私の専門は分光学です。分光学は、物理学や化学といった学問分野の枠を越えて使える共通語を持つ学問だと思います。横軸に、例えば波長(の他に、波数(cm-1)や周波数(Hz)、エネルギー(eV)など)をとったグラフのことを「スペクトル」と呼びますが、それがあれば異なる分野の研究者同士でも盛り上がって議論できる、そういう学際的な学問分野です。日本には「日本分光学会」という学会があり、今年で創立75周年を迎えました。この学会の設立当初も、応用物理と化学の研究者が分野の垣根を越えて共に議論する場をつくりたい、という思いが出発点だったそうです[1]。実際、分光学の対象と手法は極めて幅広く、黒体輻射のスペクトルや水素原子のスペクトルは、量子論構築の重要な契機となったことでよく知られています。また、私たちの視覚を司るロドプシンの初期過程や、光合成におけるエネルギー移動に代表される超高速現象の解明においては、超高速分光が不可欠な手法です。さらに生命科学の分野に目を向けると、色とりどりの蛍光タンパク質を用いて脳内神経回路を可視化する「Brainbow」という言葉が注目を集めました。このように、光を「分けて」測定するあらゆる手法を分光学と捉えるならば、分光法・分光学は現代科学においてユビキタスで不可欠のツールであり、その基盤となる学問分野の一つと言えるでしょう。
さて、分光学の中でも、振動分光学(振動分光法)は、分子構造を詳細に調べることができる手法です。N個の原子からなる一般の(棒状ではない)分子は、並進および回転の6自由度を除くと3N-6個の自由度をもちます。これらは分子の形を変形させる振動モードに対応しており、振動分光法はまさにこの自由度を観測対象としています。分子が大きくなるほどNは増え、スペクトルは複雑になっていきますが、この逆問題を解くことができれば、分子構造に関する極めて豊かな情報を引き出すことができます。そのため、我が国の構造化学の第一人者の一人である島内武彦先生は、「スペクトルは分子から来た手紙である」というフレーズを残しておられます[2]。スペクトルとは、分子が自らの構造や状態を光に託して私たちに送ってきたメッセージなのです。
生細胞や生体組織もまた、生体分子を基本的な構成要素とする点で、振動分光学の対象です。したがって、光を照射し、そこから届く「手紙」を丁寧に読み解くことで、生命活動のフシギの一端を捉えられるかもしれません。私たちの研究室では、振動分光法の一つであるラマン分光法に加え、非線形光学効果と呼ばれる物理現象を利用して、生きた細胞や生体組織をそのままの状態で撮像しています。そのままを撮像するので、ラベルフリー・イメージングとも呼ばれます。これは、いわば分子振動等のカラーパレットを用いて、細胞を擬似的に彩色する技術です。その最大の特徴は、仮説に依存しない観測が可能である点にあります。これにより、これまで気づいていなかった分子をそこに見つける、または、分子構造の違いを細胞・生体組織内で描き分ける、など、従来の染色・標識法では困難な可視化が実現できます。
その一例として、生きた線虫を撮像した私たちの実験結果を図に示します[3]。従来のイメージングとはまったく異なるコントラストで線虫が可視化されていることがわかります。このように、私たちは生細胞や生体組織など様々な生命システムから届く「分子からの手紙」を手がかりに、未知の生命現象・細胞内イベントの可視化、さらにはそのメカニズム解明を目指して研究を進めています。
[1] 植村琢,分光研究 10(4),181(1962).
[2] 島内武彦,赤外線吸収スペクトル解析法,南江堂 (1960).
[3] Miyazaki et al., Appl. Phys. Express 13, 072002 (2020).