慶應義塾

松居大悟:映画、演劇、TVドラマの境界を超えて

登場者プロフィール

  • 松居 大悟(まつい だいご)

    その他 : 映画監督その他 : 劇団ゴジゲン主宰経済学部 卒業

    塾員(平20経)。大学在学中から演劇を中心に活動。映画監督として『アズミ・ハルコは行方不明』『君が君で君だ』などを手掛ける。

    松居 大悟(まつい だいご)

    その他 : 映画監督その他 : 劇団ゴジゲン主宰経済学部 卒業

    塾員(平20経)。大学在学中から演劇を中心に活動。映画監督として『アズミ・ハルコは行方不明』『君が君で君だ』などを手掛ける。

  • インタビュアー阿部 広太郎(あべ こうたろう)

    その他 : 電通コンテンツ・デザイン・センター

    塾員

    インタビュアー阿部 広太郎(あべ こうたろう)

    その他 : 電通コンテンツ・デザイン・センター

    塾員

2018/07/15

演劇と映画に明け暮れた塾生時代

──松居君は、映画、演劇、TVドラマと多岐にわたって活躍されていますが、最初に映画の話を聞けたらと思います。 『アイスと雨音』が渋谷でロングラン上映を記録、海外でも北京、韓国の全州、ドイツなどの映画祭で上映されました。最初にこの映画を撮るきっかけから教えてください。

松居

去年の3月に、自分の目標だった下北沢の本多劇場で舞台をやる予定だったんです。サイモン・スティーヴンスの『MORNING』という少年少女たちが演じる舞台です。

ところが、その2カ月前、キャスト・スタッフ全部揃って「さあ、稽古を始めよう」という段階で、この座組みだったら興行的に成立は難しいからと言われて中止になってしまった。

そこに出るはずだった若者たちの、いろいろな気持ちや覚悟などが、なかったことにされているような気がして、それがすごく悔しくて、何かできないかと思ったんですね。この悔しい気持ちを描くために、「舞台が突然中止になる」という映画をつくることにしたんです。慶應の同級生の阿部君にプロデューサーにもなってもらえました。

──私も一緒に映画をつくれてとても嬉しかったです。そもそも松居君が映画をつくる、最初のきっかけというのは大学時代にあったのですか。

松居

そうですね。大学のときに自主映画をつくりました。もともと視覚的に世界をつくることがすごく好きでした。福岡の高校時代は漫画家になりたいと思って、2つぐらい描き上げたんですけど、漫画は好きなのに描くのがすごくつらくて。そして大学に入って、慶應の演劇サークルのオリエン公演を見たんです。

──それが「創像工房in front of.」ですね。

松居

入学当初、基本的に斜に構えていたんですよ。というのは、本当は早稲田に行って演劇をやりたかったんです。ところが全部落ちて、慶應の経済しか受からなかった(笑)。

演劇をしたかったのに、どうしようと思ったんですけれども、慶應のほうがいいから絶対行きなさいと親に言われて。家族が全員、慶應だったんですよ。兄貴も経済学部、父は商学部、母は法学部です。そういう血が流れているのかなと思って慶應に来たんです。

だから慶應では、「俺はおまえらに染まらないぞ」みたいな気持ちだったんですけど、創像工房でやっているオリエン公演が本当に面白かった。そこにいる先輩たちが面白くて輝いていたので、ここにいたいなと思って。

──なるほど、そうだったんですね。

松居

そこで演劇をつくるのはとても楽しかったんですが、色々やってみたくなって。もともと創像工房は、演劇サークルとするとあまり新入生が入ってこないから、映画もやりますみたいな感じで謳っていて、入ってみると、結局、演劇をするというサークルでした(笑)。そんな中で劇中のオープニング映像など手伝う中で、映画をちょっとやってみたいなと思ったんですね。

──最初はどんな映画だったんですか。

松居

『フラストレーション坊主』という、後輩を寺の坊主の設定にして、ソープランドに行かせるというようなものでした。その頃からフィクションとドキュメンタリーの曖昧なところをやっていたんです。もう本当に悪ノリでつくって(笑)。

そのあと舞台ではコメディとコントしかやっていなかったので、違うこともやりたいと思い、笑いゼロの『放課後の友だち』という映画をつくり、盛んに映画祭などに応募したんですが、何も賞をもらえず、もう1本撮ってダメなら終わりにしようと思ったんです。

演劇が少し軌道に乗っていた頃だったので、たぶん向いていないんだろうなと思いながら、『ちょうどいい幸せ』という長めのものを撮った。それもメジャーな映画祭は駄目だったんですが、沖縄の映像祭で審査委員長の塚本晋也さんがグランプリをくれて。

そうしたら、演劇も見てくれていた映画のプロデューサーから『アフロ田中』という映画を撮りませんかというお話をいただいた。それが仕事としての1作目です。華々しく何か賞をいただくということはあまりなかったのですが、やっていくうちに道が続いていった感じですね。

──学生時代は創像工房で演劇もやりながら、かつ映画も自主的につくるのでは、とてつもなく忙しかったのではないですか。

松居

いや、そんなことないですよ。本当に劇と映画しかしていなかったので(笑)。それに創像工房は100人以上いたので、基本的に作・演出は1年に1回ぐらいでしたから。

──正直、学校の授業はあまり熱心に受けている感じではなかった?

