慶應義塾

がん治療の低侵襲化を追求する

2025/11/06

 ー 山上 亘教授が描く未来の婦人科腫瘍学 ー

がん治療は近年、ただ「命を救う」だけでなく、「患者の人生そのものを守る」方向へと進化しています。その中心にあるのが治療の低侵襲化です。慶應義塾大学医学部で婦人科腫瘍学を専門とし、研究と臨床の両面で第一線を走り続ける、産婦人科学教室(婦人科)の山上 亘教授は、この低侵襲化を幅広い視点でとらえ、未来の治療モデルを築こうとしています。  

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病院通いの子ども時代から医師を志すまで

子どもの頃から病院に縁が深かった山上教授。虫垂炎、中耳炎、上腕骨骨折、アキレス腱断裂と、次々と体調を崩し病院通いが絶えませんでした。「特に中耳炎はつらく、風邪をひくたびに発症し、鼓膜の切開を繰り返すことがトラウマにもなった」と振り返ります。

しかしその経験が、「自分も人を治す側に立ちたい」という思いにつながり、医師を志す原点となりました。  

勉強面では国語が苦手だった一方で理系科目を得意とし、特に電子工作やアマチュア無線など理工系分野への関心が強かったそうです。高校受験の頃には医師を目指すと決め、慶應義塾志木高等学校から慶應義塾大学医学部へ進学し、本格的に医師への道を歩み始めました。

緩和ケアへの関心と「がんを治す医師」への転機

学生時代から緩和医療に強い関心を抱き、夏休みにはホスピスでボランティア活動を続けた山上教授。当時はまだ緩和ケアが広く知られていませんでしたが、子どもの頃の病院通いの経験から「患者に寄り添う医療」に魅力を感じていたのです。

しかし、大学6年生のとき、ホスピスを見学した際に大きな転機が訪れます。ホスピス部長から「まずは、がんを治せる医師になりなさい。その上で、なお緩和ケアをやりたいと思ったら来なさい」と助言されたのです。

「この言葉は、患者に誤った選択をさせないために、まずがんに真正面から向き合うべきだというメッセージだと思いました」と山上教授。その後、臨床研修で産婦人科を回ったときに、産婦人科でもがんを診るのだと知って興味を持ち、それが産婦人科を専門に選ぶ決断につながりました。  

妊孕性温存療法との出会い

産婦人科医として2年目、山上教授は「若年性子宮体がんを研究してみないか」と勧められます。子宮体がんは50〜60代に多い疾患で、40歳未満の罹患は5%程度とされる希少がんです。標準治療は子宮と卵巣の摘出ですが、若年患者の場合、それは妊娠の可能性を失うことを意味します。そこで注目されていたのが、臓器を残しつつがんを治療する「妊孕性温存療法」だったのです。

食生活の欧米化や晩婚・晩産化の影響もあり、若年性子宮体がんは増加傾向にありますが、症例数は依然として限られ、扱う医師は多くありません。あまり注目されない分野になぜ山上教授は注力したのでしょうか。

その問いに、山上教授は

「がん治療の目的は、一つには生存率を高めることですが、それだけで患者さんは幸せになれるのでしょうか」と逆に問いかけます。

患者にはそれぞれの希望があり、長生きだけが唯一の価値ではありません。妊娠の可能性を残したい人もいれば、生活の質(QOL)を大切にしたい人もいます。

そのため、山上教授が取り組んでいるのが、がん治療の低侵襲化です。低侵襲化とは患者さんへの体の負担を極力小さく抑える治療法のことです。代表的なものは、腹腔鏡やロボットを用いた鏡視下手術です。開腹手術に比べて患者さんの身体的負担を大きく減らし術後の回復を早める効果があります。

しかし、山上教授が考える低侵襲化はそれだけにとどまりません。先に述べた妊孕性温存療法もそうですし、センチネルリンパ節生検(不要な広範囲リンパ節の切除を避け、浮腫などの後遺症を防ぐ)や、がんサバイバーへの術後ケアも含まれる広範囲なものです。

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がん治療の未来像――命と人生を同時に守る医療へ

山上教授の研究と臨床の取り組みを貫くテーマは、常に「患者のQOLを守ること」です。がんを治すことはもちろん、治療後に患者がどのように人生を歩んでいくのか――その未来まで見据えて治療をデザインしています。  

いかにして、がん患者の身体的、心理的負担を減らし、人生の全体の質を守るか。これらを同時に実現するために、低侵襲治療の可能性を可能な限り広げていく。その追及が山上教授の目指すところなのです。それはおそらく、医学生の頃から興味のあった緩和ケアの延長線上にあるのでしょう。

妊孕性温存治療の安全性と限界を探る

山上教授の研究の大きな特徴は、何よりも圧倒的な症例数に裏打ちされた臨床経験にあります。婦人科のがん治療の中でも妊孕性温存治療は非常に専門性が高く、多くの施設では年間数例程度の実施にとどまります。ところが慶應義塾大学病院では、年間約400件という症例数を扱っており、国内でトップクラスの規模を誇ります。

