2025/08/15
2024年7月に発行された新1000円札の肖像に選ばれた北里柴三郞は、細菌学の研究で多大な成果を挙げた「近代日本医学の父」として知られています。ドイツ留学から帰国した北里は、福澤諭吉から大きな影響を受け、1917年に慶應義塾に医学科を設立し、自ら初代学科長(後の学部長)に就任しました。その想いはどのような形で現代まで受け継がれてきたのか、慶應義塾史を研究する看護医療学部教授・慶應義塾福澤研究センター所員の山内慶太君に、歴史的背景を紐解きつつ、お話を伺いました。
三田・福澤諭吉記念慶應義塾史展示館にて
ドイツに留学し、細菌学者として成果を挙げる
新紙幣の肖像になったことで改めて注目されている北里柴三郞ですが、慶應義塾出身ではない北里がなぜ慶應医学部の初代医学部長になったのか。まず、その経歴を振り返りながら、医学研究者としての功績を紹介していきましょう。
北里柴三郞は、1853(嘉永5)年、現在の熊本県阿蘇群小国町北里に生まれました。18歳のときに医学の道を志し、古城医学所(現・熊本大学医学部)を経て、東京医学校(現・東京大学医学部)に学びました。卒業後は、日本の衛生水準の向上に貢献したいと内務省衛生局に就職しました。
1886(明治19)年、ドイツに留学し、ローベルト・コッホに師事しました。結核菌、コレラ菌を発見したコッホの下には気鋭の学徒が集っていました。北里は寝る間も惜しんで努力を重ね、1889年には、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功。翌1890年には、「血清療法」を開発しました。毒素を少量ずつ動物に注射すると抗体がつくられます。この抗体を含む血清を投与すると破傷風菌やジフテリアなどの毒素を中和し、症状の悪化を防ぐことが可能になったのです。
このように、優れた成果を上げて、1892年、6年間の留学を終えて帰国しました。帰国に際しては、欧米の各大学から研究所長等の招聘もありましたが、日本の学界は冷ややかでした。
ドイツ留学中に先輩の緒方正規が発表した脚気菌説を否定したことから、帝国大学の研究者たち(当時の東京大学学長・加藤弘之や森鴎外など)から「師弟の道を解しない」などと批難され、帰国後も帝国大学の一派から冷遇されたのでした。今では、脚気の原因はビタミンB1の欠乏であることが判明していますが、当時は脚気菌説がありました。北里はそれを否定する論文をドイツ語で、そして日本語で発表したのです。それこそがコッホのもとで学んだ北里の、学者としての誠実さのあらわれでもあったと思います。
帰国後に福澤諭吉と出会い、伝染病予防に尽力
このように多くの成果を挙げていながら、日本で研究する場を得られないままの北里を救ったのが、福澤先生です。二人をつないだのは、福澤先生の適塾時代からの親友である長与専斎でした。長与は北里が東京医学校在学中の校長で、卒業後に勤務した内務省衛生局の局長でもありました。
北里を見かねた長与が福澤先生に相談すると、先生はその研究を支援することを決め、将来、自分の子供のために役立てようと用意していた芝御成門近くの借地を提供し、伝染病研究所を設立しました。
伝染病研究所設立にあたって、先生は実業家の森村市左衛門の協力も得て経済的な援助を行いました。また、伝染病の拡散を懸念する近隣住民の反対運動が起こると、自ら伝染病研究所の隣に家を建てて我が子を住まわせました。さらに、福澤創刊の新聞『時事新報』には、繰り返し自ら論説記事を執筆して、沈静化に努めました。
こうして、福澤先生の手厚い支援を受けて設立された伝染病研究所で、北里は、伝染病の流行に対して、ジフテリア、腸チフス、コレラ等の血清の製造、日本各地で流行していた風土病と呼ばれる原因不明の伝染病の研究をはじめ、精力的に活動を展開します。伝染病研究所は日本の伝染病予防の中心となって発展していきました。
また、1894年、香港でペストが大流行した時には、北里自ら香港に赴いて現地調査を行い、ペスト菌を発見しています。
「節を屈してまでも」と、伝染病研究所を総辞職
1899年、伝染病研究所は内務省に移管されます。研究を研究で終わらせず、全国各地の担当者の育成、流行時の迅速な対応をはじめ伝染病対策を展開するためには、内務省所管であることは好都合でもありました。
しかし、北里から移管についての相談を受けた福澤先生は、北里の指揮下で研究所が運営されることを確認した上で、「今日は政府が君に信頼しておっても、又何時気変りをして、どんな事になるかも知れぬから、決して油断せずに、足許の明るい中に溜められるだけ溜めて御置きなさい」と忠告しています。そして、この忠告は、先生の没後に現実となりました。
1914(大正3)年、それまで内務省所管だった伝染病研究所は、一方的に文部省に移管し東京帝国大学に附属されることになったのです。この方針に納得できなかった北里は辞職します。研究所の職員達も総辞職しました。そして、1カ月後には養生園の敷地に私立の北里研究所を創立しました。
