慶應義塾

銀座線物語

登場者プロフィール

  • 冨士 滋美(ふじ しげみ)

    その他 : 浅草仲見世「評判堂」店主その他 : 一般社団法人浅草観光連盟会長その他 : 仲見世商店街振興組合理事長商学部 卒業

    1971年慶應義塾大学商学部卒業。

    冨士 滋美(ふじ しげみ)

    その他 : 浅草仲見世「評判堂」店主その他 : 一般社団法人浅草観光連盟会長その他 : 仲見世商店街振興組合理事長商学部 卒業

    1971年慶應義塾大学商学部卒業。

  • 泉 麻人(いずみ あさと)

    その他 : コラムニスト商学部 卒業

    1979年慶應義塾大学商学部卒業。鉄道やバスに造詣が深く、東京の歴史に も詳しい。著書に『地下鉄の友』『東京いい道、しぶい道』等。

    泉 麻人(いずみ あさと)

    その他 : コラムニスト商学部 卒業

    1979年慶應義塾大学商学部卒業。鉄道やバスに造詣が深く、東京の歴史に も詳しい。著書に『地下鉄の友』『東京いい道、しぶい道』等。

  • 坂戸 宏太(さかと こうた)

    一貫教育校 横浜初等部教諭

    1999年慶應義塾大学環境情報学部卒業。2005年政策・メディア 研究科修士課程修了。鉄道研究会三田会幹事。

    坂戸 宏太(さかと こうた)

    一貫教育校 横浜初等部教諭

    1999年慶應義塾大学環境情報学部卒業。2005年政策・メディア 研究科修士課程修了。鉄道研究会三田会幹事。

2017/05/01

旧型車両の想い出

坂戸

今年は地下鉄銀座線が昭和2年に浅草─上野間で東京地下鉄により開業してからちょうど90年です。浅草の冨士さんの地下鉄の思い出はどういうものですか?

冨士

私は小学校から越境入学で、番町小学校、麴町中学校に通い、慶應は志木高からなんです。だから、全部通学が地下鉄(銀座線)なんですよ。確か小学1年生のときに初乗り7円くらいだったと思いますね。

いつ頃のことですか。

冨士

昭和30年くらい。改札口で切符切りがチョッキンチョッキンやるようになったのが小学校の4、5年くらいですかね。浅草から銀座線に乗って、神田で中央線に乗って四ツ谷までという行き方だったんですけど、途中から丸ノ内線(昭和29年より開業)ができて赤坂見附で乗り換えるルートができたんです。

僕は新宿区の落合の生まれですが、子供の頃の地下鉄は銀座線と丸ノ内線だけでしたね。銀座に出かけるときは、うちはだいたい新宿から丸ノ内線に乗っていた。

慶應高校に入って、日吉から銀座に出るときは、もう日比谷線がオリンピックのころにできていたので(昭和39年全通)、それを使っていた。銀座線というのは常に使う路線ではなかったんですが、赤坂見附でホームのすぐ向こう側にいる電車だったり、渋谷で外に出てくるところをよく眺めていました。

それと、僕は小・中学生くらいまで結構記念乗車券を集めていて、昭和43年、銀座線60両更新記念の記念乗車券も持っているんです(笑)。よく乗ったのは、僕の世代だとやっぱり2000形なんですよね。

坂戸

昭和43年ですと開業当時から活躍した1000形などの車両を60両くらい置き換えた頃ですね。

冨士

昔は、自動ドアの引き込むところがゴムではなくて、小学生が手を引き込まれて挟んじゃったっていうのがずいぶんありましたね。それで泣いている子がいて。

初期の車両は、つり革がピーンとバネになっていて、上の柄のところまでプラスチック製で、スプリングでバーンといくんだよね。中学生ぐらいのときは面白がって遊んでいた(笑)。

坂戸

あのタイプは一長一短あり、後に更新する際に、汎用タイプに取り換えました。

このつり革は何という名前なんですか。

坂戸

リコ式というんです。

冨士

その頃は、荷物棚は網でしたよね。

そうそう。ちゃんとした本物の網棚だった。

あと、途中で点灯するおなじみの予備灯。2000形まで付いていました。いつ頃まで走っていたのでしたっけ。

坂戸

平成5年の7月までです。その後、01系に統一されました。

ステンレスのオレンジ帯に。

坂戸

私は、普通部に入学した平成元年から高等学校を出るまで6年間、表参道から渋谷までの1駅だけを毎日乗っていました。ちょうどオレンジの在来形から01系に変わる過渡期にあたりますね。

