子供向けの生放送で「おはようスタジオ」という番組をやっていまして、このオープニングが必ず外で始まるんです。いつもタワーからカメラを撮り下ろすと司会者がいるという絵なので、東京12チャンネルは、東京タワーの中にあるんだと思っていた人もいたようです。
80年というのは、春に東京タワーの敷地内にシネマ・プラセットという仮設のテントの映画館ができて、ここで鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』が上映されたんですね。これが大ブームで、タワーの駐車場に長い列ができていたのを記憶しています。
東京12チャンネルに小倉智昭さんがいらした時代ですよね。朝の番組か何かをやっていらした。
小倉智昭さんはちょうど僕と入れ替わりなんで、社員としてはかぶっていないんですね。
地方での人気
私、まだ上の展望台(トップデッキ、250メートル)へ行ったことがないんですよ。なんとなく怖くて。耳が悪いものですから、ああいう高いところへエレベーターで速く行くのは良くないらしくて。
うちのはゆっくり行きますから大丈夫です(笑)。
そうでしたね。できた当時のことですが、三田の商店会の旅行でいろいろなところに行くと、仲居さんが、「東京はどちらですか」「港区の三田だよ」と言っても分からない。慶應義塾大学があると言っても、知らない(笑)。それが、「東京タワーの麓です」と言うと、皆、「すごい、いいところに住んでいるんですね」と話が盛り上がるんです。
どこに行っても話題になるものができるということは、すごいことだなと。地方の人も皆、東京タワーは知っているわけですから。
東京タワーができたことによって、三田通りは何か変わりましたか?
話題は多くなりました。うちは制服をやっているので、幼稚舎のお子さんなんかがみえると、帰りは必ずと言っていいぐらい東京タワーに寄る。ただ、そこに行くのに便がちょっと悪いわけです。歩いていくか、タクシーで行くしかない。だいたいお客様はタクシーで行っちゃいますけどね。
ただ、三田通りは昔から人も車も渋滞がひどく、都電が通っていた頃には、商店会で会合をしても、夜は通りが暗いし騒音がすごい。私なども散歩するのに三田通りは通らず、一本裏の通りを通っていました。
それに国道だから商店会の旗を立ててはいけないとか、規制が多かった。照明にもいろいろな規制があって、思うようにいかなかったですね。
タワーって不思議なもので、普通の建造物ですと、訪れるのは近い方が多くて、遠くから来られる方は減るものですが、タワーの場合、遠くの方が多くて近くの方が意外と訪れていない。
パリのエッフェル塔も9割が国外のお客様ですからね。国内の方はあまり訪れない、不思議な存在です。今の時代は地球の裏側の人が平気で行き来しますから、なおさらです。
私はいとこ会というのをやっていて、毎年、10人ぐらいで全国ほうぼうから集まっているんです。昨年が東京の幹事で、皆にどういうところに行きたいかと聞いたら、全員が「東京タワーに行きたい」と言うんです。
嬉しいですね。
やはり地方ではそういった人気があるんですね。東京の人は毎日見ていると、「いつでも行けるや」という気がありますが、たまに東京に行くならタワーに行きたいという声が多い。皇居とかではないんですね。
怖かった研修
われわれ、新入社員の研修で、テレビ電波がどこから出ているかを学ぶために、タワーの展望台の上にある、普通の方が行けない電波の発信機が付いているところに行かされるのです。そこは下が簀(す)の子のようになっていて、本当に一歩も動けないような恐ろしいところでした。
上の展望台から昇って外のむき出しの部分に、保守のために梯子みたいなものが付いていまして、そこを昇っていくわけです。
梯子を昇って行かれました?上部の展望台より上は260メートルぐらいまでは階段で行けるんです。そこから上は梯子です。
