慶應義塾

音楽家になるなら慶應へ行こう

登場者プロフィール

  • 冨田 勲(とみた いさお)

    その他 : 作曲家文学部 卒業

    1955年慶應義塾大学文学部卒業。1970年代、シンセサイザー音楽家としてグラミー賞にノミネートされるなど世界的に高い評価を受ける。近年も「イーハトーブ交響曲」を発表するなど旺盛に活動。

    冨田 勲(とみた いさお)

    その他 : 作曲家文学部 卒業

    1955年慶應義塾大学文学部卒業。1970年代、シンセサイザー音楽家としてグラミー賞にノミネートされるなど世界的に高い評価を受ける。近年も「イーハトーブ交響曲」を発表するなど旺盛に活動。

  • 吉松 隆(よしまつ たかし)

    その他 : 作曲家その他 : 特選塾員

    慶應義塾高校を経て1971年慶應義塾大学工学部入学。在学中より作曲活動を始める。2012年大河ドラマ「平清盛」担当他、6つの交響曲など作品多数。

    吉松 隆(よしまつ たかし)

    その他 : 作曲家その他 : 特選塾員

    慶應義塾高校を経て1971年慶應義塾大学工学部入学。在学中より作曲活動を始める。2012年大河ドラマ「平清盛」担当他、6つの交響曲など作品多数。

  • 藤岡 幸夫(ふじおか さちお)

    その他 : 指揮者文学部 卒業

    中等部より慶應義塾に学び、1985年慶應義塾大学文学部卒業。関西フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。BSジャパン「エンター・ザ・ミュージック」では司会も務める。

    藤岡 幸夫(ふじおか さちお)

    その他 : 指揮者文学部 卒業

    中等部より慶應義塾に学び、1985年慶應義塾大学文学部卒業。関西フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。BSジャパン「エンター・ザ・ミュージック」では司会も務める。

2015/12/01

米軍艦から聞こえてきた音楽

藤岡

慶應は一般の私立大学としては稀有なぐらい音楽家を輩出していますね。

冨田

この間のコンサートでも、音楽をやりたければ慶應に来いと、藤岡さん、言ってたよね(笑)。

藤岡

3人とも慶應高校ですね。皆私の塾高の先輩です。

冨田

僕は岡崎の高校から編入したのが高校2年。

藤岡

最初に西洋音楽に出会った、あの話を聞かせてください。

冨田

ストラヴィンスキーの「春の祭典」ね。ラジオから聞こえてきたのは戦時中なんです。

藤岡

おいくつのときですか。

冨田

小学校6年か中学1年。僕ら、西洋音楽って知らなかった。全然そんな教育受けていないし、親父は古賀政男以外の音楽は全然興味がなかった。

名古屋、岡崎ではいつ空襲警報が鳴るか分からないのでラジオをつけっぱなしにして寝ろと言われていたんです。あの頃はAMの長波で相当音質は悪かったんだけれど、ダイヤルを回しているといろいろな珍しい音楽が聞こえてくるんだよね。そんな中で聞こえてきたのがアメリカの軍艦で鳴らしていた「春の祭典」。

