卒業生 松原英俊君(文学部卒)
2017/12/26
松原英俊(まつばら ひでとし)/鷹匠(たかじょう)
1950年青森市生まれ。1974年文学部東洋史学専攻卒業、山形県真室川町の鷹匠の沓沢朝治氏に弟子入りし、1年後に独立。現在、クマタカで猟をする日本でただ一人の鷹匠である。登山キャリアも豊富で、国内の3000メートル級のほとんどに登り、1995年に中国の未踏峰ギシリク・タークに山岳会の一員として登頂、また単独でペルーの4000メートル級4峰にも登頂している。
獲物に向かって飛ぶ鷹の後ろ姿を見る最高の喜び
- 鷹匠は、訓練した鷹や鷲を使い、キジなどの鳥やウサギなどの動物を狩る人のこと。鷹狩りには大きく二系統があり、時代劇映画などで見るのは、大名などがお抱えの鷹匠を持ち、オオタカやハヤブサを使ってキジやカモなどの鳥類を獲る、いわばレジャー的な要素の高い鷹狩りです。もう一系統は東北山間部の農民の冬の副業で、オオタカやハヤブサよりひと回り大きいクマタカ、イヌワシを訓練して、ウサギやキツネ、タヌキなどを捕獲し、その毛皮を売ることで生活を支える鷹匠です。松原英俊さんは、そのクマタカでの狩りをする、現在国内ただ一人の鷹匠。鷹狩りという伝統文化を伝える活動は「やまがた雪文化マイスター」として山形県に認定され、講演活動も行っています。率直にお聞きしますが、鷹匠は、とても魅力的な仕事だとは思うのですが、生活は成り立つのでしょうか。
松原:私が師匠の沓沢朝治(くつざわあさじ)氏に弟子入りしたのは文学部卒業後の1974年です。当時、師匠は79歳で、もう獲物を追って雪山を歩き回る狩りはしていませんでした。師匠が若く現役の頃は、冬の雪山には小動物も多く、また毛皮がいい値段で売れたので、冬の仕事として成り立っていました。しかしその後、徐々に動物は減り、また毛皮が売れる時代ではなくなり、さらに野生動物保護の関係でクマタカを手に入れることも難しくなって、仕事としての鷹匠は、生活的に難しい状況です。実は私が師匠に弟子入りした頃には、こうなることは予想できていました。それでも鷹匠を一生の仕事と決めて、今まで貫いてきました。
- そこまでして生涯の仕事にした鷹匠の魅力を教えてください。
松原:一言でいえば、鷹匠という生き方が大好きなのです。クマタカの訓練には時間がかかります。山小屋に共に住み、手に乗るまでに慣らし、獲物にとびかかる訓練をし、シーズン中は狩猟意欲を高めるために、ぎりぎりの絶食もさせます。とにかく徹頭徹尾、クマタカと向き合うしかありません。お互いに気持ちが通じ合い、共に猟ができるまでには、長い時間と膨大な忍耐が必要なのです。
弟子時代の1年を含めて、私のクマタカが初めてウサギを狩るまで、4年半かかりました。そのとき、私は雪の中に立ち尽くして、涙を流し続けました。苦労が大きかった分、感動も大きかったのです。今でも一心同体になった鷹が、私の思いをのせて、獲物に向かって果敢に飛んでいく後ろ姿を見ることは、最高の喜びです。その素晴らしい一瞬で、すべての苦労が報われます。ですから鷹匠は、私にとってはかけがえのない唯一無二の仕事なのです。
山の暮らしを経験し鷹匠こそ自分の生き方と定める
- 農家の出身でもない松原さんが、文学部を卒業して、なぜ鷹匠になったのか。子供時代を含めて、そのあたりの経緯を教えてください。
松原:高校まで青森市で育ちました。子供の頃からセキセイインコやジュウシマツを飼い、野鳥の会にも所属していました。中学1年のときには、同級生の村に白い鷹が現れると聞き、双眼鏡を持って観察に出かけ、本州では珍しいシロハヤブサであることを確認したこともあります。一方で登山も好きで山岳部に所属していましたから、鳥と山に惹かれる下地は、10代の頃からできていました。
しかしそれはそれとして、高校では英語の勉強が無性に面白くなり、真面目な受験生として頑張り、義塾の文学部に合格することができました。野鳥の会のサークルにも所属しましたが、高尾山や奥多摩の山での和気あいあいとした観察では物足りなくなり、そのうち単独で南北アルプスの山に登り始めていました。
山登りでは、節約のために野宿かテント、あるいは無料の避難小屋で寝ます。そうするとよく蛇が出てきます。食糧は最低限しか持っていないので、おなかがすいています。そこで蛇を捕まえて、皮をはぎ、生で食べたり、焼いて食べたりしました。おいしいものです。そのほか鳥でも動物でも、山では捕まえたらなんでも食べました。さらには蛇を持ち帰ってゲテモノ料理屋に売ると登山資金になるのではと考え、ある夏、アオダイショウ、シマヘビ、ジムグリなど7匹の蛇を捕まえて、千駄ヶ谷の下宿の段ボール箱で飼い始めました。ところがしょっちゅう箱から逃げ出すので、いちいち戻すのが面倒くさくなり、部屋で放し飼い状態です。暑い日に下着一枚で寝ていると蛇が体の上を這い回り、これがひんやりして気持ちよかった。聞くところでは、中国の山奥では、これと同じ暑さしのぎの方法があるそうです。そんなある日、1匹が部屋から逃げ出し、下宿の娘さんが見つけて騒動になりました。近くの神宮の森から迷い込んだのだろうということで落着。私は追い出されずにすみました。
東洋史学専攻の卒業論文は朝鮮半島の鷹匠について
- 話題を変えて、3年生を終えてから1年間休学していますが、その理由は?
