2023/08/24
「慶應義塾の寄宿舎は慶應義塾そのものである」これは、戦前に法学部長を務めた板倉卓造の言葉である。幕末の学塾から続く慶應義塾の学生寮は、単に学生が寝起きする場所ではなく「独立自尊」「半学半教」を実践する教育の場としての役割を有している。世紀を超えて受け継がれてきた義塾における学生寮の伝統と考え方を紹介する。
三田山上寄宿舎(明治33年竣工)
福澤研究センター提供
「独立自尊」を踏まえた塾生の自治による寮生活
慶應義塾の起源となる江戸・鉄砲洲(現在の中央区明石町)中津藩中屋敷内の蘭学塾で、福澤諭吉と塾生たちは寝食を共にして学んだ。義塾の寄宿舎の歴史はここから始まる。やがて各地から優秀な若者が多数集まると従来の寄宿舎では手狭となり、1868(慶応4)年に芝新銭座へ移転。新しい寄宿舎は、自治会規則など「独立自尊」の考えを踏まえた塾生の自治が大きな特色だった。
明治維新後、塾生数が急増した塾舎は、現在の三田キャンパスの地、旧島原藩中屋敷に移転した。屋敷の一部を利用した寄宿舎はすぐに収容定員を超え、さらに増築。これは昔の屋敷を改造したものではあったが、当時の最高水準の近代的建物として新橋停車場などの模範となった建築といわれている。日本初の消費組合(現在の生協に相当)が生まれたのもこの寄宿舎だった。
1900(明治33)年、三田山上北側(旧幼稚舎の敷地)に400人を収容する新寄宿舎が竣工した。やはり塾生による自治が行われ、教職員も塾生も寮生として平等に扱われていた。設備として浴室のほか、理髪室や娯楽室を完備。寝室にはベッドとスチーム式の暖房が置かれ、日照と通風に配慮がなされるなど、特に衛生面に注意が払われた。
福澤別宅を経て日吉に大型寄宿舎が誕生
1917(大正6)年、医学部設置計画により、寄宿舎は広尾の福澤別宅(現在の幼稚舎のある天現寺) へ移転した。大食堂、浴場、図書室、理髪室などを完備した当時最高水準のこの寄宿舎は、約20年にわたって塾生活動の中心的役割を果たした。
1936(昭和11)年、今度は三田にあった幼稚舎を天現寺の寄宿舎敷地に移すことになり、予科校舎が完成した日吉キャンパス内に寄宿舎新築が決定。翌年完成したのが日吉寄宿舎である。建築家・谷口吉郎の設計による建物は、北寮・中寮・南寮の3棟と炊事室・浴室・娯楽室を含む別棟からなる鉄筋コンクリート造。全寮の暖房は最新式のパネル・ヒーティング(床下温水暖房)を採用し、水洗式装置のトイレが各階に備えられていた。相部屋だった当時の寮の常識を打ち破る個室の居住環境を実現し、各寮に各1名配置された舎監・副舎監計6名のうち必ず1名は医師を置いたということも特徴的だった。
日吉寄宿舎での生活は朝7時起床、7時半には全員がそろって朝食。昼食も寮で済ませ、授業に戻るという規則正しいもの。門限は23時で無断外泊については厳しかった。浴場には展望風呂(通称ローマ風呂)が併設。綱島まで広がる桃畑が一望できた。そしてアイスクリーム屋が来て、塾生は月末精算方式で利用することができたという。
戦中・戦後の苦難を経て日吉寄宿舎が再スタート
1944(昭和19)年、第2次世界大戦の戦況悪化に伴い、日吉寄宿舎は閉鎖。戦時中は海軍連合艦隊総司令部の上級将校の宿舎だった寄宿舎の建物は、戦後になって他の日吉キャンパスの施設と同様に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により接収された。
多くの若者に学びの場を提供する慶應義塾にとって寄宿舎の確保は喫緊の課題である。そこで日吉がGHQに接収されている間は生田、府中、杉並、小金井など、戦後設置された各地の仮校舎近辺に寄宿舎を用意した。
そして1950(昭和25)年、ようやく日吉キャンパスの接収が解除された。慶應義塾は早速中寮を復活させ、翌年にはGHQが残していった4棟の通称「カマボコ兵舎」も寄宿舎として開放された。このときには2名の女子塾生も入舎している。
伝統を保持しつつも進化・多様化する学生寮
現在、慶應義塾には日吉寄宿舎のほか、下田学生寮、大森学生寮、 綱島学生寮、元住吉宿舎、日吉国際学生寮、元住吉国際学生寮、綱島SST国際学生寮、高輪国際学生寮、湘南藤沢国際学生寮、そして湘南藤沢キャンパスに今春オープンのHイータヴィレッジといった11の寮と、ほかに2つの留学生専用寮がある。
これら学生寮は、自治の伝統とともに、現在は国や地域、学部や学年を超えた交流を通して、塾生が多様な価値観、グローバルな視点を身に付ける場であることを志向している。一部の寮では「RA(レジデント・アシスタント)制度」を導入した。RAとは同じ寮に住む留学生の生活支援をする塾生のこと。慶應義塾が日本で初めて導入したといわれるこのRA制度の根底には留学生支援を通して自身も学び、成長する「半学半教」の精神がある。
学生寮は「独立自尊」「半学半教」の実践の場であり、慶應義塾の目的である「気品の泉源、智徳の模範」たる「全社会の先導者」を生み出す場でもある。冒頭に掲げた「慶應義塾の寄宿舎は慶應義塾そのものである」という言葉は、すでにそうした考え方が明治期より根付いていた証拠ではないだろうか。
この記事は、『塾』SPRING 2023(No.318)の「ステンドグラス」に掲載したものです。