登場者プロフィール
北里 一郎(きたさと いちろう)
その他 : 学校法人北里研究所顧問理工学部 卒業2018年11月まで慶應義塾理事。1955年慶應義塾大学工学部卒業。慶應義塾高等学校2期生で浅利慶太氏の1期上。高等学校時代は文連・化学研究会に所属。
北里 一郎(きたさと いちろう)
その他 : 学校法人北里研究所顧問理工学部 卒業2018年11月まで慶應義塾理事。1955年慶應義塾大学工学部卒業。慶應義塾高等学校2期生で浅利慶太氏の1期上。高等学校時代は文連・化学研究会に所属。
吉田 智誉樹(よしだ ちよき)
その他 : 劇団四季(四季株式会社)代表取締役社長文学部 卒業1987年慶應義塾大学文学部卒業。同年四季株式会社に入社。2008年取締役広報宣伝担当を経て2014年から現職。
吉田 智誉樹(よしだ ちよき)
その他 : 劇団四季(四季株式会社)代表取締役社長文学部 卒業1987年慶應義塾大学文学部卒業。同年四季株式会社に入社。2008年取締役広報宣伝担当を経て2014年から現職。
岡本 英敏(おかもと ひでとし)
一貫教育校 湘南藤沢中・高等部教諭その他 : 文芸評論家文学部 卒業1990年慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾高校教諭を経て2002年より現職。2010年「三田文学」新人賞受賞。著書に『福田恆存』他。
岡本 英敏(おかもと ひでとし)
一貫教育校 湘南藤沢中・高等部教諭その他 : 文芸評論家文学部 卒業1990年慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾高校教諭を経て2002年より現職。2010年「三田文学」新人賞受賞。著書に『福田恆存』他。
2018/12/17
草創期の慶應義塾高校から
慶應義塾高校ができたばかりの頃、北里さんが2期生、浅利さんが3期生となるわけですね。
ともかく戦後の混乱期で、昭和23年に高校ができたときは日吉が米軍に全て接収されていました。それで、三田近くの三の橋にあった中央労働学園を借りて授業をやったんですね。しかも校舎が足りなくて2部授業でした。昭和24年になって、日吉が返還され、ようやく学生も協力して教室として使えるようになったのです。
当時、高校3年生は人数が少なかった。それで、学校のほうも、ともかく僕ら2年生に「君たち自身で文化団体連盟(文連)と体育会をつくれ」と言う。そして、「10人集まったら、学校は金を出す」ということで任されたのですね。それでよし、やってやろうじゃないかと、みんな燃えたのです。
私は化学研究会をつくろうと考えたんですが、友達はフェンシング部やら歌舞伎研究会をつくろうとした。そして、10人集めるというのはそう簡単ではないので、お互いに入り合ったんです。ですから、ともかく高校の2年のときは目茶苦茶忙しかった(笑)。
それで浅利慶太君が1年にいまして、彼が1番燃えていたんですね。私は2年だったので、そういう積極的なのを文化団体連盟に引っ張ってきて、「浅利、頑張れよ」というような話で親しくなったんです。
もともと浅利さんは、慶應義塾高校に入った当初は、野球部で甲子園を目指そうとしていたと聞いたことがあるのですが。
中学のときは野球だったみたいですね。だけど、高校ではもうやっていませんでした。
ところが、作曲家の林光さん(故人)とか、日本フィルなどで主席フルート奏者を務める峰岸壮一さんらに誘われて、演劇部に入ったとのことですね。日下武史さん(劇団四季俳優、故人)も含めて彼らは皆、慶應普通部の演劇部だった。
彼らは皆、私と同期ですが、なぜか私が非常に親しい友達は文系に多かったんですね。林光君は東横線の都立大学に住んでいまして、親父(林義雄氏)が慶應の医学部の教授だったこともあり、よく訪ねました。
そうです。すごい大金持ちで。
彼のところに行きますと、ピアノを弾いてくれるんですよ。贅沢な話ですよね。林光君のピアノを聞いて、おやつを食べて話をして。