じゃあ階段だったかな。あまりにも恐ろしくて。ちょっと高所恐怖症気味なところがありますので(笑)。
テレビ局の方は皆、そうおっしゃいます。
エンジニアの方から、「ここからうちの電波が出ているんだよ」と、誇らしげに説明していただきましたが、もう怖くて怖くて。風を感じながら東京の景色を見られるというのはあまり経験できないことでした。
テレビ局の方に印象悪いんですよ。フジテレビの日枝相談役が「俺、1期入社だけど、新入社員のときに東京タワーに昇って怖かったなあ」と、いまだに言われているそうです。
260メートルまで階段を昇り切ると、タラップといわれる梯子でさらに上まで行けるんです。私も行きましたが、280〜290メートル地点まで行くことができます。そこから上はさらに細くなっていてアンテナメーカーの方しか行けません。もうタラップのところから命綱を付けます。
タワーの中に送信所という電波を発する最後のところがありまして、そこはわざとセキュリティのために分かりにくいことになっていた。これはNHKも含めて各局がそうですよね。
ビル内の送信所ですね。これはビルの5階にありました。
そこも見学させていただいた。まさに当時は日本電波塔でしたから。
それが主目的でしたからね。
ライトアップの変遷
大晦日に大展望台に次の年が電光表示されるようになったのはいつ頃からでしたか。
2000年からじゃないでしょうか。
そうですか。以前は大晦日は必ず各局が生放送をやっていて、うちも歌番組で「年忘れにっぽんの歌」といった類のものをやっていました。局に帰ってきてようやく一息ついてタワーを見上げると新しい年号が出ている。まさにタワーの麓という感じでした。
あと、入ってしばらくはテレビの現場の仕事がきつくて、ちょっとつらい気持ちになったときなどは、タワーの中の水族館でしばらく魚を見て、「よし、もう1回頑張ろう」みたいなことがありました(笑)。
もう1つ、テレビ関連で申し上げると、これはフジテレビなどが多かったのですが、東京タワーをバックにしたラブシーンとか、重要なシーンがよく撮られていましたね。特に「東京ラブストーリー」あたりはたくさん出てきました。当時、われわれも番組をつくっていて、どこから撮ると1番タワーがきれいに映るかなんて皆で言い合っていました。
どこがよいのですか?
街のシーンで言うと、三田通りにある国際ビルの前のあたりは、歩道も広くて許可も取りやすい。あそこはドラマに何回出てきたか分からないぐらいの名所だと思います。
もう1つは芝公園で、真っ直ぐ歩いているとパッとタワーが出てくるところが何カ所かあります。80年代のトレンディドラマのあたりから使われました。
ライトアップもその頃から石井幹子さんの照明に変わって、大変きれいになりまして、夜のシーンにタワーが欠かせなくなってきましたね。
そうですね。ちょうど平成になった年の初めに切り替わりました。
トレンディドラマ全盛時代の頃に、ちょうどきれいになったんですね。
内照式というものになったんです。それまでは電球がぽつぽつとシルエットに合わせて点(つ)いていたんです。
内照式というのは要するに間接照明ですね。直接の光ではなくて、各所からトラスという塔体の鉄骨をサーチライトで中から照らすんです。
東京タワー50周年の2008年からは、「ダイヤモンドヴェール」と言われるもう1つの装置を設置しました。東京タワーの四面に300個ぐらい電球を付けて、それが1個ずつ光る形にしました。
今も特別な時はこれをやっています。先日も、侍ジャパンの試合の前にはブルーにしたり、大坂なおみさんが全豪で勝ったときは「日の丸」を表現していました。
昨年末の60周年のときに「何で今日、赤いんだろう?」と皆で言っていたら、「還暦だよ」と言う人がいたのですが、合っていますか?