父も祖父も大変鉄道好きでしたので、他界した祖父が遺していた古いものがありまして。現在の銀座線は、元は東京地下鉄道と東京高速鉄道という別々の会社の路線だったのですが、これは直通運転を始めた頃の案内ですね。

冨士

昭和14年頃ですか。

こういうのは、やはりひところの「メトロニュース」みたいに、改札脇に置いてあったものなんですか。

坂戸

これは駅置きだったようです。よくも悪くもさすが銀座線、いまも昔も変わらないようなところが結構ありますね。

冨士

私は、ハガキの大きさくらいの一言メモといって何か書いてあるものが駅に置いてあったのを覚えています。毎週それを読むといろいろなことが分かるというものでした。

東京高速鉄道営業案内表紙(昭和14年)(提供 坂戸宏太氏)

浅草と銀座線

冨士

銀座線って、浅草から行くと末広町まではみんなプラットホームが向かい合わせなんですよね。あれはきっと簡単だから道路の真下を掘っていたんでしょうね。道路からそのまま降りると乗り口がある。神田に行くと初めて真ん中にホームがあるんです。

いま思えば、すごく浅い地下ですもんね。

冨士

階段を降りるとすぐに駅になってしまう。

坂戸

浅草の人にとって、銀座線というのはどんな感じなんですか。

冨士

僕らの世代の連中は、浅草からあまり出ないんですよ。僕が地下鉄に初めて乗ったときには、浅草寺の本堂がまだない頃なんです。

戦災で焼けてしまって。

冨士

雷門はない、本堂はない、五重塔はないって、ないないづくしの浅草だったんですよ。そのうちだんだん、僕が小学3年生の昭和33年くらいに本堂ができて、その後、雷門が35年にできた。

冨士さんもご存じの、僕の同級生の豊田君という仲見世の靴屋さんのご両親は、空襲のときに銀座線を防空壕代わりに使ったと言っていました。

冨士

もっと線を伸ばそうとしたのか駅を広げようとしたのか知りませんが、浅草駅の先に広い地下があるはずだって、うちの祖父なんか言っていましたね。

その奧に逃げたということですか。

冨士

そうでしょうね。戦後、GHQのジープが落っこちたとか、そんな話もあったくらいで(笑)。

坂戸

三ノ輪までの延伸計画がずっとありましたよね。

冨士

いま、待乳山(まつちやま)(本龍院)の方向に実は地下鉄が変電所をつくって、折り返し線を延伸する計画をしているそうなんです。でもそれなら何でもっと先まで線を伸ばすことを考えないかなと思っているんです。

延ばして出口を言問通りを越したところにも作ってくれると、もっと浅草は面白くなると思っているんだけど。最近乗降客がすごい数になっているので、浅草駅は降車専門と乗車専門にホームを分けるという話があるくらいなんですよ。

そうなんですか。

冨士

われわれが学生の頃の銀座線というのは、帰りは上野で人がザーッと減るんです。そこから浅草までというのは、もうガラガラの電車だったんですね。最近ですよ、いっぱいになっているのは。

特に一番ひどかったのは、オリンピックの直後ですね。カラーテレビが普及してしまったので、映画街が全部駄目になって、人が来なくなってしまったんです。

週刊誌に「斜陽 浅草」とデカデカと書かれて、人っ子一人いない6区の写真を見開きで出されて。

シンボルだった地下鉄ビル

神田には割と最近まで、須田町の地下鉄ストアの名残の商店街が残っていましたよね。古い洋品屋さんなんかがありました。

坂戸

2011年までは一部のテナントはあったようです。

そうですか。20年くらい前はまだ須田町デパートとか、入口に看板が残っていましたよね。

浅草の1番出口のところも地下鉄デパートと言ったでしょう。川端康成の『浅草紅團』は、あの上をねじろにしているんですよね。

冨士

そうそう。これですよ(写真)。

坂戸

これらのビルは地下鉄(東京地下鉄道、営団)がちゃんと経営していたんです。雷門食堂、上野構内食堂、上野須田町ストア。これらは全部直営です。

冨士

いま浅草にある建物はリメークはしていますが、規模は当時とほぼ変わらないですね。中身は全部建て替えたみたいなものですけどね。

この地下鉄ビルは雷門もなかった頃は、それこそ浅草のシンボル的な建物でした。

坂戸

地下鉄ビルは戦争でも焼けなったわけですよね。

冨士

焼けてないですね。相当古い建物でした。1階に歯医者さんがあったときにそこに通っていた。ガタガタの建物だったな。

坂戸

関東大震災でエレベーターのついていた十二階(凌雲閣)が崩れてしまってから、浅草のシンボル的な存在だったとよく言われますね。

冨士

そうですね。でも、雷門を昭和35年に松下幸之助さんが約100年ぶりに建ててくれた。提灯というのは奉納する人の名前を書くのが当たり前なんですが、でも松下さんは「雷門」と書いてくれた。あれが「松下」と書かれていたらいまの雷門はないです。