吉松

長波だったんですか。

冨田

そう。長波だと放送局がどこにあるのかわからなくて爆撃されないからね。混線だらけの中で聞こえてきた。兵隊たちの慰安のための移動放送局なんです。

それと、グレン・ミラーの「ムーランイト・セレナーデ」が流れてきた。驚いたね、こんな音楽が世の中にあるのかと。あんなのは軍歌にはないからね。

藤岡

高校から慶應に行かれて、そこでLPで「春の祭典」を注文されたんですよね。ものすごく高いものを。

冨田

そうそう。3800円ね(笑)。

藤岡

輸入するときに割れるかもしれないと、2枚注文したという。

冨田

そう。破損しても補償しないと言われたんです。

藤岡

だから2枚頼んだ。いかにも慶應らしい(笑)。その頃は、もう音楽家になろうと思われていたわけですよね。

冨田

そうです。たまたま親戚の家にピアノがあったので、一応ツェルニーだとかやっていたんですよ。ハノンは、これは音楽なのかなと思いながら練習しましたけど(笑)。

吉松

それ以前は、音楽の素養はなかったわけですか。

冨田

何もないの、まったく。東京へ出てきてから信濃町の慶應病院の近くのおじの家に下宿するようになった。あの頃は一面焼け野原でした。ちょっと新宿に近いところに行くと、バラックのレコード店があって、それがコタニレコード店。進駐軍の兵隊がよく出入りしていたので、輸入レコードを扱っていたんですね。そこで「春の祭典」を買ったんですよ。

作曲家になるために慶應へ

藤岡

吉松さんの高校生の頃は、「春の祭典」は流行っていたんですか。

吉松

そうですね。

藤岡

吉松さんも塾高生の頃から作曲家になるつもりでいらしたんですよね。

吉松

中学3年のときにクラシックに目覚めて、作曲家になるために慶應高校に入ったんです(笑)。

藤岡

僕も一緒ですよ。小学校のとき指揮者になりたいと言ったら、じゃあ受験しろと言われて中等部を受けた。いったん入ったら受験がなくて音楽の勉強ができるからと。

吉松

入学するときに高校の案内を見たら、オーケストラのクラブがあるのが慶應高校だけだった。それで、慶應に入って自作の交響曲を自分で指揮して初演しようと(笑)。

それで慶應に行くと言ったら、曾祖父が医者だったので、慶應の医学部に行くんだなと勝手に思ってくれて。

藤岡

やっぱりお医者さんの血なんですね。冨田さんのところも、お父様がお医者様でしょう?

冨田

そうだけど、親父と音楽は関係ないよ。医者って仲間がいるでしょう。そこでやっぱり酒の席か何かになると、必ず子どもの話になる。肩身が狭いわけですよ。

何をやっているか分からないと言うわけにはいかないし、音楽をやっているとも言えない。ただ困ったのが先ほどの3800円のLPを買うとき。古賀政男のレコードはもっと安いわけですよ。

吉松

なるほど(笑)。

冨田

そんなにも高価なレコードには、きっと素晴らしい音楽が入っているだろうから、俺にもぜひ聞かせろと。それで親父が岡崎から東京に出てきたときに、聞かせたのがまずかった(笑)。

理解できるわけがない。考え込んじゃうんですよ。出だしのところのファゴットの非常に高い音域、あそこはアヒルが首をひねられているような音がすると。

吉松

的確な表現ですね(笑)。

冨田

早く終わってくれればいいなと思っていると、その次がクロマティック……。

吉松

ゴチャゴチャになりますね。

冨田

まったく古賀政男的なところが出てこない(笑)。まずいなと思っていたら、その次にドンドンドンドン。当時、うちわ太鼓というのが流行っていてね。

ストラヴィンスキーの高いレコードを買わされたと思ったら、変な宗教がついていると思われたようで、岡崎に帰っておふくろに、どうもとんでもない宗教にのめり込んだようだと言ったらしい(笑)。

さあ大変。すぐ帰ってこいって。そこから説教ですよ。あんな音楽を芸術と呼べるのか、だいたい金になるのかと言うわけ。そりゃあ親だったら心配しますよね。

藤岡

冨田さんは、慶應に入ってから、音楽の勉強を始められたんですか。

冨田

親父に内緒でね。神田小川町のYMCAの中に芸術園というのがあったんです。

そこで、その当時有名な作曲家だった弘田龍太郎がドイツのヤーダスゾーンの和声学を教えているというので、僕はヤーダスゾーンなんて全然知らなかったけれども、何でもいいから何か基礎になるものを覚えたいと思って、そこに入ったんです。