合っています(笑)。
やはりそうでしたか。他にも乳がん啓発のピンクリボンとか、いろいろな表現をされていますね。
昔は9時か10時にポンと消えていましたが。
昭和の時代は9時ぐらいに消えていました。今は基本は12時に消えるのですが、たまたま今、塔体塗装と言われる鉄塔の塗装の塗り替えをやっていて、作業が深夜から明け方まで行われるものですから、実は朝まで点いているのです。
実にいろいろな表現がライトアップでできるようになってきましたね。
照明も文化や芸術の世界になってきていますね。微妙な色も組み合わせで出すことができるんです。
ボウリングブームの頃
東京タワーが還暦ということですが、うちの会社は4月で55周年になります。85年に本社を神谷町に移したのですが(現在の本社は六本木)、そのあとも、前田さんのところにお願いしてスタジオをそのまま使わせていただきました。
子会社も入っていましたので、私も再び芝公園の方に出向したこともあります。今はなくなってしまいましたが、坂を下りたところの東京タワーボウルというボウリング場でランチボウルなんていうのもやりました。
ボウリングゲーム付きのランチですね(笑)。
これも80年代初頭の思い出です。今は「とうふ屋うかい」という高級料理屋になっていますけれど。
昭和40年代、かなり早くにできたのが東京タワーボウルと隣のプリンスホテルの芝ボウルですね。当時、当社の社員だった中山律子さんがボウリングで旋風を巻き起こしました。東京タワーの展望台までの階段を昇り降りしてトレーニングしたと言われています。
各局ゴールデンタイムがボウリングばかりだったという大変なボウリングブームの時代でしたね。ちょうど僕が中等部に行っているころです。三田ボウルとかも女子高の奥にあったんです。
あんなところにあったんですか。
学校から看板のピンが見えましたから。みんなで「行こうか」「ここだと先生にバレるかな」というような感じで行っていました。
今は田町ハイレーンもなくなってしまいましたね。三田の近辺ですと、東京ポートボウルというのだけ残っていますよ。
当時は娯楽が少なかったのか、とんでもないブームになったようですね。
タワーボウルもいろいろ番組の収録などでお世話になりました。わが社は結構ボウリングの番組をやっていて、「スターボウリング」という、非常にレトロなものが一番最後まで残っていたんじゃないかな。
蠟人形館の想い出
東京タワーの中のアミューズメント施設は歴史から言いますと、開業当初は、当時の松下電器さんが最新の家電の展示に利用されたりしていました。
その後、アミューズメントでは、東京タワー蠟人形館ですね。1960年代からありました。
あれは有名ですね。
実はあれは藤田田さんという日本マクドナルドの創業者がつくられたのです。藤田さんは日本マクドナルド銀座1号店を1970年に出されたのですが、その少し前に蠟人形館を先につくっているのです。
アメリカで蠟人形館を見たことからおつくりになられたそうですが、亡くなられた後も息子さんの時代、2013年までありました。 その場所は今はアニメの「東京ワンピースタワー」という、ワンピースのテーマパークに変わっています。
水族館はいつできたんですか。
おそらく1970年代だと思います(1978年オープン)。昨年までありました。そこもテナント様だったのですが、大型の水族館に押されてしまいましてね。
今の水族館というのは、天井も高かったり、立体展示なんですが、東京タワーはビルが古いのでそれができない。なかなかマニアックな魚がいて喜ばれていたのですが。
私は蠟人形館はちらっと見たぐらいです。あまり実物と近いと、ちょっとギョッとするところがありますね。でも、一番怖かったのは大展望台の床です。
ガラスウィンドウというガラスの床で下が見えるやつですね。
最初に行ったとき、見てぞっとしましたけど、子供たちがあの上を跳び跳ねているんですよ。エッと思った(笑)。あれは何でできているんですか。
強化ガラスで、ときどき取り替えています。
それじゃあ、トンカチで割ろうと思えば割れるわけですか。
いや、絶対に割れない。今まで落ちた人はいません(笑)。あれも途中からできたもので、今はかなり面積が広くなっているんです。実は今、増設しています。
ガラスウィンドウは外国の方にも人気ですが、海外の方でも子供たちは平気ですけど、ご年配の方は怖いようですから、これは万国共通で、望月さんだけではありません(笑)。だんだん大人になるほど怖くなってくる。
当時のことをいろいろ思い出してきたのですが、お土産物店にレトロなものが多くて、意外に楽しかったですね。東京の名所の絵と「思い出」とか「根性」と書いた盾みたいなものを売っていて。だいぶお土産店も様変わりしたんじゃないでしょうか。
