慶應義塾

三田キャンパス「文学の丘」

2020/09/25

三田キャンパス図書館旧館八角塔脇にある小高い丘は通称「文学の丘」という。義塾ゆかりの文人を顕彰するモニュメントが建っているのがその由来だ。「文学の丘」にある歌碑・句碑・詩碑・胸像それぞれの来歴と、近代日本文学界に大きな足跡を残した4人の文人たちを紹介する。

学生時代の歌を刻む「吉野秀雄歌碑」

「文学の丘」には3つの文学碑と1人の胸像が建っている。

文学碑の中で最も古いのが歌人・吉野秀雄の「歌碑」である。1972年7月1日、吉野の七回忌に同期の友人たちによって建てられ、同年10月には大正14年三田会の寄贈により沈丁花の苗木50本が植樹された。碑面には、吉野が学生時代に詠んだという「図書館の前に沈丁咲くころは恋も試験も苦しかりにき」が刻まれている。

群馬県高崎出身の吉野は『福翁自伝』に感銘を受け、慶應義塾大学理財科予科に進学。経済学部に進んだが、病気のため中退を余儀なくされた。病床で国文学を独学し、正岡子規などアララギ派の影響を強く受ける。生涯病気に苦しみながらも写生を作風とした数々の歌を遺し、書家としても高く評価されている。

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学生時代の恩師を詠んだ「久保田万太郎句碑」

久保田万太郎の「句碑」は没後10年にあたる1973年5月9日に除幕式が行われた。白大理石に黒御影の碑面がはめ込まれた句碑は、塾員の舞台装置家・古賀宏一が意匠を担当。碑面に刻まれた「小山内先生をおもふ しぐるゝや大講堂の赤れんが」は久保田自身の筆跡で、学生時代に受けた小山内薫の講義を偲んでの一句である。

慶應義塾大学文学科出身の久保田は、小説、戯曲、演出、俳句と幅広く活躍した人物で、文学部予科で作文の講師を務めている。晩年には作品の著作権を慶應義塾に寄託。慶應義塾ではその遺志を継いで記念基金を設け、文学部ではその資金によって現在も現代芸術や詩学の識者を内外から講師として招聘する「久保田万太郎記念講座」が開講されている。

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愛用の万年筆が納められた「佐藤春夫詩碑」

1974年、没後10年を期して三田の詩人として親しまれた佐藤春夫の「詩碑」が門下の人々の尽力によって建てられた。設計は、生前から親交のあった建築家谷口吉郎が担当。御影石の碑には、詩集『殉情詩集』から「断章」の一編「さまよひ来れば秋草の ひとつ残りて咲きにけり おもかげ見えてなつかしく 手折ればくるし花散りぬ」という四行詩が刻まれた。碑の前の筆塚には愛用していた万年筆が納められている。

和歌山県新宮の医師の長男で中学生の頃から詩作を行っていた佐藤春夫は、慶應義塾大学文学科で永井荷風に学ぶ。1913年に中退したが、『殉情詩集』や小説『田園の憂鬱』など旺盛な執筆活動で大正年間に文学者としての名声を確立した。

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三田文壇の人々に慕われた「小山内薫胸像」

久保田万太郎の句碑にその名を記された「新劇の父」小山内薫。その胸像は、1958年に彫刻家の朝倉文夫により作られ、当初は歌舞伎座の別館売店前に設置された。

小山内は1910年から22年まで慶應義塾大学文学科などで劇文学の講義を担当。小山内着任の年に創刊された『三田文学』をはじめ、三田文壇に多大な影響を与えた。1928年、47歳の若さで急逝した際、慶應義塾社中の人々は遺された妻と3人の子供のために教育基金を募り、集まったお金を遺族に贈っている。

そうした縁もあって、歌舞伎座の胸像が1964年8月に三田キャンパス西校舎と当時の第3研究室棟の間に移設された。この場所は、小山内が「築地小劇場」旗揚げの発端となる講演会を開いた旧大講堂に近いという理由だった。移設の際に胸像は谷口吉郎の意匠による台石に載せられた。

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大学院校舎建設に伴い、1984年に胸像は再び移設されることになり「文学の丘」の住人となった。なお、三田メディアセンターには近代演劇関係の書籍約6000冊など小山内の旧蔵書「小山内文庫」が収蔵されている。

この記事は、『塾』2020 SPRING(No.306)の「ステンドグラス」に掲載したものです。