慶應義塾

大松 康:自分らしくいられる学校のカタチ

執筆者プロフィール

  • 大松 康(おおまつ やすし)

    その他 : NPO法人産の森学舎理事長兼小学部校長

    塾員

    大松 康(おおまつ やすし)

    その他 : NPO法人産の森学舎理事長兼小学部校長

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2024/07/18

グラデーションのはなし

川が流れているとします。その流れはやがて海へと合流します。地図の上では、ここまでが川でここからが海という線を引くことができます。では、物理的に川と海との明確な境界は存在するでしょうか。淡水と海水が混じり合う部分には「汽水域」という名前がありますが、それとて、どこからどこまでが汽水域なのか、その境界は常にたゆたっていて実に曖昧です。川と海の間にあるこの曖昧な境界を、私は「グラデーション」と呼んでいます。

グラデーションは世界のいたるところに見つけることができます。例えば日本家屋における「縁側」は、近所の人が訪ねてきて靴を履いたまま腰を下ろすことができ、家人は部屋にいながらお茶を出してもてなすことができます。この曖昧な空間が家の内と外を緩やかに結び付ける装置として機能していました。

また、人が住む「里」と原生の「山」の間にはかつて「里山」という中間領域があることで、人も山の獣も互いの住環境に干渉しすぎないように共存していました。例を挙げればキリがありませんが、すべてに通底する特徴は、「グラデーションが豊かに担保されることによって、それを挟む両者ともに豊かさが増す」という点です。グラデーションがあるからこそ、川は川でいられるし、海は海でいられます。

汽水域や干潟のような場所は特有の生き物が繁殖したり往来したり、そこでしか見られない貴重な生態系が築かれる例も多く、結果として周辺の川も海も生物多様性が豊かになっていきます。反対に、担い手不足で里山が荒廃し、里と山のグラデーションが貧相になると、植生の偏りによる生態系の崩壊や獣害の増加などの問題につながります。

人間同士はしばしば「ご縁」や「絆」で結ばれますが、ここにもグラデーションが存在すると考えます。最初は軽い会釈で生まれた小さなご縁から、共通の趣味や話題をきっかけとして距離が縮まったり、ユニークな思考に刺激を受けたり、得意不得意を補い合う優しさが醸成されたりすることで、お互いの存在感が混じり合う固有のグラデーションが形をなしていくのです。

夫婦、親子、友人、子どもと大人、あらゆるご縁の中で信頼し感謝し合える交流を持ち得たならば、それは心身の健康や幸福感に直結します。逆に、暴力や権力による支配、同調圧力、無責任、無関心、無神経などがグラデーションを生まないことも私たちはすでに知っています。

学校教育の中で基礎学力と呼ばれる読・書・算や、技能教科と呼ばれる音楽・図工・家庭・体育を、「グラデーションを豊かにするために役立つ素養」と捉えれば、自分と他者、自分と地球、自分と世界、自分と社会、自分の内と外など、多様なグラデーションを形成し豊かにする力を育むことこそが教育の本分であるといっても過言ではないかもしれません。

対話する力

福岡県糸島市のフリースクール産の森学舎、代表の大松康と申します。子どもたちからは「やすさん」と呼ばれています。

自宅横の納屋を自分たちで改装して2015年4月に開校。現在、中学生4人と小学生19人が平日毎日通ってきています。入学に至った事情や経緯はそれぞれですが、全員共通してここに通いたいという意思をもって通ってきています。

玄関を出て東には穏やかな唐津湾が見え、西を振り返ればお産の神様を祀った裏山が迫ります。近くにはシロウオやアユが遡上する川もあり、何とも贅沢な自然環境です。フリースクールとは、学校教育法の定める「学校」に通っていない児童(学生)が利用する民間の機関や施設を総称する言葉で、規模や活動内容などは実にバラエティに富んでいます。

産の森学舎は、「くらし」と「あそび」と「学び」をひとつながりに、というメインテーマのもと、経験的・主体的な学び、対話・表現を大切に活動しています。午前中は2時間ひとコマの授業、昼食は当番の子どもたちが作り、食後は小学生は自由に過ごし、中学生はプロジェクトと呼んでいる探求学習に取り組みます。

産の森学舎では開校当初より多数決をしません。A案B案のどちらかで意見が割れたとしても、話し合いによって解決を導きます。当然話し合いは長引きますが、お互いの意見を聞いた上で「今回は」こちらでよいと納得したり、新たに生まれたC案で満場一致となることも多々あります。

例年、運動会は日程だけを設定し、「運動会実行委員」を子どもたちから募ります。実行委員は準備期間中、自由時間を利用して週1回の話し合いに参加、運動会当日の準備、進行、案内までをこなす根気のいる仕事です。手を挙げる人がいなければ運動会は行われないのですが、今のところ毎年欠かさず開催できています。