日下武史君は、クラスが一緒だったんです。彼とも話が合いました。彼は横須賀に住んでいて、1人でいるときがあるんで、「1人で寂しいときは行ってやるよ」なんて言ったら、ある日、「来てくれよ」と言う。それで、横須賀に行くとうれしそうな顔をして、いろいろな雑談をして、仲が良かったんですね。
林光君とも非常に話が合いました。それから、峰岸君は幼稚舎の同級生で同じクラスだった。文系で優れたやつが多かったんですね。
後に英文科の教授になった安東伸介君は幼稚舎でクラスは違ったんですが、目茶苦茶優秀だった。幼稚舎の集団疎開は修善寺だったんですが、我々6年生が卒業で東京へ戻るときに、お世話になったお礼に、地元の下狩野小学校で『修善寺物語』をやることを安東君が考えたんですね。安東君が上手くリードして立派な劇になって、大変喜ばれました。
加藤道夫との出会い
安東先生には、『オペラ座の怪人』の初演のときに台本の翻訳をお手伝いいただきました。劇団四季の仕事の上でも、浅利さんは安東先生をずいぶん頼りにしていたと思います。
高校では首席でいらしたそうですね。「主席が文学部に行くケースは、安東が初めてなんだ」と、よく浅利さんが言っていました。
安東伸介さんや演劇部を中心に文連にいた方々が、当時、慶應義塾高校の英語の教師として赴任していた新進の劇作家・加藤道夫に影響を受けたわけですね。
私は加藤先生をあまり知らないんですね。もちろん授業は受けていましたが、個人的にお話しする機会はありませんでした。だけど、後から浅利君と話したときには、よく加藤先生の話は出てきていました。
浅利さんなどは、しょっちゅうお宅に伺っていたようです。慶應義塾高校の英語の教員が『なよたけ』を書いた加藤先生で、その人に教わるというので、安東さんや浅利さんはすごく興奮したとおっしゃっています。やはりそこが原点だと思うんですね。
加藤道夫の代表作というのは、世間的にはたぶん『なよたけ』だったと思いますが、浅利さんはどのように考えておられたのでしょうか。
『なよたけ』は、浅利さんもご自身で1度演出をされています。
しかし、上演は1970年の1度だけでした。日生劇場で開幕し、その後、全国を巡演しています。
後に四季に自由劇場ができて、ストレートプレイを積極的に取り上げることが検討された時、毎回、『なよたけ』は候補に挙がるのですが、我々が推しても、浅利さんは「この作品は上演が難しい」と言って、首肯することはありませんでしたね。
浅利さんは「難曲中の難曲」と表現されていますよね。例えば場面の転換がすごく頻繁で、かなり難しいということですね。
私も、いずれ自由劇場かどこかで見られるのかなと楽しみにしていたんですけれども、結局浅利さんが演出を手掛けた『なよたけ』を見ぬままに終わってしまったのが、ちょっと残念でした。
加藤道夫の姪御さんに芥川賞作家の加藤幸子さんがいらっしゃいます。私が『三田文学』で加藤道夫の『挿話(エピソード)』という作品を評価しましたところ、加藤幸子さんも「同感だ」とおっしゃられた。
『なよたけ』以外では、加藤道夫の作品では、劇団四季でもよく演じられている『思い出を売る男』がありますね。とにかくああいう魂の純潔というところが加藤道夫の世界なのかなと思うんです。
35歳で、ちょうど劇団四季が立ち上がったときに加藤道夫は自から命を絶たれる。1953年ですね。
そうです。四季創立の直前ですね。
遺作が『襤褸と宝石』ですね。私は『思い出を売る男』は大好きなのですが、見れば見るほど、やはり、加藤道夫は命を縮めざるを得なかったのかなという思いがします。人間というのは結局、もう少し世の中の俗なるものを引き受けて生きなければならないのかなと思うんです。
アヌイ、ジロドゥからのスタート
私が四季に入った頃、当時の新入社員は毎月1度、浅利さん宛に、仕事で学んだことを作文に書いて提出する課題がありました。
あるとき仕事に行き詰って、「自分は四季に向いていないのではないか」というようなことを書いて提出したら、それを読んだ浅利さんが私のところまで来て、ご自身の書いた「加藤道夫の神話」というエッセーを手渡してくださった。