藤岡

それで「春の祭典」を耳で覚えて楽譜にされたんですか。

冨田

そこまではいかないですよ。だけど、人の顔を1回見ると忘れないのと同じようなもので、やっぱり「春の祭典」のあの強烈なメロディー。それからグレン・ミラーのコードは頭に焼き付いていたね。

藤岡

大学に入られたときには、もうNHKでラジオの仕事をされていましたよね。

冨田

大学2年のときに、朝日新聞が全日本合唱連盟のために課題曲を募集していたんですよ。そこに応募したら運よく通っちゃった。

それが朝日新聞の全国版に名前が出たので、それまで息子のことで肩身が狭かった親父は周りに言いまくって、お金もくれて、それでちょっと裕福になって(笑)。

高かった輸入楽譜

吉松

それだけで裕福になったんですか。僕も大学1年のときにオーケストラを書いて音楽コンクールに出したんだけど、十数年間ずっと落ちっぱなしで1円にもならなかった(笑)。

藤岡

吉松さんは、大学生活では何をやっていたんですか。

吉松

作曲をやっていた。それだけです。藤岡君に最初に会ったときに言ったんだけど、10代のときに何をしていたか、記憶がさっぱりない(笑)。その頃は思い出したくないことのほうが多かったから。そうしたら藤岡君が、「人でも殺してたんじゃないですか」って(笑)。

私は父親がちょうど冨田さんと同じように、浜松高専でラジオをいじくっているときに、音楽が聞こえてきたという世代なんですよ。そして終戦直後にフルートを始めて、YMCAのオーケストラでフルートを吹いたりしていたんです。

冨田

じゃあ僕が和声学を教わっているときに、別の部屋から聞こえてきたあれがそうか(笑)。

吉松

そのときに、オーケストラの楽譜を「未完成」とか何冊か持っていた。僕が中学3年のときにベートーヴェンを聞いていたら、「楽譜があるぞ」といってそれを持ってきたことが、そもそも作曲家になろうと思ったきっかけです。

冨田

僕の場合はまだ楽譜を手に入れられなくて。

吉松

最初に「春の祭典」のスコアを見たのはいつ頃ですか。

冨田

それはずっと後になってから。いまは本郷にあるアカデミアが昔は荻窪で輸入楽譜を扱っていたんですよ。

小さな店でね。どうしてこんなところに専門的な店があるのかと思ったら、池内友次郎さんがその当時最高の指導者ということで、その弟子たちがいっぱいあの前を通るんですよ。その連中が買うものだから、店が成り立っていた。高かったですよ。1冊6000円とか。

吉松

僕は慶應高校から帰るときに、スコアは渋谷のヤマハで全部立ち読みしていました。高かったですから。

大学生がオーケストラに曲を書く

藤岡

要はみんな慶應の人たちは勉強せずに好き勝手なことをやっていた。そういう自由な独立自尊の精神があった。

吉松

それは自由でしたね。勉強しろなんて言わないし。

藤岡

冨田さんはそのコンクールの後、順調に作曲家としてスタートされたんですか?

冨田

運がよかったのは、コロムビアレコードやNHKがバックアップをしてくれたんです。僕は若かったのでちょっと興味を持たれて、「うちの仕事をやりませんか」みたいな話になった。

それで最初は「婦人の時間」のお話と音楽みたいな15分のコーナーの作曲をやったんです。それがなんか結構気に入られて、「立体音楽堂」というNHKがステレオで放送するという番組で仕事をするようになって。

藤岡

第1放送と第2放送を使ってステレオ放送するというものですね。

冨田

いやあ、忘れもしない、佐伯多門さんが設計した三菱のダイヤトーンが置いてあってね。そこですごい音が聞こえてくるわけ。それで100人近いオーケストラだからどんな曲を書いてもいい音になっちゃうんだよね。

