執筆者プロフィール

勅使川原 真衣(てしがわら まい)
その他 : 組織開発コンサルタント塾員

勅使川原 真衣(てしがわら まい)
その他 : 組織開発コンサルタント塾員
2023/07/12
『「能力」の生きづらさをほぐす』を上梓して
2022年暮れ、全国の書店に『「能力」の生きづらさをほぐす』という書籍が並んだ。小さな版元から出た、無名の著者──勅使川原真衣と言う──のものだ。表紙をめくると「これは、死んだ母が子に贈る、『能力』についてのちょっと不思議な物語である」とある。今から15年後を舞台に、ゆうれいになった母さん(こと筆者)と大人になった子どもたちとが「能力主義」社会の中でいかに生きるべきか考えていく……という設定だ。その後の反響も摩訶不思議で、わが目を疑っている。全国紙3紙の書評やその他各種メディアに取材いただき、トークイベントも複数開催した。読者有志が各所で開く読書会のほか、出版社宛に愛読者カードやお手紙を寄せてくださる方も絶えない。文通するわけにもいかずお返事できていないが、すべてありがたく目を通している。本稿もまさに、拙著をお読みくださった塾員のお声がけによるもので、心からお礼申し上げたい。
誰もが当事者である「能力主義」と「生きづらさ」
それだけ、タイトルにある「『能力』の生きづらさ」は人々の切実な叫びだと、改めて思う。なにせ、個人は長らく、自己や他者にあれが足りない・これが足りないと「欠乏」に目を向けさせられ、頑張り続けてきた。学校では「学力」「人間力」……などが測られ、他者と比較され、「能力に応じた」進路が采配されてきたのだから。その延長線上で多くの人は仕事に就き、仕事でもまた「主体性」「リーダーシップ」といった能力評価が処遇を大きく左右する。熾烈な競争により調子を崩すこともあるわけだが、すると今度は「メンタルが他の同期平均より弱い」などと言われ、「EQトレーニング」を薦められる……うなだれて仕事帰りに書店をのぞけば『世界のエリートはなぜ〇〇力を鍛えるのか』といった本が平積みに……心の平穏はなかなか得られない。
他方で、自分にはさして接点のない話だと思う方もいるだろう。でも、自己の生活への満足感が、実は自分以外の誰かの「生きづらさ」の上に成り立つ話だとしたら、どうだろう。ましてや、その誰かの「生きづらさ」は、本人が怠けているから/「能力」が低いからといったことではなく、生まれ落ちた家庭の資本によって運命づけられていたら? それでも「能力」の問題だとして、叩いたり伸ばしたり、絶え間なく「競争」させていて本当にいいのだろうか。──「『能力』の生きづらさ」ということばを選んだのは、人と人が持ちつ持たれつ生きている以上、誰にとっても自分事であり、全員当事者であるとの思いからだ。人に優劣をつける「競争」ではなく、月並みな表現だが「助け合い」をどうすれば促進できるか? 「ダイバーシティ&インクルージョン」や「ウェルビーイング」を最新のおとぎばなしにしないために、何ができるか? 自身が専門とする教育社会学の視点と、組織開発の実践知とから、紐解いた。
ちなみに、「能力主義」のような社会原理を問い直すための視点・手法は、2005年に環境情報学部を卒業したのち、東京大学大学院で教育社会学を修め、得た。修了後は「敵地視察の就職」と称し、「能力」の測定や開発・育成を「商品」にする「能力開発」(人材開発)業界であえて仕事をしてきた。しかしある時から、開発すべきは個人の「能力」ではなく、組織の仕事の進め方・声のかけ合い方といった「関係性」にあると思うようになり、「組織開発」コンサルタントの現在に至る。
世直し、という「終活」
本稿をお読みの方には釈迦に説法となり恐縮だが、日本でも経済や教育をはじめとした格差が叫ばれて久しい。しかしながらこの点に対する「異次元の」対策は見えてこない。機会の平等の陰で、結果の不平等は「自己責任」として放置され、社会経済のそもそもの綻びに目が行きにくくなっている。
だから、業界を見てきたからこそ自戒を込めて踏み込ませてもらった──個人に問題を押し付けた先で潤うのは「能力開発」を謳う業界であり、またそれは、社会構造へのてこ入れという政治的責務を逃れるための隠れ蓑にもなっているのではないか、と。……闇討ちに遭わぬかいささか心配はあるが、偶然にも恵まれて育ってきた者として、「親ガチャ」などという偶然性に専制される社会を放っておくことは、できない。
……こうも鼻息が荒いのには、わけがある。38歳の時、ステージⅢCで乳がんが見つかり、幼子を抱えながら今も進行がんの闘病中だ。恐らくは立ち会えないであろう、成人した我が子たちが生きる時代に、個人に無限の努力を強いるような社会は残したくない。
では、どう生きていくか。社会経済の歪みに目を凝らす。そして、一足飛びの解決は難しいが、個人だけの問題ではないという認識を持って、足元でできる取り組みを積み上げる。その一例として挙げたのが、私の場合は組織開発事例だ。個人に数多の「能力」をこれ以上求めるのではなく、チームとして各人が発揮しやすい「機能(特性)」を持ち寄って事を為す。そのために人と人、人と職務の組み合わせを調整する。
