登場者プロフィール
若林 裕助(わかばやし ゆうすけ)
(慶應義塾高等学校出身) 1996年3月 慶應義塾大学理工学部物理学科卒業 1998年3月 慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程修了 2001年3月 慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻博士課程修了 2001年4月 千葉大学大学院自然科学研究科助手 2002年3月 大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所助手(後に助教) 2008年12月 大阪大学大学院基礎工学研究科准教授 2019年4月 東北大学大学院理学研究科教授 現在に至る
若林 裕助(わかばやし ゆうすけ)
(慶應義塾高等学校出身) 1996年3月 慶應義塾大学理工学部物理学科卒業 1998年3月 慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程修了 2001年3月 慶應義塾大学大学院理工学研究科物理学専攻博士課程修了 2001年4月 千葉大学大学院自然科学研究科助手 2002年3月 大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所助手(後に助教) 2008年12月 大阪大学大学院基礎工学研究科准教授 2019年4月 東北大学大学院理学研究科教授 現在に至る
現在、私は東北大学で物性物理と呼ばれる分野を教えています。普通部(中学校)から慶應義塾に入り、塾高(慶應義塾高等学校)、理工学部、大学院の修士課程まで12年間日吉に通い、博士課程では慶應義塾大学に所属したままつくばの高エネルギー加速器研究機構に3年間居座って、加速器を使った実験を続けていました。学生時代の思い出を書け、という事でしたので、理工学部での4年間を振り返ってみようと思います。
慶應義塾大学の理工学部は1年生の段階では学科が決まっておらず、物理系、化学系、機械系、くらいの枠で入学します。今とシステムが違いますが、私が学部1年生の頃は、2年生になる段階で物理学科、電気工学科、計測工学科のどれかを選ぶことになっていました。最初の段階では物理学科に行ってこの世界の理(ことわり)を学ぶか、電気工学科に行ってロボットを作るか悩みましたが、割と早い段階で物理をやると決心したと記憶しています。
大学での4年間、私がやったことは物理、数学と剣道の3つだけでした。體育會剣道部の稽古は日吉の剣道場で週に6日、一日1時間半。大学から慶應義塾に入ってきた剣道部の仲間の中にはインターハイに出場したような人々が何人も居り、慶應義塾剣道部は全日本でベスト8程度の成績を収めていました(今もその位であるようです)。私は大学4年の時に、20人戦で行われる早慶戦の補欠にぎりぎり入っただけでしたが、ともかく頑張ったこと、部内での競争の体験は、その後の物理学者としての生活にも大きくプラスになったと思っています。
物理・数学の話に戻りましょう。大学1年生の頃は、毎日朝9時から授業、授業の無い時間は図書館で勉強、夕方、稽古が終わって家に帰り、食事をすると21時位ですが、それから3時間は必ず机に向かう、と決めていました。2年生では物理学科に配属され、熱力学、電磁気学、解析力学等、いわゆる古典物理を中心に学びました。3年生で矢上に移り、量子力学、統計力学の他、固体物理、光学等の授業に苦しみました。毎日のように何か提出物があり、ともかく3年生の1年間はきつかった。この1年間のおかげで今、物理を仕事にできていると思っていますし、物理は好きですが、もう一度あの時の大学3年をやれと言われたらできないと思います。
4年生になると、理系の大学では全ての学生は研究室に入り、卒業研究を行います。当時の物理学科では、年明けに研究室の希望調査をして、割り振りを行っていました。年末までは理論の研究室に行くつもりでした。ですが、正月に落ち着いて考えました。当時から私の目標は、物理で飯を食う事でした。物理学科同期50人を見渡して、自分より明らかに頭のいい奴が数名、同程度以上が10人程度、簡単にリストアップできました。そこに至るまで、手を抜いて勉強した覚えがないにもかかわらず、です。これは脳みそで勝負したら世界の中で戦えない、その一方で実験屋になれば根性で勝負できる部分が出てくるだろう、と考え、方針転換して実験の研究室に行くことにしました。今でもこの時の自分の選択は正しかったと思っています。
結局、たまたま同じ苗字の若林信義教授の研究室に入り、X線回折で物質の構造、及びその乱れを見て、その物質の性質の起源を考える、という研究を始めました。今でもそれをやっています。研究室での生活は、「楽しい」の一語に尽きます。朝、研究室の自分の机に行き、昨日の続きを考えたり実験をしたり。夕方になると剣道部の稽古に行って、終わってからまた研究室に戻ってしばらくやってから帰る。大学で全力を使い切っているので、何も持たずにまっすぐ家に帰って、寝て、翌朝また手ぶらで大学に行って、机の上に開いたままのノートに向かって座る、なんていう生活をつづけた時期もありました。大学の四年間(及び修士課程の2年間)、毎年、「去年の自分はなんて馬鹿だったのだろう」と思うほどの成長がありました。一生の中でこれだけの進歩ができる期間は短く、その時期に適切な指導を受けられたことは大変に幸運であったと思っています。今は、自分がそれを若い人に返す番と思って仕事をしている所です。