藤岡

でもすごいですよね。大学2年生でそんな仕事をしていたって。

冨田

いや、運がよかったとしか思えないんだけどね。

藤岡

そしてその歳の頃、吉松さんは何をやっていたかというと……。

吉松

たぶん同じぐらいのペースで大学1年ぐらいからオーケストラを書いていると思うんですが、僕の場合は評価する人も、金を出してくれる人も、「君、才能あるね」と言ってくれる人もまったくいなかった。なにしろ初めて「オーケストラ曲を録音してあげる」と言ってきたのが藤岡君なんだよね(笑)。絵に描いたような「不遇」ですよ。

最近、16、7の慶應高校のときに書いていた曲をCDにしたんですよ。そうしたら、最近書いている曲と大して変わらない。

藤岡

モーツァルトと一緒じゃないですか(笑)。

吉松

だから17、8ぐらいの時期で、もうある程度作風というか音楽性って出来上がっているんですね。

冨田

まだいろいろ聞き過ぎて汚染されていない頃だから、逆に、自分の個性も出るんでしょう。

吉松

それもあるかもしれませんね。

150年式典のファンファーレ

藤岡

僕は冨田さんの曲では「キャプテンウルトラ」とか「マイティジャック」が大好きで、最近音楽を聞くために、ドラマをDVDで箱買いしちゃったんですよ。もちろん「ジャングル大帝」も「リボンの騎士」も好きで。

冨田

やはりアメリカのミュージカルとか、そういう影響はあるだろうね。ただ、偉い指導者から「音楽とはこういうものだ」みたいな指導をされた経験はないから、それだけはよかったと思う。また慶應という、この環境がいいんでしょうね。

吉松

平尾貴四男先生につかれたときも、「音楽とはこういうものだ」的な教えはなかったのですか。

冨田

いや、ないね。あの人は、僕が知りたかった、オーケストラの音響的な捉え方ができるような指導の仕方なんだ。「こうあるべきだ」というようなことは決して言わない。

藤岡

吉松さんも、そういう教え方には反発していたんでしょう。

吉松

僕は、「教えられてたまるか」みたいな、ひねくれたところがあったから。冨田さんとは逆に、10代、20代は恵まれないで、ずっと怨念で来ていたし。

藤岡

僕はこのお二方との出会いにはすごく感謝しているんですよ。吉松さんのほうが先なんですが、お二人とも慶應出身って全然知らなかった。吉松さんの「朱鷺によせる哀歌」という作品をイギリスで聞いたときにすごい衝撃を受けて、絶対に僕はこの人の曲をやろうと思った。

冨田

あれは傑作ですよね。

藤岡

冨田さんとの出会いはもうちょっと後になるんですが、慶應の150年の記念式典でのファンファーレ。僕はそのとき初めて冨田さんと一緒に仕事をしたんですが、競技場の四方で、一貫校はじめ慶應の学生の吹奏楽部がそのファンファーレを吹くわけ。そしてその真ん中で「藤岡君、この曲を振ってくれ」という。競技場の真ん中で振って、合うわけがない。

冨田

全部1秒ずつ遅れていくんだ(笑)。

藤岡

「先生、こんなの合うわけありませんよ」と言ったら、冨田さんが、「僕はこれを月と地球でやろうと思っているんだ。こんなのは簡単だ」と。もう、無茶苦茶なことを言われて(笑)。

でも奇跡的にあれは上手くいきましたね。

吉松

それはずれるという前提で書いたわけではないんですよね。

冨田

みんなジャストです。

藤岡

もう、やらされるほうはたまらない。

「合いすぎる」と気持ち悪い!?

