登場者プロフィール
田沼 千秋(たぬま ちあき)
その他 : 株式会社グリーンハウス代表取締役社長経済学部 卒業塾員(昭50経)。野村證券を経て1977年グリーンハウス入社。93年同社社長に就任。日本フードサービス協会会長等を歴任。
田沼 千秋(たぬま ちあき)
その他 : 株式会社グリーンハウス代表取締役社長経済学部 卒業塾員(昭50経)。野村證券を経て1977年グリーンハウス入社。93年同社社長に就任。日本フードサービス協会会長等を歴任。
インタビュアー大見山 俊雄(おおみやま としお)
その他 : ジェイアール東日本商事常務取締役塾員
インタビュアー大見山 俊雄(おおみやま としお)
その他 : ジェイアール東日本商事常務取締役塾員
2017/08/01
慶應の学食からスタート
──創業70周年おめでとうございます。ここまでグリーンハウスは総合的なフードサービス企業として発展されてきたわけですが、ご創業の発端は慶應の学食からということですね。
有り難うございます。2000年に亡くなった創業者の私の父、田沼文蔵は実は早稲田だったんです。戦争中、軍に召集され、ものすごく苦労したようです。
最後はベトナムのハノイで終戦を迎えたそうです。南のほうからハノイまで300キロぐらい、120人程で7台ぐらいの車で隊列を組んで物資を運ぶ自動車部隊の中隊長をしていました。上空から機銃掃射でやられて、最後に生き残ったのが30人と言っていました。ともかくひどかったらしいです。
──慶應との縁はどのようなものだったのでしょうか。
戦場から引き揚げて、大学に戻って卒業し、そのときに早稲田の先生に就職口を斡旋してもらい、慶應の森安正教授を紹介いただいた。当時予科次長だった森先生は慶應大学の学生が登戸に150人近く疎開している(※昭和20年10月から予科生が学んだ仮校舎を指す)ので、そこの寮生の面倒を見てくれないかと言われた。前原光雄教授や、後に塾長になられた永沢邦男教授の後押しもあったようです。それで、学生寮の舎監になり、寮生を集めて要望を聞いてみると、もうお腹が減ってしょうがないと言う。そこで、やったこともないが、見よう見真似で食事を出したのがスタートなんです。
青白くて栄養失調みたいな子がずいぶんいたそうです。あまりにお金がなくて倒れそうな子には見るに見かねて時々無料で食べさせてあげたらしい。ものすごく喜んでくれたそうです。
──どういった食事を出されていたのですか。
やはりイモが多かったようですね。白米なんてほとんどない。「いもごはん」というのがあって、「いも入りのめし」ではなくて「米入りのいも」だったという(笑)。なんか「ノリームパン」というのもあったそうです。クリームでなく糊を付けるわけですよ。
──麩(ふすま)入りの小麦粉のパンですか。
そう。麩から作って、トロッとして。砂糖は当時、高級品でしたからサッカリンとかを加えて。
「立ち退き」からの教訓
──昭和24年に米軍の接収が解除となり、翌年から日吉キャンパスに学生が戻ってきましたね。
そうです。それでそのまま食堂も移させていただいた。そうやって学生さんの面倒を見ていたのですが、慶應の創立100年のときに記念館をつくることになり、ちょうどその場所に食堂があったので、申し訳ないけれど立ち退いてくれと言われた。その当時、当社はこの1軒しか食堂がなかったので、ここがなくなったら60人程の社員の仕事がなくなってしまう。
最初は代替地もままならかったようですが、もとの食堂の脇に食堂を建てられることになった。ただ、問題は建て直すお金がないことです。それをつくるのにずいぶん苦労したらしいです。父は大型特殊免許を持っていたのでダンプの運転手などをし、1年程度食いつないだようです。そんなこんなで1年半経ってようやく食堂が再開でき、社員さんがほとんど戻ってきてくれた。
その1年間クローズしたときの経験から、食堂が1カ所だけというのは危険だと多店舗展開を考えたそうです。何年か後に日吉キャンパスのちょっと先に松下通信工業の大きくて立派な最先端の工場ができて、日吉で食堂を利用した卒業生からそこの食堂をやってくれないかと声がかかった。それをスタートに他の会社や学校の食堂を手掛けていくようになりました。
──「グリーンハウス」という名前は学生からの公募だそうですね。
そうなんです。高橋誠一郎先生に選考委員長になってもらったようです。採用された学生は、1年間食事はタダにするということにした(笑)。「グリーンハウス」という名前は、環境に優しいイメージで、先見の明があったかなと思います。
──学食1年分というのはすごいですね。
いや、相当後悔したと思います(笑)。1食50円だって1年分といったら大きいですからね。
「さぼてん」の名前の由来
──その後、会社は急成長されていくわけですね。
