慶應義塾

日本ラグビーのルーツ

-慶應義塾体育会蹴球部の歩み-

2019/06/27

2019年9月20日から、アジア初のラグビーワールドカップが日本で開催される。日本代表が大健闘した前回イングランド大会の開催前、ワールドカップの優勝トロフィー「ウェブ・エリス・カップ」が日吉・下田地区のラグビー場で公開され、イングランドの大会組織委員会関係者やウェールズ元代表選手などが、慶應義塾体育会蹴球部を訪れた。それは慶應義塾が日本のラグビーのルーツ校だからである。

E・B・クラークを中心にした1901年の出場メンバー

8年越しのリベンジが蹴球部の歴史的初勝利

事の始まりは1899年の秋。当時、大学部理財科で英語講師を務めていた英国人のE・B・クラークは、気持ちの良い季節にもかかわらず無為に過ごしている学生を見てラグビーを教えようと思いついた。早速、自分と同じケンブリッジ大学で学んだ田中銀之助に通訳兼コーチとして協力してもらい、学生たちにラグビーを教えた。

初めての試合はその2年後の1901年、横浜の外国人クラブYC&ACと対戦し、35対5のスコアで大敗した。体格や知識に大きな差があり、ラグビースパイクを着用していたのはクラークと田中の2人だけというハンディがあったが、クラークは歯がゆさから試合中に「You employ JUDO !(柔道を用いよ)」と叫んだと伝えられている。その後、クラークを部長とした蹴球部は体育会に正式加盟。YC&ACに大敗してから7年を経た1908年、フォワードの「セブンシステム」という独自の戦術を考案し、見事に12対0のスコアで雪辱を果たし、歴史的な初勝利を手にすることができた。

日本ラグビー蹴球発祥記念碑(日吉・下田グラウンド)

黒黄のジャージ導入で入部希望者が倍増!?

1903年~1910年頃使用された最古のジャージ

慶應義塾ラグビーのシンボルといえば、目にも鮮やかな黒黄のジャージだろう。蹴球部OB会もそのデザインにちなんで「黒黄会(こっこうかい)」と名付けられている。黒黄のジャージデザインは、1907年に卒業した岡本謙三郎(のちに大学部文学科教授)が、米国プリンストン大学のカレッジカラー「タイガー」を模して考案したと伝えられている。なお、黒黄のジャージ以前、蹴球部員のジャージは黒一色のシンプルなデザインだったが、黒黄のジャージに変わった途端に入部希望者が倍増したという。ハイカラを好んだ塾生気質にこのデザインが大いにアピールしたようだ。

「ノーサイド」の精神から早慶戦の熱い戦いが生まれた

初めてのラグビー早慶戦は1922年11月23日、慶應義塾・綱町グラウンドで開催され、慶應義塾が14対0で勝利。当時の「時事新報」は早稲田の善戦により「面白い試合」と伝えている。

実は1906年から1925年秋までの約19年間は、応援の過熱ぶりから野球の早慶戦が中止されていた。両校のスポーツ交流が途絶えている中、初のラグビー早慶戦の実現にあたっては、各校ラグビーOBの親睦組織A. J. R. A. が両チームの懇親会を開催するなど、円満な開催のために尽力している。こうした学校の枠を超えたラガーマン同士の結束の強さはラグビーというスポーツを象徴する「ノーサイド」の精神に由来しているのかもしれない。

第1回早慶戦で握手を交わす両主将

数々のラグビー人材を輩出した慶應義塾蹴球部120年

ワールドカップ日本開催の年である2019年は、蹴球部創立120年の年でもある。蹴球部を初勝利に導いた慶應義塾独自のフォワード「セブンシステム」を考案した田辺九万三(くまぞう)は、後年になって日本ラグビーフットボール協会第2代会長の要職を務めた。卒業後に日本代表選手となり、監督として蹴球部を2度の大学日本一に導いた上田昭夫など、慶應義塾蹴球部は日本ラグビーの発展に貢献した数々の人材を輩出した。近年では、山田章仁、村田毅(つよし)、栗原大介等の蹴球部出身選手がトップリーグ選手として活躍している。

日吉でのウェブ・エリス・カップの公開時(2014年5月)

2018年シーズンは蹴球部初の医学部生の主将である古田京(きょう)君がチームを率いた。全国大学選手権大会で順調に勝ち進むも、準決勝でライバル早稲田に痛恨のロスタイム逆転負け。成績としてはベスト8に終わったが、主将として、またクレバーなスタンドオフとして慶應義塾体育会が掲げる「文武両道」を体現するようなその活躍は大きな賞賛を浴び、ラグビーファンの記憶に残るものとなった。

一人の英国人教師が慶應義塾という土壌にまいたラグビーの種子は、世紀の変わり目を2度超えた今、ワールドカップという舞台で見事に開花しようとしている。

2018年シーズン蹴球部主将 古田京君

この記事は、『塾』2019 SPRING(No.302)の「ステンドグラス」に掲載したものです。