藤岡

作曲家は結構、目茶苦茶なことを言う方が多いんですよ。

イギリスのシャンドスという一流レーベルが何でもいいから録音してくれることになり、僕は吉松隆をやると言った。それで初めて、海外レーベルが日本人の作曲家の作品をBBCフィルという一流のオーケストラで録っていくプロジェクトが始まり、吉松さんが「交響曲第3番」を書いたんだけど、いま思えば初演でレコーディングだもんね。

吉松

そう。誰も聞いたことがない。

藤岡

普通はどこかで1回は初演をして、手直ししてからレコーディングするんだけれど、いきなり初演でレコーディング。それが4楽章全部、すごく上手くいった。これでクリスマスだ、パーティーに行くぞ、終わりだ、よかったねと言って、録音ブースに戻ったら、吉松さんが一人で怒っている。

「藤岡、やり直してこい」と。何がよくないんだと言ったら、「合いすぎている」と言うんだよね。「壊してこい。こんなきれいな演奏、俺は聞きたくない」と言う(笑)。

指揮台に戻って、もう1回、録り直しますと言うと、皆が「何がよくなかったの?」って聞くでしょう。しょうがないから、「We are too much together.」とか言って(笑)。アンサンブルが良すぎるって、もう本当に作曲家の先生方は目茶苦茶なことを言われるから。

吉松

せっかく上手く鳴らないように難しいパートを書いているのに、ぴったり合うと気持ち悪いじゃない。大河ドラマをやったときも、合いすぎるってN響の人に言って喧嘩になった(笑)。

でも、ロールスロイスが走っているような感じじゃなくて、オートバイで走っている、あの風を切る、いつ空中分解するかという感じが欲しいんだと言ったわけ。

藤岡

オートバイといえば、冨田さんは70過ぎまでずっとハーレーに乗っていらして、大阪万博のときは東京と大阪の間をハーレーで往復していらしたとか。片道何時間ぐらいかかったんですか。

冨田

新幹線の倍の時間。あの頃の新幹線は東京から大阪まで3時間だから6時間見ておけばいい。

東京から大阪まで、東西に地球を横切ることになりますよね。そうすると、地球は磁石だから北極から南極まで磁力線が通っているわけで、そこを東西に横切って走ることになる。

乗り物の中で唯一、オートバイは裸で走っているんですよ。だから磁力線が唯一、身体を通るんです。

藤岡

磁力を感じるんですか。

冨田

感じる。

藤岡

えーっ。そんなの聞いたことない。

吉松

それ、渡り鳥と同じじゃないですか(笑)。

冨田

ピップエレキバンを身体中に付けたときと同じです。ハイになってくるんですよ。いや、あの感覚が好きでねえ。それで、肩こりが全然しなくなっちゃった。

藤岡

ハーレーで大阪に行くことによって、肩こりしなくなる(笑)。

冨田

ただし、速く走らないとダメ。少なくとも東名を100キロでね。

慶應出身の音楽家たち

藤岡

今年の春は冨田さんの「源氏物語幻想交響絵巻」をやらせていただいた。邦楽器と京言葉が見事に融合した大変な傑作で、京言葉がまるでオペラのように見事にはまって。

京都と言えば、吉松さんが「3つの水墨画」という曲を京都府物産協会のために書かれていてそれも素晴らしい。今年の8月に大オーケストラでやったんですよ。

こうやって、いま生きている作曲家で素晴らしい曲を書いている方が身近にいて、しかもそれが学校の先輩というのは、本当にやりがいがありますよ。

吉松

最初に大阪で僕の曲がやられたとき、指揮者が拍手をするから舞台に上がろうと思ったら、ガードマンにいきなり止められた(笑)。「なんで舞台に上がるの?」「いや、作曲家なんですけど」って。

作曲家が生きてホールに来ているということ自体、珍しかったんですね。

藤岡

そんなこともありましたね。僕と吉松さんがよく接する慶應の音楽家というと、冨田さんより少し下で、「左手のピアニスト」として有名な舘野泉さんがいらっしゃいます。

吉松

舘野さんとは最近よく仕事をさせていただいていますね。

藤岡

あと、10年ぐらい前に僕が慶應のワグネルを振りに行ったときに、トロンボーンの女の子がどうしてもプロになりたいと僕に相談してきた。確かにその子は上手だったんですが、女の子だし、「難しいからやめときな」と言ったんですよ。

