慶應義塾

日本の古典研究を支える書誌学の世界

斯道文庫長 佐々木孝浩教授

2019/08/08

2019年春、ニューヨークのメトロポリタン美術館では大規模な「源氏物語展」が開催され、世界中から集まる人々を魅了した。目玉の一つとなったのは江戸時代の絵師、俵屋宗達による「源氏物語関屋澪標図屏風」。屏風の中にダイナミックに描かれた源氏物語のシーンは見る者を惹きつけてやまない。

「日本の本や掛け軸、屏風などは非常に美しく、世界中でその価値を高く評価されています。メトロポリタン美術館がこれだけ大がかりな特別展を開くことをみても、日本の古典に対する世界からの注目度の高さが伺えます」と話すのは慶應義塾大学附属研究所斯道文庫(しどうぶんこ)の文庫長を務める佐々木孝浩教授。古典作品を研究する上で欠かせない視点がある。それが時代の識別だ。その文献、作品を保存した「書物」が、いつの時代に誰によって作られたかによって、その本文の評価が変わることがある。その鑑定的な役割を担うのも、「書誌学」という学問の一つの役割なのだ。佐々木教授は書誌学の専門家として世界中の日本古典学者たちの研究を支えている。

マテリアルを見る学問

書誌学のアプローチは作品の解釈や作風などを研究する文学的研究とは一味違う。作品が保存されている書物の紙質やその大きさ、仕立て、挿し絵がどのようなものかなど、いわばマテリアル的な側面にも注目するのだ。「時代により紙の製造法や装飾法も変わりますし、本の作り方や表紙のデザイン、書かれた文字の形や雰囲気も変わります。これらの要素を複眼的に見て考え、書物がつくられた年代を割り出します。本の仕立て方からそこに保存された作品の当時の社会的な評価などを推し量ることもできます」(佐々木教授)。

漢字発祥の地である中国をはじめ、韓国やベトナムなど、漢字を使った書物が残る国々は東アジアに広がる。だが、作り方やサイズ、デザインにおいて、日本ほどバリエーションが豊富な国は、実はなかなか見られない。

「本の仕立て方や形によりその本の格の違いもわかります。例えば、同じ時代の同じ仕立て方の書物でも、和歌集は長方形の場合が多く、物語が書かれたものは正方形のものがほとんどであるという傾向が確認できます。昔は和歌の方が物語よりも社会的な地位が高かったことと、この傾向には関連があると考えることができます。調査していると稀に、物語なのに長方形で仕立てられているものに出会います。わざわざ長方形にされていることからすると、献上本や学術的な清書本などの何か特別なものを作ろうとしたのではないかと推測することができるのです」。

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文字で書かれた情報を信用して書物の年代を決めていたものが、書誌学的な見方を活用することにより、実は違う時代に作られたものだと判明するケースがある。学界で良く知られた有名な本でもそのような再発見があるのだ。

「いつ書いたという文字情報を信用できるかどうかという問題は、その書物に保存された本文の信頼度と大きく関連します。誤った評価を鵜呑みにして、それを基に研究を進めた結果、論自体が成り立たなくなることもあるのです。古典を研究する場合、その作品の本文を保存した書物が、いつの時代に誰によってつくられたものかということは、解釈研究をする上でも非常に重要な情報となるのです」(佐々木教授)。

17世紀に作られた豪華な『竹取物語』の絵巻物
『竹取物語』の絵巻物。専門的な絵師と書家が、上質の紙と墨・絵具を用いて、挿絵と文字を担当しているものの、類例が多く確認できるので、商品的な書物であると判断できる。
光明皇后の発願により、天平12(740)年頃に書写された「一切経」の内の『四分律』1軸。
室町期を代表する歌人・古典学者として著名な三条西実隆が、装飾紙に書写した『詠歌大概』1帖。

日本と東洋の文献が揃う斯道文庫世界へ広がる日本の古典研究

書誌学の研究を進めるには、良質な文献を数多く目にすることが必要だが、慶應義塾にはそれを可能にする研究所がある。それが大学附属研究所斯道文庫だ。1938年に株式会社麻生商店(現・麻生グループ)社長の麻生太賀吉氏が、東洋の精神文化を研究する研究所として福岡市内に設立した財団法人斯道文庫を前身とし、慶應義塾創立100年にあたり、その約7万冊の図書の寄贈を受けて、日本及び東洋の古典に関する資料の収集保管と調査研究を行う大学附属研究所として、1960年に再スタートしている。その後も書物などの資料収集を精力的に行い、現在は約17万5千冊(寄託書約5万2千冊を含む)の蔵書を有している。