いくつか会社の食堂のお話をいただき、事業もそこそこまとまってきた中で、自分たちで商品、契約、値段を決められるレストランを開業したいと思ったのですね。そこで1966年12月、新宿に小田急地下名店街ができたとき、その端に「さぼてん」1号店をオープンしたんです。
──どうして「さぼてん」という名前を付けたのですか。
父が大変親しくしていた日墨協会の会長をやっている方とメキシコに行く機会があったらしいのです。ソンブレロを被って、派手な格子の肩掛けをしているのにヒントを得て、メキシコ風の内装にするとんかつ店を思いついた。メキシコだから名前は「さぼてん」にしようと(笑)。
──非常に分かりやすい(笑)。
「さぼてん」がオープンした翌月、すぐ近くに中国料理店を出すことになった。この店の名前は、サボテン、シャボテン、シャホウデンという語呂合わせで「謝朋殿」になった(笑)。中国の人に聞いたら「その名前、いい名前です」って言ってくれたそうです。
──そうですか。面白いですね。お父さん、結構アイデアマンというか。
笑ってしまうところがあるんです。面白いんですよ。何か周りの緊張を解く人柄でしたね。相当修羅場を潜っているけど、1回もそういうことを顔に出したことはないですね。
僕は経営者仲間から、「あんたのお父さんは徳のある人ですよ」とよく言われました。心の中で「あ、困っている」と思っている人に手を差し伸べるようなところがある人だったのかもしれません。周りの皆がほっとするんですよ。
株式を上場
──今度は田沼さんが経営に入られてからを伺いたいと思います。いま、グループで1377億円の売り上げと成長していますが、この過程の中でいろいろなことをやられていますね。
何をおいても父に種を蒔いてもらったということが大きいです。私は大学を卒業したのが1975年で、その年野村證券に就職し、1977年の3月までいて、本当にいい経験をさせてもらいました。
辞めた後、コーネル大学大学院に2年間留学したんですね。行く前の1977年にレストラン事業の年の売り上げが13億円。軒数でいうと15軒ぐらいですかね。1980年に戻ってきたときには、それが24億円ぐらいになっていました。レストランというのは投資を伴う事業なので、野放図にどんどん出せばいいというものじゃない。これは怖いなと思いました。
あの頃、金利がすごく高くて、銀行から借り入れをしたら10%を超えてしまいます。4億も5億も借りてしまったら金利を払えなくなって大変です。それで私はレストランの事業は、出店するのだったら、収益が上がるにはどのようにしたらいいかを考えてから出店しようと言いました。
まだ若いのに、「こんなことをやっていたら会社つぶれます。どうするんですか」と言ったので、反感も買いましたが、結局、その中で何人かが付いてきてくれて、レストラン事業はその後売り上げが約20年で10倍。グリーンハウスの事業は1988年に157億でした。
──そのなかで株式を上場されるんですね。
「上場しようと思うのだけど」と親父に言ったのが1988年です。「いいじゃないか。やれ」「もし上場して失敗したら会社を売却しなければいけなくなりますよ」「まあ、俺は裸一貫で一から始めた。もう1回そこからやればいいじゃないか」って言ってくれたんですよ。
僕はそれで俄然やる気が出ました。こんなことを言われたら頑張らなければいかんなと。それで1年ちょっとで準備して、1990年に上場できたのです。上場してから非常にいい人材が採れるようになり、その後の10年は非常に成長ができましたね。
1999年にカルロス・ゴーンさんが日産に来て、日産自動車が直接関わらないレストラン、食堂などの関連会社は全部売却し、私どもはレストランと食堂の事業部門を譲り受けました。65%だけ出資して、35%は日産自動車が持っていることにし、社員1300人を預かったのです。そのあと、17件、そういう形で大企業のアウトソーシングによるM&Aをやりました。
海外事業の発展
──これからグリーンハウスをどう発展させていくのか。そのビジョンをお聞かせ下さい。
1つの大きな節目は海外事業です。1991年、韓国のLGグループの方が日本に来られ、韓国で大量調理の給食サービスのビジネスをやりたいので提携してくれないかと言われた。ノウハウを全部あげて、現在1500億円。
その後、2001年に「これから日本食が非常に面白いので、レストラン事業をやりたい」というので「さぼてん」を紹介したら、すごく興味を持って、いま韓国は70店、店舗売り上げで50億以上の事業になっていて、海外全体で1番規模が大きくなっています。
海外レストラン事業は、現在8カ国10都市で店舗数が127店。この売り上げが120億ぐらいありますが、社員食堂などのフードサービスやホテル事業も含めると海外事業はまだまだ伸びると思います。
──FC(フランチャイズ)にしろ、やはりパートナーを大切にしながら海外で展開されているんですね。