3年ぐらい前に何気なくテレビを見ていたら、ベルリンフィルの中で彼女が吹いているんで、腰を抜かしましたよ。清水真弓さんというんですが、彼女はドイツの音楽大学を出ていま、南西ドイツ放送交響楽団の首席奏者です。ベルリンフィルにも、よくエキストラで呼ばれている。

また、僕の2つ下のオーボエの伊熊啓輔君がニューヨークフィルでコーラングレ(イングリッシュホルン)を吹いている。指揮者もやって、「王様と私」のブロードウェーのミュージカルの指揮をやって大成功している。

吉松

渡辺謙さんが出ているやつですね。

藤岡

なんといったって千住真理子さんは同級生だし。

吉松

僕も2つぐらい上に松任谷正隆さんがいる。10年ぐらい上に「ルパン三世」の大野雄二さんがいて、学生時代から本当にプロ級の演奏だったそうですね。

冨田

大野君は早くからエレキピアノがうまくてね。

藤岡

僕がびっくりしたのは、小川理子さんという、パナソニックの役員になって、テクニクスブランドを復活させて活躍している塾員の方が実はジャズピアニストなんです。こっそり銀座のクラブに聞きに行ったんですけど、彼女のピアノは本当にすごい。

あんまりすごいんで、関西フィルで「ラプソディ・イン・ブルー」を一緒にやってもらったら、もう、プレーヤーがびっくりしちゃって。

吉松

ストライドピアノというんですが、ちょっと独特なジャズなのね。

音響のメカニズム

藤岡

冨田さんがシンセサイザーを手に入れられたとき、当時誰も楽器だと思わなくて、軍需関係のものかと思われて税関を通らなかったそうですね(笑)。

冨田

僕も最初、楽器と思わなかったもの。「えーっ」と思ってね。

吉松

キース・エマーソンが弾いている写真を見せて税関を通ったんですよね。

逆に武満徹さんがニューヨークで「ノヴェンバー・ステップス」をやったとき、尺八奏者が、これは楽器じゃないだろうと言われたそうです。実際に鳴らしてみろと言われて、それで税関を通った。

冨田

僕は鳴らしてみろと言われても、鳴らし方が分からなかった(笑)。これからそれを研究するわけだから。

藤岡

シンセサイザーが出始めた頃のころのFM雑誌って、すべてのジャンルの音楽が記事や広告になっていてよかったですよね。

僕はクラシックが好きだったけれど、自然とロックの情報も入ってくるし、冨田さんのアルバムがチャートインしてしたのも知っていましたからね。

吉松

僕もプログレなんかを聞き始めたのは、やっぱりFMでした。ワグナーを聴いたすぐあとに、ピンク・フロイドとかに夢中になって(笑)。

エアチェックといって、毎日テープで録っていましたよね。

冨田

僕らの頃は、エアチェックはできなかったんだよね。戦時中は。

吉松

でも、そのほうが必死になって聴くというのはありますよね。

冨田

そうそう。それでいい曲は、待ち構えていると必ずまたやるんですよ。

「春の祭典」は、最初にアメリカ軍の放送を聞いたときは、何か地球の底からメラメラした炎が噴出するというような音に聞こえた。でも、あとでスコアを調べてみると、割と単純でしょう。余計なものをみんな取っていっちゃうと、何だ、こんなものかと。それよりもバッハの構造のほうがよっぽど難しい。

