慶應義塾

ハイブリッド量子科学

公開日:2020.07.10

原子・分子のミクロな世界は量子力学によって記述されます。電子は粒子と波の両方の性質を持ち、1個1個の電子が波として干渉効果を示します。ニュートン力学や電磁気学で表される我々日常のマクロな世界とは異質な世界です。半導体を10~100ナノメートル程度の大きさに加工すると、電気伝導などに量子力学の性質が顔を出します。ミクロとマクロの中間という意味の「メゾスコピック」な世界です。

メゾスコピックな箱に電子を閉じ込めるデバイスを「量子ドット」と呼びます。その箱の中で電子のエネルギーは飛び飛びの値(エネルギー準位)に量子化され、ミクロな原子と類似の性質を示すことから「人工原子」と呼ばれます [1]。電子はスピンという属性を持ち、それにはアップ|↑⟩とダウン|↓⟩の2つの状態があります。量子ドットに1個の電子を閉じ込めた人工水素原子におけるスピン状態は、アップとダウンの波としての重ね合わせ

となり、これを利用したのが量子コンピューターです。従来のコンピューターの最小単位は「ビット(bit)」で、すべての数を「0」か「1」かの2進法で表します。一方、量子コンピューターの最小単位は「量子ビット(qubit)」、式(1)のような「0(|↑⟩)」と「1(|↓)」の重ね合わせです。N個の量子ビットを用いると2N個の数の重ね合わせを作ることが出来ます [1,2]。人工水素分子ではどうなるでしょうか。アップとアップ(|↑⟩|↑⟩)、アップとダウン(|↑⟩|↓⟩)などの他に

のような状態が可能です。これは2個の電子のスピンが「もつれた状態」です。1個の電子のみに着目すると、そのスピンはアップかダウンです(それぞれ 1/2 の確率で観測される)。が、一方の電子のスピンがアップのとき、他方のスピンは常にダウン、というように、お互いの状態に強い相関があります。この「もつれ合い(entanglement)」の生成は、量子計算を実行する上で必要不可欠です。

ここ数年、「ハイブリッド量子科学」という新分野が注目されています。電子の電荷とスピン、フォトン(光子)、フォノン(格子振動や微小な機械振動子の振動モードの量子)など、異なる量子系を組み合わせて新物性、新機能を探る研究です。大規模量子コンピューターの実現にはまだ長い時間が必要ですが、その実現に向けて蓄積されてきた技術に目を向け、幅広く有効に活用しよう、という発想が根底にあります。私は量子ドットの電気伝導、近藤効果などの基礎物性を理論的に研究してきました。ハイブリッド系としては、量子ドットを用いたフォノンレーザーの研究の他に、最近、量子ドットの光電流に着目しています。量子ドット中のエネルギー準位の間隔はテラヘルツ(THz)領域の光子のエネルギーに対応します。現在、THz電磁波の技術開発が非常に盛んです。量子ドットにTHz光を当てると電流が生じるため、その検出器に応用可能です(図(a))。2個の量子ドットを並べれば検出感度が2倍になりそうですが、実は量子効果を利用するとそれ以上の感度が期待できます。光の波長が量子ドット間の距離よりも十分長い場合、1個の光子の吸収によって式(2)のようなもつれ合いが生じ、次の光子の吸収率が増大する、これが高感度検出器の動作原理です(図(b))。量子力学には、未知の可能性がたくさん残っています。

[1] 江藤幹雄、「量子力学I」(丸善、パリティ物理教科書シリーズ、2013)、p.115、p.132

[2] 量子ビットとして電子スピンの他、原子核のスピン、光子(2つの偏光方向の重ね合わせ)など、様々な量子系が研究されている。「IBM Q」には超伝導回路の量子ビットが使われている。  

(a)量子ドットにTHz光を当てたときに生じる光電流の概念図。電子は光子を吸収すると、下のエネルギー準位(|g⟩)から上のエネルギー準位(|e⟩)に励起する。量子ドットの左右にはリード線がつながれていて、電子はポテンシャルの高い障壁を「トンネル効果」によって出入りする。トンネル率に非対称性があるとき( ΓLg / ΓRg ≠ ΓLe / ΓRe )、電流が生じる。(b)2個の量子ドットを並べた時の光子の吸収率。量子ドット間の「もつれ合い」がないとき(左図)とあるとき(右図)。光の波長が量子ドット間の距離より十分長い場合、右図のように、光子の吸収によって |g⟩|g⟩ から「もつれた状態」|B⟩ = ( |e⟩|g⟩ + |g⟩|e⟩ ) / √2 が作られる。|B⟩ への遷移率は左図の2倍になり、もう一つの「もつれた状態」|D⟩ = ( |e⟩|g⟩ - |g⟩|e⟩ ) / √2 への遷移は禁止される。