そこには、岡本さんがおっしゃるように、加藤道夫さんはあまりに純粋過ぎたと書いている。芝居というのは、世の中の汚いところとか人間の業とかを肥料にして花咲く芸術ですが、加藤さんにはそれが耐えられなかったのではないかと。
経営の仕事は俗事や屈辱に塗(まみ)れていますから、この文章には非常に勇気づけられました。また四季で働こうという気持ちになりましたね。
吉田さんが四季に入られて、浅利さんと接する中でも、加藤道夫の話は時々されたんですか。
浅利さんから何度も、アヌイ、ジロドゥの魅力を教えてくれたのは、加藤さんだったと聞きました。やはり、相当影響を受けたのではないでしょうか。加藤さんがその2人の作家を語るときに、フランス語独特の響きで「ジロドゥ」と夢見るような目で語ってくださった、その風景が忘れられないと、よくおっしゃっていましたね。
劇団四季が立ち上がったのが1953年で、翌年に第1回公演が行われるわけですが、それがアヌイの『アルデールまたは聖女』。そして同じくアヌイの『アンチゴーヌ』、それからジロドゥの『間奏曲』で始まっている。これはやはり加藤道夫の影響でしょうね。
間違いないと思います。アヌイ、ジロドゥに関して言えば、四季よりも前に、文学座が何回か上演しています。加藤さんも当時、文学座にいらっしゃったんですよね。
そうですね。確か劇団四季は、創立当初「アヌイ、ジロドゥ劇団」なんていうふうに呼ばれていたのでは? その言い方にはちょっと悪意がこもっているのかもしれませんが。
アヌイ、ジロドゥを専らに上演していたのは四季だけでしたから、そのように呼ばれていたのだと思います。日本演劇史を見ても、当時は政治的な主張を伴った作品を上演する劇団が多かった。浅利さんはいつも、「演劇は詩と幻想の芸術で、イデオロギーを伝えるものではない。その本質を体現しているのが、アヌイ、ジロドゥだ」と言っていましたね。
芸術家であり経営者
私は1987年に慶應を卒業し、そのまま四季に入団、その後浅利さんが退団されるまで一緒に仕事をさせていただきました。広報担当が長かったので、浅利さんの「思想」を直接伺うことが、業務上も多かったと思います。
一言では語れない人です。演劇好きな芸術家、演出家としての浅利さんと、それを怜悧な目で見ている経営者の浅利さんが、同じ人の中に2人いたような気がしますね。
1つの案件を、芸術家の立場で熱く語られた後に、今度は経営者の視点で、今、ご自身が語ったことを全く別の角度から反論されるということがよくありました。我々もその都度頭を切り替えなければならず、大変でした(笑)。演劇は必ず観客を必要とする芸術ですから、この「2つの視点で見る」経験は、とても勉強になりました。
私も浅利さんには演出家としての優れた才能と同時に、非凡な経営者としての才を感じていました。
北里さんは、明治製菓の社長、会長もお務めになった経営者であられたわけですが、浅利さんの経営者としての側面は、どのようにご覧になっていましたか。
やはり、自然に経営者と演出家の両面を備えたところが彼の強みだと思いますね。
そして、彼は人の話を聞いて、それを必ず自分の参考にするというところがありましたね。
中曽根康弘元首相や財界の方と親しかったり、世間からはいわゆる政商と揶揄されたこともあるんですが、「芸術のために政商と言われるなら、それは本望だ」などともおっしゃられていた。演出家としても、経営者としても一流だったと思うんですね。
浅利さんは、いろいろな意味で演劇界に新風を巻き起こしたと思うんです。その中で1つの柱だと私が思っているのは、それまでは劇団員というのは貧乏が当たり前だと思われていたのが、「それはおかしいだろう」と指摘したこと。
確か、浅利さんの理想は、「あなたはどこで働いているんですか?」と聞かれて、「私は劇場で働いている」と堂々と言えるような日本の演劇界にしたいということでしたね。
おっしゃるとおりですね。
劇団四季、3つの理念
それは、劇団四季創立当初からの考えだったのか、あるいはあるときから、演劇だけで食べていくのが理想だと考えるようになったのでしょうか?
