仕事で必要となり、過去のSFC関係の本がデスクに積み上がったままだった。それを部屋の書棚に戻そうとしたところ、適切な棚が見つからず、どうにも据わりが悪い。もちろん、個々の専門書はテーマに沿ってしかるべきところに落ち着くのだが、悩ましいのは過去のシリーズもの。各巻や各章だけみれば国際政治とか公共政策とかに行き先は決まりそうなものの、せっかくなのでまとめて収めようとすると、どの位置に並べてもどこかはみだしてしまう。要は、まるっと受け入れてくれそうな場所がない。
いつも書き手や読み手として書籍に向き合っていたが、少しはメディアセンターの役職に馴染んだからか、こうした本たちはいったいどう分類され、書棚に収まっているのかしらん?と、つい考え込んでしまった。で、この収まらない感じはいかにもSFCだなと、思わず笑ってしまった。
総合政策の名を冠したシリーズものは過去に二度刊行されており、環境情報についても「人間環境ライブラリー」という10冊からなるシリーズがあった。いずれも扱うテーマが多岐にわたるうえ、まだ確立していない新しいテーマも多く、それらがひとつのシリーズのなかに同居している。書き手の所属も、総合政策、環境情報、看護医療などにまたがっている。私たちは、これらが混ざり合ってSFC(の、ほんの一部)なのだと言いたいのだが、伝統の図書分類法の側からは、それは何なのですか?と問われているような感じがある。シリーズものにはあり得ることで、ふつう図書館ごとに選書や受け入れの方針があるから、それに沿って収めているといえばそれまでだ。とはいえ調べてみると、実際各巻の分類番号はバラバラなことが多く、SFCを知る立場からすると、どこか無理して収められているようにも見えた。
思えば、「SFC」そのものをこれほど打ち出し、主題に据えた出版物を出してきたキャンパスは、ほかにそう多くないのではないか。学内向けの冊子まで含めれば、結構な数にのぼるだろう。それだけSFCの特徴や先進性を積極的に打ち出してきたともいえるし、ずっと自分探しの旅の途中のようでもある。そのうえ、それがSFCを的確に言い当てているかといえば、必ずしもそうでもないような気もする。それでいて、SFCに関わる人びとの間には、「いかにもSFCらしい」という雰囲気だけは、なぜかたしかに共有されている。学生も、自分たちのことを「塾生」ではなく「SFC生」と呼ぶのだから、アイデンティティに深く根ざす何かがあるのだろう。
はみだしてしまうのは本だけではない。人もまた、物理的にはみだしていく。先日、社会・地域連携の取り組みについて他の大学の関係者と話す機会があり、「なぜSFCの学生はあれほどあちこちで活動しているのですか?」と問われた。「どこにでもいますよね、おたくの学生さん」と言いたかったようだ。たしかにそうで、キャンパス外、しかもなぜそこで?と思うような場面でSFCの学生や関係者と出会うことが実に多い。自分の研究分野を見渡しても、社会課題の解決に取り組むソーシャルセクターの領域には、SFCの学生や卒業生が驚くほど多いのが私の実感だ。政府でも企業でもなく、そのいずれからもはみだした場所に、みずからすべきことを創り出してきた人びとがいる。
そういえば、開設時のSFCのコンセプトをまとめ上げた井関利明先生は、これから必要なことは集中力でなく分散力だと、冗談のようでいて大真面目に言っていた。ひとつの場所に力を集めるのではなく、あえて散らばり、境界を越えて拡がっていくこと。書棚のどこにも収まりきらないシリーズ本も、キャンパスの外へと飛び出していく学生たちも、その言葉のままを体現しているようでもある。収まりのよいところでじっとしていればよさそうなものを、ついついそれができずに、はみだしてしまう。
結局、積まれた本は面倒くさくなってそのままだ。いっそ「SFC」という分類項目でもあれば話は早そうなものだが、きっとそれができた途端に、またそこからもはみだしていくのだろう。
ちなみに、SFCのメディアセンターに(だけ)、これまでのSFCの出版物がまるっと収まる棚がちゃんとある。ぜひ眺めにお越し下さい。あわせて鴨池側の秋の景色もおすすめです。