慶應義塾

[第8回] 塩田 哲郎

登場者プロフィール

  • 塩田 哲郎(しおた てつお)

    (東京都立目黒高等学校 出身) 1979年3月 慶應義塾大学工学部電気工学科卒業 1979年4月 日商岩井株式会社入社 電子機器部、機械部門統括室、通信プロジェクト部等を経て 2001年9月 日商岩井株式会社機械カンパニー企画業務室副室長 2003年7月 電源開発株式会社入社 事業企画部シニアアナリスト副部長 現在に至る

    塩田 哲郎(しおた てつお)

    (東京都立目黒高等学校 出身) 1979年3月 慶應義塾大学工学部電気工学科卒業 1979年4月 日商岩井株式会社入社 電子機器部、機械部門統括室、通信プロジェクト部等を経て 2001年9月 日商岩井株式会社機械カンパニー企画業務室副室長 2003年7月 電源開発株式会社入社 事業企画部シニアアナリスト副部長 現在に至る

本の虫だった私は勉強そっちのけで中学時代本を読んでいた。その結果、高校受験は恐ろしい事になり生まれて初めて勉強をしなかった事のツケを知らされた。そしてそれ以来勉強の虫になった・・・と云えば、な~んだ、で終わるのだが、高校に入り小さい頃から好きだった音楽を追求したくて、合唱のクラブに入った。これが女の園の様な場所で、私は本の虫から単なる女好きになった。本で読んだことを実践出来る場をただで提供されたわけだ。女の子の気を惹きたくてクッサイ詩など書いてはそれをクラブの女の子に送っていた。古典的な言い方をすれば付け文、今なら、ケイタイでメールをする処だろう。物書きの端くれになったルーツは其処にある。本格的に文章を書き始めたのは三十歳、英国駐在になった時だ。独身だった私は一人暮らしの寂しさを(お金も無いでの悪い遊びも出来ず)、妄想の中で紛らわそうと執筆を再開した。そして、高校の時には文字に落とすことの出来なかった大人の男女の心の襞を描き出すことが出来ることを自分で発見した。

駐在地のロンドン郊外にて

十八から三十までの間、何が自分に起こったのだろう?そしてその後は?幸い高校は留年せず卒業出来、慶應義塾大学工学部に入学出来た。工学部を選んだのは、高校時代の現代国語で文章解釈がことごとく担当教諭の理屈と合わず、人文系に対する抜き差し難い不信感が芽生えた為だ。にも拘わらず作家だが・・・慶應工学部は、入学時に専攻を選ぶ必要が無い。それも気に入っていた。自分の遣りたいことなど、十八や十九で分かるわけもない。三年に上がる時、電気工学科を選んだ。当時は弱電花盛りだった。私は、第二外国語にフランス語を選んでいた。理由は不純極まりない。ヴォーグを原書で読んで女の子に今月号の内容は・・・なんて云えれば、カッコいいだろうというノリだったのだが、のめり込み四年間続けた。お陰で現在フレンチを食べる時、メニューを読むのに苦労しないし、仏蘭西語圏への出張も問題ない。実践的だ。

黄金色に耀く銀杏並木

四年に上がる時、研究室は光の理論物理(レーザー)を研究する佐々木先生の研究室を選んだ(というよりも、入れて貰った)。先ほどと矛盾するようだが、誰もが弱電を目指す事に疑問を感じ、アカデミックがいいと思った。そこでシュレジンガーの波動方程式を解いていた。波動砲は宇宙戦艦ヤマトの特許ではない。シュレジンガーにある。レーザーの実験は校舎がぼろいので光が漏れるから、いつも夜中だ。夜中じゅう実験をしていた。更に機材が四谷の医学部/慶応病院側にあるのでそちらにもよく出掛けた。これも夜中。いつも寝不足。しかし、憧れの三田に行くのは文化祭の時だけ。だから、私の小説「夢の流れ」と「夢現(むげん)の舞い」に現れる主人公たちは木漏れ日の下、黄金色に輝く日吉の銀杏並木の紅葉の下をそぞろ歩き、落ち葉の舞い散る三田のキャンパスのベンチで肩を寄せ合い愛を語る。あの銀杏並木の美しさを超えるのは北大の並木道だけだ。しかし、北大は渡辺惇一のなわばり。私は日吉と三田の美しさを追求する。