「成功」も「活躍」も誰か1人の手柄であることは、実社会でおそらくそうない。上司の嫌味を、うまく聞き流しながらなんとかやり遂げてくれた部下の功労が大きいこともあろう。ないしは、アダム・スミスとて、その身の回りの世話は母親が甲斐甲斐しくしてくれていたという。お母さんあっての国富論とはいやはや。1人で速く走れる方法の追求のみならず、いかに互いの特技を引き出し合い、掛け合わせることで共に遠くまで行けるか? この点に叡智を結集させたいものである。
「葛藤」を避けない
言うは易し、行うは難し。「能力」ではなく「機能」を持ち寄って…とは言っても、そう簡単なことではない。これまでの経験を振り返るに、この取り組みの成否を分かつポイントは大きく2つあるように思う。1つは、「葛藤」と付き合い続けることの大切さだ。人と人、人と職務の組み合わせ、すなわち「相性」を考える仕事は、いかんせん扱う変数が多い。よって常に揺らぎの中にあり、そこに対応しようとすることは、泥臭く、終わりがなく、言語化すら容易ではない。しかしこの「葛藤」、いわゆるモヤモヤというのを忌避して、「ウェルビーイング」を唱えても、扶助にはならない。困った時ほど、そのことが起きている「構造」に目をやることでモヤモヤを見つめ直す。本の中では「困ったときは幽体離脱」と書いた。その上で、その構造に、誰かの恣意性や違和感を少しでも覚えたなら、毅然とNOを突きつけたい。
変わるべき「人間観」──「競争」ではない何かのために
また、もう1つ、「競争」から「関係性」へフォーカスをずらすコツがある。それは、自分たち人間をどういう存在として定義づけるか?に拠るところが大きい。我々は「自立した個人」であり、その者同士が生存をかけて「競争」する──そう我々はあまりに長らく、繰り返し聞かされてきたため、すっかり信じ切っているようだ。しかしこれは、いかほど現実味があろうか。
つい先日成立した「こども基本法」にも「全ての子供が~(…)~自立した個人としてひとしく~」とある。もっと言えば、そもそも、教育基本法の第1条(教育の目的)は「教育は、人格の完成を目指し」とある。「人格の完成」や「自立」とさらりと言うが、中身はあやふやなまま、途轍もない目標がよくも立てられたものだ。今こそ、私たちという存在の「前提」、つまり「人間観」は、現実に照らし合わせて刷新されるべきだ。人間とは一体何なのだろう。人の「格」が「完成」するとは?人が自分の足だけで立つ状態とは? 私はこう考える──誰しも(教育基本法とは違って)永遠に未完で、弱い。だから助け合う。恥ずかしながら大病をしてはじめて気づかされた。誰一人として「完成」も「自立」もしてはいない。「人間観」はあらゆる社会システムの根源中の根源にあたる。今こそ前提からぜひ見直されたい。
いつの日か……ではだめだ。過去最高の子どもの自殺数、将来子どもを持ちたくないと考える若者が少なくないことを示す調査結果……彼ら・彼女らに、明るい未来を見せてあげられていないことは明らかである。今以上「競争」して頑張り続けることは、ますます短絡的な「勝ち負け」や「答え合わせ」が社会を席捲してしまうように思えてならない。「論破」や「タイパ社会」は、わかりやすい一例だ。
政治をすぐに動かせないとしても、今この瞬間から、会話の仕方は変えていける。弱いから助け合うのだから、人が人を試すような会話は終わりにする。「それってあなたの感想ですよね?」なんてSo what? である。まとまらぬ考え、言葉にならぬ想い。これらを遮ることなく、耳を傾け合う。いつもいつも面白くなくていい。感動する話ばかりしなくていい。鋭くある必要もないし、端的でなくても的外れだってかまわない。生きて、そこに私とあなたがいてお話をしている。これが最高にうれしく、尊い。老婆心だが、このような対話は、2倍速で映画やドラマを観ている人には難しいかもしれない。結果ではなく過程の価値を、幼いうちから味わう必要があろう。家庭や教育現場が「成功」のための次なる「能力」開発に躍起では、厳しい。「今、ここ」を味わい、何ができるか(=「能力」)ではなく、ここに在ることそのものを喜び合う実践。「欠乏」を埋めることはもはや「成長」ではない。
ここまでお付き合いくださったことに深く御礼を申し上げる。人の「能力」ではなく、発揮しやすい個々人の「機能」・「持ち味」の見極めと、その組み合わせ方の探究こそが進むよう、ゆうれい母さんは今日も行く。「リスキリング」や「人的資本経営」などが脚光を浴びているが、変わったのは言葉尻だけで、内実は新型「能力」論になっていないだろうか。個人に閉じず、人と人の関係性に焦点が当たったものになっているか、今一度点検されたい。「能力主義」のような巨人は、私たち自身の価値観が生み出した怪物でもある。みんなで生み出したことなのだから、みんなで片を付けて、次世代には希望を残したい。その暁に、ゆうれい母さんは成仏されるのだろう。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。