執筆者プロフィール

林 晟一(はやし せいいち)
その他 : 評論家塾員

林 晟一(はやし せいいち)
その他 : 評論家塾員
2023/11/17
「クール・コリア」時代の高校生
東京の中高一貫校で歴史や政治を教え、10年近くになる。
この間、韓国が子どもたちの憧れとなったことを肌で実感してきた。文化祭ではダンス部の公演が人気だが、ダンスに使用される曲にK-POPが占める割合は大きい。英語の勉強には身が入らない一方、放課後に韓国語を独学する生徒だって少なくない。
「ハングルできるんでしょ? 先生、やるじゃん」
生徒からお褒めにあずかる私は在日コリアン3世、いわゆる「在日」だ。在日とは、戦前から日本に住む朝鮮人とその子孫、また、1950年代の朝鮮半島の動乱を逃れて日本に渡ってきた人びととその子孫をさす。
私は80年代後半から90年代にかけ、東京の公立小中高に通った。そのころの「韓国的なるもの」といえば、「キムチ臭い」「粗雑」などのイメージが主だった。韓国製の電化製品は「低品質」の代名詞であった。
時は流れた。Z世代と呼ばれる若年層にとって、「韓国的なるもの」は可愛く、カッコいい。「クール・ジャパン」のお株を奪うかのような、「クール・コリア」の隆盛である。
若者は、植民地化の歴史を知らないまま韓国文化を消費している。本当にそれでいいのか──人によっては、そうため息をつくだろう。ただ、中高生と斬り結んできた私としては、話はそうかんたんではないと思っている。
たしかに、Z世代は近代史や戦後日韓関係にかんする知識に乏しい。だが同時に、70年代の「キーセン観光」や、80年代のコリアンパブの増加を知る中年・老年男性の一部が抱きがちな、韓国や韓国人を露骨に見下すバイアスにも乏しい。
Z世代が生まれたとき、すでに日本経済は「失われていた」し、韓国の商品は身の回りにたくさんあった。それだけに、むやみに韓国を下に見ることなく、純粋に可愛い、カッコいいと思える面があるのではないか。
過去のいきさつをよく知らないからこそ、隣国の文化を素直に楽しめる。そんな一面があるとすれば、歴史を教える者として、心中複雑ではある。
コンプレックスの細分化
ここで注意すべきは、可愛い、カッコいいという価値は、多感な若者にはプレッシャーともなりうる点だ。たとえば、決して韓国の影響だけではないが、若者のあいだでは美容医療がだいぶ身近になった。
美容業界は、需要を掘り起こそうと腐心している。東京の電車内では、高校生に向けた美容整形の広告がおどった。いわゆるコンプレックス広告は、通学途中の思春期の若者にこそ突き刺さると見込んだのだろう。
Z世代は、美の規準を欧米のみならず隣国に置きつつある。韓国のドラマやエンタメでは、美容医療をはじめ「自分磨き」の幅広い選択肢が示される。2020年には、韓国の美容医療アプリ「カンナムオンニ」の日本版がリリースされ、今年7月には70万ダウンロードに達した。
このアプリは、Google Playで12歳未満、App Storeで17歳未満のレーティング(保護者による使用制限の推奨)が付されている。アプリ内の掲示板には、容姿にかんする韓国の高校生たちの十人十色の悩みが、自動で邦訳されている。こうした悩みに共感をよせる日本の同年代は、決して少なくないはずだ。
これは容姿や身体のコンプレックスの例だが、それ以外にも、子どもたちの抱えるコンプレックスはたいそう細分化しており、増幅しやすい。性的指向、エスニシティ、ルーツ、信条……。SNS上の情報は玉石混淆で、たえず更新される。いきおい、子どもたちは悩みの種に翻弄(ほんろう)されやすくなる。
だとすると、それらを受けとめる教師の側も、なるべく色とりどりのほうがよいと私は思う。多種多様な悩みを打ち明けられる窓口の数は、豊富であるに越したことはないからだ。
いや、生徒の悩み相談はスクールカウンセラーに任せておくべきだ。教師は多忙なのだから──こうした指摘もよくわかる。ただ、カウンセラーもまた多忙なことは、教育現場では誰もが知っている。さまざまな人生を歩んできた教師たちが、カウンセリングの心を分けあって来談者に応じるほうが、現実的ではないだろうか。
窓の色合い
とはいっても、生徒の相談にのる教師として、私は半人前である。生徒の言をそのまま使えば、信頼のおける先生と私とでは、「格が全然ちがう!」らしい。
昨年末に刊行された『在日韓国人になる』(CCCメディアハウス)でもふれたが、私は、いささか困った両親の下に生まれ、何とかここまで生きてきた。それだからか、生徒の悩みに耳を傾けつつ、どうやったらこの人はもう一度前を向けるだろうかと思案するくせがある。
「ハヤシはいつも『答え』を出そうとするじゃん!」
先日、友人関係の悩みを相談に来た生徒が、不平をもらした。その生徒が相談相手としてお気に入りなのは、批評家でもある国語の先生だ。彼が捕まらないときだけは私のところへ来て、悩みの解決策を探ってしまう私にあきれ、説教し、帰る。
ただ悩みを聞くだけ(・・)でいることは、本当にむずかしい。
この前は、別の生徒が部活動にかんしてナーバスになっており、私なりに気づかっていた。過去に骨折したことがあり、腰まわりが痛いという。ちゃんと帰れそう? と心配の言葉をかけた私に、ご機嫌ななめの生徒はこう返してきた。
「帰れないほど痛かったら、俺、どうやって登校したわけ? ここにいるはずなくない?」
それはそうだけど……。意地悪な目をしたまま下校するその子の背中を見とどけ、私はぷんすかしつつも深く悟った。悩みの解消を模索しても、悩みに寄りそっても、生徒は満足しない。心理学でいうダブルバインドって、こういうことなのか!