山上教授が目指す研究のゴールは「妊孕性温存療法の限界はどこにあるのかを突き止める」こと。がんが治りやすい人と治りにくい人、再発しやすい人の違いを、臨床的・病理学的特徴や、ラジオミクス(画像解析による特徴抽出)によって明らかにできたことは、一つの成果です。また、妊孕性温存療法に多い子宮内再発に対する新たな治療戦略について、国内外約80施設115人の患者を対象とした大規模な臨床試験を主導しました。

この成果は、婦人科がんの標準治療ガイドラインの改訂につながる可能性があると山上教授は期待しています。いまだ多くの病院では妊孕性温存療法の経験が乏しく、治療期間が延長したり、子宮内再発したりすると子宮摘出が唯一の選択肢とされることも少なくありません。

今後の課題は、「妊孕性温存療法を全国、さらには世界へ広めること。今はまだ道半ばですね」と山上教授は話します。

医師に必要な資質とは

山上教授が考える、医師に必要な資質を聞くと、「病気だけでなく、人を診られる人」という言葉がすぐに返ってきました。

「つまり、患者を病気だけでなく、その人の生活背景や家族関係まで含めて理解できるかどうかです。治療方針は患者一人ひとりの状況によって変わります。それに気づけるかどうかが良い医師の条件だと思います」

好きな言葉は「上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病を治す」その意味するところは……。  

「病気を治すことはもちろん大事ですが、そこで終わってはいけない。臨床医としては、患者の背景まで見据え、人を治すことを意識すること。また、アカデミアに生きる者の意義としては、社会に働きかけ社会を変えていくことをも目指すこと」その決意がこの言葉には込められています。

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患者とともに歩む医療のやりがい

「患者さんから『ありがとう』と言われる瞬間は、いくつになってもうれしい」と語る山上教授。「自分の研究結果が患者さんに還元できたときにやりがいを感じる」ともいいます。

「他の病院で子宮を摘出するしかないと言われた患者さんの治療がうまくいって、治療後に妊娠・出産することができ、『先生のおかげで我が子に会うことができた』と報告にきてくださったときは、本当にうれしかったですね」

一方で、ともに治療の可能性を探った末、どうしても摘出するしか方法がなかったケースもあります。その際でも、「先生が寄り添ってくれたおかげで納得できた」と言ってもらえると、「少しでも役に立てた」と充実感を感じるそうです。

また、希少ながん治療に取り組む立場から、他の医師に相談される機会も多く、その責任の重さと同時に誇りを感じるといいます。

挫折と研究者としての歩み

順調に見える経歴の裏には、数々の挫折もありました。大学院時代には基礎研究が思うように進まず、博士学位取得に6年を要した経験もあります。しかし、「臨床医が研究する意味は、目の前の患者の困りごとから問いを見つけられることにある」と実感。日々の診療で浮かんだ小さな疑問が、大きな研究につながることもあると語ります。

そんな山上教授の座右の銘は「人間万事塞翁馬」。

「人生はなるようにしかならないし、何がどうつながるかわからない。だから、1回2回の失敗や、辛いことがあったとしても、これが10年後、20年後に生きてくるかもしれないと思いながら前向きに歩んできました」と語ります。

「医師は人の役に立っていることをダイレクトに実感できる職業。私にとって天職です。患者さんは一人ひとり違い、学びも尽きない。だからこの仕事に飽きることはありません」と静かに語る声には力がこもっていました。

患者さんに向き合うことで見えてくることがある

産婦人科という分野の魅力は、「周産期、生殖、婦人科腫瘍、女性医学と多岐にわたり、患者さんのいろいろなライフステージに関われること」だと山上教授。決して妊娠・出産だけではない奥の深さがあり、学ぶべきことや疑問は尽きません。

最後に、慶應義塾大学医学部で学ぶ意義や医学部を目指す高校生へのメッセージをお聞きしました。

「慶應義塾大学医学部はPhysician-Scientistを育てることを理念に掲げています。研究も大切にしつつ臨床も大切にしているところが良いところです。

これから医学部を目指す皆さんに言いたいのは、何かテーマを見つけて研究しなければと気負わなくていい、最初は臨床への興味だけでいいということ。何科に進みたいかわからなくても、医師になりたいのであればとりあえず医師になってから考えればいい。

診療科が決まって、患者さんを目の前にして悩み、苦しみ、ふとわいた疑問が実は未解明の大切なテーマだったりします。そこから大きな研究が展開していく可能性もあるのです。  

その時には、いつでもサポートしてくれる優秀な指導医、同僚、後輩、コメディカルがいる。それが慶應義塾大学医学部の最大の強みだと思います」

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山上 亘(やまがみ わたる)

慶應義塾大学医学部 産婦人科学教室(婦人科) 教授

2000年慶應義塾大学医学部卒業。同年慶應義塾大学医学部産婦人科学教室に入局し、研修医、関連病院医員を経て、2005年より国立がんセンター研究所(当時)にてリサーチレジデントとして基礎研究に従事し、2012年に博士(医学)を取得。その後、慶應義塾大学医学部産婦人科助教、専任講師を経て、2023年より現職。專門は、婦人科悪性腫瘍、妊孕性温存治療、低侵襲手術。

※所属・職名等は取材時のものです。