-大正15年の塾監局竣工から90年-
2018/02/14
塾監局という建物をご存知だろうか。ちょっと古めかしい感じがするこの名称は、三田キャンパスにある建物を指すとともに、義塾の事務全般を支える組織も意味する。現在の建物が竣工して90年、塾監局は常に義塾とともに歩んできた。
竣工時の塾監局(1926年)
塾監局の名称は、福澤諭吉が学んだ適塾に由来する
塾監局の建物の存在は、塾生にはなじみが薄いかもしれない。学生生活を通じて、足を踏み入れる機会は多くないだろう。三田キャンパスを東門から入り、図書館の旧館と新館(メディアセンター)の間に位置する、レンガ造りのゴシック風の建物である。竣工は1926(大正15)年で、90年が経過した。設計は1912(明治45)年竣工の図書館旧館と同じく曾禰達蔵(そねたつぞう)・中條精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)である。
塾監局は、建物の名称であるとともに、義塾の事務全般を担う組織という意味も含んだ語である。ほかではあまり聞かないその名称は、若き日の福澤諭吉が学んだ緒方洪庵の適塾にあった塾監という管理組織に由来するとも考えられている。
慶應義塾は、1871(明治4)年に芝新銭座から三田の島原藩中屋敷跡に移転した。塾監局という語を見ることのできる最も古いものが、同じ年につくられた『慶應義塾社中之約束』である。
『慶應義塾社中之約束』は、改訂を重ねながら1897(明治30)年頃まで印刷物として頒布された諸規則集。1871年当時の資料をもとにした『慶應義塾七十五年史』所載のものによると、「塾監局の職務」の一つ、「入社(入学)の規則」の条文に「第五条社に入らんとする者あれば、塾中教授の員にて本人の身分を証し、塾監局の許可を得て入社すべし」という項があり、塾監局が当時の入学を取り仕切っていたことがわかる。また、三田移転当初の塾監局は、入塾(入寮)や通学をはじめとする学事や図書の貸し出しなどを担当しており、義塾の事務部門の一つであった。しかし、義塾の発展とともに徐々にその担当範囲を広げ、明治30年代の職務分掌規定によると、塾務は教頭、塾監、会計主任の3つの役職者を中心に運営処理されていた。役職としての塾監は、当時主に庶務や寄宿舎を取りまとめており、教育部門の教頭と並んで大きな権限を持つようになっていた。やがて塾監という職名はなくなり、明治40年代には塾監局という呼称が、広く事務機構全般を統括する意味で使われるようになった。
華やかなではないが質実な佇まいの塾監局
義塾が三田へ移転した当初、島原藩の大名屋敷をそのまま教室などに使用していた。しかし屋敷の老朽化と塾生の急激な増加により、1887(明治20)年に400~500名を収容できるレンガ造り2階建ての講堂(煉瓦講堂)が竣工した。翌年には、その西側に第二講堂が完成し、先にできていた建物は第一講堂と呼ばれた。
第一講堂は1890(明治23)年に大学部が設置されてからは大学部の講堂となり、その後は、教室や塾監局として使用されていた。しかし、1923(大正12)年の関東大震災で破損し、翌年の余震で使用不能となって取り壊され、1926(大正15)年、その跡地に現在の塾監局の建物が造られた。
組織としての塾監局においては、増え続ける塾務や時流に対応し、戦前・戦後を通して複数回の塾監局職制改革が行われている。
慶應義塾の現在の組織図を見ると、片方に大学、一貫教育校などが連なる教学部門の大きな枝が張り出し、もう片方に、塾務の部署をまとめる要として塾監局があり、こちらも大きな枝を形成している。組織としての塾監局には、現在法人部門の事務局が入っている。
建物としての塾監局内には、現在総務部、人事部、経理部、管財部、広報室などが入っている。
大正時代に建てられた塾監局は、図書館旧館のように義塾のシンボルとして紹介されることは少ないが、その古色を帯びた質実な佇まいのまま、義塾を静かに支える存在として、義塾の歴史を見つめてきたのである。
この記事は、『塾』2017 SUMMER(No.295)の「ステンドグラス」に掲載したものです。