卒業生 井本直歩子君(総合政策学部卒)
2019/10/21
井本直歩子(いもと なおこ)/国連児童基金(ユニセフ)教育専門官
2001年総合政策学部卒業。3歳で水泳を始め、小学校6年生のときに50m自由形で日本学童記録を塗り替える。1990年、最年少の代表選手として北京アジア大会に出場し、50m自由形で銅メダル獲得。1996年、アトランタオリンピックで4×200mリレー4位入賞。その後、米国サザンメソジスト大学への留学、英国マンチェスター大学大学院でも学び、国際支援の道へ。2003年、独立行政法人国際協力機構(JICA)のインターンとしてアフリカ諸国の参加型開発プロジェクトに参画。2007年より、国連児童基金(ユニセフ)職員として世界各国での教育支援プロジェクトに関わっている。
教育は難民の子どもたちをリスクから遠ざける
-大学在学中にオリンピック水泳選手だった井本さんは、その後、国連児童基金(ユニセフ)職員に転身され、世界各国で紛争や貧困に苦しむ人々の支援を行ってきました。現在の赴任地ギリシャではどのようなお仕事をされていますか?
井本:ヨーロッパを揺るがす難民危機は日本でも報道されていると思いますが、私はユニセフの教育専門官として、教育の側面から難民・移民の支援・保護を行っています。現在、ギリシャには6万人ほどの難民・移民がいるといわれており、その出身国はシリアが最も多く、次いでアフガニスタン、イラク、イエメンといった国々が並びます。ギリシャ国内には難民・移民が働くのに十分な仕事がないので、難民はさらに経済的に豊かなドイツなどに出国しています。その間、子どもたちは教育を受けられず、言葉も通じない異国でさまざまなリスクにさらされています。そうした子どもたちに語学や生きていくために必要な正しい知識や思考力を与える教育は、彼らの身を守る役割を果たすのです。
-どのような形で難民支援を行っているのですか?
井本:基本的にはギリシャ教育省のお手伝いという形です。教育プログラムの策定や難民を教える教員への研修などを実施するほか、大臣や政府高官クラスの人々に難民・移民への教育を教育システムに組み込んでもらえるように働きかけています。
しかしそうした公的な活動だけでは十分なバックアップはできません。目の前にいる子どもたちは制度が動き出すまで待ってくれません。そこでタイムリーな支援として、難民キャンプなどでの読み書きや補習など、非公式な教育支援も重要となります。
前任地である西アフリカのマリでは、政府軍と反政府軍の内戦にアルカイダ系テロ集団が入り乱れる紛争に傷ついた子どもたちのために、平和の大切さを教える教材を作りました。またエボラ出血熱の感染が確認されたときは、手洗いなど子どもたちに感染予防を呼びかけました。
この世界に紛争による人道危機や貧困は尽きませんし、どの問題も早々に解決できるものではありませんから、私たちの任務に終わりはありません。この仕事を始めた当初は、そうしたことに焦燥感を感じることもありましたが、キャリアを積んだ現在は、目の前の課題と目の前にいる人々をしっかり見すえて日々ベストを尽くすことだけを心がけています。
国際大会出場で不公平さを実感国際支援の道を意識するように
-現在は教育支援のスペシャリストとして世界で活躍されていますが、子どもの頃はスイマーとして世界を目指されていました。
井本:小学6年生で50m自由形の日本学童新記録をマークしたこともあって、大阪の著名スイミングクラブから声がかかりました。両親は「自分のことは自分で決めなさい」と言ってくれ、迷いましたが中学生から東京の親元を離れ、寮生活を送りながら水泳に取り組むことを自分の意志で決めました。とはいえ、最初はホームシックが続き、毎晩ベッドで涙を流していました。
-強豪のスイミングクラブでの練習は、やはりハードだったのですか?
