慶應義塾

量子コンピュータを実現する鍵は「シリコン」? -同位体に魅せられた30年、そしてダイヤモンド-

理工学部物理情報工学科 伊藤公平教授

2017/06/27

私たちがいま使っているコンピュータが、ある分野で「古典コンピュータ」と呼ばれていることをご存じでしょうか。それは、世界中の名だたる企業も参入し、めざましい速度で研究が進んでいる量子コンピュータの分野です。そこで注目されているシリコンの特異性を見出したのは、慶應義塾大学のある研究者でした。世界も驚く発想を可能にしたのは何だったのか、そして今後の展望は? 研究室をたずねました。

半導体、そして同位体への着目

「半導体」と聞いて、皆さんは、パソコンや携帯電話などの中に入っている電子部品を思い浮かべるでしょう。この「半導体」という言葉は、電気を通す「導体」と電気を通さない「不導体」の中間の性質を持つ物質のことを指します。

世の中には、さまざまな種類の半導体がありますが、なかには一種の元素でその性質を示す物質(ゲルマニウム、シリコンなど)も存在します。この半導体元素に注目する……のではなく、同じ元素でも「中性子」の数の違いによってさらに細かく分類した“同位体”(※)に着目する研究で、世界的に注目を集める研究室が矢上キャンパスにあります。それが伊藤公平研究室です。

(※)同位体とは

私たちのいる世界は、水素、ヘリウム、リチウムなど、約90種類の元素からできています。一つの元素をよく見てみると、「原子核」と「電子」からなり、その原子核は「陽子」と「中性子」からできています。 水素原子は陽子が一つ、ヘリウムは陽子が二つ…と、元素の違いはその原子を構成する「陽子」の数の違いで説明されるのですが、なかには同じ元素のなかでも中性子の数が違うものが存在することがわかっています。もちろん陽子の数は同じですから、同じ一つの元素なのに、中性子が多いものはそれだけ重くなります。同じ元素なのに重さが違うもの、これを「同位体(isotope)」と呼びます。 先に出てきた半導体元素にも、この同位体はあります。例えば、ゲルマニウム(元素記号:Ge)だと質量数(陽子の数+中性子の数)が70、72、73、74、76という五種の同位体が、シリコン(元素記号:Si)では質量数が28、29、30という三種が自然界に一定の割合で存在しています。

伊藤教授の研究生活は、ゲルマニウム(元素記号:Ge)同位体の研究から始まりました。大学院時代に所属していた研究室では当時、天文物理観測用の温度計(ボロメーター)センサー開発のために、半導体元素のゲルマニウムの物理特性を研究していました。

ちょうどこの頃、時代は冷戦崩壊を迎えます。同位体を分離する技術は「ウラン凝縮」と呼ぶ核兵器製造に必要な技術でもあり、冷戦当時に旧ソ連の核軍事施設にいた技術スタッフが冷戦終結によって他国に流出することになると大変です。そこで、スタッフがその場に留まり平和的な職に就くことのできる方法として、西側諸国による公的研究支援機関が設立されることになりました。このような時代背景もあって伊藤教授は、平和利用を目的として、放射性もなく安全で、同位体別となったゲルマニウムを手に入れることができるようになり、元素レベルではなく“同位体レベル”での物性の違いについて研究を進めるようになります。

「この『半導体同位体工学』という言葉は、私たちが作ったんですよ」と伊藤教授は話します。

1998年には調達した資金を元にシリコンの同位体を手に入れ、結晶成長の実験を開始します。

「古典コンピュータの心臓部はシリコン半導体です。よって、ゲルマニウムよりも産業的な広がりもあり汎用性が高かったことから、シリコン同位体の研究を進めていくことにしました。まずは綺麗なシリコン結晶を作るところから始まり、熱の流れや磁性、電気特性…とあらゆる物性の違いについて論文にしていきましたね」。