藤岡

バッハのあの立体的な3声、4声というのはすごいですよね。

吉松

伊福部昭さんがたしか、やはり初めてクラシックを聞いたときに、「春の祭典」は初めからよく分かった。ベートーヴェンの方が実はよく分からなかったと言っていましたね。

冨田

僕は、戦時中は米軍のB29爆撃機とかグラマン戦闘機の音もおもしろかったね。

藤岡

おもしろいとか思っている余裕があったんですか(笑)。

冨田

その延長として「春の祭典」があった。

吉松

やっぱり、音響のメカニズムみたいなところからくるんですね。でもハーモニーの感覚みたいなところは、冨田さんは、ストラヴィンスキーっぽくはないですよね。むしろグレン・ミラーのほうからきているんですか。

冨田

そうかもしれないし、自分でもよく分からないんですよ、なぜこうなっちゃったのか(笑)。ただ、きちんとした指導者がいて、その下で音楽を習ったのではないことは確かです。

指揮者は責任重大

吉松

僕も基本は独学です。慶應高校の図書館に伊福部昭さんやベルリオーズの『管絃楽法』の本とか現代物のレコードとか買ってもらって勉強しました。でも、借りるのはいつも僕しかいなかった(笑)。

高校のワグネルに入ったときに、ファゴットのパートがいないからファゴットを吹けと言われて、もちろん自分で楽器を買わなきゃならないんだけれど、ものすごく高くて買えなくて、中古で、クラブにあるやつをずっと借りていたんです。

藤岡

珍しいね(笑)

吉松

ただ、どうしても音程が1オクターブ半しか出ない。『管絃楽法』の本では、ファゴットというのは音域が広くて3オクターブか4オクターブ出ると書いてあったのに。自分が吹くと、それこそアヒルが首をひねられたみたいな音しか出ない(笑)。「春の祭典」の出だしなんて、想像を絶する音域だよね。

冨田

よくあんなところから始めたよね。僕なら怖くてできないな。

吉松

あれは、出ない音を無理やり出させるハイトーンの発想なんでしょうね。だからストラヴィンスキーが生きていて、いまの演奏を聞いたら「そんなきれいじゃ駄目」って怒ると思う。

でも冨田さん、そんなにストラヴィンスキー的なつくり方はしないですよね。

冨田

でも「ジャングル大帝」なんかは結構パクっていますよ。やっぱりああいうメカ的な音というか。

藤岡

あと冨田さんは、オットリーノ・レスピーギでしょう。「ローマの松」。

この前「源氏物語」をやって思いましたが、「ローマの松」はやっぱりすごく感じましたね。

吉松

レスピーギ、すごいですよね。

冨田

ああいう何か全体の世界ね。僕ががっかりしたのは、終戦後すぐ近衛秀麿がベートーヴェン的解釈でレスピーギをやったんです。これはひどいものなのね。あのころの評論家、野村光一とか山根銀二がもう、くそみそにレスピーギ自体をけなしている。