2、3坪でやっていらっしゃるところが主流だったのが、今、弊社も直営でやっていますし、サンリオさんが大規模に店を出されたりしていますが、まだ小さなところも数店舗残っています。
開業当初からいらっしゃる90代のおばあちゃまもご健在です。97歳と93歳かな。
それはすごいですね。
60年間いらっしゃった方なので、今度感謝状を差し上げようということになっています。
今は90代でも元気ですよね。
お元気ですよね。できた当時30代の方が90代です。当時のエレベーターガールが、今、80代なんですよ。OB・OG会を開くと、「当時20歳で入社したわ」みたいな方が80歳でお元気でいらっしゃいます。
333メートルの意味
スカイツリーができた影響などはあるのでしょうか。
世界中の大都市、ニューヨーク、パリも含めて、展望施設はどこも複数あるわけです。パリもエッフェル塔に加えてモンパルナスタワーとか、いくつかある。東京も展望施設はスカイツリーを含めていくつかありますが、東京タワーも50周年を過ぎた頃から文化的な価値というものが出てきたのかもしれないと思っています。登録有形文化財でもあるのですが、「あること」に意味があるというのでしょうか。
もちろんメディアでも非常によく取り上げていただいていますし、SNSはじめ個人発信でも世界中に飛び交っています。東京タワーの力というのは運営しているわれわれだけの力ではなく、何か社会全体、皆さんに支えられ、一定の存在感が出てきているという感じがしています。
2005年に社長になった頃は、「新しいタワーができたら、東京タワーは解体するの?」なんて新聞記者に言われたこともありましたが、「ちゃんとやっていきますから」と答えていました。
われわれの仲間に聞いてみると、比較するわけじゃないけど、東京タワーには昇りたいけど、スカイツリーは別に行きたくないと言う人が結構多いですね。あれはどうしてなのかなと思うのですが、私なんかも1回も行ったことないです。ただ高いだけという感じがするんですよね。
展望台は、東京タワーは150メートル、250メートル。スカイツリーは350メートル、450メートル。ビルですと、横浜のランドマークタワーや大阪のあべのハルカスが300メートル地点ぐらいにあります。
ですから、それらよりうちの展望台は低い。しかし、立地の良さもあり、都心部の景観が眺められるということもあって、東京タワーに来るという意味づけ、何か歴史がある建物の展望台に行くというワクワク感を持っていただいているのかなと思います。
なぜ333メートルという高さなのかということが、このあいだ話題になったんです。昭和33(1958)年にできたからだとずっと思っていたのですけど、そうじゃないんですか。
いくつかの説があるようです。当時でも500メートル構想というものがあったようですが、技術的にこの高さが限度だったようですね。
必要があってあの高さになったというわけではないんですね。
だいたいこれぐらいの高さということで、ひょっとすると語呂を合わせたのかもしれませんね。333メートルというのはおよそ1000フィートですからね。
当時の世界一の塔を目指すという意図はなかったのですか。
どうせつくるならエッフェル塔をしのごうという気持ちはあったんじゃないでしょうか。エッフェル塔は1889年の建設当初は317メートルで、当然テレビ放送などもなかったんですが、その後テレビ放送用のアンテナを取り付けるために1950年代に324メートルまで上伸されたようです。東京タワーは結果的にはそれより少し高くなっていますから。
父からはもっと高いものがつくりたかったとは聞いていますが、あの当時の技術ではできませんと言われたと。「日本の構造設計の父」と言われる内藤多仲(ないとうたちゅう)博士という、構造の専門の耐震設計の概念を入れた先生をもってこの高さにされたということは意味があるのだと思います。
「赤と白」の美
電波塔としての機能は、2011年にスカイツリーのほうに移ったわけですが、平成から始められたライトアップされたタワーの素晴らしさというのは、東京の夜にはもう欠かせないものになっていますね。そういう意味では、スカイツリーとの比較はあまりわれわれはしないし、東京タワーというのは唯一のものと思います。
三田通りからのタワーも素晴らしいし、酔っぱらってふっと出てきた六本木で、飯倉方面に行こうというときの姿もいい(笑)。
三田通りにとっても東京タワーはもう欠かせないですね。形もそうですが、石井幹子先生がデザインなさった照明によってやはりすごく変わりましたよね。
三田通りの照明についても、前田さんから紹介をいただいて石井先生に講演をお願いしたのですが、石井先生は照明の感じ方によって人の心理が大きく変わるような話もなさっていました。
