2025/11/26
私たちヒトを含む生物が、何かについて知り、考え、判断するとき、脳内では何が起きているのか。神経科学とAIを組み合わせることで、理論と実験の両面から解き明かそうとしているのが生理学教室の牧野浩史教授です。イギリス、アメリカ、シンガポールの大学で神経科学を研究する中でAIの可能性に気づき、独学でAI研究の道を切り拓いてきました。2024年に慶應義塾大学医学部に就任してから精神医学にも関心を寄せているという牧野教授に、AIと融合した神経科学の最先端や将来展望についてうかがいました。
独学でAIを学び、神経科学と融合した分野を確立
牧野浩史教授の研究テーマを一言で表現すると「知」。ヒトや動物が意思決定をするときに脳内でどのようなことが起こっているのか、マウスやAIを用いて明らかにしようとしています。
「私たちの研究では、課題に取り組んでいるときのマウスの脳の神経活動を、カルシウムイメージング、電気生理学、光遺伝学などの手法を用いて記録します。例えば、マウスが課題を学習するとき、脳内でどのような変化が起こっているのかを調べます」
ヒトの脳には約860億個、マウスでも約7100万個の神経細胞(ニューロン)があるため、特定の神経活動を捉えるのは容易ではありません。そこで牧野教授は、AIを使って神経活動の理論モデルを構築。マウスの脳とAIの仮想脳の神経細胞を比較する研究を行ってきました。
「私たちの研究は、神経科学とAIを融合した分野横断的領域です。AIの中でも、強化学習にディープラーニングを組み合わせた“深層強化学習”という手法を使います。深層強化学習は他の機械学習のように学習データを用意する必要がなく、AIが自らデータを集めて学習します。もともと心理学から発展した手法なので、神経科学との親和性が高いことはわかっていましたが、私のようにマウスの脳の神経細胞とリンクさせて比較している研究者はいませんでした。今はかなり普及した研究手法ですが、この領域について私たちは先駆的な仕事をしたのではないかと思います。」
子どもの頃から脳科学に興味を持ち、高校卒業後すぐに英国スコットランドの大学に進学。ニューロサイエンティストとして研究実績を積んできた牧野教授ですが、AIについてはゼロから独学で学んだそうです。アメリカの大学で博士研究員をしていた2015年、DeepMind社が行った深層強化学習に関する論文を目にし、自分でもやってみたいと思ったのがきっかけでした。
「まったくの独学ですが、コンピュータさえあれば誰でも勉強できるのが情報科学のいいところです。教材もオンラインで手に入りますし、やる気と英語力があればすぐに勉強できます。一方の神経科学を研究するには実験などが必要で、情報科学の研究者が後から神経科学を修得するのは大変です。私のような研究の進め方で良かったと思います」
課題を解くマウスの脳内の神経活動を見る
ある研究では、マウスに事前に2つの動作を学習させます。そのうえで2つの動作を組み合わせないとできない課題を与えて、その課題を解くときの神経細胞を観察します。
例えば、マウスがジョイスティックを操作して、吸水口を自分の近くに持ってくると水が飲めるという課題があります。事前のトレーニングでは、ジョイスティックを操作すると水がもらえること、吸水口があったら舐められること、という2つのことを数か月かけて学習させました。この2つを組み合わせたものが最終的な課題です。実験したマウスは数十秒で解くことができました。
「知を定義するのは難しいですが、既習の知識や技術を広範囲に適用できる『汎化』は、知の1つの側面として考えられます。マウスは2つのスキルを組み合わせることで新しい課題をすぐにクリアしました」
この実験では、課題を解いているときのマウスの数百・数千もの神経細胞の活動を、カルシウムイメージングという手法を用いて1つひとつ見ています。カルシウムイメージングとは、神経細胞が活動するときのカルシウム濃度の変化を蛍光で可視化する技術です。動き回っているときのマウスの神経細胞を生きたまま見ることができます。
「マウスによる実験では、事前トレーニングをしているときと新しい課題を解いているときのマウスの神経活動の違いを探ります。その違いに『知』のメカニズムが働いていると考えられます」
AIエージェントの仮想脳内での活動を見る
この研究では、課題に取り組むマウスの脳と同様に、課題に取り組むAIエージェント(自ら判断して行動するAI)の“神経活動”も観察します。AIには、「このような状況のとき、こっちの行動を選択すると報酬がもらえる」といった“価値(行動価値関数)”を定義しておきます。
それから、マウスと同じ課題を仮想空間でAIにやらせてみて、そのときのAIの神経細胞の変化を観察します。
「マウスの神経細胞だとそれぞれの活動が何を意味しているのかを明示的に捉えられない場合がありますが、きちんと定義されたニューラルネットワークからなるAIならば、その神経活動の機能を捉えやすく、行動との関連づけもしやすくなります。
ですから、AIと比べてみて同じような活動が見つかったなら、マウス脳の神経活動も同じように解釈できるのではないかと考えました」
神経科学とAIを融合させた牧野教授の研究は、脳や神経活動の理解を深めると同時に、AIの知能向上にも役立つものです。
