慶應義塾

吉原直樹:ポストコロナ時代の移動のゆくえ

執筆者プロフィール

  • 吉原 直樹(よしはら なおき)

    その他 : 東北大学名誉教授

    塾員

    吉原 直樹(よしはら なおき)

    その他 : 東北大学名誉教授

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2022/11/21

多次元的なグローバル化のなかの移動

新型コロナウイルスのパンデミックは依然として続いているが、ここにきて、やや落ち着きをみせているようにみえる。そうしたなかで、ポストコロナ時代の到来を見据えて、「いま」を「未来」につなげていく移行期/転換期のソーシャル・デザインをどう構想し、それにもとづくトランジション・シティをどう打ち立てるかが喫緊の課題となっている。

そのためには、パンデミックの「いま」をグローバル化とのかかわりでどうとらえるかがまず問われなければならない。ここで想起されるのは、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)とマンフレッド・スティーガー(Manfred B. Steger)の間でかつて交わされた議論である。ガブリエルは、パンデミックとともにグローバル化が終わり、再び国民国家が復活していると主張した。それに対して、スティーガーは、人の移動はたしかに停滞しているようにみえるが、それはグローバル化の終わりではなく、グローバル化が「多次元的な社会的過程」に入っているのだと主張した。そこでは、とくに情報が高速にボーダレスに移動するという状況が強調された。

考えてみれば、グローバル化の進展とともに社会の脱境界化/脱場所化が進んでいるといわれてきたが、「グローカル・アトラクタ(glocal attractor)」(ジョン・アーリ)、すなわちグローバル化が深まればローカル化が深まり、そのことがさらにグローバル化を深めるという並進的な過程へのまなざしが強まるなかで、脱領域化/脱場所化がじつは再領域化/再場所化につながっているというのが、この間の議論であった。

こうした議論は、国民国家は終わっているのではない、しかし国民国家がかつてのような「ひとつのまとまりのある社会」として続いているのではないという議論に収束していったように思う。筆者が注目するのは、そうした議論とともに、ヒト、モノ、コトの移動がグローバル化の進展とともに(たとえ、それがどのような歴史的段階であっても)線形的なものから非線形的なものに移っているという認識が高まっていることである。

デジタル化と「コロノプチコン」

ここでは、パンデミックが以上のようなモビリティ・シフトとともにあり、またそうした点で「グローバル」と同義であることを指摘したい。そしてそのうえで、私たちが目撃しているパンデミックの「いま」がデジタルというコンテクストを抜きにしては考えられないことに注目したい。わかりやすくいうと、パンデミックにおいてデジタル技術の占める位置がきわめて大きくなっているのである。

ところで、パンデミックが帯同するデジタル化を一つの社会的状況としてとらえると、そこから浮上してくるのは、接触確認アプリ(COCOA)に代表される移動監視技術によって管理され、都市が小型で無人の媒体やプラットフォームからなるデジタル・スケープ(地景)に完璧に覆われているといった状況である。

「ステイホーム、ステイセーフ(家にいて、安全でいて)」という呼びかけの下に、とりわけパンデミックの初期に広がった在宅リモートワーク、オンラインショッピング、オンライン学習がこのデジタル・スケープのなかにすっかり組みこまれていたこと、そしてそのスケープの足下で「社会的振り分け(social sorting)」(オスカー・H・ガンディJr)や社会的排除がすすみ、そして社会的基盤を喪失した「コロナ弱者」が続出したことは、いまや多くの論者が指摘するところである。

たしかに、テレワークが勤務体制や働き方に大きな転換を迫り、オンラインショッピングが生産者と消費者を直に結びつける消費習慣をつくりだし、さらにオンライン学習が自己学習の機会を広げるという可能性をもつものであったことは否定できないが、同時にそれらが結局のところ従来の差別的な、非対称性を内包する社会内分業体制を再生産し再強化するものであったという意見は、私たちのまわりで根強く存在する。なかには、そうした再生産/再強化によって、既存社会の「バルネラビリティ」(脆弱性)がより先鋭的な形で露呈したという意見さえ聞かれる。

議論には濃淡はあるが、これらはつきつめていくと、パノプチコン(一望監視システム)の進化系である「コロノプチコン(coronopticon)」(『エコノミスト』2020年3月28日)といわれる監視文化の浸透とかかわらせて、グローバル化の「いま」をどうとらえるかという問題構成に行きつく。一つだけ確実にいえることは、パンデミックが既存社会を上塗りしているにしても、それはコロナ以前の「ノーマル」(常態)に戻ることではけっしてない、という点である。