一方、昼間の赤がまた青空にすごく映える。スカイツリーなんか真っ白じゃないですか。あの色はどこからきたのですか。
あれは全くの偶然で、大展望台から上は赤・白の7等分なのですが、これはある一定の高さ以上の建造物は航空障害の色にしなさいという法律があって、当時は赤白にするのが決まりだったのです。
昔の工場地帯の写真を見ると、煙突がみんな赤白です。ところが、途中で高輝度の航空障害灯といわれる電灯を一番上に立てれば、高い構築物でも色は自由ということになりました。それでスカイツリーもそれを付けることによって赤白でなくても大丈夫になったのです。
そうなのですね。
その後、塗料の性能が上がって非常に美しい色にできるようになりましたね。また大展望台から下は色は自由なのですが、上部と同じ赤、正確に言うとインターナショナルオレンジという色を60年間、ずっと守り続けたので、それが1つのアイデンティティとして街に馴染んだということだと思います。
だから偶然からなんですが、頑固にフラッシュライトにしないで、あの色を保ったというのが今のアイデンティティになっていると思います。
東京タワーが見える場所
昔、慶應の図書館のトイレの窓から東京タワーと、当時のうちの社屋が見えたのですが、今はたぶん見えないと思うんです。
途中にビルが多く建ってしまいましたからね。
東京タワーの展望台から三田キャンパスを見ても、だんだん見えにくくなってきましたね。
私の中等部の同期のコラムニスト泉麻人君がある日、中等部を使って撮影している古い日活映画(『青春前期 青い果実』、1965年)を発見しましてね。梶芽衣子さんがまだ太田雅子という名前の頃の映画なんです。屋上でいろいろなシーンを撮っているんですが、そこにはまるで隣りにあるみたいに東京タワーが出てくるんですね。
綱町パークマンションもありませんし、タワーができて、割とすぐの映画じゃないかと思います。
病院でも、長い間入院している人が、タワーが見えるのでいいなと思っていたら、隣りにビルが建ってしまって全然見えなくなってショックを受けてしまうということもあるようですね。
まわりは病院が多いんですね。済生会とか、慈恵医大とか、最近は山王病院系もありますし、虎の門病院からも見えます。リリー・フランキーの小説『東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン』で、オカンが最後に入院していた病室の窓から東京タワーが見えた、という印象的なシーンがありますね。
阿久悠さんも最後に慈恵医大に入院されていたみたいで、週刊誌に人がぞろぞろ東京タワーに行くけどそんなにいいのか、みたいなことを書いていらしたのですが、後で調べたら「大好き東京タワー」という歌も作詞されていたみたいです。
ですから面白いですね。批判しているのかと思ったら大好きだみたいな。不思議なタワーだと感じます。
三田通りと東京タワー
私は東京タワーに一番近い会社に入社した者として、下からタワーを見上げる景色を毎日見ておりましたが、ちょっと離れた今もなお、いつでもタワーを探してしまうような感じが続いています。
構造物として60年を超えましたが、われわれのミッションは100年を超えていけるような整備・管理をしていくことです。今、大展望台の窓枠、サッシを全部取り替えていて、今年の夏に完成する予定です。
インターナショナルな観光の場になってきていますので、単に景色を見下ろすところではなく、東京タワーに来ていただくことに価値がある、そして東京の街を実感していただくような、何か人生の一場面の記憶にとどめていただけるようなご利用の仕方のサポートをしっかりさせていただきたい。社会的、文化的な機能として、経済的にもインフラとして存続できるように運営したいと思っています。
エッフェル塔のようにどんどん文化的な価値が高まっていきますね。
エッフェル塔は今年130年を迎えるそうですが、もう、フランスというより世界的な1つの文化の拠点みたいになっている。エッフェル塔は明治20年代にできているのに、塔体のアーチのところにわざわざデザイン性のある飾りを付けていたり、すごいなと思います。
三田商店会としてこれから発展していくには、どうしてもタワーさんの力をお借りしなければできません。
三田通りのカーニバルのときは歩行者天国になるのですが、車道の真ん中から真っ直ぐにタワーがよく見えるんですよね。毎年それを楽しみにしている人もいます。三田の通りが東京タワーを眺めるのに位置的にも非常にいいと思いますので、ぜひご協力をお願いしたいと思っております。
いや、こちらこそ三田通りの一番端に置いておいてください(笑)。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。