慶應義塾

国内外の現代美術に精通する第一人者として、 現代アートの殿堂・森美術館館長を務める

卒業生 南條史生君(経済学部卒)

2019/07/26

南條史生(なんじょう ふみお)/森美術館館長

1972年経済学部卒業。大手信託銀行に入行するも1年で退職。文学部哲学科美学美術史学専攻に再入学し、1977年卒業。旅行雑誌の編集を経て国際交流基金に勤務し、舞台芸術と美術を担当。その後、フリーランスのキュレーターとしてヴェネチア・ビエンナーレ日本館や横浜トリエンナーレなど国際展のディレクターを数多く担当。2002年に森美術館開館準備室に入り、副館長に就任。2006年より現職。著書に『アートを生きる』(角川書店)など。

父の影響でアートの才能が開花する

- 南條さんは経済学部を卒業して社会人になった後、再び文学部哲学科美学美術史学専攻に入学するという経歴をお持ちです。アートとの出会いはどのようなものだったのですか?

南條:出会いは子どもの頃で、そもそものきっかけは父でしょうか。父は非鉄金属メーカーの営業マンとして世界中を飛び回っていましたが、絵を描くのが好きないわゆる"日曜画家"でもありました。小学校低学年のとき、画材道具を持った父に連れられて横浜の洋館が並んでいる外国人墓地の辺りに行ったことがあります。途中、父が美術雑誌を買ったことや絵を描く父の姿が今でもよみがえります。わが家には父が買ってきた美術雑誌や世界の名画の画集が揃っていました。画集といっても当時はカラー印刷ではなくモノクロ。子どもだった私は色の付いていない名画を眺めて過ごし、気がついたら絵画の遠近法を自然に身につけていました。小学校でも絵を描けば一番うまく、高校まで美術は常に一番良い成績でした。ちなみに慶應義塾高等学校時代はマンドリン部に入っていたのですが、そちらは才能がなかったようで、卒業コンサートには出演せずに、そのコンサートを録音した記念のLPレコードのジャケットデザインを担当しました。そんな私ですから、最初からアート系の学部に進学しても不思議ではなかったのです。

- ところがまず経済学部に進学されました。

南條:当時は芸術は社会とは無縁のジャンルだと思われていました。両親は絵に夢中だった私を心配して、しきりに「アートでは食えない」「芸術家だけにはなるなよ」と諭しました。そうなると私自身も「そっちの世界には行ってはいけないんだな」(笑)と思うようになり、アートの道に進むことをあきらめて経済学部に進学したのです。でもアートへの関心がなくなるはずもなく、大学入学後は学部を超えて美術好きや文学好きを集めて同人誌を作ったり、銀座の貸し画廊での展覧会を企画・開催したり、自分なりのアート活動を展開していました。後年、その仲間の一人はドイツに渡ってアーティストになっています。その当時、私自身は海外には関心がなかったのですが、大学の友人たちがどんどん海外に出かけていくのを見て、経済学部卒業間際に思い切ってヨーロッパを旅行しました。

- それが初めての海外旅行だったのですね。

南條:はい。普通の学生の卒業旅行と違うのは、美術史学者の高階秀爾(たかしなしゅうじ)の『ルネッサンスの光と闇』という本を片手に、フランスやイタリアなどの美術館をめぐって歩いたことです。本に書かれているルネサンスの文化が目の前にあるという体験は強烈でした。そして自分がそれまでヨーロッパ文化とアートについて何も理解していなかったということを、痛切に思い知らされたのです。この旅は後にアートを生業とする私の一つの原点になったと思います。

- 経済学部卒業後は大手信託銀行に入行されます。

南條:しかし自分が銀行員に向いていないことにすぐ気づきました。新入社員時代には毎日のように取引先の売上金を運び、銀行に戻れば高校卒業後から働いている同い年の社員がソロバンや電卓を使って、テキパキと仕事をこなしていた。彼らにはまったくかなわない。「ここでオレは何をやっているのだ?」という疑問に苛(さいな)まれる日々でした。当時、銀行業務にもコンピュータが導入されはじめた頃で、ゆくゆくは銀行員の仕事の多くがコンピュータに置き換わるのではないかとも感じていました。そして今度こそ大学でアートを学ぼうと決意しました。

- ご両親はたった1年で退職された南條さんの決断に納得されたのですか?

南條:していなかったと思います(笑)。そこで私は親に対して「銀行が安定しているなんて幻想に過ぎない。これから時代が変わっていくのだから、もう一度だけ僕の教育に投資してほしい」と頼んだらしいのです。実は自分ではそのセリフをよく覚えていなくて、後年母から聞かされました。当時の私自身の価値観としては一流企業への就職より、自分がどのように生きていきたいかを追求することの方が大切だと思っていました。そのための蓄積を再び義塾で学ぶことで得ようと考えていたのです。哲学も好きでしたが、やはりアートを志向する美学・美術史という分野を選び、中でも今の仕事にも通じる現代美術史を中心に学びました。