浅草は、山手線が浅草を通ろうとしたら、浅草の人が大反対して蹴ってしまったんですよ。それで何もないところだったので、地下鉄だから、新しいからよかったんじゃないですか。

東武が隅田川の橋を越えてくるのはいつなんですか。

冨士

あれは、銀座線開業のあと、昭和6年くらいじゃないですか。

坂戸

銀座線のほうが先輩。

冨士

あの東武のビルも古いですね。戦争でもあそこに逃げ込んだと言っていますから。

松屋ビルのこと? 松屋もすごいですよね。その時代の写真を見ると、本当に巨大軍艦が川沿いにいるという感じですよね。

冨士

一大テーマパークですよね。屋上は遊園地だし、途中に劇場はあるし、結婚式場があったり写真館があったり。

その当時は、やはり浅草が東京で1、2を争う繁華街なんですね。

尖塔が特徴の浅草・地下鉄ビル(昭和4年)(『写真に見る昭和浅草伝』より)

「デパート巡り乗車券」

原宿のフクオ・スタンプという切手屋で、切手以外に「デパート巡り乗車券」というものも売っていて買ったんですよ。銀座線沿線の松坂屋とかデパートが入っているんです。

坂戸

私の祖父が持っていたものとちょっと時期が違いますね。これは全線直通運転する前からあるらしく、時期によって、百貨店の取り扱っている範囲が違うというのを聞いたことがあります。

これが昭和14年ですか。

坂戸

昭和8年に売り出したのが最初だというようなことを聞いたことがあります。

その後に銀座にも延びたので、神田の須田町ストアははねられたんです。自分のところだからいいよということになったんじゃない(笑)?

坂戸

普通、地下鉄は乗車券では途中下車ができないんですけど、この切符に限りできたようですね。

そうですね。だから、はさみが入っているところは全部降りているんだよね。

いつ頃まであったんですか、このデパート巡りって。

坂戸

いつ頃までですかね。

開業当初は自動改札みたいな感じでお金を入れて改札を通ったんですね。

冨士

はい。もう、チャリーンとお金を入れて。

あの改札は葛西の地下鉄博物館にありますよね。ニューヨークの地下鉄なんか、最近までああいうのを使っていた。

冨士

浅草にあったんですが、レイアウトはいまとまったく同じです。

坂戸

ただ、戦前には均一運賃をやめて、さらに、これは戦中の鉄材供出で撤去されてしまうので、かなり短い期間しか見られなかったと聞いています。

浅草の横に、斜めに行く地下通路が一番古いでしょう? ソース焼きそば屋がある。

冨士

そうです。

ずっと歩いていくと、いまの階段の脇に昔の階段の名残みたいなのがむき出していますよね。

冨士

名残じゃないんですよ、あれ。たぶん、よほど大きい石があって、どけられなかったんですね。そのまんま残っているんです。

いまだに水がポタンポタン落ちているので、やっぱりもとは海だったんでしょうね。

稲荷町の浅草側の上り口の囲いは、まだ古いのを使っているんですか。タイル張りのクラシックなやつがありましたね。

冨士

いま工事しています。ちょうど2、3日前に通ったら工事中で、反対側に出されてしまった。

いまは古いほうがウケるから、修復しているのかもしれないですね。

冨士

何かレトロな感じにしたい、みたいなことでしたね。表面だけやってもどうかと思うんだけど。

地下鉄博物館に展示されている最初の車両の運転席の後ろに「タン、つば禁止」と貼られている。あれはいつ頃まで書かれていたのかな。地下鉄博物館の車両というのはオリジナルなんですか。