松居

そうですね(笑)。

劇団「ゴジゲン」の結成と挫折

──自分の劇団「ゴジゲン」をつくろうと思ったきっかけは何だったのですか。

松居

一緒に演劇をやっていた仲間たちが就活して就職先が決まったりしていくなかで、すごく焦ったんですよね。ああ、皆ずっと演劇をやっていくわけではないんだって。

──そうか、社会人になっていくんだと。

松居

ええ。僕はてっきり、ずっとこのまま演劇をやっていくものと思っていたから、結構びっくりして焦った。それで1回就活してテレビ局を受けたんですけど、全部落ちて、あれよあれよという間に留年して、どうしようと思っていたら、同期に目次立樹という役者がいたんです。

彼は商学部をストレートで卒業したんですが、役者をやっていくと言っていたので、じゃあ一緒にやろうよと言って、「ゴジゲン」をつくったんですね。

──ゴジゲン結成当初のはじめての公演は覚えていますか。

松居

覚えています。つくり方はサークルと一緒でしたね。公演の場所が日吉の校舎から下北になっただけで。僕がまだ大学にいたので、日吉の課外活動棟で稽古していたんです。最初の公演は『神社の奥のモンチャン』というもの。ずっとコメディをやっていたんですが、目次立樹を主役にして、普遍的な物語に挑戦したいなと思った。

幸いいろいろな方たちが見に来てくれたんです。本広克行さんはもうそのときに来てくれましたから。

──すごい。本広監督が。

松居

ちょうどドラマの脚本を書き始めたときでした。その公演が10月で、次に翌年の2月、そのあと5月とかなりハイペースで続けていったんです。

もう僕は演劇でやっていかなければいけないと思っていたので、劇団に勢いがある感じを出したかった。基本的に演劇って、このくらい動員できそうだから、このくらいの劇場を押さえようと組み立てていくのですが、僕らはもうこの劇場に行きたいからと、劇場のクラスだけで次の公演を決めていって、動員が追い付かない。

毎回、100万前後の赤字を出しつつ、ドラマなどの脚本を僕が書いて補填しながら無理やりやっていました。勢いはすごくあったのですが、4年くらいでバラバラになって(2014年活動再開)。

──僕は2011年の『極めてやわらかい道』という公演を見に行って非常に衝撃を受けたんです。

松居

『極めてやわらかい道』のときはプレッシャーで、ずっとビールを飲みながら稽古をして、脚本もそうでないと書けなくなっていた。目次が1番下の役者で、すごい先輩たちばかりで緊張して挑まなければいけない稽古場なのに、ビールを飲まないと演出できない。もはや限界でした。

──かなり追い込まれていた。

松居

それで、終わったあとに目次が「もう演劇は辞めたい」と言って、演劇はちょっと休むことにした。僕もちょっと救われたような気がして、1回休止したんです。

映画だから、演劇だからではない

──『極めてやわらかい道』は、今から7年前に舞台で演じたものですが、それを今回映画(『君が君で君だ』)にリメイクしましたよね(7月公開)。演劇か映画かということで意識はどのように違いましたか。

松居

1番大きく違うのは、舞台の当時は全部1人で頑張ろうとしていたこと。人の話も聞かずに、自分がつくっている表現が1番正しいと思い込もうとしていたので頭でっかちになっていたのです。

その後、池松壮亮くんと『リリオム』という舞台を青山円形劇場でやったり、クリープハイプという好きなバンドのミュージックビデオをつくったりしていくなかで、自分の好きな表現を自分が好きだと思う表現者と一緒につくることで、自分が思ってもいないところにたどり着くことが面白くなった。そして、皆とものをつくることが楽しいということを思い出したんです。

創像工房のときは、この人、こんな舞台美術をつくるんだとか、皆で一緒につくっているのが楽しかった。大学を出てゴジゲンを結成したぐらいから、それを忘れて空回りして頑張ろうとしていた。今回、映画をつくっていくなかでも総合芸術って、一緒につくることだよなと思い出していたので、映画、演劇ということはあまり関係なかったですね。

──松居君にとって、大事にしているのは映画だからとか、演劇だからというものではないと。

松居

そうですね。でも、外の人は「映画だからそうなんでしょう」、と決めつけたがるので、そこは、「いや、そうではない」とブレないようにしながら、同じテーマで1番いいアウトプットの仕方を考えていきたいんです。

むしろ映画らしい映画とか、演劇らしい演劇とか、ドラマらしいドラマはあまり好きではない。映画をやっている人は映画を愛しすぎているし、演劇をやっている人は演劇を愛しすぎていると思う。皆がそうでなくていいと思うんですね。