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国際交流基金での文化交流で現代美術のネットワークを築く

南條:美学・美術史の教授からは「美術史を勉強しても仕事はないぞ」と脅されていましたが、実際はそうでもありませんでした。折しも美術館ブームが到来して、全国の各自治体が美術館を設立しはじめていたからです。美学美術史学専攻のような教育を行っている大学は全国でも数少なく、バブル経済の時代にかけて多くの義塾出身者が美術界に進出しています。あまりに目立つ存在だったので、組織だった活動をしているわけでもないのに「慶應マフィア」なんて呼ばれ方をしていたのですよ。とはいえ、私は卒業後すぐに美術界で仕事をしたわけではなく、学生時代からアルバイトで手伝っていた旅行雑誌の編集者になりました。好きなカメラを担いで国内外を旅できますし、やがて副編集長として大きな仕事も任され、編集者の仕事に手応えを感じていました。そんなある時「国際交流基金という組織が美術の専門家を探している」と知人から教えてもらいました。編集者にも未練はありましたが、もともと希望していた美術界に移るチャンスかもしれないと考えて採用試験を受けてみたら、幸運にも合格したのです。

- ようやくそこからが美術界への本格的な第一歩ですね。

南條:ええ、ただし最初は美術ではなく、舞台芸術の担当として基金が主催するアジアの音楽イベントや 土方 巽(ひじかたたつみ)らの前衛舞踏を海外に紹介する事業などを手がけ、日本と海外の文化理解のフレームづくりに奔走しました。5年ほどして美術担当の部署に異動となってからヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展を担当しましたが、現代美術のキュレーターとしての道筋をつけたのは舞台芸術担当だった頃に手がけた国際交流基金の設立10周年イベントでした。ダニエル・ビュラン、ヨーゼフ・ボイス、ジュリオ・パオリーニら現代美術の巨匠5人を日本に招聘し、ラフォーレミュージアム原宿で現代美術展を開催したのです。展覧会の開催にあたっては、解説やデータづくりなどを頼むため全国から現代美術系のキュレーターを総動員しました。この機会に現代美術の専門家のネットワークとつながり、私自身が美術界で現代美術の専門家として認識されるきっかけともなりました。 また、会場となったラフォーレミュージアム原宿は、森ビルの関連組織。森美術館の設立者である森稔さんとはまだ面識はありませんでしたが、20年以上経ってから深いご縁ができることになります。いろいろな意味で現在の私の出発点ともなった経験でした。

- 1986年に国際交流基金を退職されていますね。

南條:在職中に多くの現代美術関係者とのネットワークができていましたので、独立してさらに自由な環境で現代美術の仕事をするつもりでした。その後、現代美術に特化したキュレーターオフィスや現代美術の教育を目的にしたNPO法人を設立しました。国際交流基金で日本と海外をつなぐ仕事に携わって感じたのは、文化を伝えようとする強い気概を持ったアンバサダーが必要だということでした。そのためにも若い世代の現代美術の担い手を育成することは大切で、NPO法人は現在若いスタッフが私に代わって運営しています。

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現代美術の第一人者として美術館の設立・運営に参画

- そうした南條さんの日本の現代美術への思いを込めた活動が森美術館の設立準備へとつながっていったのですね。

南條:そうかもしれません。すでに六本木ヒルズに森美術館設立の構想を抱いていた森稔さんからお声をかけていただき、開設準備室に参加することになりました。現代美術中心の美術館を作りたいというお話を伺って「集客を考えれば印象派の美術館の方がいいのでは?」と聞いたところ、「どうしても現代美術でいきたい」と強い決意で言われ、自分の力を尽くそうと思いました。初代館長は森さんの希望でストックホルム近代美術館館長だった英国人のデヴィッド・エリオット氏を招いて就任してもらいました。日本の美術館で初の外国人館長です。まったくの偶然ですが国際交流基金時代に私は彼を日本に招いたことがあり、副館長として一緒に仕事をすることになってほんとうに驚きました。

- 2006年に森美術館2代目館長に就任されました。

南條:森稔・佳子夫妻は東京に「MoMA(ニューヨーク近代美術館)」のような美術館を作ることを目指されて森美術館を設立されました。海外から遊びに来た人が必ず立ち寄る東京でマストの美術館です。館長としての私の役割は、まずその思いを受けて森美術館を世界に向けてプロモーションし、現代美術のネットワークを広げていくことだと思っています。私たちが目指しているのは「 顔の見える美術館」です。先日、与党の「美術館を考える会」という集まりに呼ばれまして「なぜ森美術館ばかりが外国人旅行客の人気が高いのか?」と聞かれました。もちろん、一言では説明できません。外国人向けプログラムの充実やバイリンガル対応、森夫人以下の美術館スタッフが英語でご案内すること、要人の方がお見えになるときはカクテルパーティーでお迎えすることなど、さまざまな工夫を凝らして、お客さまから「顔が見える」森美術館のブランディングを図っています。

- 最後に塾生へのメッセージをお願いします。

南條:若い人たちにはクリエイティブに生きてほしい。最初から大きなことをやる必要はありません。どんなことでも人と同じではなく、自分で工夫を重ねてみることが大切です。そうやって小さな実験を繰り返していると、失敗することもあるでしょう。いや失敗の方が多いかもしれない。しかし、そうした小さな失敗を重ねた人間こそが、大きな決断やチャレンジができる人間になるのです。人とは違うやり方を考えることがクリエイティブに生きる第一歩であり、人生の妙味というものです。

- 本日はありがとうございました。

撮影:佐藤 公治

この記事は、『塾』2019 WINTER(No.301)の「塾員山脈」に掲載したものです。

※所属・職名等は取材時のものです。