もう間違いなくそこですね。私は海外事業は、最初に出ていくときにオーナーがまず気持ち良く会っていただけることと、ケミストリーが合うかどうかが重要だと思っています。これが間違ってはいけない。いい人と会って、本当に一緒にやっていけるいいパートナーが見つかれば一番いい。
タイや台湾にもよいパートナーがいて非常に上手くいっています。いま中国に日本企業が独自で出ていこうとして苦戦していますが、私どもは台湾の会社と一緒に中国に約10店舗出し、これも非常に業績がいい。
やはり成長することだけが目的だと上手くいかない。我々は一緒にやる社員の人たちが気持ち良く仕事をして、同じ環境で目的を一緒にしてやっていけるような環境づくりをします。
ヘルスケア事業の成長
──他にこれから伸びるのはどの分野でしょうか。
もう1つはホテル事業です。いま20年目ですが、「グランバッハ」という自社のブランドのホテルもスタートしました。また、沖縄はいま450室と200室のホテルを2つやっています。インバウンドが増えていますので、ホテルはこれから差別化次第ではまだまだ伸びます。
──レストランの海外事業とホテル事業がこれからの中心でしょうか。
それにもう1つがヘルスケア事業、食を通した健康を売る、高齢者と病院へのフード事業です。これから世界で伸びるマーケットの中に、ダイエットを含めた健康を考えるヘルスケアの世界がある。特に高齢者のヘルスケアは世界的に需要が増している。実は当社でもここが一番成長しています。
──病院や有料老人ホームなどへの食事提供も含まれますね。
そうです。病院はまだ直営の患者食が相当あるのですが、保険点数がどんどん減らされているから、直営だと大変で、食事提供は外にどんどん任せるようになっている。
もう1つは、最高級の高齢者福祉施設です。オリックス、東急不動産、三井不動産、セコムさんなどがこういった施設を作っています。健康なうちに入られて、最後は24時間ターミナルケアまでやる。そこで一番重要なのは食事です。私どもはこのシェアが高くて、いま70%ぐらいです。
これから日本で起こることは、どこの国でも起こる。特に中国は、10年後は高齢者ばかりになります。だから、このビジネスは日本を1つのモデルにして、今後海外でもすごく伸びると思います。
さらに、ヘルスケアということで言えば、「レコードダイエット」と言いますが、「あすけん」と言う当社のダイエットアプリがいま1週間に会員が1万人ずつ増えています。
──えっ、1週間で1万人?
いま7月1日現在で138万人が利用しています。「レコードダイエット」とは、自分の食べる食事をスマホで写真を撮って送るなどで記録するもので、「あすけん」では、カロリーと栄養価が自動的に計算されて、アニメの女性栄養士さんが、画面上で「こういう食べ方をしたほうがよいです」とアドバイスするのです。3カ月続けるとだいたい3キロ痩せます。「レコードダイエット」のアプリでは、たぶんうちの会社がアジアで一番大きいです。
──そうやって様々なビジネスを組み立てていらっしゃるんですね。
塾を通じたつながり
──田沼さんはどうして慶應へ入られたのですか。
私のいとこもそうなのですが、周りが慶應ばっかりで、常に身近なところに慶應卒がいた。親父は早稲田だったのに(笑)。
──高校から行かれたのですか?
そうなんです。子供の頃から見ている日吉の風景には何か親しみ以上のものを感じていましたね。やはり環境がいいですよね。今年4月には娘が慶應ビジネス・スクールに入りました。息子2人は幼稚舎からです。何か知らないですけど、自然にそうなっています(笑)。
──学生時代の想い出は何か。
大学2年まではアレックスというテニスサークルにいて一生懸命やっていました。もう1つ、三田レコード鑑賞会に入っていました。三田レコード鑑賞会を通して買うと、当時、レコードが3割引で買えたんです。
──音楽がお好きなんですね。
はい。高校時代のあるとき、視聴覚室からすごくいい曲が流れている。これが、ミュンヘンバッハ交響楽団の有名なオルガニスト、カール・リヒターのバッハだった。そのオルガンの曲が僕は気に入ってしまって。バッハ好きが高じてホテルを「グランバッハ」と名付けてしまった(笑)。
──また、田沼さん同様、慶應出身でコーネル大学ホテル経営学部・大学院に行かれている方は結構いらっしゃいますね。
そうですね。星野佳路さんとか、キリンHDの磯崎功典さんとかね。
──私もこのネットワークに入れていただいて、人のつながりの大切さを感じています。
日本にはコーネルホテルソサエティというものがあって、実は私は15年間会長をしています。以前は20年間ずっと、塾員の帝国ホテルの犬丸一郎さんがおやりになった。
この会は新しい方とかいろいろな方と知り合える交友の機会があって、僕にとっては本当にいい会ですね。
──本当につながりを大切にしたいです。本日は有り難うございました。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。