「バイプレイヤーズ」の経験

──さて、TVドラマ 「バイプレイヤーズ」の現場に松居君が昨年と今年に入られた。大杉漣さんをはじめとして、かなり年上の役者さんと出会ったことで、表現との向き合い方が変化したということはあったのでしょうか。

松居

僕ぐらいの年の若者に見てほしいということと、このメンバー(遠藤憲一、大杉漣、田口トモロヲ、寺島進、松重豊、光石研の各氏)の誰とも仕事をしたことのない人ということで僕に話が来たんです。

最初は夢のような話だったし、ドラマのチーフ監督というのも初めてだったので、世界観をつくるのが難しいと思いました。演劇と映画はお金を払って足を運ばないと見られませんが、テレビは生活の中にあるから、どうしたらいいのだろうと。

でも、役者の方々がすごくて、どんな脚本でも面白くしてしまうから、もう何もしなくていいな、と思いながらバランスを取って、いかに自分の持っているもの、準備してきたものを捨てるかという作業だったんですよね。

──準備はするけれど、それを捨てるということですか。

松居

どんどん現場で変わっていくから。またご存知のように2期目の撮影中に大杉漣さんが亡くなるということもあって……、すごく、考えました。

あのときは、ご家族や事務所などから、「漣さんは絶対に完成してほしいと思っています」と言っていただいたので、やらなければいけないと思って夢中でやりました。漣さんが主人公の回だったものを変えて、他の4人目線にして4人が漣さんに恩返しするということにした。

素材が3割しか撮れていない中、あと2日しか撮影日は取れなくて、その中でドラマとして成立させなければいけない。脚本を全部つくり直して、そこから編集をしながら、この作品をどう成立させるかを夢中で考えた。とにかくこの世界の中での漣さんは生きているし、追悼ドラマには絶対しないようにしよう、という思いは皆共通していたので出来上がったんです。

終わった後、こんなに愛されている人が座長の作品に参加したんだと思ったとき、僕は今までたくさんの人に理解されるよりも、100人のうちの1人、2人の人生を変えるきっかけになれば、と思いながらつくっていたんですけれど、1人でも多くの人に見てもらったり愛されたりするということは、すごく尊いことではないか、と思ったんです。

──どれだけの人に向けて伝えていくかの心構えの部分ですよね。

松居

自分はそのように表現しているかと言えば、そうではない。どこか尖ろうとしてしまうし。

だから、これからどうするというのは、まだ分からないんですけれども。

現実より説得力のある虚構

──松居大悟という作家も1作品ごとに変わっていますよね。松居監督はすべてのつくるものに対して自分の覚悟を入れてしまうし、だから結果的に強い作品ができている感じがします。これからの松居君が表現したいことはどのようなことですか。

松居

例えばクリント・イーストウッドのこの前の『15時17分、パリ行き』という映画では、テロ事件を止めた若者たちをそのまま映画のキャストにして、役者が演じているのではない。車両もその事件のものを使ったらしいんです。そのようなことを考えると、日本映画として現実よりも説得力のある虚構をどうやってつくるというところに興味がありますね。

漣さんが亡くなられたときに、現実が、漣さんの愛した世界を壊してしまうことが、すごく悔しかったんです。

「結局、虚構は現実には勝てない」となるのは嫌だから、虚構が現実をねじ伏せてしまうような表現をもう少しできないかなと思っているのです。

──実際、創作というのは、現実と非現実と向き合いながら表現していく行為ですよね。

松居

今は現実のほうがもう大変というか、すごいから。虚構だ何だって言っていられないなと思うときに、こっちを利用しない手はない。どっちのほうが切実かみたいな話になる。

──創像工房が謳っていたように映画と演劇と両方やるということも松居君が体現していますね。

松居

確かにそう言われてみればそうかもしれない。むしろ早稲田に行って演劇をしていたら、続いていなかったかもしれないですね。たぶん演劇を疑っている人がいなかったと思うんです。

慶應の創像工房は「映画と演劇をやっていますよ」といって、映画をやりたい人も「何だよ、インチキじゃないか」と言いながら演劇をやっていたりする仲間たちだったから、演劇を疑っている人も多くて居心地がよかった。

でも、ゴジゲンをやり出したとき、とにかく「なんで慶應に行って演劇をやっているの?」と、目茶苦茶言われるんですよ。慶應出身だと言うと、「どうせやめるんでしょう」みたいな感じで、外に出ると、ものすごく向かい風なんです。だからこそ、なにくそ精神で、「いや、こっちのほうがおまえらより面白いものをつくっている」とふんばって頑張れた。

もし本当に演劇を続けたい人がいたら、僕もそうだし、僕の前後の人たちも、ふんばって新しい表現や演劇に挑戦している人がいるので、彼らとつながったほうがいいと思います。「負けずにカウンターで行こうぜ」と。

──今日は有り難うございました

※所属・職名等は当時のものです。

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