坂戸

レプリカではなくて本物ですね。ただ、細かなプレートなどの一部は復元しているようです。

最初は黄色っぽかったので、いまのレトロ調の1000系は黄色にしているんだよね。僕らが乗っていた2000形は、むしろオレンジに近かった。

坂戸

時代とともにだんだん色が濃くなっていったというような記録が残っていますね。

1970年代くらいって、かなり塗装にばらつきがありましたよね。

冨士

ありましたね。

濃いだいだいとか黄色とか。丸ノ内線のサンウェーブを復活する話はないんですかね。

坂戸

2018年から車両を置き換えるので、そのときにどういった車が出てくるのか注目ですね。

デパート巡り乗車券(昭和14年)(提供 坂戸宏太氏)

名物だった「予備灯」

「銀座線」と言うようになったのは丸ノ内線ができてからですか。

坂戸

丸ノ内線ができる直前に、1953年に「銀座線とする」というような記録がありますね。

1本のときは名前が要らないから。

坂戸

何て呼んでいたんですか。

冨士

「地下鉄」でしたよ。むしろ「電車」かな。僕らは子供だから、「電車に乗って学校に通っているんだよ」と言うと、「へえ、すごいな」と言われる感じ。国鉄は「省線」と言っていたでしょう。

坂戸

確かに昔の資料を見ると、すべて「地下鉄」としか書いていない。

地下鉄と言えば銀座線なんですよね。

昔の銀座線で、車内の電気が消えて予備灯がつくのは、結局はどういう仕組みなんですか。線路の継ぎ目のせいなのかな。

坂戸

第3軌条といって下にある第3のレールから電気を取っているんですが、線路の左から取る区間と右から取る区間があるんです。左右で切り替わるところは、重ならないように電気を両方とも取らない区間があるんですよ。だから電気を取れない区間に差しかかると電灯が消える。

じゃあ、消える区間は決まっていたんですよね。

坂戸

ええ、そうです。

冨士

浅草を出るときは必ず消えましたよ。

坂戸

消える車両は2000形までですね。

いまでも通電の仕組みというのは変わっていないんですか。

坂戸

変わらないですが、現在の車両の室内灯が消えなくなったのは、車両側が技術の進歩によって改善したわけです。あのランプは、私も幼いながらすごく思い出があって、ちょうど車両がなくなるころに部品即売会があったんで何時間も並んで買ったんです。

ゴソゴソ探したら出てきましたけど。いずれお屋敷を構えたら、取り付けようと(笑)。

いいですね。これは2000系に付いていたやつ?

坂戸

結論から言うと、同時期の丸ノ内線のものじゃないかと。曇りガラスのタイプと曇っていないのと、両方あるんです。

いまこの予備灯はレトロ調で出てきた1000系の編成にも付いているようですけど、どのくらい忠実に再現しているのか。

予備灯というのが正確な名称?

坂戸

結構表記はまちまちなんですが、予備灯としている記述が多いですね。

冨士

あの内装のレトロ車両はちょっとやり過ぎな感じがありますね。

電灯もわざと消したりするんだって? 昔を再現して。

坂戸

そうです。演出ですね。

冨士

冷房が入ったのはいつ頃ですかね。

坂戸

01系の最初の頃は積んでいなかったですよね。営団の当初の冷房化方針はトンネル冷房でしたから。銀座線は平成2年からです。

そうだ。トンネル冷房だった。

冨士

電車に乗ると暑いんですよね。

坂戸

ほかの路線はもう数年くらい早かったんですが、銀座線はトンネル断面が小さいので、車両に載せる薄型クーラーの技術が確立されるまでは付けられなかったんですね。

乗ると暑いんだけど、ただあれが、何だろう、今となっては、生ぬるい風って、何か独特のあの時代の夏の風物詩で(笑)。

冨士

そうそう。地下鉄の上に行くと、生ぬるい風がブワーッと来てね。

幻の駅、あれこれ

ウルトラマンの監督で鉄道好きだった実相寺昭雄さんは、丸ノ内線ができる直前くらいに、赤坂見附の丸ノ内線側が、線路もなくて洞穴になっているのがとてもSF的だったという話をよくされていた。戦前からあの空間はでき上がっていたんでしょう。

ああいうのは、ウルトラQとか何かのヒントになったんじゃないかな。地底もののね。

坂戸

そうですね。あとこれは有名ですが幻の新橋の駅もあります。今でもイベントがあると開けています。

浅草から来た東京地下鉄道と渋谷から来た東京高速鉄道が仲が悪かったから、新橋でつながってもしばらく直通運転をしなかったんでしょう?