創立当時、劇団の名前を決める際に浅利さんたちは、心酔していたエリオットの詩集に因んで、劇団『荒地(あれち)』にしようとしていたそうです。
それを、先輩の芥川比呂志さんに相談したところ、「お前はいつまでこの劇団を続けるつもりなんだ」と聞かれ、「できれば一生やりたい」と答えると、「『荒地』なんていう名前にすると、40になったときに困るぞ」と言われたと(笑)。それで、ポピュラリティのある「四季」を勧められたそうです。
このエピソードからも、浅利さんが昔から、演劇の仕事での自立をお考えになっていたことが分かります。しかし、草創期の四季は経済的に相当苦しかったようです。日下武史さんからも、「1杯のかけそばを分け合った」というようなお話は良く聞いていました。「自立」が実現するまでには長い時間を要したようですが、浅利さんは、常にそれを目指して劇団経営をしていたと思います。
なるほど、そうなのですね。
浅利さんから教えられた理念が3つあります。1つ目が、「演劇の市民社会への復権」です。これは先ほど申し上げたように、創立の頃、政治思想をテーマにした作品が多かった日本演劇界に対するアンチテーゼですね。劇場に来たお客さまがカタルシスを感じるような作品を上演し、市民や社会に愛され、寄り添う演劇を目指そう、という事です。
2つ目は1つ目と表裏の関係ですが、「自分たちの舞台からの収入だけで、経済的に自立する」ということです。現在でも日本では、興行会社を含めて演劇だけで収支を合わせているところは少ない。映画やタレントマネージメントなどの「本業」を持っていたり、放送、広告などの周辺産業との協業を、もう1つの収入源にしているところがほとんどです。四季はここからも自立すべきだ、ということ。
そして3番目が、「文化の一極集中の是正」です。文化、特に劇場芸術は東京に一極集中しがちなので、興行を行う側が努力し、荷物を持って全国を行脚するべきだという考え方ですね。
浅利さんは、演劇界に真の意味でのプロフェッショナリズムを確立しようとしていた。「家が3軒並んでいて、1番右が銀行員の家。真ん中は俳優の家、左側の家が商社マンの家で、みな子供がいたとする。真ん中の俳優の家だけが貧乏で良いのか。子供に罪はない。貧乏のままなら、子供は親の職業を恨んで育つだろう」というたとえ話をよくされていました。
だから、演劇を仕事にしていても、銀行員や商社マンほどではないにせよ、見劣りしない生活ができるレベルの人件費を払わなければいけないし、それが可能な劇団経営が不可欠だと、いつも話しておられました。この言葉は、今でも私の座右の銘です。
ストレートプレイからミュージカルへ
なるほど。また、1964年に、ニッセイ名作劇場、「こどものためのミュージカル・プレイ」以来、子供向けの演劇にもかなり腐心されているような感じでしたね。
そうですね。1963年に日生劇場が開場した時、当時の日本生命の社長の弘世現(ひろせげん)さんから、「戦争で荒廃した子供たちの心に、感動を与える舞台を上演して欲しい」と依頼されて始まったのが「ニッセイ名作劇場」です。東京都内の小学校6年生を無料で日生劇場に招待する、先駆的なメセナ活動でした。
当初、浅利さんはストレートプレイを上演しようとしていたようですが、研究をしているうちに、どうも台詞だけでは子供には難しすぎるようだと分かった。そこで当時、日本に輸入されつつあった「ミュージカル」という形式を取り入れたらどうだろうと思い立たれました。
最初にやったのが『はだかの王様』ですね。
まだ新進気鋭だった寺山修司さんに、台本と歌詞をお願いしました。この作品は今でも度々上演しています。現在は「こころの劇場」というスキームになり、利尻島や石垣島のような離島も含め、日本全国で毎年400公演ぐらい行っています。
ミュージカルをやり始めたきっかけというのは、それですか。
このファミリーミュージカルの創作も1つのきっかけですが、もう1つは越路吹雪さんとのコラボレーションです。
同じ頃、浅利さんは宝塚出身の大スター、越路さんと一緒に仕事をするようになりました。浅利さんが演出した彼女のリサイタルは、チケットの入手が困難な大ヒット企画でした。この仕事の流れの中で、越路さんが主演するブロードウェイミュージカルが上演された。演出を浅利さん、他の役を四季の俳優が固めるという布陣です。この経験が、将来の「劇団四季ミュージカル」の出発点になったのです。
それからストレートプレイよりミュージカルのほうにどんどん行ったという感じでしょうか。
