慶應義塾

慶應義塾のシンボル・図書館旧館

2019/12/05

煉瓦造りの図書館旧館は、1世紀以上にわたって義塾関係者に親しまれ、慶應義塾を象徴する建造物としてしばしばメディアでも紹介されてきた。重要文化財にも指定されているこの歴史的建物を後世に残すため、2017年に始まった改修工事が「令和」に改元された2019年5月末に完了した。変わらぬ姿で次の1世紀も慶應義塾の歩みを伝え、その理念を発信していく場となることだろう。

図書館開館式(1912年) 写真提供:慶應義塾福澤研究センター

明治最後の年に竣工した慶應義塾図書館

1905年、気鋭の社会学教授・田中一貞が慶應義塾初代図書館監督(館長)に就任した。その頃から義塾の学術を支える本格的な図書館をつくろうという機運が高まっていく。海外の大学図書館事情にも通じていた田中はある講演で「図書館建築で最も留意すべきこと」として、防火、経済(効率的な書籍保存)、将来への拡張計画(増築など)の3つを挙げている。

1906年に慶應義塾創立50年を記念した図書館の建設計画が決まり、資金を広く募集した。寄付はすぐに目標額30万円(当時)を超えたが、そこで一波乱が待っていた。図書館を木造にして建築費を抑え、残りのお金で工科(大学)を設置しようという議論が出てきたのだ。しかし当時の鎌田栄吉塾長は図書館を建造する名目で集めた資金を別の目的に使うことは「天下に信を失ってしまう」もので、図書館は不燃物で建てなければならないと断固反対した。かくして煉瓦造りの図書館の建造が決まり、明治最後の年である1912年4月に、赤い煉瓦にアーチ型の窓、ネオ・ゴシック様式の瀟洒な図書館が三田山上に姿を現した。

震災や空襲を乗り越え歴史と伝統を伝える

完成した図書館は本館部分が地上2階(一部3階)と地下1階で、書庫は地下から屋根裏まで6層に分かれていた。20万冊の蔵書収容能力と200席以上の閲覧席は、当時の大学図書館として他に類を見ない規模であった。

1923年の関東大震災では、図書館は外壁に亀裂が入るなどしたがどうにか持ちこたえた。その後修繕と増築が施されたが、1945年5月の空襲では閲覧室、事務室などの本館内部と第一書庫屋根裏の一部が焼失。しかし宿直の教職員による懸命の消火活動と被災に備え周囲の木造建物を取り壊していたことなどにより、書庫への延焼を免れ、収蔵されていた貴重書もすでに疎開させており無事であった。空襲当夜宿直を務めた職員の回想記によると、当時教授だった折口信夫が翌朝来塾。「まだ燃えつづけている図書館をじっと見つめていた。やがて私を振り返って、ただ一言、本はといった。書庫には火は入っていない筈だと答えると、はじめて笑顔になって何かと話しかけてきた」と、綴られている。

空襲によって被災した図書館内部(1945年) 写真提供:慶應義塾福澤研究センター

戦後は資材不足に悩まされながらも修築工事が続けられ、1949年には元の姿を取り戻し、1961年には蔵書数の増加に対応するために書庫が増築された。1969年には、初期の建物部分が重要文化財に指定されている。

最新の工法により今のままの姿を伝える

1995年の阪神・淡路大震災後、慶應義塾では保有する建物の耐震補強工事や建替・新築工事対策を順次行ってきた。その最後となるのが図書館旧館改修工事である。

貴重な重要文化財を今の姿のまま保存しながら耐震対策を施すために採用されたのが「免震レトロフィット工法」である。建物そのものを傷つけることなく、建物を持ち上げて下部に免震装置を設置することで耐震性を得ることができる。今回の工事では図書館旧館の本体と第二書庫で施工された。

レトロフィット断面図
図書館旧館地下に設置された免震装置

耐震工事に加えて、劣化した屋根と外壁の補修工事も実施された。なお、前述の空襲による火災で曲がったままの第一書庫屋根裏の骨組みは、立ち入り禁止区域として閉鎖した上で、戦争の遺構として残されている。

2017年2月から本格的に始まった工事は、2019年5月末に完了した。今後、図書館旧館内部の整備が行われ、2020年夏には慶應義塾の歴史や伝統を紹介し、その理念や文化を発信する場となる「塾史展示室(仮称)」が開設予定である。

耐震工事終了後の図書館旧館

この記事は、『塾』2019 AUTUMN(No.304)の「ステンドグラス」に掲載したものです。