先に言及したことに立ち戻っていうと、パンデミックは「グローバル」ではあるが、それが国民国家の変容を大々的にともなっているということをどうみるかということが問われるのである。コロノプチコンでいわれる監視で注目されるのは、これまでのように視覚に依存するのではなく、データを通しておこなわれるという点である。そしてこうしたコロノプチコンがグーグル等に代表されるいわゆるプラットフォーム企業と国家のコラボレーション(協調体制)の下に、旧来の統治構造を掘り崩すような形ですすんでいることが、あらためて注目される。そこでは、これまで「生政治(biopolitical)」という修飾語で語られることの多かった、微視的権力の存続形態が鋭敏に観て取れる。それは高度に抑圧的であるが、同時にそうしたものに全面的に回収されない社会的過程もはぐくんでいる。

「未来」の鍵となる「コネクティッドなもの」

これまで、パンデミックとともに、監視という形で綴られる、移動をめぐる一つの社会のありようをみてきたが、同時にその黙示するものに迫ることによって、「未来」につながるもう一つの道筋がみえてくる。まさにアーリのいう「未知の未知」(unknown unknowns)をさぐる作業に入るわけだが、それは高度に抑圧的な生政治を別の視点でとらえ返すことでもある。そこでは、何よりも情報が多方向的にボーダレスに移動する過程において、生存のための産業と自然環境の維持、つまり持続可能でエッセンシャルなもののつきあわせとシェアリング(共有)を通してはぐくまれる、人と人との間の「コネクティッドなもの」(むすびつき)の形成を見据える必要がある。

そうすることによってデータの専横的な一人歩きが回避され、人びとがディスポーザルな(使い捨てられた)状態に追いやられることを防ぐ道筋がみえてくる。そして先に言及したリモートワーク、オンラインショッピング、オンライン学習がただ「モノ」としてデジタル・スケープに埋め込まれるのではなく、真に他者と対面するための第一次的な共有の場(コモンズ)を構成し、文字通り、貴重なライフラインとなることが展望できるようになる。

ちなみに、パンデミックの初期に取り沙汰されたソーシャル・ディスタンスは、厳密にいうと、フィジカル・ディスタンスの言い間違いであるが、この誤用がかえってパンデミック下の移動のありようを示していて興味深い。パンデミックは普通に理解すれば、移動を止めることによって日常的な人びとの交流を制限し、人と人との間の物的距離を広げたということになる。しかしそれをソーシャル・ディスタンスに読み替えてみると、人と人の間に生じる距離は、デジタル技術による移動の追跡(監視)によってもたらされたものであり、人と人との隔たりをむしろ埋めるものとしてあったとも解釈できる。つまりここでは移動がなくなったのではなく、移動を管理すること(それも差異化をともないながら)が前面に立ちあらわれたのである。この〈あいだ〉のもつ機能は、パンデミックが「グローバル」=「バイラル」(viral)であることから必然的に生じたものであるが、いずれにせよ、パンデミックが移動を止めたというのは、もはや俗説にすぎないといってよいだろう。

それでは、こうした〈あいだ〉の持つ機能は、「未来」においてどうなるのであろうか。今後いっそうデジタル化がすすむことを想定するなら、「いま」みられる上記の〈あいだ〉は、先に言及したようなモビリティ・シフトがすすめばすすむほど、よりフレキシブルなものになるだろう。それが先にみたような人と人をつなぐ「コネクティッドなもの」を担保するようになるかどうかは、ここでは言明できないが、そうした可能性を閉ざしたトランジション・シティがもはや考えられないことはたしかである。

コモンへのまなざしへ/から

パンデミックの「いま」がポストコロナ時代にどう引き継がれていくかは、結局のところ社会的過程としてのデジタル化に規定されるところが大きいと思われる。それゆえ、新しいデジタル技術の両義性とそこに深く足を下ろした移動のありようから目が離せない。またそうしたものを大枠として方向づける国家とプラットフォーム企業のコラボレーション(協調体制)の動向も無視し得ない。

それはパンデミックの初期に取り沙汰された国家の役割の拡大(=「再公営化」)のコンテクストでいわれたものとは微妙に違っているようにみえる。むしろ指摘されるようなコラボレーションは、パブリックよりはある種のコモン(共)へのまなざしを強めているようにみえる。もしそうだとすれば、このコモンへのまなざしを上記のコラボレーションのループ(輪)から解き放ち、生存のために人間が共有する産業と自然環境からなるグローバル・コモンズへと誘導する必要があろう。

いまさら指摘するまでもないが、トランジション・シティがめざす「未来」は「いま」の単なる延長線上にはない。しかし「いま」と「未来」を通底するデジタルというキーノート(基調音)のうえにあることもまた否めない。そこに深い影を落としているのが、みてきたようなモビリティ・シフトである。それはきわめて錯綜している。だから、そうした状況のなかでトランジション・シティを明確な像をもって示すことは至難の業であるといわざるを得ない。それは「未来」への扉に手をかけながら、技術への絶対的な信仰にもとづく楽観主義に対して距離を置く、「シティ・オン・ザ・ムーブ」(移動中の都市)としてある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。