こうして得た、シリコン同位体についての幅広く深い知見が、後の応用へとつながる基盤になっていきました。

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オリジナルを極める-量子コンピュータとの出会い

シリコン同位体についての研究を進めていた1998年、ある論文を目にした伊藤教授は驚きます。論文はBruce Kane博士による“A silicon-based nuclear spin quantum computer”、シリコン原子を使った量子コンピュータについて書かれたものでした。早速、伊藤教授はKane博士を慶應義塾に招き、シリコン同位体の可能性について直接、意見交換する機会を得て、量子コンピュータへのシリコン同位体の応用について研究を進めることになりました。

量子コンピュータについて語るまえに、現在のコンピュータ「古典コンピュータ」と、「ムーアの法則」にふれておきましょう。ムーアの法則は1965年、ゴードン・ムーアがコンピュータ(古典コンピュータ)研究の成長速度を予測したもので、実際にほぼその指標どおりに推移しています。一方でこの法則は、古典コンピュータが一つのチップに置く半導体の数が原子レベルに達したとき、限界を迎えることも示しています。そこで開発が進められているのが、原子レベルで、さらに複雑で膨大な情報を高速処理できる、量子コンピュータというわけです。

とはいえ、これまでシリコン同位体の物理特性を研究してきた伊藤教授にとって、量子コンピュータは未知の世界です。そこで、関係する量子力学や情報工学などの分野について積極的に勉強会や研究会に出て研鑽を積みました。そんななか、アメリカ西海岸にあるさまざまな研究所をめぐり、同位体工学の可能性について探るツアーを実施。このツアーの途中で、当時スタンフォード大にいた山本喜久博士と出会います。

「山本博士には、大きな宿題を出されましてね。『本当に同位体を一個一個並べることができるのか?』と。後に学会の場でそれが理論上可能であると示したんです。すると、彼が『これは面白い』と」。

こうして量子コンピュータの大家である山本博士と学会中、連日食事を共にしながら構想を練ることになります。さらにそれぞれが持ち帰って議論を重ねて書き上げた論文を、2002年に発表します。「これが『An All Silicon Quantum Computer』、僕らのなかで一番有名になった論文の一つです」(伊藤教授)。

この論文で書かれた量子コンピュータには、同位体分離した質量数28のシリコンと29のシリコンが使われます。この二つの同位体は、重さ以外にもう一つ違いを持っています。それが「核スピン」と呼ばれるものです。この核スピンを持つものは、とても小さな“磁石”のように振る舞い、核スピンがないものは磁石としての振る舞いをしません。シリコンの同位体のなかで核スピンを持つものは、なんと29シリコンのみなのです。純度の高い28シリコンを敷き詰めた中に、29シリコンの原子一つずつ一列に並べ、磁場を発生させて核スピンを操作することで、一つひとつの小さな“磁石”と化した原子それぞれに情報を持たせることができるというのです。これで古典コンピュータの何万倍もの情報を伝達することが可能となります。この量子が持つ情報の操作にはNMR(核磁気共鳴)の知識を応用させていくといいます。

「海外の研究者から『29シリコンばかり研究してどうするつもりなんだ』と不思議がられたこともありましたが、やり続けたことが新しい発見につながりました。今や、シリコン量子コンピュータの方式は二つあって、一つは29シリコンを積極的に利用する方式、そしてもう一方は29シリコンを邪魔者として徹底的に除去する方式です。いずれにせよ私たちの半導体同位体工学が必要です。過去の研究の蓄積を再発見して、組み合わせるのが大事ですよ」(伊藤教授)。

そして、何と言っても発想の下支えになっているのは、地道に取り組んできたシリコン同位体の物理特性についての豊富な見識です。

「98年まではゲルマニウムについての実験を重ねていたし、それ以降はシリコンでの実験を行うことで理論的な知識や“勘所”は蓄積していましたから」と伊藤教授は微笑みます。

“材料が手元にあること”、“手元にある材料が一級品であること”、そして“材料の物性について基礎的なことが理解できていること”というこれまで積み上げてきた土台があってこそ、この世界的に影響力のある研究が実現したのです。

「これまでにNMR関連や表面物理、情報工学…世界中の会議に呼ばれて話をしましたが、量子コンピュータはいろいろな分野の人がさまざまな切り口で興味を持っているようですね」(伊藤教授)。

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最先端のさらに先-ここから目指すものとは?