スタートは60年代半ばでしたが、70年代まではストレートプレイの数も多かった。ミュージカルの割合が優勢になったのは、80年代からですね。やはり一番大きかったのは、『キャッツ』だと思います。
『キャッツ』という転機
やはり劇団四季の転機というのは『キャッツ』でしょうか。
そうですね。先ほど申し上げた3つの理念のうち、「舞台からの収入だけで経済的に自立すること」が、ここからは完全にできるようになったと思います。
『キャッツ』は何年でしたか。
83年です。現在の都庁周辺の西新宿の遊休地に、初めて専用劇場を建ててロングランに挑みました。当時、既存の劇場は各興行主に対して月単位で劇場を貸していたので、長期公演が不可能だったためです。それと同時に、横浜のあざみ野に稽古場も建設した。キャッツシアターはテント型の仮設劇場でしたが、恐らく、この両方の実現のために相当な借り入れをしたと思います。
結果、『キャッツ』は大成功した。浅利さんから、「失敗した時のために自分の生命保険を確認した」という逸話を何度も聞いたことがあります。まさに乾坤一擲の大勝負だったと思います。
『キャッツ』も彼が招待してくれました。帰るときに「どうだったか?」というような顔をして、ちょっと話したりしましたね。
私は87年に入団したので、『キャッツ』東京初演の話は、どれも先輩方から聞いたものです。開幕した83年は私が慶應に入学した年で、『キャッツ』のテレビコマーシャルや、日吉に通う東横線の車内広告を見て、すごいプロジェクトが始まるんだなと思っていましたね。
入社した頃は、すでに『キャッツ』が成功し、東京の南新宿で再演が行われていました。
『李香蘭』をめぐって
北里さんも四季のお芝居はずっと見て来られたと思います。
そうですね。例えば『李香蘭』なども「支那の夜」という歌は小さいときに歌っていましたからね。おそらく浅利君もそういう歌をよく知っていたのではないかと思います。
『李香蘭』という芝居は悲劇的なところもかなりあるんですが、彼も昔を思い出しながら、つくっていったのではないかと思いますね。
『李香蘭』は91年初演ですが、私が東京で広報担当をしていた頃で、浅利さんの作品づくりの現場を近くで見ることができました。オリジナル作品を創作するのは本当に大変ですが、全力で取り組まれておられた。中国に行き、旧満州の主な都市を自分で回られ、ホテルに滞在しながら台本を執筆されていました。
浅利さんはいつも、「兵士として徴兵されて戦地に赴いた一兵卒の立場から戦争を見なければいけない」とおっしゃっていました。その人たちがどんなに悲惨な戦争体験をしたかを、我々は絶対忘れてはいけないと。
「一銭五厘」の小さなはがきで召集令状を受け取り、彼らは出征していったわけですが、政府や大本営ではなく、その「一銭五厘」を握りしめた市井の人たちの目で戦争の悲劇を考えなければいけないということですね。
なるほどね。
『李香蘭』を含めて、いわゆる昭和の歴史3部作と言われていますね。
一兵卒の気持ちというと、加藤道夫もニューギニア戦線に送られて相当な苦労をしています。そういう加藤道夫の思いなどと関係しているところもあるのでしょうか。
どうでしょうか。これも浅利さんがいつも仰っていたことですが、自分の少し上の世代が出征して、皆死んでしまった。その人たちのためにも自分たちが努力しなければと。加藤さんは生還されましたが、想像を絶する苦労をされた世代の方だという思いは持っていたと思います。
加藤道夫は1918年生まれですから、15歳ぐらい上ですね。
浅利さんは、岡本さんがお書きになった「三田文学」の加藤道夫論を読んで、「若い研究者で加藤さんをしっかり論じてくれる人が出てきた」とすごく喜んでいましたよ。
有り難うございます。2010年7月に加藤道夫論を書いたのが浅利さんの目に留まって、初めてごあいさつさせていただいたのが、その年の9月の『赤毛のアン』の初日公演でした。お会いする前から大変緊張していました。それ以後は観劇後、ごあいさつさせていただくだけでしたが、その際の物腰の柔らかさが非常に印象に残っています。
浅利さんには、演出家と経営者とが、バランスよく高いレベルでミックスした、本当に稀有な存在だという思いがありましたので、訃報に接したときに、何か1つの大きな時代が終わったなと感じましたね。
「言葉」を大切にする
演出家の仕事の上では、本当に「言葉」を大切にされていましたね。演劇は文学を立体化した芸術だと常におっしゃっていた。戯曲の文学的な感動を、俳優が台詞を明晰に客席に届けることで、正確に伝えなければならないというわけです。
