2021/06/10
2020年3月、2年半にわたる工事を経て「新・日吉記念館」が完成した。旧記念館は、1959年以降新入生を迎え、卒業生を送り出す舞台であり、体育会の塾生たちの活動の場であり、連合三田会大会などでは老若男女が集うイベント会場でもあった。60年にわたって日吉キャンパスのシンボルとして親しまれてきた記念館の歴史を振り返る。
2020年3月に竣工した新記念館
戦後復興の象徴だった日吉記念館の建設
太平洋戦争のさなか、全国の大学で最も甚大な被害を受けた慶應義塾にとって、キャンパス復興は戦後最大の課題となっていた。
1945年4月と5月の空襲によって、慶應義塾は日吉、三田、信濃町の全キャンパスで施設の大半を失った。わが国有数の大ホールだった三田の大講堂も焼失し、戦後しばらくキャンパスには大人数を収容できるホールがなかった。入学式や卒業式は屋外で行われ、1947年に昭和天皇を三田山上にお迎えして挙行された創立90年の記念式典は、やむなく焼け跡が残る広場にテント張りの式壇を設置して開催。日吉キャンパスは1949年まで進駐軍に接収されており、思うように復興は進まなかった。
それでも慶應義塾創立100年に向けて復興の機運は次第に高まり、1955年にスタートした創立100年記念事業の募金は順調に集まった。ただ、再建すべき校舎や施設があまりに多く、なかなか講堂兼体育館となる建物に着工できない。日吉での創立100年記念式典開催が決まり、ようやく日吉記念館の建設が始まった。当時の学生新聞『三田新聞』の記事を見ると「予算不足で、ギリギリに着工というありさまだが、……完成すれば、どうやら塾にとっては“戦後”がやってきたといえそうだ」とあり、その建設が復興の象徴と考えられていたことがうかがえる。
完成まもなく創立100年の晴れ舞台に
1958年3月の地鎮祭から急ピッチで日吉記念館の工事が進められ、わずか7カ月後の同年10月、銀杏並木を入った正面に鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上3階・地下1階建て、延べ床面積約6000m2の建物がその威容を現した。大講堂兼体育館であるこの建物の特色は1階フロアを隔てて、ステージと観覧席が相対した造りになっていることだった。体育コートとして使用されるフロアは式典時などには椅子が並べられ、立ち見席を含めると約1万人を収容できる。こうした形式の大講堂はそれまでに例がなく、日本で初めての試みだった。
1958年11月8日に、新しい日吉記念館で開催された創立100年記念式典では、昭和天皇をはじめ東京大学、早稲田大学の各総長、米国ハーバード大学代表など、国内外の4654名が来場。日本の近代教育機関で最初に100年を迎えたということから社会の関心も高く、それを記念する郵便切手も発行された。式典ではその切手の初刷りシートを郵政大臣が奥井復太郎塾長に贈呈する一コマも見られた。
60年の記憶を受け継ぐ新・日吉記念館の完成
1959年以降、入学式や卒業式は日吉記念館で開催されるようになり、他の式典やイベントなど多岐にわたって利用された。体育会の試合や、必修科目として「体育実技」があった時代から近年に至るまで授業でも利用され、健康診断の会場として記憶している塾員も多いかもしれない。1961年には世界レスリング選手権大会の会場としても使用されている。また、1980年からは三田祭の前夜祭会場として多くのアーティストが公演を行ったほか、連合三田会大会や卒業51年以上塾員招待会の会場にもなるなど、塾生だけでなく塾員やその家族も広く迎える場として長らく親しまれてきた。
そして日吉記念館は、慶應義塾創立150年記念事業の一環として建て替えが計画された。この計画は2009年にいったん延期され、旧記念館に耐震補強を施したまま中断となっていた。
計画が再開したのは2017年10月で、2年半にわたる工事を経て2020年3月10日に竣工した。新・日吉記念館は、地上4階・地下2階建て、延べ床面積は旧記念館のおよそ倍にあたる約1万2500m2、立ち見席を除く最大収容人数は約6500人から約1万人へこちらも大幅に増えた。規模だけでなく、車いすの方のための観覧スペースなどバリアフリー化がなされ、アリーナに空調機が設置されるなど、利用者にとってさらに快適な空間に進化している。
四季折々の風景や隣接する第1校舎、第2校舎との調和を踏まえた、シンメトリーで、白を基調とした外観の新・日吉記念館。旧記念館の記憶を受け継いで、慶應義塾、そして日吉キャンパスの新たな歴史がここに刻まれていく。
この記事は、『塾』WINTER 2021(No.309)の「ステンドグラス」に掲載したものです。