慶應義塾

科学・技術を相対化する視点

登場者プロフィール

  • 荒金 直人

    荒金 直人

科学的な方法・手段による様々なメカニズムの解明と制御。絶えず改良を加えることによってより便利なモノを作り出し、より快適で効率的な仕組みを立ち上げ、私たちの生活を整備する科学技術。しかし、多種多様な技術が生活の全体を取り囲むことで、私たち自身がその効率性にせき立てられ、せわしなさに追い詰められてはいないでしょうか。

例えばマルティン・ハイデッガーという哲学者がいました。彼は、技術の本質(技術を技術たらしめているもの)が、私たちの時代における「存在」(個々の存在物・存在者ではなく、個々の存在物・存在者が「存在している」と言うときのその「存在」)と私たち人間との関係そのものに存するのだと考え、その関係を「総かり立て体制」という言葉で説明します。近代以降の私たち人間と「存在」との関係は、「総かり立て体制」という世界の在り方を成立させており、その支配のもとでは、人間は世界を計算可能で利用可能な「在庫」(ストックされているもの)としてしか認識できず、潜在的に有用な資源や材料として駆り立て取り立てるような形でしかその世界と関係を持つことができない。そして私たち人間もまた、そのように世界を駆り立て取り立てるようにと駆り立て取り立てられている——このようにハイデッガーは考えるのです。

この「総かり立て体制」こそが技術の本質であり、自然や歴史を計算可能で利用可能なものとして対象化する近代自然科学や近代歴史学もまた、人間と存在の近代的な関係の具体化の一つだとみなされます。そして、私たちと存在とのこのような関係は、長大な「存在の歴史」の中の一場面でしかなく、時代の変化と共に全く別のものへと転回する可能性もあるというのです。

このような話は抽象的で無意味でしょうか。非科学的でしょうか。むしろ、抽象的なもの(計算不可能で利用不可能なもの)を無意味だと切り捨てる態度こそが、「総かり立て体制」の支配を証拠立ててはいないでしょうか。

実は私は、ハイデッガーのこのような思想の是非を問うことよりも、むしろこのような思想の中で開かれている特異な視野とそのスケールの大きさに驚くことこそが、有意義だと思うのです。科学技術や科学的認識を最大限に尊重すると同時に、それらを相対化する視点の可能性を感じ取ることも、大切だと思うからです。科学に携わる人にこそ、時には哲学的な思索と向かい合って欲しいと思っています。

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写真1:理工学部の総合教育科目「科学と哲学」を受講している3~4年生の学生たちと一緒に、矢上キャンパスにて。

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写真2:ハイデッガー全集 第79巻『ブレーメン講演とフライブルク講演』、森一郎訳、創文社、2003年、79頁。

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写真3:理工学部の外国語・総合教育教室に所属している教員の研究室は、主に日吉キャンパスの「来往舎」にあります。