著書「雪桜」

心に受けた印象は薄れることは決して無い。それは発酵するのだ。人間はコンピュータでは無い。INPUTした途端にOUTPUTが出る筈もない。ワインと同じように熟成期間が必要なのだ。大学はワインの樽の様な物、そこで、自らを熟成させる一次発酵段階だ。ワインが何万種類も有る様に熟成の度合いやり方は様々だ。そのやり方を選ぶのは学生たち、あなた方だということ。それが大切なのだ。サラリーマンは嫌だ、宮仕えは嫌だという風潮はある。私も嫌だ。しかし、お金を貰うのは嫌なことを遣らされ、時間を拘束されることへの対価なのだ。嫌なことを嫌だと思っていては何も始まらない。如何にして自分でそれを面白くするか?それがアイデアであり営業に繋がる。熟成されていないワインを飲んでも美味しくない。今度は二次発酵が必要なのだ。企業はその場を与えてくれるものと私は考えている。

理工系を卒業したにも拘わらず、私は総合商社を就職先に選んだ。メーカーよりも色々なチャンスがあると思ったからだ。が性格に瑕疵(かし)のある私は、会社の中でたらい回しになった。システム部3年。電子機器部4年。ロンドン駐在2年(ほんとは5年が標準。出来の悪さと遊んでばかり居たので2年で戻された)。機械部門統括2年(島流し)。通信プロジェクト部6年。この通信担当で(IPなど無い時代だ)、中東に年間160日10回程度の出張を6年間していた。イラクがクウェートに侵攻し、レバノンへのイスラエル爆撃が未だ活発だった頃だ。命がけの事も指折り数えられる程経験した。その時邂逅したNECの中近東部長殿は今も家族ぐるみの付き合いだ。人生の大先輩であり、角(かど)のある私の性格を暖かく見守ってくださった方で感謝してもしきれない。当時臭くて汚い中東が嫌いだった。でも振り返ればいずれも宝物の様な経験になっている。たらい回しは、物事を上から俯瞰し、世の中の流れに横串を刺す見識を与えてくれた。

著書「雪桜」の舞台でもある、松本の江戸前寿司店「蔵」にて。

その後投資事業の評価部門に回った。そこに6年いた。その時に初めてアナリストを名乗った(会社の正式タイトルに存在しないが名刺に自分でそれを入れると云って周りが反対しなかった)。入社20年目で認められた。その日商岩井の名前ももう無い。私も辞めて、携わっていたエネルギーが縁で電源開発に再就職した。遅咲きだと自分でも思う。しかし、この期間が必要だった。中東もエネルギーも英国も全てが私の四つ目の小説『幻映霧(げんえいむ)(まぼろしは霧に映りて)』に結晶している。余りの長さに出版社が出版を嫌がっているが、COPY製本を読んでくださった方々は、エネルギーが国際政治に使われ、官庁の思惑が交錯し、中東の熾烈な入札の世界に驚く。そして、商社マンの実態に嘘だろうと首を捻る。が、それは私にとって舞台設定に過ぎない。しかし20年超の経験があればこそ、その設定をリアルに組み立てることが出来、そこに展開される商社マンと謎の美女紫野(むらさきの)の恋物語が残照の様に輝くのだ。ワインは二次発酵を終えた。そして、飲まれる為にボトル詰めをされて店頭に並んだ。大学4年間と会社勤め27年合計31年で、ワインならば1973年ものだ。ブドウの当たり年では無いのが残念だが。従って、このワインは不純物が多く不味~っと云われるかもしれない。