「私の研究では神経活動の理論モデルとしてAIエージェントを用いますが、研究を進めていく中では、マウスならうまくいくけれどAIではうまくいかないということも多々起こります。そのようなAIと生物との間のギャップを見極め、その差を縮めることがAIの知能向上につながりますし、結果として神経科学の発展にもつながる。そんな好循環を生み出すことも目標の1つです」
複数のマウスでの社会的な行動をモデル化
牧野教授は、集団や社会における意思決定を対象とした研究も行ってきました。実験したのは、2匹のマウスが同じタイミングで車輪を回すと吸水口が近づいてきて水が飲めるという課題で、2匹のマウスは協力しなければいけません。
「実験では、マウスが他者との関係性の中でどのように意思決定しているのか、そのときの高次機能を司る脳領域の神経活動や報酬系といわれるドーパミンの放出などを見ています」
AIバージョンでは、それぞれに人工ニューラルネットワークを持っている2個のAIエージェントが、仮想空間で同じような課題に取り組み、それぞれの神経活動を可視化します。
「研究手法としては1匹のときと同じですが、複数での研究をさらに発展させて、最終的には社会性や集団を対象とする方向に進んでいきたいと思っています。3、4匹のマウスに競争させるような課題を用意すると、常に勝つマウスが出てきます。また、マウスにも階層意識があり、自分より上の階層にあると考えられるマウスに報酬を譲ることがあります。そういった意思決定がされるときの神経活動を、マウス実験とAIの双方向から検証してみたいと思っています」
慶應義塾の強みを活かして、ヒト社会のシミュレーションも
2024年に慶應義塾大学医学部の生理学教室教授に就任したことを機に、ヒトを対象とした臨床に近い医学研究にも興味が沸いてきたと話す牧野教授。
「慶應義塾大学医学部は基礎と臨床教室の距離が近いので、精神・神経科学教室の先生方と、精神疾患について研究することを相談しているところです。そのために、まずはAIモデルを用いてヒトの社会を仮想空間で表現できないかと考えています」
世界では、大量のAIエージェントが暮らす仮想空間を開発し、その社会の中で起こる現象や人々(AIエージェント)の行動、判断などをシミュレーションする研究が行われています。牧野教授がイメージする仮想空間では、社会生活や人間関係の中で社会的に孤立するAIエージェントが登場するかもしれません。
「例えば、どのような社会的要因が精神疾患患者さんの回復につながるのかといったことを研究してみたいと思っています。そのような研究は神経科学よりも心理学や認知行動科学に近いかもしれませんが、慶應義塾大学医学部にはその分野のスペシャリストが何人もいるので心強いです。そして、これまでの研究と同じようにマウスでの実験を行い、そこで得た知見をAIに反映させていくことで仮想空間をブラッシュアップさせる。最終的には、個人が幸せに思う社会構造について、仮想空間でシミュレーションできれば面白いですね」
慶應義塾大学病院の精神・神経科学教室が取り組んでいる先進的な治療法や新しい薬のメカニズムを調べたり、どのような患者、社会環境において効果があるか、AIエージェントや動物モデルを使って検証したりすることなども考えられます。
幅広い知識と経験が研究者としての強みになる
これから慶應義塾大学医学部や医学研究を目指す人たちに向けて、今から身につけると良いことや心構えを尋ねると、「まずは英語を使っていろいろな人とコミュニケーションがとれる力。そして、多くのことを知り、経験して、それらを組み合わせる基盤を作っておくこと」との答えがかえってきました。
「私自身も神経科学とAIを組み合わせて新しい研究領域を切り拓いてきました。現代の社会でも多様性が重要視されるようになりましたが、個人レベルでも幅広い知識や経験を持っていることが強みになります。
スポーツ界で考えても、日本では子どものときから1つの競技に打ち込むよう指導する場合もありますが、欧米では若いうちはできるだけいろんな競技を経験しておくことを勧めます。そのほうが後になって1つの競技に絞ったときにも良い成績を収められることが、AI研究などから理論的にも明らかになっています。
とはいえ、実際にそれをできている研究者は多くありません。1つのことに集中して取り組まなければいけない時期もありますが、できるだけたくさんのことに興味を持ち、触れてほしいと思います」
自分自身の将来については、「研究者としては、社会に対して何らかの貢献をしていければと思っています」と話します。近年のAI研究は、莫大な資金を活用して驚異的なスピードで研究開発を進める大企業の影響が大きく、アカデミアで世界にインパクトを残すような研究は難しいといわれていますが、「アイデア次第で人々や社会の役に立つ研究はできると思います」と語る牧野教授。
慶應義塾大学医学部への就任を好機として、今後もさらに道を切り拓こうとしています。
牧野 浩史(まきの ひろし)
慶應義塾大学医学部生理学教室 教授
2005年英国セントアンドリュース大学卒業。2010年米国コールドスプリングハーバー研究所博士課程修了(理学博士)。米国カリフォルニア大学サンディエゴ校博士研究員、シンガポール南洋理工大学医学部助教授・研究室主宰者を経て、2024年より現職。主な研究領域は、神経科学、人工知能。
※所属・職名等は取材時のものです。