卒業生 中村雅俊君(経済学部卒)
2021/07/27
中村雅俊(なかむらまさとし)/俳優・歌手
1974年経済学部卒業。大学在学中に文学座附属演劇研究所に入所。卒業直後に日本テレビ系「われら青春!」の主役でデビュー。同番組挿入歌「ふれあい」も歌い、レコード売り上げは100万枚を突破した。これまで連続ドラマ34本を含め、主演作は100本以上を数える。歌手としてもシングル55枚、アルバム41枚をリリース。デビューから2019年まで全国コンサートツアーを毎年欠かさず行ってきた。また、東日本大震災で被災した故郷・宮城県女川町の復興支援にも力を注いでおり、現在もたびたび足を運んでいる。
外交官にあこがれていたはずが「文学座」で俳優の道へ
-中村さんは東日本大震災で多大な被害に遭った宮城県女川町のご出身ですね。
中村:当時人口1万人ほどの漁師町で山も近くて自然が豊かな町でした。カツオやサンマ漁の船が港に並び、捕鯨基地でもありました。気の荒い海の男たちが多くて、高校生の頃に女の子と港の近くを歩いていたら「お前、何やってる!」と怒鳴られたことがあります(笑)。そんな漁師たちを相手にした酒場が町には百数十軒もあり、その一つが母の店でした。学校の先生方もお客さんで、酔っ払ってかばんを忘れていったのを翌日職員室まで届けたこともありましたね。中学、高校とバスケットボール部で、典型的な体育会系の学校生活でした。終電まで部活の練習に明け暮れる毎日。勉強は試験前に集中してやるだけでしたが、成績は割と良かったですよ。
-今でも故郷への思いはありますか?
中村:ええ、震災後に復興支援の活動で故郷を訪れ、あらためてふるさとへの愛着を認識しました。やっぱり俺は女川の人間だなあって。でも、中学、高校の頃はとにかく早くこの田舎から脱出したかった。母は東北の大学に進学を希望していましたが、俺は絶対に東京の大学に行こうと思いました。慶應義塾大学の持つスマートなイメージにあこがれて、一浪はしましたが確か20倍以上の高い倍率をクリアして入学することができたのです。当時は有名大学に合格すると地元紙に名前が掲載されました。東京に行くのを反対していた母もそれを見て喜んで、店のお客さんに自慢していたみたいですよ。
-入学した当初は「外交官」になりたいと思っていたとか?
中村:それは漠然とした夢で、中学の友人から「外交官」という職業を聞いて、なんかかっこいいなと思ったことがきっかけです。当時は冷戦の時代。旧ソ連や東欧を舞台にした五木寛之さんの小説が人気で、俺も愛読していましたから「よし、ソ連の相手をする外交官になってやろう!」なんて考えていたんですよ(笑)。
-それがなぜかお芝居の道へ進むことに……。
中村:外交官に必要なのはやはり語学力ですよね。同じクラスに同じく外交官にあこがれている友人がいて、彼に誘われて英語會(K.E.S.S.)という英語サークルに入りました。そのサークルはディベート、スピーチ、ディスカッション、ドラマという4つのセクションがあり、一番面白そうだなと思ったドラマを選びました。そうしたら英語よりドラマ作りに夢中になってしまった。当初は裏方のスタッフを務めていたのですが、3年生になって初めて電気工事人役でキャストに選ばれました。そのときに主役を務めた友人と日本語の芝居をやろう!と大いに盛り上がって、その勢いで日本を代表する劇団である「文学座」を一緒に受けようということになったのです。そもそも受かるわけないと思ったんですよ。定員30人のところに応募者が1400人以上。大学入試の倍率のさらに倍ですよ(笑)。
ところが1次、2次とスムーズに合格してしまった。もちろんうれしかったですけど、自分でもとても不思議な気持ちがしました。それからの1年は文学座の稽古とアルバイトに明け暮れる日々。事務作業から道路工事、ビアガーデン、中華料理店の出前などあらゆることをやりました。
-在学中から本格的に俳優の道を目指されたわけですが、勉強はどうだったのでしょうか?
中村:大学の勉強はしっかりやっていましたし、成績も悪くなかったですよ。田舎者なので根が真面目なのです(笑)。集中力もあったのでしょうね。そして卒業間際になって、オーディションを経て、テレビドラマ「われら青春!」での主役デビューが急遽決まりました。撮影が在学中の1974年1月にスタートするので、卒業試験が受けられずに中退することも覚悟してはいました。でもドラマのプロデューサーだった岡田晋吉さんが慶應義塾の先輩で、「ちゃんと試験を受けて卒業しなさい」と助言してくれて、試験期間中は撮影スケジュールを空けてくれたのです。おかげで無事卒業することができ、翌月の4月7日に「われら青春!」第1回が放送されました。
一つ一つの仕事を大切に取り組んでいくこと
-大学生が一夜にして人気テレビドラマの主役になったのですね。
中村:ほんとうにその通り!ドラマの挿入歌として歌った「ふれあい」も大ヒットしましたし、1974年という年は、俺の人生にとって実に劇的な1年となりました。テレビも冷蔵庫も洗濯機もないアパート生活をしていた貧乏大学生が一気に青春スターになったわけで、自分でも何が何だか分かりませんでした。でも、いただいた仕事は一本一本大切に取り組んでいこうと心に決めていました。幸いその後も先ほどお話しした岡田プロデューサーの信頼できるチームでじっくりとドラマ作りに取り組むことができました。文学座の先輩・松田優作さんとも刑事ドラマで共演できましたし、人との出会いにはとても恵まれていたと思います。
-「ふれあい」はオリコンで10週連続1位という大ヒット曲になり、歌手としても注目されるようになりました。
中村:実は「青春」シリーズのドラマでは、主演俳優が曲を出すことが決まりになっていたのです。もともと音楽は好きでしたけど、まさか自分が歌手になるとは思っていませんでした。中高生の頃からビートルズやグループサウンズなどに夢中で、大学時代はギターでおそらく100曲以上オリジナル曲を作ったんじゃないかな。デビューの年から始めたコンサートツアーは2019年までずっと続けて、2年前にはついに1500ステージを超えました。今は残念ながらコロナ禍でツアーはできませんが、またステージに立つ日を思って歌手として精進していきたいです。
-俳優と歌手、中村さんの中で2つの活動をどのように位置づけられているのですか?