「慶應義塾創立150年には、センチュリー文化財団から、日本の文字文化に関する資料1740点の寄託を受けました。美術品としての性格を有するものが多いので、斯道文庫は図書館と美術館、そして研究所が一体となったような、全国的にも珍しい組織になっています。文庫内で行っている書誌学講座でも、所蔵している貴重な文献を実際に見てもらいながら講義を行うことができます。日本だけでなく中国・朝鮮半島・ベトナムなどの文献も多く所有しているので、これらの比較研究も容易に行えるのです」。

今後もセンチュリー文化財団からは、既に寄託されているものだけではなく、500点以上の追加分を併せた美術資料の寄贈を受ける予定で、これらの資料のより一層の活用を促すべく、新しいコンセプトの全塾的学術・文化資料施設「慶應義塾ミュージアム・コモンズ」を、2021年3月に開設することになっている。斯道文庫も寄贈資料の一部の保存管理を担うと共に、協力しつつ諸活動を展開していくことになる。

慶應義塾大学が2016年から参加している、国際的な無料オンライン講座「FutureLearn」でも、佐々木教授をはじめとする斯道文庫員たちが担当した書物関連のコースは好評だ(「Japanese Culture Through Rare Books」、「Sino-Japanese Interactions Through Rare Books」、「The Art of Washi Paper in Japanese Rare Books」)。講義は基本的に英語で行われているのだが、ここでも、斯道文庫の蔵書の存在は大きい。特別展でもないかぎりお目にかかれないような文献に出会えることは、海外で日本文化を研究していたり、日本に興味を有する人々にとって、たとえ画面越しであっても価値あるものとなっているのだ。

「メトロポリタン美術館や大英博物館などもですが、オックスフォード大学やケンブリッジ大学、アイビー・リーグをはじめとするアメリカの有力大学の図書館など、日本の貴重な文献は世界中のさまざまな場所で大切に保存されています。美術的な価値も高い日本の書物について、より詳しく知りたいということで、海外の大学や美術館などに呼んでいただき、お話をする機会を何度も持ちました。その経験がありましたので、無料オンライン講座の企画にも積極的に取り組むことができました。日本の古典研究というと、国内だけの古臭いものだと思われるかもしれませんが、世界の人々から注目される対象となっていることは、世界中の講座受講者から寄せられた数多くのコメントが証明しています。古典作品を保存している書物も、日本研究の一つの分野として、よりグローバルに展開できる可能性があると確信しています」(佐々木教授)。

「FutureLearn」本部からの勧めもあり、大英図書館と共同で、西洋と日本の書物の比較に関する新しいコースの制作も進められている。

知られざる国宝級文献

世界も注目する日本の古典籍。その故郷である日本には、あまり人に知られることなく存在してきた名品も多くある。最近、佐々木教授が出会ったのは、千葉県にある真言宗 飯沼山圓福寺にある嵯峨本のコレクションだ。嵯峨本は江戸時代初期に京都嵯峨で作られていた豪華な印刷本のことで、五色の色紙に雲母(きら)で様々な文様を印刷した装飾紙を用いるなど、日本の印刷史上で最も美しい本と評されるものをも含む、美術的な価値も高いものである。その嵯峨本の中でも特に有名な「伊勢物語」がこの寺には数多くあるというのだ。

「2014年にこちらのお寺で展覧会を開きたいので手伝ってほしいとのご要望があり、参上させていただいたところ、お蔵の中に嵯峨本をはじめとする素晴らしい本がたくさんあって、文字通り腰を抜かしそうになりました。それ以来現在に至るまで、年2回開催される寺宝展のお手伝いをしながら、蔵書の調査をさせていただいています」(佐々木教授)。

まだ見ぬ名品との出逢いもまた、書誌学研究の醍醐味だろう。

「日本国内はもとより、その価値を理解されないままに眠っている本が、世界のあちこちに存在しています。ワクワクしますよ」と佐々木教授は声を弾ませる。世界各国で研究が進められている日本の古典籍。佐々木教授の飽くなき探究心は海をも超えて広がっていく。

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佐々木 孝浩(ささき たかひろ)

1985年慶應義塾大学文学部卒業。1987年同大学院文学研究科修士課程修了。

国文学研究資料館研究情報部助手を経て、1996年慶應義塾大学助手(附属研究所斯道文庫)、2000年同専任講師、2003年同准教授、2010年より同教授。博士(学術)。和歌文学会常任委員、中世文学会委員。

1995年第21回日本古典文学会賞受賞。2016 年慶應義塾賞受賞。2017年第39回角川源義賞(文学研究部門)受賞。

専門は、中世和歌、書誌学。

※所属・職名等は取材時のものです。

(参考)

慶應義塾大学附属研究所斯道文庫慶應義塾大学附属研究所 斯道文庫

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真言宗 飯沼山 圓福寺 − 寺宝寺宝 – 飯沼山 圓福寺