量子コンピュータは現在、電子や原子数個のレベルの精度で実装されつつあり、とても敏感で消えてしまいやすい電子スピンや核スピン情報の保持時間も、マイクロ秒の単位から、その百万倍の秒の単位へと伸びつつあるといいます。そしてついに実用化に向けて、海外の民間企業も資本をつぎ込んで本格参入するようになりました。

「その技術はまさに、我々が研究してきたもので、これから彼らが同位体を使う時代が来ます。基礎研究から技術移転のステージに移っています」と伊藤教授は話します。

こうなると、唯一無二を目指す大学の研究者としては、次の高みを目指す時が来ているということかもしれません。伊藤教授が次に狙っているのは、ダイヤモンド(炭素)だといいます。「シリコン量子コンピュータは摂氏マイナス273度近くの超低温でしか動作しません。でもダイヤモンド量子デバイスは常温でいいのが利点です」という伊藤教授によれば、なんとダイヤモンドの中に一つ置いた電子のスピンを、“光”を使って読み取ることができるというのです。常温で扱える炭素原子とはいえ、量子状態は周囲の環境に敏感に反応するため、情報を保持するのはとても困難です。しかし、

「敏感ということはつまり、感度のいいセンサーになり得るということです」と意気込む伊藤教授は今、量子センシング(量子のスピンを使って膨大な情報を検知する)という新たなコンセプトの実証に、得意の同位体工学で挑戦しています。

半導体同位体工学の応用は、他にもあるようです。

「量子コンピュータと量子センシングという二本柱とは別に、物質の“拡散”を調べるという研究も進めています」(伊藤教授)。

超小型化が進む半導体部品の中に使われているシリコンが、熱処理によって理論上の能力を発揮できなくなってしまわないよう、物理的・化学的な挙動を同位体を使って調べるのです。

「新川崎タウンキャンパスにて、民間企業との産学連携プロジェクトとして『TCAD(Technology Computer Aided Design)研究開発センター』を立ち上げ、研究を進めているところです。古典コンピュータの世界でもまだ半導体同位体工学が必要とされているんですね」と伊藤教授は笑顔で話します。

最後に、世界にも影響力を増す「半導体同位体工学」の研究を続ける伊藤教授のこれからについて聞いてみました。すると、

「意外に思われるかもしれませんが、研究よりも教育に力を入れたいと常々思っています。世界に通用する人材を輩出し続けることが、何より研究を進める原動力にもなるし、いいスパイラルを生みますから」という答えが。学生が互いに高めあい刺激しあって学術的な成果をあげるだけでなく、持ち前の半導体材料と合わせて人材面でも海外連携が進むようになったといいます。

「我々の研究室では博士課程への進学率も高いんです。世界に人材を輩出するには、まず監督たる人間がしっかり世界に認められていないといけないという思いもあって、これまで突き進んできたんですよ」と伊藤教授は笑います。

また、近頃は他分野との連携にも興味を持ち始めているようです。

「今は医工連携にも興味があります。研究者である私たちは学問を知って深めるだけでなく、社会の役に立つことも大事。難しいとわかっていても、何か連携できないか…と気になりますね」(伊藤教授)。

これまで理論、実験、応用と広がりを見せていた研究は、異分野とどのようなつながりを見せてくれるのでしょうか。オリジナリティを持って切り拓いてきた道は、まだまだ続きます。

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伊藤 公平(いとう こうへい)

1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。1992年カリフォルニア大学バークレー校より工学修士号(Materials Science)取得、1994年同校よりPh. D. in Materials Science取得。米国ローレンスバークレー国立研究所特別研究員を経て、1995年慶應義塾大学理工学部助手、1998年同専任講師、2002年同助教授、2007年4月より同教授。2017年4月より同理工学部長・理工学研究科委員長、現在に至る。

その間、科学技術振興事業団・さきがけ研究21研究員、千葉大学自然科学研究科講師、東京大学特任教授、国立情報学研究所客員教授、東京大学客員教授などを歴任。また、2011年より日本学術会議連携会員を務める。

2006年日本IBM科学賞、2009年日本学術振興会賞(JSPS PRIZE)受賞。2015年応用物理学会フェロー表彰。

※所属・職名等は取材時のものです。