「好奇心こそが、実力の差を生む」――。慶應義塾の伊藤公平塾長は、世界で影響力を持つ卒業生・研究者が多数輩出される教育・研究機関のトップとして、また1人の物理学者として、「研究の慶應」がめざすべき地平を鋭く見据えています。「ウサギとカメ」と大谷翔平選手の関係からAIキャンパス化まで、真理探究と社会実装の頂点をめざす慶應の挑戦を、朝日新聞GLOBE+編集長・玉川透氏と語り合いました 。
プロフィール
伊藤 公平(いとう・こうへい)
教員・研究者/慶應義塾長玉川 透(たまかわ・とおる)
その他/朝日新聞GLOBE+編集長1996年に朝日新聞社入社。ウィーン支局長、ベルリン支局長、GLOBE編集長代理、ブリュッセル支局長などを経て2025年4月から現職。著書に『強権に「いいね!」を押す若者たち』(青灯社)
プロフィール
伊藤 公平(いとう・こうへい)
教員・研究者/慶應義塾長玉川 透(たまかわ・とおる)
その他/朝日新聞GLOBE+編集長1996年に朝日新聞社入社。ウィーン支局長、ベルリン支局長、GLOBE編集長代理、ブリュッセル支局長などを経て2025年4月から現職。著書に『強権に「いいね!」を押す若者たち』(青灯社)
玉川:
慶應義塾のウェブサイトで「研究者紹介動画」を公開しています。100近い研究内容を拝見し、改めて「研究の慶應」の印象を強くしました。日本の研究者育成は海外に比べて「遅れ」「停滞」に直面していると言われますが、伊藤塾長はイソップの寓話(ぐうわ)をヒントに、ある信念を持たれたとうかがいました。
伊藤:
イソップの「ウサギとカメ」ですね。皆さんご存じの通り、カメが着実に努力を重ねて進んだ結果、ウサギに勝つという教えです。日本ではカメが「主役」ですが、実は、米国では違います。
16歳のとき、渡米先のサマーキャンプで10歳の子どもたちと話してびっくりしました。「違う、ウサギが主役だよ」と言うのです。その後、海外育ちの人たちに話を聞いて、合点がいきました。米国ではウサギへの戒めに重きが置かれています。つまり、突っ走ったり怠けたりする人たちを規制するのが西洋式のガバナンスやルールの要点なのです。
もちろん、そこから学ぶものもたくさんあります。しかし、そんなウサギ用の制度をそのまま日本に輸入すると、まじめなカメはガバナンスやコンプライアンスに時間をかけ過ぎて、何も進まなくなってしまう。日本流のやり方を考えていく必要があるのではないでしょうか。
いまの日本で起きていることは、これまで「カメのようになりなさい」と言われてきた人たちに、「ウサギになれ」と言っているのと同じです。どういう社会を作ろうとしているのかな、と思います。極端な話、大リーグの大谷翔平選手もカメだったと、私は考えています。急に出てきたわけではなく、一つひとつ好きなこと、やりたいことを積み重ねていき、バッティングもピッチングもしたいという思いを伸ばす環境があったからこそ、なのです。
玉川:
慶應義塾では、具体的にどのような形で研究者育成をめざしていますか?
伊藤:
慶應義塾大学は学部生が86%を占めていますが、米ハーバード大学は8割が大学院生です。慶應義塾は学部教育に力を入れている研究機関といえます。
欧米では大学の3、4年生からゼミに入ることはあまりなく、大学院から研究がスタートします。私は学部4年+修士課程2年を合わせて5年で修了する制度を拡大したいと考えています。じっくり勉強する期間を延ばして大学院まで進めるようにしたいからです。余裕を持って取り組んだ結果、5年間で修士号を取るかもしれないし、その後で博士課程に進むなり、もう一つの修士号を取るなり、いろいろなやり方があります。人生100年ですからね。何を焦るんだ、と。
玉川:
慶應義塾といえば、小学校から大学までの「一貫教育」も特徴の一つですね。
伊藤:
慶應義塾では、しっかりした成績であれば小学校から中学校、高校、大学へと進学できます。でもポイントは、受験せずに進学できることではなく、好奇心を育てるための教育が一貫して行えることです。
これはまだ実現していませんが、好奇心を育てるには、大学の教員が高校で教えるなど、本物に触れることが大事だと考えています。たとえば、私は量子コンピューターについて長年研究してきたので、質問されれば全部答えられる。そのような話は高校生にも響くと思います。
玉川:
動画で様々な研究を拝見して、「何のために大学に行くのか」についても考えさせられました。現代社会にあふれる、「答えがわからない問題」について考える。そんな大学の原点を感じました。
伊藤:
あの動画を見て、面白いと思えるかどうかが鍵だと考えています。やっぱり「好奇心」が全てですね。好奇心があるかないかで、実力の差が出てくると思います。様々な分野の研究者がいて、その関わりの中で普遍的に学べることがたくさんあります。
先日、海外の大学教員から「慶應義塾は世界的に見ても国際貿易経済の分野がものすごく強い」と言われました。学部としては経済学部と商学部に分かれていますが、学際的なテーマごとにくくっていくことも重要だと思っています。たとえば、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)は、学部・研究科横断的な全塾的研究組織として2016年に設置されました。
玉川:
研究者の頂点はノーベル賞だと考えている人も多いと思います。慶應義塾大学からもノーベル賞を受賞する研究者が現れるでしょうか。
伊藤:
もちろん。「世界で影響力のある研究者(Highly Cited Researchers 2025)」に日本から選出された88人のうちの7人が慶應義塾です。これはとても高い割合ですし、可能性はあると思っています。
■福澤諭吉に学ぶ、「社会実装」とは
玉川:
グローバルな人材を育てることも大学の重要な使命です。伊藤塾長ご自身も、慶應義塾大学を卒業後に渡米し、カリフォルニア大学で修士号と博士号を取得されました。なぜ海外に行こうと思われたのですか。
伊藤:
それもやはり、好奇心だと思います。慶應義塾の創設者である福澤諭吉も好奇心の塊でした。福澤が最初に学んだのは蘭学(らんがく)。でも横浜に行ったらオランダ語が役に立たなくて英語を学び、1年もしないうちに咸臨丸で米国に行き、後にヨーロッパへ。尽きることのない好奇心で学校をつくり、新聞社をつくり、社交クラブをつくった。社交クラブで人々が交われば新しいものが生まれるからです。これがある意味、慶應義塾の手本です。
玉川:
福澤諭吉は「実学」を理念の一つに挙げていますね。
伊藤:
福澤がいう実学は、すぐに役立つ学問ではなく、実証的に真理を解明し、問題を解決していく科学的な姿勢です。実学を定義すると「社会実装」と言えるでしょう。文学によって人々の心が豊かになるとか、歴史を学ぶことによって正しい判断ができるようになることも社会実装です。
そういう意味では、スタートアップ支援も慶應義塾の伝統です。国立大学偏重の政策が採られた時代、「官」ではない慶應義塾がどうやって生き延びるかを福澤諭吉たちは考え、実業家や財閥の育成に力を入れました。そのために福澤は拝金主義者という批判も浴びたわけですが、私立として独立するにはお金も必要です。民が官に頼りすぎるのは良くないというのが福澤の考えです。
いまの日本には、貧困や相互扶助の減少など多くの社会課題があります。では、どうするのか。自分たちだけが抜け出せればいい、というところから、コミュニティーサービスをどう考えるか、というところに戻る必要があるのではないでしょうか。こういうことも学生にはもっと意識してもらいたい。若いうちはそれぞれの道を突っ走ってもいいけれど、40歳ぐらいになったら、社会に貢献しようという意志を持つことはとても大切だと思います。
■「本物」に触れ、世界と対話する力を
玉川:
最近は国際的な機関や企業との連携を深めておられますね。
伊藤:
2024年に国際刑事裁判所(ICC)と基本合意書(MoU)を結び、学生をインターン生としてICCに派遣したり、教員が交流したりすることが可能になりました。
たとえば、「どうして法律が必要なのか」を教科書で学ぶのと、専門家から話を聞くのとでは全然違います。MoU締結を記念した講演会で、ICCの赤根智子所長が日本の立法課題や人材育成などについて語ってくださいました。「裁判官の仕事は裁くことだけど、法律家が法律を作ってくれなくてはいけないのです」という赤根所長のお話を聞くと、法治国家の仕組みを実感できます。政治家(国会議員)は英語で「lawmaker」ですが、政治家がlawmaker(法律を作る人)だと、私たちは普段どれほど意識しているでしょうか。専門家の言葉に触れるだけで大きく変わってきます。
玉川:
日本の大学では初めて、AI開発で世界をリードする「OpenAI」と包括連携協定を結ばれました。
伊藤:
人間を中心とした世界一のAIキャンパス(AI-Native University)を作ろうとしています。学問分野を問わず、学生がAIを自由に扱える教育体制を確立し、最先端の研究設備やデジタル環境を整備して、社会課題へ貢献できることをめざします。AI時代の教育をどう考えるのか。教育についての既成概念を、私が教員たちとも話し合いながら変えていかなければ、と思っています。教員はより一層、人間的な相互作用に取り組めるかが重要になります。
生成AIをただのショートカット(便利な道具)として使うか、好奇心を広げるために使うかによって、その人の成長は大きく変わります。AIが生成するものには間違いもありますが、「間違っているから使えない」というのはショートカットにしか使っていない人たちの見方です。生成されたものを面白がり、自分の責任で最終形に仕上げていく力が、いま最も求められています。
玉川:
お話の端々から「好奇心」が大事だと、強く思っていらっしゃることが伝わってきます。
伊藤:
私自身は子どもの頃、学校の帰りに塀の上に登り、地面に触れずに帰れるかを試して遊んでいました。意味はなくてもやってみることから面白いものを見いだしていく。やってみると好奇心が育ちます。親が見たら心配なこともあるけれど、昔は大人に包容力がありました。いまは難しい時代ですが、まずは親が好奇心を持つことが必要だと思います。
玉川:
いまの日本の若者は内向き思考だと言われることもあります。学生たちにメッセージを贈るとしたら?
伊藤:
「○○すれば、こういう就職ができる」という成功のひな型があるようですが、このひな型がこぢんまりとしているのではないでしょうか。何かを任されたときに好奇心を持ち、面白みを見いだせるかどうかがますます重要になってきますし、グローバル人材になれるかどうかにもつながっていきます。
「○○すれば、こういう就職ができる」という成功のひな型があるようですが、このひな型がこぢんまりとしているのではないでしょうか。何かを任されたときに好奇心を持ち、面白みを見いだせるかどうかがますます重要になってきますし、グローバル人材になれるかどうかにもつながっていきます。
対話ができるのは、好奇心がある、ということだと思うんですね。お互いに何を考えているかに興味を持って、「これなら響くかな」と考えて対話することは万国共通です。もちろん、相手によって変えなければいけないこともありますし、相手や出身国のことを知るために下調べが必要なときもあるでしょう。でも、「あなたのことが知りたい」といろいろ聞かれて、嫌な気持ちになる人はいないと思います。
構成:朝日新聞GLOBE+編集長 玉川透
取材・文:山本奈朱香
写真:山田英博