数年前の委員会で、競技種目やチーム編成などの話し合いに入る前に「勝ち負けを決めるか否か」で子どもたちの意見が二分したことがありました。それぞれが「楽しい1日にしたい、だから……」の後に続く指向が違ったのでした。数時間にわたる議論で結論が出ず、ファシリテーターを務めていたスタッフから、家族など他の人の考えを聞いた上で来週もう一度話し合おうと提案したところ、1週間後の話し合いに集まった委員全員の意見が180度変わっていて結局二分した、ということがありました。

その後の話し合いにより、競技によって勝ち負けを決めるものとそうでないものを設ける、3ブロック対抗にして優勝を決める、という妥協案が子どもたちから出されました。そして運動会当日、あれだけ議論したブロックの勝ち負けなど1日の終わりには誰も気に留めておらず、結果発表もなく一同拍手で閉会したのでした。

もし多数決をしていたならば、初日でどちらかに決まってしまい、お互いの意見の理屈を認め合い、納得した上で妥協案を出すという機会は得られなかったでしょう。「問題解決に対話を用いることができる」ということが、考えの違いを認め合う土台を作り、グラデーションの充実に大きく寄与します。

「窓」になる

小さな子どもにとって、大人とのグラデーションはとりわけ特別であると考えます。ちょうど「胎盤」がお母さんからの酸素や栄養を胎児に届けるように、子どもたちは身近な大人との関わりから色々なものを吸収します。大人も子どもも、本来、何を学ぶか自分で「選べる」存在。誰もが「自分である」ままに変化、成長できるはずです。大人が子どもに何かを伝えたい時、ついつい「指導」や「評価」をしがちですが、実は、大人は大人として、子どもは子どもとして、それぞれが自分としてグラデーションを豊かに育む中でこそ大人たちの文化は子どもの人格に「選択的に」伝承されていくと信じています。

産の森学舎は、築80年の元牛小屋をスタッフが自分たちで改修しながら使っています。床の張替えなど大掛かりな作業を、子どもたちが過ごしている横で敢行することもあります。私も他のスタッフも木工や大工仕事が好きですが、たくさん失敗するし、葛藤もしばしばあります。

そんな時、子どもたちは大人の態度を実によく観察しています。「まずやってみよう」「失敗したらやり直せばいいのだ」というメッセージは、言葉ではなく大人の態度から受け取り、文化として伝承されています。

産の森学舎では、現在6人の大人が講師として午前中の「授業」の時間を担当しています。私が担当する授業は「もじ」と「かず」。絵本や紙芝居をつくったり、トランプの新しい遊び方を考えたりしながら、子どもたちに「もじ」や「かず」に触れてもらうワークショップのような内容が主です。

学舎でのひとコマ。巨大な折り鶴を作る。

子どもたちに伝えたいのは「知識」のみではなく、私自身が大好きな「もじ」や「かず」とどのように向き合い、そこにどのような楽しさを見出しているのかという「熱」です。私のほかに、アートが好きな大人、本が好きな大人、農作業が好きな大人、書道が好きな大人、生き物が好きな大人が、それぞれ好きなこと、得意なことを持ち寄って、子どもたちに熱を伝える時間を提供してくれています。

もちろん大人の熱が伝わったところで、ただちに子どもたちが「もじ」や「かず」や「生き物」を好きになるというわけではありませんが、大人が世界を楽しんでいる姿は、彼らにとって世界を覗き込む「窓」になり、もし興味が湧けば子どもたちは軽々とその窓を越え探求を始めます。こうして、「子どもと大人」との間に育まれたグラデーションは、しばしば「子どもと世界」をつなぐグラデーションへと姿を変えていくのです。

毎朝登校してくる子どもたちの笑顔、交わす挨拶、「やすさんきいてよー」と始まる何気ない会話、それらすべてが私と彼ら1人1人との間のグラデーションを日々育み、私はこの上なく幸せだと思い知らされるのです。大人も子どもも、ありのままの自分でいられることがどれだけ幸せでかけがえのないことか。自分らしくあること、自分の意見を持つこと、自分の力を発揮することの喜びを知っている子どもたちは、彼らが出会う先々で新たなグラデーションを生み続けるでしょう。

「教育を受ける権利を有する」という日本国憲法の文言は、「ひとりひとりが、自らの人生を生きる一個人として大切にされなければならない」という決意の一環です。もう一度その根っこから意味を問い直せば、「教育」や「学校」はこんなにも幸せな人たちを世界に送り出し続ける心臓になれるはずなのです。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。