慶應義塾

福澤諭吉と女子教育

2023/01/31

男尊女卑の風潮が色濃く残る明治期にあって、福澤諭吉は「男も女も人」という当時としては先駆的な思想を持っていた。女子教育の必要性も早くから認識し、慶應義塾でさまざまな試みを展開した。なぜ福澤がそのような思想を持ち、いかにして現実を変えようとしていたのか、慶應義塾における女子教育の進展について振り返ってみたい。

近代日本社会形成には男女の協力が不可欠

1965年頃。女子学生のいる風景

「抑(そもそも)世に生れたる者は、男も人なり女も人なり」『学問のすゝめ』第八編。

『学問のすゝめ』で福澤諭吉は男性も女性も「人」であることを繰り返し強調している。というのも、いまだ儒学思想が根強かった当時の読者は『学問のすゝめ』冒頭の「天は人の上に人を造らず」の「人」を成人男性と考えたに違いないからだ。

しかし福澤は近代日本社会形成において男女の協力が必要不可欠だと考えていた。近代日本の「一国独立」は人々の「一身独立」が基盤となる。福澤にとって近代化とは女性もまた男性と同等に社会の担い手となることであった。「一身独立」のためには学問による精神的自立と適した職業による経済的自立を果たす必要がある。1873(明治6)年の福澤の書簡には、義塾内の「女学所」で女子教育に着手したとあり、早くから女子教育の実践を試みていたということがわかる。

福澤が参考にしたのはヨーロッパの働く女性

福澤が男女平等と女子教育の必要性を認識していた背景として、3度の海外渡航体験が挙げられる。幕末に遣欧使節団として訪れたヨーロッパでは、産業革命後の新しい社会の担い手として教育を受け、仕事を担う女性たちの姿を見聞した。帰国後の1866(慶応2)年に刊行した『西洋事情』をまとめ上げる過程で、福澤の中で近代日本社会形成における女性像が体系化されていったと考えられる。

1872(明治5)年8月、福澤は義塾内に衣服仕立局を設立した。目的は女性が経済的自立をするための職業の創設だった。当時の開業引札(ひきふだ)(宣伝文)を読むと、将来的に女子教育機関の併設を目指していた可能性もある。また、幼稚舎前身の和田塾にも1879(明治12)年9月から2年ほど、主に福澤や教職員、門下生、懇意の商家の娘などの女子生徒が在籍していたことがわかっている。しかし、衣服仕立局も和田塾の女子教育も長くは続かなかった。

人々の意識を変えるべく言論活動を活発に展開

『時事新報』より「何にしようネ」(1894年1月9日付)提供:三田メディアセンター

こうした経験から福澤は法律だけでなく人々の意識が変わらない限り、社会的性差の固定観念を打ち崩せないことを痛感しただろう。そこで言論による現状打破を試みた。1885(明治18)年、『時事新報』社説として執筆した「日本婦人論」では自らの女性論を展開している。「男であろうが女であろうが辛子は辛く、砂糖は甘い」といった身近な例えや、女性は夫や父に従い家を支える存在と説く江戸時代の女子教訓書「女大学」を用い、男女の立場を入れ替えてみることを提唱。男性はその状況に耐えられるのか、自分が耐えられないものを、なぜ女性に無理強いするのか……と鋭く男尊女卑社会の矛盾を突いた。

一方『時事新報』で1893(明治26)年からお料理コーナー「何にしようネ」を開始したのは、新聞を通して女性たちに社会的関心を高めてもらう意図があったと考えられている。

福澤の思いの実現を目指して

福澤の死後半世紀近くを経て、日本は民主国家として再出発した。1946(昭和21)年4月には慶應義塾大学への正式な女子の入学がスタート。ただし女子聴講生の受け入れは1938(昭和13)年から始まっており、また女子の職業教育の場として1918(大正7)年に設立された医学科附属看護婦養成所もあった。

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一貫教育校では、1947(昭和22)年に男女共学の中等部を新設し、翌年には幼稚舎が正式に男女共学となる。1950(昭和25)年には女子高等学校も開設し、女子塾生の数は年々増加。2020年度は学部卒業生6652名のうち約40%を占める2684名が女子だった。2021年度春学期からは「AI女子勉強会」が発足するなど、社会の固定観念に挑戦する福澤の思いを受け継ぐ試みも展開されている。

いまだにジェンダーギャップの存在が指摘される日本社会だが、男女問わず一人一人が自らの問題として、150年前の福澤の問題意識を共有しつつ社会的性差について考えてみてほしい。

AI女子勉強会の様子

<出典>

西澤直子「福澤諭吉の近代社会構想-家族論の視点から-」『龍谷史壇』第150号(2020年3月31日発行)

この記事は、『塾』AUTUMN 2022(No.316)の「ステンドグラス」に掲載したものです。