そして、明晰に言葉を届けるための方法をお考えになられた。これが「母音法」、「フレージング法」、「呼吸法」の3つです。四季の俳優たちは、今でもこの3法を徹底的に訓練しています。
どのような方法なのでしょうか。
母音法は、そもそも小澤征爾さんとの雑談の中から生まれたそうです。日本語の音声部分というのは、基本的には母音ですよね。子音は口の形に過ぎない。だから母音をしっかり分離して話せば、言葉が明晰に聞こえる。
小澤征爾さんは浅利さんに、「一音一音が分離しているピアノ演奏は、ピアノコンチェルトでも、オーケストラの音の壁を抜けて、メロディが客席に届く」という話をされた。この言葉が母音法の発案のきっかけになったそうです。音楽がそうなのだから、日本語の発音も、一音一音の母音を等間隔に分離するように話せば明晰に聞こえるだろうと思いついたわけですね。
それは、やはり四季を続ける中でだんだんメソッドとして完成されていったわけですか。
そうですね。今の形になるまでには、いろいろご苦労があったと思います。
フレージング法が確立されたのは、ラシーヌの『アンドロマック』という作品を、平幹二郎さんや市原悦子さんで上演したときです。ラシーヌのフランス語の原文では、「アレクサンドラン」という美しい韻律が用いられ、流麗な台詞が書かれている。これを、どうやって日本語で語るかを考えたわけです。
台本上の日本語の台詞は、句読点によって句切られています。しかしこれを話すとき、意識の中のイメージの切れ目は句読点とは別のところに存在している。このイメージの変化のポイントを見つけて語ることが大事だということです。
このポイントについて浅利さんは、「ポキッと意識が折れるところ」という言い方をしていました。だからフレージング法は、別名「折れ法」とも呼ばれています。
とにかく言葉を大切にしていましたね。だから俳優たちには、その言葉が持っているイメージを、豊かに語ることを求めていました。
言葉のイメージの豊かさはどこから生まれるかというと、それは俳優自身の文学的な素養であり、教養を深めるための経験からです。だから俳優たちには、ただ稽古をしているだけでなく、本を読んだり、美術展に行ったりして、イメージを膨らませる努力をしなければならない、といつも話していました。
慶應義塾への想い
浅利君は「福澤ギライが直るまで」という題で慶應の卒業式の祝辞を読んでいますね(1997年)。学生時代は何かと福澤諭吉という名前に反抗していたようですが、本当に嫌いだったというわけではなく、福澤先生、そして慶應義塾は素晴らしいんだということに後から気が付いたのだと思います。
本当に慶應義塾を愛してらっしゃったと思いますよ。相手が私だというのもあると思いますが、浅利さんとは、何度も慶應の話をした記憶があります。
また、我々は日本全国で公演を行っていますが、そのネットワークをつくる時に浅利さんが頼りにしたのが、やはり三田会でした。三田の先輩たちを訪ね歩いて、チケットを買っていただいた。いまでもそういう方々が日本中にいらっしゃいます。
ご自身でつくられた『ジョン万次郎の夢』というオリジナル作品の中に、福澤先生を登場させたこともあります。
後年、福澤諭吉の偉大さというか、本当に素晴らしい人だったということを完全に理解していましたね。これは間違いないですね。祝辞の中でも「私たちの精神の原点は福澤諭吉なのだという確信をもつようになった」と言っている。
私が札幌に勤務していた時、浅利さんと一緒にお寿司を食べに行ったことがあります。その時、「お前は慶應を卒業しているのか」と問われて、「しています」と答えたら、「俺は卒業してないんだよ」と寂しそうに言う。
芝居を志し、ご自身の意志で大学を飛び出た浅利さんが、卒業しなかったことを後悔していたとは思わなかったので驚きました。
「特選塾員になってからは気にならなくなったがね」ともおっしゃっていました。
やはり評議員会などは、福澤諭吉や慶應に対する気持ちがあるから必ず来ていたのだと思いますね。
評議員会にも、忙しいスケジュールの合間を縫って出席されていました。プライオリティの高い会合だと考えておられたと思います。
一番興奮して評議員会からお帰りになってきたのは、横浜初等部の開校の延期が議論された時ですね。「絶対に延期すべきじゃないと話してきた」と興奮しておられた。初等部は、劇団四季の稽古場のそばにありますから、「あのあたりの地理感覚は、皆さんにはないでしょう、私はあそこに毎日通っているんだ」と大演説を打ってきたと(笑)。
