慶應義塾

[第39回] 磯村 有輝子

登場者プロフィール

  • 磯村有輝子(いそむら ゆきこ)

    (私立湘南白百合学園高等学校 出身) 1987年3月 慶應義塾大学理工学部機械工学科卒業 1989年3月 慶應義塾大学院理工学研究科機械工学専攻修了 1989年4月 三菱電機株式会社 入社 鎌倉製作所機械技術部 配属 現在 飛しょう体システム部システム技術課にて飛しょう体の空力設計を担当

    磯村有輝子(いそむら ゆきこ)

    (私立湘南白百合学園高等学校 出身) 1987年3月 慶應義塾大学理工学部機械工学科卒業 1989年3月 慶應義塾大学院理工学研究科機械工学専攻修了 1989年4月 三菱電機株式会社 入社 鎌倉製作所機械技術部 配属 現在 飛しょう体システム部システム技術課にて飛しょう体の空力設計を担当

人生は選択の連続。将来の確たる目標が特になかった私は迷いあり揺れあり、果たしてこれまで常にベストな選択をしてこられたかどうかは甚だ疑問。でも選択ができる人生自体有難いですし、迷うことも楽しんできました。慶應を卒業したことで私に与えられた最大のアドバンテージは、様々な岐路に立ったときいつも手札が何枚もあると感じられることなのです。

大学入学を境に私の生活は一変しました。12年間通った女子校から一転して男女共学の世界、加えて何かと勉強以外にも気が散るお年頃、毎日がまさに青春、終わらない夏。楽しかった一般教養の授業、いきなり挫折した線形代数、空き時限には喫茶店に入り浸ってレポートを書き、実験中、班全員でラーメンを食べに生協食堂へ抜け出し先生から大目玉を頂戴したり。大学院卒業まで続いた22時半の門限の辛さ、毎度白熱した矢上の研究室対抗のソフトボール戦、徹夜で仕上げた卒論(もちろん修論も←懲りないタイプ)と、想い出は勉強3割その他7割といったところでしょうか。絵に描いたような大学生活ですね。

4年になり、流体の数値解析をやっていて、当時機械工学科で最もスマートな研究室と謳われた安藤・棚橋研に入り、空気を封じ込めた箱の一面を暖めた時の内部の温度分布の時間変化を追う数値解析をテーマに一年間研究しました。この年は無我夢中のうちに終わってしまったので大学院に進学。まだまだ理系女子の少ない時代のことで、あらゆるデメリットを排しておきたかったことも進学の大きな理由でした。社会に出るのを2年延長して得たものは、まあ漠然とした自信と執拗に現れる流体力学の無次元数へのアレルギーの克服。流体の何たるか位はようやく掴んで卒業しました。

安藤・棚橋研究室卒業写真(1987年)
研究室にて修論締め切り間近(1989年)

そして就職。メーカー離れが著しかったバブルの真っ只中、モノづくりをやりたかった私は迷わずメーカーを希望。初めは研究テーマも女性であることも活かせると考えて家電メーカーのエアコン研究所を検討し、母校の中高に程近く、学校推薦を頂ける三菱電機を希望するのですが、会社見学に出かけてガラリと考えが変わってしまいます。三菱電機は鎌倉地区に家電研究所の他、人工衛星や防衛庁向け装備品の開発をしている鎌倉製作所があり、社のOBからそこの衛星組立工場やミサイル専用の風洞試験設備を見せつけられた挙句、「メーカーに入るからには最先端の技術に携わってみないか」の殺し文句、その場で思わずハイと答えていました。

そして現在、防衛庁向け飛しょう体の機体形状設計を担当しています。狭い世界で、私のチームは航空工学科出身の人ばかりですが、その中で純粋な機械工学科出身は結構貴重な存在です。モノを作り上げるのに必要なのは、技術・性能の追求とその他の要素とのバランスを計る力と、ひと度目標定まれば付随する幾多の難を排除していく行動力。私はそういうバランサーとして配されたのでしょうおそらく。大学の機械要素設計の講義で「機械工学はモノづくりの要である」と学んだそのとおりに。この部署では本人の意思次第で開発における全ての作業に関わることが可能で、新規装備品の提案、開発費用算定などの営業的な仕事、模型を作り風洞試験を行って最適な機体形状を決め、製品の機構設計、図面作成という機械屋本来の技術的な仕事、設計手法も理論、実験、数値解析と自分の得意な手法を選べるのです。自ら悩んで形を造り込んだ機体が製品となりそれに触れる時、機械系エンジニアになったことを感謝する瞬間です。さらにそれが発射試験で飛しょうする姿を見守る時の高揚感、達成感はもう例えようがないです。

職場でも私生活でも私の行動基準は明確で「何事も楽しむ」主義。故にストレスフリーが基本でして、チーム員にも可能な限り本人の希望する職務を担当できるよう、早く帰ってプライベートも充実できるよう心がけています。社内には多くの本塾出身者がいますが、考え方が柔軟であらゆる状況をありのままに受け入れ、汲々としたところが無く心にゆとりがあり、人生を謳歌している風に見受けられる人が目立ちます。そのような姿勢によって道が自ずと拓けて行くようです。

ダイムラーベンツ(ミュンヘン)出張中、スイスの研究所に勤務していた研究室同期の木倉一家にマッターホルンへ案内してもらう(1997年)

さて入社して17年、昨年は大きな区切を迎えました。子供が生まれたのです。三菱電機は出産後の職場復帰に関して至って寛大なので、私は約1年半の休暇を取得した上で同じ職場に帰り、当面は短時間勤務でスタッフ的な仕事をすることにしました。出産によるブランクについては周囲から取り残されるような閉塞感に当初悩みましたが、仕事と子育てどちらも大いに楽しめるラッキーな立場にあることにじき気づき、子供の様子を見ながら徐々に戦線に復帰しようと思うようになりました。早めに復帰し直ちにフル稼働しますと言って突入した産休ですが、生まれてみれば「この子を預けて仕事をするなんて考えられない!」と思えるほど子供が愛しくてしかたなかったのです。今は仕事のことは完全に頭の中から消し去っていますが、もう1~2人子供が欲しいこともあり、社内に託児所を設置できないかとあらましごとに思いを馳せつつ幸せな日々を送っております。

現在育児に奮闘中(2006年)