生徒は、生徒同士の言動には気をつかいすぎて悩むわりに、教師にはしばしばぞんざいだ。教師も人間だし、教育的観点からも、かんたんに心を傷つけさせてはいけない。ただ、教師の権威に歯向かうチャンスは、可能な範囲でつくってあげたいとも思う。
私の頓珍漢(とんちんかん)ぶりはさておき、さまざまな悩みを抱える生徒が、「あの人だったら相談できる」と複数の教師を思い浮かべられることは望ましい。生徒のコンプレックスやそれにともなう悩みが細分化する中、頼りない(・・・・)窓口があることさえ大事かもしれない。古来、反面教師もまた、子どもにとって「ああはなりたくない」アンチヒーローとしてあんがい重要だった。
生徒に説教され、八つ当たりされ、あげくには、どうしたことか「ハヤシはコンプレックスが強い!」とまで評された私だって、いないよりはましだろう。目上の者に反抗する経験をしておけば、将来、やみくもに権威に服従して良しとするパーソナリティから、自由になるかもしれない。
「社会の縮図」の解像度
勤務校には、日本国籍ではあるがコリア・ルーツの名前の先生がいる。その人は、韓国籍で通称名を用いる私とはちがった生き方をしている。生徒からすれば両者のコントラストは新鮮なようで、相談内容に応じて両人を使いわける(・・・・・)子だっている。
かたや、筋金入りの愛国者の先生もいる。その先生とは、この9月にベトナム・ハノイの高校から生徒を招いたとき、一緒に汗を流した。生徒たちは日本の大学への進学を見すえ、授業から昼休み、放課後の部活まで、1週間弱を日本の高校生とともに過ごした。
その先生は、東南アジアの人びとが憧れている(かもしれない)日本人の誇りにかけて、在日である私は草の根の多文化共生の一歩として、ベトナムの高校生を歓迎した。
その先生と私は、同床異夢であるかもしれない。けれど、考えがちがう人は敵ではない。むしろ一緒に何ができるかを探ってゆくほうが、やりがいに満ちあふれている。
学校が「社会の縮図」なのだとすれば、生徒だけでなく、教壇に立つ者のルーツ、エスニシティ、性的指向、信条などのダイバーシティも備えなければ、縮図の解像度は低いままだ。
組織がダイバーシティを保障することは、メンバーが抱えてきたコンプレックスをも丸ごと受けとめることと直結する。この点からすると、教壇に立つ者のダイバーシティは、意外なかたちで効果を発揮することがあるかもしれない。
未来の共創
さまざまなバックグラウンドやコンプレックスを持ち、悲喜こもごもの人生経験を積んできた教師に、生徒が美容医療について相談するとしよう。
否定・肯定にとらわれない、色とりどりの考えにふれた生徒は、じっくり将来を見つめられるかもしれない。少なくとも、「美容医療はまだ早い。大人になって考えればよい」といって済ますだけの説諭よりは、胸に響くだろう。成人年齢が18歳に引き下げられた今、高校生の大半は在学中に大人となるのだから。
ただ、教師のダイバーシティを推進してゆくには、まだ時間がかかりそうである。たとえば、公立校の外国籍教員は正規の「教諭」としては働けず、「任用の期限を附さない常勤講師」として教壇に立っている。
このため、日本国籍を持たない公立校の教員は、管理職をめざすことができない。管理職の激務を引き受けたがる教員は、多くないかもしれない。だが、あらかじめ管理職への道が閉ざされていることとは、話の筋がちがう。
教師のなり手不足が広く問題視され、多文化共生が唱えられ、移民の数も増えゆく中、教育に熱意がある外国籍の教員や教員志望者を、いつまで一段下に見ることができるだろうか。
私立高校で歴史を教える外国籍教員の私は、9月、ベトナムからの生徒を迎えた教室で、関東大震災100年をテーマとして授業を行った。1923年、流言飛語と熱狂にとらわれた集団は、朝鮮人や、朝鮮人とみなした人びとを殺した。
授業の後半では、「どうすればみんなで(・・・・)生きられるか」を念入りに考えた。私、あなた、あの人──みんなで生きてゆく。多文化共生の未来をともに創る「社会の縮図」たる空間は、ダイバーシティが豊かなほうがずっと現実味にあふれる。
これからも生徒にお説教されながら、「縮図」から「社会」を築いてゆきたいなと思う。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。