-世界に誇る日本の文化人-
2018/04/27
慶應義塾の創立者福澤諭吉の顔を、日本で暮らす誰もがすぐに思い浮かべることができるのは、一万円札にその肖像画が用いられているからだろう。1984年11月1日の発行以来、他の紙幣の肖像画の人物は変われども、福澤は33年の長きにわたり、最高額紙幣の顔であり続けている。
一万円札の肖像の参考にされた写真(福澤研究センター所蔵)
他の紙幣は変われども今も一万円札の“顔”
一万円札は福澤諭吉、五千円札は新渡戸稲造、千円札は夏目漱石。1984年の新札の肖像に、明治期の文化人が選ばれたことは大いに話題になった。福澤が一万円札の顔になったことを、お札の早慶戦に見立てて「大隈重信、敗れたり」などと書く新聞もあったほどだ。
その後、五千円札は樋口一葉に、千円札は野口英世の肖像に変わったが、福澤だけは現在も一万円札の顔であり続けている。
お札の肖像はどうやって決められるのか。お札の様式は、通貨行政担当の財務省、発行元の日本銀行、製造元の国立印刷局の三者で協議し、財務大臣が決定する。さらに肖像の選定には特別の制約はないが、「日本国民が世界に誇れる人物で、教科書に載っているなど、一般によく知られていること」「偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること」とされている。
福澤自身お気に入りの着物姿の肖像
ところで、お札の福澤の肖像のもとになった「精密な」写真とはどれだろう。アメリカで写真館の少女と一緒に撮った有名な写真があるように、福澤は当時としてはかなりの写真好きだった。肖像のもとになりうる写真もたくさんある。そのなかで、一万円札の肖像の参考になったのは1891年頃の着物姿の写真。福澤や慶應義塾の写真をしばしば撮影していた江木写真店で撮ったもので、生前、「何かの際にはぜひこの写真を使うように」と指示していたほど、福澤自身もお気に入りの一枚だった。一時、洋服姿の写真も検討されたが、結局は、教育者、啓蒙思想家の風格がにじみ出ているこの写真に落ち着いた。
この写真はエドアルド・キヨッソーネという銅版画家により、銅版肖像画に起こされたと言われている。キヨッソーネはイタリアのジェノバ近郊の生まれで、明治政府の招きで来日し、紙幣や切手に用いる銅版画制作に携わった。日本初の肖像入り紙幣に描かれた神功皇后も彼の手になるものである。ちなみに銅版画の持つ繊細でまねのできない精巧さは、紙幣の偽造防止の要だった。
キヨッソーネは、他にも明治天皇をはじめ、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らの肖像をコンテ絵や銅版画で残している。私たちが知るこれら明治期の人物の風貌の多くは、キヨッソーネが描いたものなのである。その彼が福澤の銅版画を制作したのは、当時大蔵省に勤務していた慶應義塾門下生のはからいによるものだったそうだ。残念ながら、この銅版画の原版は失われてしまっているが、彼の指導で発展した日本の紙幣印刷技術により、同じ写真をもとにした福澤の肖像画が、現代の一万円札に使われているのも興味深い話である。
2号券「A000002A」は義塾に
福澤諭吉が肖像となっているお札は、1984年から発行されたD一万円券と2004年から発行されているE一万円券の2種類。発行順にABCDEと区別され、現在のお札は戦後5番目の発行ということでE券と呼ばれている。
1984年の発行時には、記番号「A000001A」の1号券は貨幣博物館に永久保存され、「A000002A」の2号券は慶應義塾に寄贈された。2004年に福澤が継続して一万円札の顔になった時も、同じく2号券が義塾に贈られ、三田キャンパスの図書館旧館において、その発行を記念しての展示が行われた。
そのほか、福澤の郷里の大分県中津市と、出生地の大阪市にも、若い記番号の紙幣が贈呈されている。
紙幣の顔になったのは、偉大な教育者、文化人の証し。福澤先生はお札のなかから、21世紀の日本を見守り続けているように思われてならない。
この記事は、『塾』2017 AUTUMN(No.296)の「ステンドグラス」に掲載したものです。