坂戸

ええ、そうです。それで新橋駅が2つあったんですね。

幻のホームは東京高速鉄道という渋谷から新橋までを結んでいた線の、いわば仮の終端駅なわけです。最初から仲良く直通運転するのであれば、あのホームは必要なかったでしょうね。

東京地下鉄道は渋谷ではなくて、品川の方向に行こうとしていたんでしょう。

東京高速鉄道は緑とアイボリーの車両だったようですが、あれは直通運転後も走ったのですか。

坂戸

100形という車両です。車両自体は、直通運転を始めた後も、昭和43年の置き換えまで走っていました。

緑とアイボリーカラーで昭和40年頃まで走ってたんですか?

坂戸

色は塗り替えていたんです。

そうか。そっちの色のも乗りたかったな。

坂戸

また、表参道の駅には昔の古いホームが残っています。半蔵門線ができる前までは、銀座線と千代田線はいったん地上に出なければいけなかった。

それを旧駅の浅草側にホームをつくって、平面乗り換えができるようにしました。銀座線の表参道の駅を出ると廃墟の旧表参道駅が見えるんです。

もともと神宮前駅という名前だったんですよね。それで、千代田線の表参道駅ができたので、銀座線も変えたと(昭和47年)。

青山六丁目と言っていた時期もあったのですか。

坂戸

最初の頃、神宮前になる前の1年間くらいはそうですよね。

意外と東京の地下鉄は、駅名を変えたところがありません。そういった意味で青山六丁目から神宮前になり、そして表参道と2回変わった駅はここしかないんじゃないですかね。

渋谷の銀座線

坂戸

あとは渋谷ですね。渋谷はもともとその先、いわゆる昔の新玉川線を通って二子玉川まで銀座線が行く予定だった。

二子玉川の駅は、新玉川線ができたときに内側に入っていたんですけども、もともと銀座線を通して、あの駅で折り返す目的だったので、あのような構造にしてしまって、ここ20年で内側と外側を入れ替えた。あれは早まりすぎてつくってしまったんでしょう。

渋谷駅が移動してヒカリエのほうに来るんでしょう。僕は銀座線というと渋谷の街の上に出てくる陸橋の景色なんですよ。あそこで眺めるのが、一番、銀座線らしい。あのむき出しの感じは、本当にずっと変わっていなかったね。

冨士

そうですね。

終戦直後ぐらいの映画なんかでも、がれきの山の向こうに、あそこの陸橋の銀座線が出てくるところが映り込んでいましたから。

昭和30年代の日活映画とか、よく渋谷の車庫の脇がチンピラがけんかするシーンで使われているんです。『銀座の若大将』ってシリーズ2作目くらいかな。

加山雄三が銀座でコックをしているんだけど、けんかをするところは渋谷の車庫の脇を使っているんですよ(笑)。

冨士

ロケ地としてよかったんでしょうね。

ええ。結構場末で、本当に横に連れ込み宿みたいのばっかりあった。

銀座線の車内が出てくる映画やテレビというのはあまり記憶にないんです。『007は二度死ぬ』は丸ノ内線の車両を使っていますね。スペクターの日本支部の基地に行くのに丸ノ内線に乗って行くんだよね(笑)。以前、方南町の支線で撮ったとかという話を聞きましたから。

坂戸

丸ノ内線は昭和32年に西銀座まで開通しました。まだ銀座駅と西銀座駅は違う駅なんですね。

日比谷線が昭和39年に全通する際、両駅をつなげる形で今の銀座駅になりました。この当時の地下鉄は、すべて銀座を通っている。やっぱりさすが銀座と思います。

皆銀座に向かってくる。やはり都心に行く線だから、銀座、丸ノ内、日比谷とネーミングしたんだよね。そこに向けて行くと。

だんだんわかりやすい地名がなくなってきて、東西とか千代田とか、漠然としてくるんだけど(笑)。都営は長いこと、1号線、6号線と数字で呼んでいましたね。

坂戸

公営交通は愛称が付くのが遅いんです。大阪も4号くらいまでいって、愛称が付いたように記憶しています。

大阪も御堂筋線が戦前からあるでしょう。あれが結構古いんだよね。

坂戸

四つ橋線もギリギリ戦前の開業で、2つ目は東京より早かった。

路線拡大のなかで

坂戸

銀座線は、いまは車両は中形のイメージがありますが、できた当時は決して小さいものではなかったんです。

車両の長さは短いんですよね。

坂戸

1両あたり16メートルです。東西線以降の営団は20メートルですね。大形20メートルのほうが、郊外の私鉄と直通運転ができるという点ではメリットが大きい。

冨士

大江戸線のほうが幅は狭いでしょう?

