慶應義塾

分子の可能性は無限

公開日:2026.01.09

 ケモインフォマティクスにおける概念である「ケミカルスペース」は、分子のバリエーションが天文学的な数にのぼることを示しています。例えば、医薬品に多く見られる炭素・水素・窒素・酸素・硫黄の5つの元素に限定し、分子量500以下に制限しても、ケミカルスペースを満たす分子は 10の63乗 種類を超えます。理論上存在し得る分子は、ほとんど無限と言ってよいほどです。一方で、分子はほんの少し構造が変わるだけで、まったく異なる性質を示します。「分子の構造と性質の関係を理解し、化合物の機能を自在に操ることで、サイエンスや社会の発展に貢献するあらゆる分子を創り出す」−これが有機化学という学問の特徴であり、究極の目標でもあります。

 例えば私たちは最近、炭素・水素・窒素・酸素の4つの元素だけから、従来は困難とされてきた化学反応を可能にする新しい触媒を創り出しました。開発のポイントは、光エネルギーを吸収して化学反応を進める力を発揮できる分子構造を設計したことです。窒素を含む芳香環とアミドが直交するようにデザインした分子は、青色光を吸収すると分子内で巧みに電子を移動させ、ジラジカルと呼ばれる非常に反応性の高い状態に変化します。この反応性を活用することで、通常はほとんど反応しないアルカンの炭素–水素結合を、別の結合へと変換することが可能になります。

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 開発した分子の性質を詳しく調べることで、予想外の発見につながり、新しい応用が生まれることもあります。上述の新触媒による炭素–水素結合変換反応では、フルオロアルコールを溶媒とした場合に、反応効率が劇的に向上することが実験から分かっていました。その理由を明らかにするため、理論計算を用いて励起状態を詳しく調べたところ、触媒分子が水素結合によって会合体を形成することで、活性種である三重項と呼ばれる励起状態の生成効率が大きく上昇することが示唆されました。つまり、私たちが開発した分子は、水素結合と青色光の両方がそろって初めて、触媒として高い反応性を発揮することが分かったのです。この特性を応用し、カルボキシ基など水素結合を供与できる官能基を選択的に活性化する技術を確立しました。現在では、ユニークな生物活性をもつ天然物の分子構造を精密に作り変えることが可能となり、生命現象を制御する革新的な分子の発見へとつながっています。

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 一つの新しい分子の発見が社会を大きく発展させるきっかけになることは、歴史が物語っています。一方で、ケモインフォマティクスが示す天文学的な数の分子は、化学の世界に無限の可能性が広がっていることも意味しています。自分たちのアイデアで描いた分子が世界を変えるきっかけになる−そのワクワクを、ラボメンバーと一緒に堪能し続けたいと思っています。ぜひみなさんにも、そうした「未到の分子世界」に挑戦し、新しい分子で未来を切り開く一員になってほしいと願っています。