藤岡

素晴らしい作品でも演奏がよくないと、作曲がよくないとか言われちゃうからね。そういう意味でこっちは責任重大なんですよ(笑)。

シベリウスと宮沢賢治

冨田

「題名のない音楽会」のときの藤岡さんのシベリウスはすごくよかったね。指揮が本当にすごいと思った。

藤岡

いやあ、ありがとうございます。今度、吉松さんが少年時代に衝撃を受けたというシベリウスの6番をやるんです。

「春の祭典」もそうですが、シベリウスの6番で衝撃を受けたというのは、すごくませていたんですね。

吉松

慶應高校の1年のときにLPを生協で買ってはまったんです。

藤岡

僕なんかあの曲が分かるようになったのは、50歳を過ぎてからですよ。それを高校1年生が……。

吉松

いや、あれはずばり、宮沢賢治の世界をそのままオーケストレーションしたらこうなるんだなという感じがしたんですよ。

藤岡

宮沢賢治が好きな人はよくそう言いますね。舘野さんなんかもすごく好きだから。

吉松

そうですね。何か共通項があるんじゃないかな。

藤岡

冨田さんも最近、「イーハトーブ交響曲」を作られている。

冨田

子どものころから興味はあったけれど、よく分からなかったね。

藤岡

僕も全然分からなかった(笑)。なんか妙な孤独感みたいなのがありますよね。

吉松

孤独感もあるし、岩手の田舎に生まれながらカンパネルラとかジョバンニとか、ああいうバタ臭い名前を付ける感覚。

あれと、日本に生まれながら交響曲だとかベートーヴェンなんて言っている感性と、なんか似ているような気がするんですね。

藤岡

僕は吉松隆と付き合っているからには、宮沢賢治を理解しないといけないと思ってこのあいだ「銀河鉄道」のプラネタリウム版の上映を見に行ったんです。

冨田

あれは死者を運ぶ列車なんだ。タイタニック号で死んだ人たちが乗っているんですよ。窓の外の花畑みたいな光、あれは臨死体験でよく聞くあの世界だなと思ってね。

吉松

シベリウスが6番を書いたのはクリスチャンという弟が死んだときなんです。

宮沢賢治も、トシという妹が死んだのがきっかけで、「銀河鉄道」を書いたんです。それがまったく同じ年なんですよ。1922年。

藤岡

それは気持ち悪いぐらいすごいですね。

吉松

僕はずいぶん後になってそれを聞いて、ぞくっとしたんです。だからやっぱり、もの寂しい感じというだけでなく深い喪失感みたいなものがあるんじゃないかな。両方とも。

藤岡

恨みつらみとかはないんだけれど、叫びがあるんですよ。

自由な環境と塾での出会い

藤岡

慶應出身の音楽家というのは、僕のように大学を卒業したあとにもう1回、音楽大学に入り直すタイプが一番多いと思います。ただ、ソリストの場合はそうじゃないですね。

吉松

冨田さんがおっしゃったように、「音楽とはこうあるべき」と言われてやるのではなく、自分でこれだと思ったものを見つけてから音楽をやるという順番が、たぶんいいんだと思いますね。

冨田

グレン・ミラーとストラヴィンスキーなんかは、子どもの頃から聞こえてくるいろいろな音の中の1つなんだよね。そういうところから入っていった。だから、子どもの頃にピアノを習って「これがドですよ、これがレですよ」という教育をされなくてよかったと思いますね。

吉松

僕も本当にそう思います。慶應のときにシベリウスに出会って、プログレッシヴ・ロックに出会って、それでシベリウスのスコアやプログレの研究をしていった。もちろん音楽について知りたくて先生についたり本を読んだりはするけれど、音楽とはなんであるかなんていう御託を聞きたいわけじゃないんですね。

藤岡

慶應ではいろいろな人に会えるところがいいですよね。音楽大学だと、どうしても似通ったような土壌の人が多いから。

冨田

それと、やっぱり音大だと教授がグループを抱えちゃうでしょう。あれは僕は嫌ですね。慶應にいたら、そんなものは何にもない。要するに、僕らの世界はつくったものを聴いて観衆が応えてくれるか、くれないかしかないんですよ。

吉松さんの「平清盛」の音楽の中で、「遊びをせんとや生まれけむ」という歌が出てきましたよね。あれが僕は好きなんです。

吉松

ありがとうございます。でもこうやって話していると、冨田さんと慶應時代にやっていることは同じなのに、僕はサポーターにあたる人とは出会わなかったですね。人格の差なんでしょうか……。

藤岡

僕がサポートしているじゃないですか(笑)。でも、すごくうれしいですよ。吉松さんの曲、「鳥は静かに…」なんか、もう、いろいろな人がやるようになりましたから。

慶應出身ということで、どれだけ僕が恩恵を受けているか。特に関西フィルでの仕事は慶應だということで強力なサポートをしてくださっていますから。関西の三田会の結束力たるや、もう、素晴らしいものがあります。

これからも、いろいろな出会いが慶應の中であるといいなと思います。若い人がいっぱい出てきていますからね。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。