坂戸

そうですね。長さは銀座線の車両と大差ないのですが。どんどん、大形20メートルの車が入れるようになっていく一方、公営交通を中心に建設費の節約という点で、逆にまた中形に揺り戻しが一部来ているということですね。

郊外電車がそのまま地下鉄に乗り入れるというのは、日本の、特に東京の大きな特徴です。

ほかの国は乗り入れないんですか。小田急のロマンスカーが千代田線に入っているのを初めて見たときは、ちょっとショックな感じがした(笑)。青いやつ。

坂戸

東京圏の人口増加で郊外化が進んで、日比谷線は計画段階から他社線との相互乗り入れを前提とした車両を導入することになり、他の後続の線もそうなりました。これだけ大きな相互乗り入れをする国はたぶんないですよね。

そうか。日比谷線はもう乗り入れありきだよね。東武のほうも埼玉や栃木の奥まで行っている。

冨士

オリンピックの後から、そういう方針に切り替わっていったわけですかね。

坂戸

その前からでしょうか。ちょうど東京圏の人口が、毎年50万人ずつ増えていった1960年代の前後ですよね。その頃はかなり計画的に鉄道を敷いて、郊外に住宅地をつくり、通勤通学輸送をどうするかを考えていたので、先見の明はあったのかなと思います。でも、実際の輸送量は想定をはるかに上回ってしまいました。

銀座線は建設が早かったのでそういう流れからは取り残されて貴重な存在になったということですね。

東京のなかのローカリティを残して

東京の最初の一等繁華街を通ったわけですよね。上野、銀座間というのが東海道から続く中央通りの道だからね。銀座線が走っているところはいわゆる御成通りでしょう。その上を都電の1系統が走っていた。

冨士

銀座や浅草ももちろんだけど、万世橋のところも繁華街ですよね。結果として秋葉原が後から栄えたというような感じだけど。

それでわざわざ広瀬中佐の銅像なんかをあそこに建てたんでしょう。

冨士

そうそう。ああいうものを建てるということは、人がそれだけ見にくるということ。

慶應と銀座線ということで言うと、最寄り駅はないわけですけど、やはり銀座ですよね。

銀座、それと渋谷かな。あと外苑前は神宮の早慶戦とかもあって、浅草の場合はレガッタがありますね。

冨士

そうですね。

外苑前も、その昔はたしか青山何丁目と言ったんでしょう?

坂戸

青山四丁目です。

大阪の谷町何丁目的な並びだった。青山一丁目だけが残った。

坂戸

昭和14年の東京高速鉄道がつくったパンフレットには当時からちゃんと野球場と出ています。まだ秩父宮ラグビー場がないころです。

冨士

有り難いことに、上野で降りていたお客さんが、いまはそのままずっと来て、浅草からドーッとたくさん乗っていくのを見ていると、ずいぶん変わったな、よくなったなとは思いますね。銀座線はもう街のバロメーターですね。

うちのほうから浅草に遊びに行くなんていうとき、渋谷の始発のガラッとした車に乗って、座っていくのが保証されて浅草まで行けるので、かなり娯楽気分になりますね。

冨士

いろいろな顔色の街を通りすぎていくので、お客さんを見ていても飽きないですよね。

良い意味での東京ローカリティが保たれている鉄道というのはどんどん少なくなっていますね。僕は家が井の頭線沿線ですが、井の頭線も割とローカルなんです。そのある程度の東京の短区間を走る鉄道というのは、大切にしてほしいですね。

あと、駅名に稲荷町(ちょう)、田原町(まち)と今はない町名が残っている。上野広小路とか。広小路なんてやはり昭和の初めならではの駅名ですよね。ああいうちょっと風情のある駅名が残っているのもいい。

坂戸

開業当時に目指したブランドが、いまもなお変わらず生き続けているところが非常に興味深いですね。いまでこそ東京メトロというのは、路線長でいうともう少しで200キロですが、そのうちの最初の15キロが銀座線です。

東京の地下鉄がどんどん拡大する中、銀座線は昭和40年くらいまでで、いまの車両数の250両まで達しますので、かなり早い段階で成熟し、その後いままで変わらずにきている。

やはり相互乗り入れせず東京23区内で完結する路線というところが何よりも、銀座線の今後も変わらない理由なのだと思います。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。