井本:もちろん!高いレベルを狙っていましたから練習は厳しくて、またライバル同士の戦いもあったりして、心身ともに鍛えられましたね。今につながる私の人間形成はこの時期のたまものだと思っています。そして大阪なので「人を笑わせることを言えないとダメ」という価値観の洗礼も浴びました(笑)。おかげでどちらかといえばおとなしかった私がすっかり前に出る性格になり、久しぶりに東京に戻って会った親や友達に「変わったねえ」と言われました。
-井本さんが国際貢献の仕事を初めて意識されたのは、中学生の頃とか。
井本:1990年の北京アジア大会の海外遠征で貧しい国から来た選手たちの姿を見て、自分たちが恵まれていることを痛感させられたのがきっかけです。厳しい国情の国の代表選手は、粗末なユニフォームや破れた水着で競技に出場しており、国には満足な練習用プールもないという話も聞きました。私たちが競技のために栄養バランスを考えた食事を取っている横で、彼女たちはデザートのプリンやアイスクリームを大喜びで食べている……そんな体験を通して、この世界には圧倒的な不公平が存在することに気づいたのです。
もともと私は英語の勉強が好きで海外で仕事をしてみたいと思っていたのですが、海外遠征でそんな不公平や世界の実情を知るようになり、やがて国際機関で働くことを考えるようになりました。高校3年生の頃、後に自分が赴任することになるルワンダで内戦によって多くの人々が虐殺されたというニュースを新聞で知り、「人間はなぜこんな残虐なことができるのか?」とショックを受けたことも、そんな気持ちを後押ししました。国際関係や国際貢献について学べる大学をいろいろと調べ、慶應義塾大学の総合政策学部を選びました。
-今度は大阪のスイミングクラブを辞めて、東京に戻ってオリンピック出場と国際支援への夢の両方を目指す、という決断をされたのですね。
井本:オリンピック出場のためには同じクラブで練習したほうが有利であることはわかっていましたし、そのためには関西の大学に進学するのが既定路線でした。しかし「国際機関で働きたい」という夢を抱いてしまった私はどうしても総合政策学部で学んでみたかったのです。思い切ってクラブのトップの方と直談判すると「人生をトータルに考えて、やりたいことをやりなさい」と励ましていただきました。中学・高校の6年間お世話になったクラブを離れるのは心苦しいものもありましたが、新たな気持ちでSFCでの大学生活をスタートさせました。
-SFC在学中、20歳でアトランタオリンピックの代表選手に選ばれ、長年の夢がかないました。
井本:ただ、個人種目では結果を出せず、リレー種目で4位という成績でした。あと一歩のところでメダルはかなわず、帰国する飛行機の中で悔しさと後悔の気持ちがつのって涙が止まらなくなりました。そのとき、近くの座席にいらっしゃった橋本聖子さん(選手/参議院議員)に気持ちを打ち明けると、「後悔があるなら(水泳を)止めてはだめよ」と諭され、帰国後、水泳を続けるための新たな道を模索し始めました。
-その新たな道が米国テキサス州のサザンメソジスト大学への留学だったのですね?
井本:はい、SFCのパソコンでオリンピック出場の実績がある私が奨学金で留学できる大学を探しました。今ではネット検索は常識ですが、当時はまだインターネット黎明期。SFCの恵まれた情報環境がありがたかったですね。
米国では国際関係論を学びながら、大学の代表選手として全米選手権などに出場していました。留学した当初は授業がほとんど聞き取れず、読まなければならない大量のテキスト類を前にして途方に暮れる日々でした。「これまでも多くの日本人留学生が頑張ってきたのだから、自分にできないはずはない」。そんな気持ちで学業に向かっていました。留学中は日本人とは付き合わず英語オンリーを心がけましたので、留学目的の一つである英語力は着実に向上。最終的には学業面でも、スイマーとしても、とても充実した留学生活になったと思います。しかし、留学中にシドニーオリンピックの代表選考から外れ、その時点で次の道、すなわち国際貢献・国際支援の道に本格的に踏み出すことを決意しました。
20代では経験を積み、30代で夢を実現する
-SFCに戻って紛争論などについて学ばれた後、今度は英国マンチェスター大学大学院の修士課程で紛争や平和構築の研究に取り組まれています。
井本:国連機関で仕事をする場合、修士号が必須なのです。もちろん修士号を取得したからといってすぐにポストが見つかるわけではありませんが、私としては20代では多くの経験を積み、30代で夢を実現するという人生設計を立てていました。そこでまずは国際ボランティアで経験を積もうと考えていた2003年に、国際協力機構(JICA)が募集していたインターンに採用され、行きたかったアフリカ大陸に派遣されることになりました。派遣先はガーナです。その後、企画調査員という有給のポストで、シエラレオネ、ルワンダに派遣されました。支援プログラムを遂行するためのキーマンとなる人物、例えば政府高官や大臣クラスの人ともどんどん会って話し合いながら、支援プロジェクトを進めていく……アフリカでそうした人間関係を構築しながら課題を解決していくノウハウを身につけていきました。決して楽な仕事ではありませんが、やりがいは大きかったですね。
その後、日本の外務省が若い人材を国際機関に2年間派遣するJPO派遣制度に合格し、ユニセフ職員としてのキャリアをスタートさせたのが2007年のことです。以後、内戦下のスリランカ、大地震後のハイチ、大型台風に見舞われたフィリピンなどで仕事をして、マリ、そして現在のギリシャに至っています。
-今後のキャリアについて考えられていることはありますか?
井本:私は組織内でのポジションにはまったくこだわりがありませんので、やりがいのある国やプロジェクトに関わり続けていきたいです。また、自分の知識が足りない部分についてもう一度大学院で学びたいという気持ちもあります。特に現在取り組んでいる難民問題については腰を据えて研究してみたいですね。
-最後に塾生へのメッセージをお願いします。
井本:SFC時代の友人たちとは男女を問わず今でも親しく付き合っています。私がいた頃のSFCは、そこにいるだけで「何でもできる!」と思える不思議な空間で、先輩たちは「自分たちが未来をつくる!」という自負にあふれたすごい人たちばかりでした。今でもSFCに「何でもできる」というムードが残っているといいなと思います。慶應義塾で学んでいる方々は、ぜひ、「自分たちが未来をつくる」という気概を持って社会に、そして世界に飛び出していってほしいですね。
-本日はありがとうございました。
撮影:日詰 眞治
この記事は、『塾』2019 SUMMER(No.303)の「塾員山脈」に掲載したものです。
※所属・職名等は取材時のものです。