慶應義塾

大学紛争の時代

2019/12/23

画像:1968(昭和43)年、スト終結へ展開するきっかけとなった10月18日の全塾学生大会(三田・南校舎前)、11月2日、日吉でも塾生大会が開かれた。

1960年代後半、全国の大学に学園紛争の嵐が吹き荒れ、ストによる長期間の授業停止、入学試験の中止、大学内建物の占拠などの事態を引き起こした。慶應義塾も例外ではなく、1968(昭和43)年には、一部学生らによる塾監局占拠も行われている。

1965(昭和40)年1月からの「学費値上げ反対紛争」では、おとなしいとされていた慶應義塾の学生のストと立て看板等での他大学ではみられないゆとりやユーモアで、「まったく新しいタイプの学生運動」とマスコミに取り上げられ、続く混乱の時代の嚆矢となった。

写真は1965年の紛争および、68年の「米軍資金紛争」、69年の「大学立法紛争」である。その後1970年代に入って、1972年に「第二次学費改定紛争」が起こった。年度末に中止された学年末試験は次年度に延期実施され、卒業式は学部単位での実施となり、翌年度の入学式も中止された。6月になって、日吉の授業が開講、夏休みがずれ込む事態となった。

この時代の大学紛争が何であったか、あまたの本が出ており、詳らかにすることは容易ではないが、ここにその一端を紹介する。

関連の文章は、1965年に文学部の学生で自治会幹部として学費値上げ反対紛争にかかわった岩松研吉郎名誉教授(本年8月に逝去)の生前のインタビューをもとに編集したものと、1968年の米軍資金紛争、69年の大学立法紛争の際、体育会空手部主将の立場から、学内融和を模索した、奈藏稔久 三田体育会会長の寄稿を掲載した。

〈編集部〉

1965

1965(昭和40)年1月に沸き起こった学費値上げ反対紛争は、2月5日の三田での全塾学生大会で決着の方向となった。
正門からのスロープに作られたバリケード(三田)

1968

1968(昭和43)年6月3日の新聞報道から沸き起こった米軍資金紛争は、複数回の常任理事、塾長会見後、過激派の塾監局占拠に及んだが、塾生の手により占拠解除となった。

日吉キャンパスは7月5日、バリケード封鎖され、無期限ストライキに入った。一方、三田ではたびたび塾生による集会がもたれた。

3度の永沢塾長会見が開かれた(三田・塾監局第三会議室)。
7月1日の学生大会(三田518番教室)での会田常任理事。
永沢邦男塾長。占拠解除後の塾長室にて(10月4日)
塾監局3階
三田中庭での学生による集会
10月28日法学部が115日ぶりに日吉記念館で授業再開、11月4日に全学部で授業再開。
11月2日全塾学生大会でスト終結決議。 塾生によりバリケード撤去(日吉)

1969

1969(昭和44)年5月の日吉学生大会から始まった大学立法紛争は、6月末、日吉がまたバリケード封鎖され、8月には日吉全建物、三田南校舎、研究室等が占拠された。9月11日、日吉ラグビー場の全学集会に集まった1万人を超す学生に佐藤朔塾長が所信表明。その後10月13日、機動隊待機のもと、教職員により日吉のバリケードが撤去された。

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佐藤塾長と常任理事(日吉ラグビー場)
全学集会に向かう塾生たち
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バリケードが撤去された銀杏並木

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。