養生園、「土筆ヶ岡養生園」とは、1893年に福澤先生が北里のために作った結核の専門病院です。細部に至るまで指示をしながら設立したもので、場所は白金三光町、今の北里研究所病院のところです。経営は、信頼できる門下生、田端重晟に託しましたが、田端が地道に収益を蓄積していましたので、北里はすぐに北里研究所を創立できたのでした。
その当時の心境を、北里は後に福澤先生誕生記念会で次のように語っています。
「とにかく先進の人の研究した所の主義方針に基き、今日まで独立してやつて居りましたのに、私のこれまでやって居ったのとは全然主義方針を異にして居る人の下で仕事をすることは出来ない。我が学問の独立心を尊重する以上は、節を屈してまでもそこに居らなければならぬと云う必要はないと、こう決心した次第でございます」
この中で語っている「節を屈してまでも」という言葉は、福澤先生がよく使った言葉です。その考えが北里にも通じていることがわかります。
福澤の遺志を継いで門下生と共に慶應医学部を創立
福澤先生が亡くなって16年の1917年、慶應義塾に医学科(現医学部)が創設、初代医学科長には北里が就任しました。
当時の慶應義塾には文系学科しかなく、財政的な理由で実現に至っていなかった理工科や医学科の設立は長年の悲願でした。理科系学科設立の検討の中で、医学科創設に至ったのは北里の存在があったからにほかなりません。福澤先生亡き後も慶應義塾の人達と北里の深い交流は続いていました。
北里自身も、福澤先生の恩に報いたいという強い気持ちがありました。1917年の福澤先生誕生記念会では、「かねて故先生の厚き知遇を得たる予が同大学を担任するには大に光栄とする所にして飽くまでも微力を尽す覚悟なり」と抱負を述べています。
医学科創設には、北里の門下生たちも共に参画しました。中心的役割を果たした講師陣の中には、ハブ毒の血清療法を開発した北島多一、赤痢菌を発見した志賀潔、化学療法剤サルバルサンを開発した秦佐八郎、寄生虫学の宮島幹之助といった錚々たる研究者が名を連ねています。
彼らは医学科が軌道に乗るまで報酬を受け取らないと申し合わせており、設立からしばらく無報酬を貫きました。当時の慶應義塾当局者はなんとか報酬を受け取ってもらおうとしたものの、頑なに受け取らなかったそうです。当時を知る義塾関係者たちは、この姿勢に大いに感銘を受け、その後も長きにわたり、北里とその門下生たちの報恩の気持ちが、慶應医学の発展に大きく貢献したことを語り継いでいました。
「奉公人根性なきこと」の気概は、現在の慶應医学部へ
初代医学部長に就任した北里は、医学部開校ならびに大学病院開院式の式辞を述べる際、おそらく職員が用意したであろう文章の最後に、手書きで以下の文章を付け加えました。
「基礎部と臨床部と毎(つね)に連絡を取り共同研究をなさしむること。学問の独立自尊は固(もと)より経営の独立。慶應の学風は家族主義、余の主張と全く同一。奉公人根性なきこと」
最後の「奉公人根性なきこと」には、自分の本心に背いて節を屈したり、官に媚びへつらったりすることを嫌った北里の気概と、義塾医学部の姿勢への強い願いが込められているように見えます。それもまた、福澤先生から受け継いだものです。また、「基礎と臨床の連携」という言葉も北里が医学部教育において重視したことでした。それは現在の慶應医学部にも色濃く受け継がれています。
一例として、慶應の医学部には、創立当時からいわゆる「ナンバー診療科」ではありませんでした。今でこそ変わってきましたが、近年まで官立大学をはじめ多くの大学病院では、第一内科と第二内科と第三内科や、第一外科と第二外科と第三外科というように分かれているのが一般的で、実際には同じ領域を対象としていながら、それぞれに異なる方針を掲げていました。それに対して、慶應の医学部は、「基礎と臨床の連携」「家族主義」を貫き、各科が利己的になることを嫌いました。ちなみに、この式辞の書き込みは、三田の慶應義塾史展示館に実物を展示していますので、ぜひ見ていただきたいと思います。
北里が福澤先生と出会ってから死別するまで、共に過ごした時間は10年にも満たないものでした。しかし、その約10年が、後の北里研究所、そして慶應義塾大学の医学部へと、確かに受け継がれています。私たちも、北里が福澤先生から受け継ぎ大切にした、官尊民卑の打破、学問の独立、という気概を大切にし続けたいものです。
※北里が慶應義塾大学医学部を立ち上げてから107年目を迎えた2024年度、慶應義塾ではその名前を冠した「北里柴三郞未来人材育成基金」を設置しました。この基金は北里のように国際性豊かで、新しい医学・医療を切り開く未来の医学部生を養成するための奨学金制度です。
山内 慶太(やまうち けいた)
慶應義塾常任理事/看護医療学部・大学院健康マネジメント研究科教授/慶應義塾福澤研究センター所員
1991年慶應義塾大学医学部卒業。1997年博士(医学)。医学部助手、看護医療学部助教授を経て2005年より看護医療学部・大学院健康マネジメント研究科教授。また、横浜初等部の開設準備室長、部長を歴任。2021年より慶應義塾大学常任理事。専門は医療政策・管理学、精神医学、慶應義塾史。編著には、『福澤諭吉著作集』第5巻、『福澤諭吉歴史散歩』、『慶應義塾歴史散歩(キャンパス編)』、『同(全国編)』、『福澤諭吉教育論-独立して孤立せず』など
※所属・職名等は取材時のものです。