日下武史との信頼関係
浅利さんが亡くなって、劇団四季の創立メンバーでご存命なのは照明の吉井澄雄さんだけでしょうか。
吉井さんだけですね。
やはりなんといっても四季は日下さんと浅利さんという2大柱がいて、はたから見たら、性格が違うから上手くいくのか、お互い補い合うような関係かなと勝手に見ていたんですが、実際のところはどんな感じだったんでしょうか。
お互いに深く信頼し合っていたと思います。浅利さんの演劇の理想型の1つが日下さんの演技でした。若い俳優たちに「日下を見ろ」と常に言っていましたし、彼の演技の中に、劇団四季が目指す演劇の姿があったのだと思います。
日下さんも、浅利さんのことを非常に信頼されていました。ご自身の演技の方向性を定めてくれる、唯一無二の演出家だと感じておられたと思いますね。
どこかで浅利さんがお書きになっていたと思うのですが、本来であれば演出が日下さんで、役者が浅利さんのところを、何かのきっかけでそれが変わったと。
高校時代に、サローヤンの『わが心高原に』を早稲田と慶應の合同演劇発表会で上演することになったのですが、演出を担当するはずの日下さんが、家庭の事情で参加できなくなった。そこで、ピンチヒッターとして浅利さんが起用されたそうです。
これが、浅利さんの処女演出作品です。この舞台を加藤道夫さんがご覧になり、「ハイスクールニュース」という塾高の学生新聞に劇評を書いてくださった。浅利さんの演出についても触れていて、非常にシャープだと評価されたそうです。浅利さんは、これが演出家を志した出発点だと言っておられた。
私が初めてお会いしたときの第一印象が、あの世代の方にしては、意外に身長が高いなということです。役者をされていてもご立派だったかもしれませんね。
1つ間違えれば、大叔父だった二世左団次さんのところに養子に取られ、歌舞伎役者になっていた可能性もあったそうですね。お父上も築地小劇場の創立同人の一人で、演劇とは関わりの深い家柄でした。
浅利鶴雄さんですね。
浅利さんの残した遺産
浅利君は芝居の感想を、少しでも聞きたいようなところがありましたね。「どうだった?」と聞いてきて、「今日はこれとあれがよかったね」と言うと、嬉しそうな顔をしてね。懐かしいですよ。残念でしょうがない。
ともかく彼のことは好きでしたね。1年違いだけれども、先輩に対する気遣いもありましてね。大したもんですよ。
ご逝去されて以来、いろいろな方から「浅利さんが残されたものは何ですか」という質問を受けるのですが、私は最大の遺産は、「劇団四季」という組織そのものだと思います。これを維持し、次の世代に継続していくことが自分に課せられた使命だと思いますし、そのためには、浅利さんが掲げてきた理念を守り続ける必要があります。
これからも海外ミュージカルの新作上演は続けていきますが、同時に、オリジナル作品の開発も進めていかなければいけないと思っています。この仕事は、1300人いる劇団員の中から才能ある人を見つけて育成する方法と、日本の演劇界で活躍している外部のスタッフたちとの協業の、2つの方向で進めていきたいと思います。
今年6月に開幕したストレートプレイ『恋におちたシェイクスピア』は、青木豪さんという外部の演出家にお願いをしました。日本人の外部演出家が四季の舞台を演出するのは実に半世紀ぶりで、1967年に福田恆存さんが『ヘンリー四世』を手掛けられて以来です。
シェイクスピアの劇の台本は、『ヴェニスの商人』などは福田恆存訳でやっていましたね。
四季で上演したシェイクスピア劇は、ほとんどが福田恆存さんの訳です。
浅利さんは、テレビ・メディアというものに対して、テレビに出ると演技力が落ちるというような感じで、どちらかというと否定的な感じだったと思うんですね。
テレビそのものは嫌いではなかったと思いますよ。ただ、テレビドラマや映画のスクリーン上の演技と、舞台俳優の演技はまったく別のものだとはおっしゃっていました。舞台の俳優がテレビドラマに抜かれてしまうことは、とても嫌がっていましたね。初心を貫き、舞台で生きなければ駄目だと。
1300人いる劇団員の中には、若い人も多く、浅利さんと一緒に仕事をしたことがない人たちが、すでに4割を占めるまでになりました。この人たちに、四季という組織の伝統と理念をしっかりと伝えていくことが非常に大切だと思っています。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。