慶應義塾

[第209回]種田 宗司

登場者プロフィール

  • 種田 宗司(おいだ しゅうじ)

    (桐蔭学園高等学校出身) 2006年3月 慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業 2008年3月 慶應義塾大学大学院理工学研究科基礎理工学専攻修士課程修了 2008年4月 株式会社大和総研入社 2011年4月 ジャスティン株式会社入社 2013年1月 同社代表取締役社長就任 現在に至る

    種田 宗司(おいだ しゅうじ)

    (桐蔭学園高等学校出身) 2006年3月 慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業 2008年3月 慶應義塾大学大学院理工学研究科基礎理工学専攻修士課程修了 2008年4月 株式会社大和総研入社 2011年4月 ジャスティン株式会社入社 2013年1月 同社代表取締役社長就任 現在に至る

この度は塾員来往への執筆の機会をいただいたことに感謝しております。

私は慶應義塾大学理工学部数理科学科を卒業後に、修士課程へと進学。修了後は、証券アナリストやエコノミストの道に進みましたが、現在は愛媛県四国中央市でジャスティン株式会社というモノづくりの会社の代表取締役社長をしております。

振り返ってみれば慶應義塾大学での日々は私の青春そのものであり、現在の私を形作っているもののほとんど全てがその中にあると言っても過言ではありません。如何にして慶應で学び、愛媛に移住し社長になったのかを、感謝の念を込めて、下記にしたためたいと思います。

【慶應義塾と私】

入学式に父と記念撮影

私は「種田」と書いて「おいだ」と読む非常に珍しい名字です。父は岐阜県大垣市の出身ですが、父が横浜に移住後に生まれたので、私は生まれも育ちも横浜の生粋の「浜っこ」。中学受験をする段になって、目指したのは慶應義塾普通部。しかしながら、どういうわけか縁がなく、不合格。大学受験で再挑戦するものの、一度ではダメで二度受けることとなりました。そんなこともあり、晴れて塾生として、学び舎の門をくぐった際の感動はひとしおでした。

日吉駅を降りて銀杏並木、来往舎、図書館に塾生会館、そしてそこから続く矢上までの道のり・・・。目を閉じれば、未だに当時の風景がありありと思い出されます。思い出される季節ごとの色鮮やかな風景は、それだけ充実し、多彩な学生生活であったことを示しています。

慶應義塾大学理工学部学門2(現在の学門C)、二組としてスタートした慶應での経験は今の私を創っており、今なお私の人生の伴走者だと感じています。

【現在の私】

経営するジャスティン株式会社

現在、妻と結婚し、妻の家業を継ぐべく愛媛県四国中央市に移住して、ジャスティン株式会社の社長をしております。移住したのが2011年4月。東日本大震災直後に移住しました。それまでは株式会社大和総研で、北京赴任などを通じ中国経済担当エコノミストとしてのキャリアを積んでいました。転職したジャスティン株式会社はモノづくりの会社で、自社工場で「パッキン・ガスケット」を作っています。配管と配管の継ぎ目に挟んで漏れを防ぐために使う部品。製紙会社などのプラント用部品や船やクレーン、農機具の部品としても使われ、四国を中心に日本全国のお客様に販売しております。他にも紙おむつやマスクの材料となる不織布をカッティングする為に使う超硬ダイカットロールを世界で初めて販売したりその加工工程で使われる蛇行修正機としては国内で高いシェアを誇る「HAW System」を販売したり、シール材だけでなく幅広い商材で様々なモノづくりの効率化に貢献している会社です。

【柔道とスクーバ―ダイビングと数学と私】

沖縄にてダイビング仲間たちと

大学では柔道、スクーバ―ダイビング、数学の3つに挑戦しました。中高時代は天文部でしたが大学では何か運動を始めようと思い、体育の授業で人並みの成績だった柔道をやろうと理工学部体育会柔道部の門を叩きました。高校から始めていたダイビングもまた大学入学後に本格的に始めようと思っていたものの1つでした。平日は柔道とバイト、週末は海。数学にどっぷりとはまる前はそんな生活を送っていました。

思い出の「数学研究法」のテキスト

そして、残る一つが数学です。高校数学では、どんなに勉強してもちゃんと理解していると言えないようなもどかしさがありました。解き方のトレーニングではなく、更に一歩踏み込んだ先に見える世界が見てみたいという一心で数学を目指していました。ただ、大学に入ってちゃんと向き合った数学はあまりにも偉大で、私が知っていた数学とは全く異なり、学問としての数学と如何に向き合い、どのように付き合っていくべきかを常に考えさせられました。特に1年生の時に履修した『総合教育セミナー「数学研究法」』では、はじめて数学を考えるということをさせて頂いたように感じます。

【数理科学科と私】

矢上キャンパスでのゼミ風景右奥が栗原先生、中央で立って説明しているのが執筆者

いよいよ数理科学科へと進学し、日々、数学に接することができる事に対して喜びを感じながらも学部生らしく部活やバイトにも精を出してキャンパスライフを楽しんでいました。そんな、生活に転機は訪れました。研究室選びです。改めて、自分の数学における興味関心を考える工程は自身のこれまでの人生を振り返る工程にもよく似ており、非常に内省的な良い時間を過ごせたと思っています。また幸運なことに他大学から栗原将人先生と言う方が移ってこられる、そして先生の研究内容があこがれた「整数論」だとわかったのです。数論にあこがれを持つ数理科学科の友人たちと一緒にまだ他大学にいらっしゃった栗原先生を訪問したことを昨日のことのように覚えています。そうして、加藤さん、増田さんという心強い友人を得て、慶應義塾大学における栗原研究室第一期がスタートしました。

【栗原 将人教授と私】

ケンブリッジ大学での研究会中央は栗原先生、左端が執筆者
蓼科にて栗原研の合宿後列中央に栗原先生、前列左端が執筆者

栗原先生に教わったのは果たして数学だけだろうか。いや、人としてのあるべき姿や人生において目標を定めどのように生きていくべきかなど、数学を通じて人生を教わったように思います。毎週行われるゼミに向けての勉強は必ずしも平坦なものではなく、四苦八苦、七転八倒、暗中模索に五里霧中。でも、真剣に取り組む中で、常に先生は傍らにいてくださり、常にリーダーであり、サポーターでもある。そんな立場で導いてくださいました。振り返ってみれば、私が会社の社長としてなりたい姿は、そんな栗原先生に被る部分が多々あります。数学から離れる事にはなりましたが、栗原先生の指導の下、数学に情熱を燃やしたことや数学と向きあうことで得られた視点や視野、何よりも、人間的な成長を促してくださった栗原先生との対話はその後のあらゆる苦労を糧に変える力になっています。

【最後に】

余談にはなりますが、当時、前島信先生(現名誉教授)の研究室で確率論を研究していた同期が妻です。前述のように今の自分があるのは栗原先生との出会いのおかげ。妻と出会えたのは前島信先生のおかげ。慶應義塾と言う機縁が導いてくれた現在。義塾が与えてくれたものに感謝し、塾員としての誇りを胸に、地方から日本のモノづくりを支える実学の徒として研鑽に励み続けたいと思っております。