松原:2年から東洋史学を専攻しましたが、中国の古い文献を読むことはそっちのけで、探検記・冒険記を読みふけりました。黒澤明が映画にもした、シベリアの猟師生活を描いたアルセーニエフの『デルス・ウザーラ』や、スウェン・ヘディンの『中央アジア探検記』などを熱心に読んでいました。
その頃の夢は、ラクダの背に揺られて、誰も単独横断したことのない砂漠を渡ることでした。いろいろと調べ、目的地をアラビア半島南部のルブアルハリ砂漠に決めて、ためらいもなく休学しました。砂漠の横断距離は800キロ。まずは予行演習のつもりで、東京から青森の実家まで歩くことにしました。ところが本番は砂漠だから水を控えなければと思ったのが大きな間違い。数日後にはひどい脱水症状で動けなくなり徒歩帰郷は断念。それでも青森から東京への戻り道は、野宿をしながら20日間で歩き切りました。農家の納屋に無断で泊まり、朝、犬にほえられて家の人に見つかり、「東京まで歩くの?」と呆れられるやら感心されるやら、結局、朝ご飯をごちそうになったこともあります。
そして東京に戻り、勢い込んでサウジアラビア大使館にビザをもらいに行くと、3日間の観光ビザしか出せないと言われてがっかり。結局この冒険はあきらめるしかありませんでした。休学はしているし、さてどうしようと思い、以前から興味があった山暮らしを経験することにして、北上山地の山奥で、農家仕事を手伝いながら蚕小屋の2階を借りて約1年生活しました。山に囲まれた日々の中で、卒業後の仕事について考えていたときに思い出したのが、中学生の頃に見たテレビドキュメンタリーの『老人と鷹』です。鷹匠の日々を追い後にカンヌ映画祭で賞をもらった作品で、見た当時の感動がよみがえり、私の仕事はこれしかないと、出演していた沓沢氏への弟子入りを決意しました。好きな山と動物に関わる仕事としては、クマを撃つマタギもありますが、鉄砲を使うより、鳥を相棒にする鷹匠が自分には向いていると思い定め、4年に復学しました。残り1年、鷹匠の知識を身につけようと、卒論には東洋史の文献から、朝鮮の鷹匠に関するものを読み、論文を書きました。
沓沢氏に弟子入りする前に、少しお金を貯めたほうがいいかと短期の就職も考えました。新聞広告で見つけた会社の試験を受け、採用されたものの、やはり沓沢氏の年齢を考えて、1年でも早く弟子入りするほうがいいと辞退しました。ところが手紙での弟子入り志願は断られました。それでも何度も会いに行き、ようやく「親の承諾があれば」との言葉を引き出して、郷里に帰りました。父は銀行員、母は小学校の教員です。二人とも鷹匠のことは何も知りません。そこで反対する間を与えずに「とにかく鷹匠になる」と宣言して、弟子入りが決まりました。両親は不安だったでしょうが、後には応援してくれるようになりました。
以来、法律や人間関係など、さまざまな困難が壁となって行く手を阻みましたが、まったくぶれることなく、鷹匠として生きてきました。今は、この道を自分で見つけて選んだ私自身を、ほめてやりたい気持ちです。
現在、私には弟子や後継者はいません。クマタカを使う鷹匠は、私が死んだら終わりでしょう。それでも、どんなに苦しくてもクマタカの鷹匠をやりたいと思う若者が現れたら、技術を伝えてもいいと思っています。もっとも、私以上にいばらの道を歩くことになりますから、まずそんな人は出てこないでしょうけれど。
- ところで、鷹匠になった後に海外の山に登っています。鷹の世話などはどうしたのですか?
松原:結婚してから、餌やりぐらいなら家内が手伝ってくれるようになり、狩猟シーズンオフには長期の山行が可能になりました。家内は大阪で銀行に勤めていたのですが、夏休みに会津磐梯山に遊びに来て道に迷っているところに出会いました。その後、遠距離恋愛を経て、彼女の周囲からは大反対されながらも結婚し、息子もいます。当時は電気、ガス、水道のない山小屋住まいですから、反対されるのは当然でした。冬は薪ストーブの上で雪を溶かして水をつくるような生活でしたから。
というわけで、結婚後に山形の山岳連盟の一員として中国の崑崙山脈の未踏峰ギシリク・タークに登頂。チベットの未踏峰にも挑戦しましたが、未登頂に終わりました。その後は、単独でペルーの4000メートル級の4峰にも登りました。いろいろな動物に会える登山も大好きなのです。
いちばんしたいことを見つけ、それを貫くことが、幸せな人生をもたらす
- 塾生へのメッセージをお願いします。
松原:どんなにお金にならないことでも、自分が本当にやりたいことならそれを貫くべきです。人から、将来性がない、経済的に無理と反対されても、外からの意見に一切耳を貸す必要はないと私は思います。高収入や地位が大切だとはまったく思いません。自分がいちばんしたいことを見つけて、それをすることが、結局はいちばん幸せな人生をもたらすというのが私の考えです。もし私の体験から、なにか一つでも生き方のヒントを見つけてくれたらと思います。
- 本日はありがとうございました。
撮影:日詰 眞治(2・4枚目を除く)
この記事は、『塾』2017 AUTUMN(No.296)の「塾員山脈」に掲載したものです。
※所属・職名等は取材時のものです。