中村:最初はあくまでも俳優としてやっていくつもりで、歌手はその傍らやっている感じでしたが、ツアーを続けていく中で考えが変わりました。コンサートはお客さまに喜んでもらって初めて成立するエンターテインメント。つまらないステージを見せてしまうと、もう次は来てくれない。とてもシビアな世界で決して俳優の余技でできるような仕事ではありません。だから俳優の仕事、歌手の仕事、どちらも100%の力で取り組んでいこうというスタンスでいます。もちろんそれだけ大変なのですけれど、最近はギター以外にピアノやサックスなども演奏するようになり、逆に楽しみも増えてきました。これからも俺なりのやり方で音楽活動を続けていければと思っています。
光が見えていれば人は前に進むことができる
-俳優・歌手としての転機やエポックメーキングな出来事はありましたか?
中村:一本一本の仕事を大切にしてきたおかげか、特に転機も浮き沈みもなく、45年以上マイペースで仕事をしてきたというのが正直な実感です。ちょっと前に自分が連続ドラマで主役を何本やったのだろうと調べてみたら、実に34本もありました。そんなに主役をやっていたかと自分でも意外でしたね。そういえばかつてテレビ東京がお正月に放送していた12時間ドラマで、主役の福澤諭吉を演じたこともあります(1984年放映『若き血に燃ゆる~福沢諭吉と明治の群像』)。その放送後になんと大学時代の恩師の一人、加藤寛先生からドラマにとても感動したとのお褒めの手紙をいただきました。加藤先生と言えば、学生時代には経済学部のスター教授で、授業はいつも教室が満員になるほど。そんな偉大な先生から褒められて、うれしかったですね。
後に福澤諭吉や慶應義塾について加藤先生とじっくりお話しできたこともいい思い出です。この番組は慶應義塾で公式アーカイブとして残されているんですよね。自分の演技で母校にも少し貢献できたことはうれしい限りです。
歌手としてはサザンオールスターズの桑田佳祐君との出会いが大きかったかな。彼は俺のために「恋人も濡れる街角」を作ってくれました。それまでの中村雅俊にはなかったタイプの曲で、歌手としての世界を広げてくれたような気がします。
-コロナ禍の中、中村さんのお仕事にも大きな影響がありましたか。
中村:ええ、もちろん。ずっと続けてきたツアーもできないし、びっくりするほど仕事がなくなっています。でもね、俺は思うんですよ、「光は見えている」と。実際、世界中で今、多くの研究者がワクチンや治療薬の開発に必死で取り組んでいます。1年後、あるいは2年後には、まったく元通りの世界ではないかもしれませんが、新型コロナウイルスの流行は一定の終息を迎えているはずです。「光は見えている」。そう思えば人は前に進めます。決して一日一日をおろそかにせず、「いい一日」を一つずつ積み重ねて、未来のチャンスに備えたいと思っています。
-最後に塾生へのメッセージをお願いいたします。
中村:コロナ禍の今はつらい時期ですが、若い人たちも未来の光を信じて行動してほしいですね。長年、俺は俳優や歌手として目標を持ち、それを一つずつクリアしながらここまで来ました。苦労もしたけど、とても楽しかった。その時々に夢があったからです。若い人にはそれぞれの夢を大切にして今の状況を乗り越えてほしいと思います。で、そんなときに強いサポーターになってくれるのが、塾員の仲間。慶應義塾出身者同士の絆ってほんとうに独特で、相手が慶應出身だと分かると「お~っ、お前も塾かあ~」って、他人同士がいきなり親戚みたいになってしまう。端から見ているとちょっとおかしいんじゃないかと思いますよね(笑)。でも、その中に入るととても心地良い。芸能界にも後輩の別所哲也、大先輩の加山雄三さん、亡くなった石原裕次郎さんなど「塾員山脈」が連なっています。楽しくも、頼もしい塾員のつながりを心の支えに、若い塾生たちには夢を忘れず、自分が納得のできる人生を切り開いていってください。
-本日はありがとうございました。
この記事は、『塾』WINTER 2021(No.309)の「塾員山脈」に掲載したものです。