慶應義塾

小幡篤次郎──智徳の人・敢為の人

公開日:2026.02.20

登場者プロフィール

  • 西澤 直子(にしざわ なおこ)

    研究所・センター 福澤研究センター所長・教授

    西澤 直子(にしざわ なおこ)

    研究所・センター 福澤研究センター所長・教授

はじめに

本日はお忙しい中、本講演会にお越しいただき心より御礼申し上げます。この由緒ある場に立ち、みなさまに小幡篤次郎(おばたとくじろう)先生についてお伝えできることを、大変光栄に存じます。小幡先生は福澤諭吉先生の側にあって、その活動を支え続けた人物でありながら、今日まで伝記や著作集が編まれることがありませんでした。しかし2015年に亡くなられた福澤先生曾孫美和(みわ)様のご遺徳により、2020年より、慶應義塾と一般社団法人福澤諭吉協会による共同事業として『小幡篤次郎著作集』の編集が開始されました。完結前に刊行委員の川崎勝先生、そしてご支援をいただいた小幡先生曾孫鳥羽総吉様がご逝去されたことは、大変悲しく、また編集責任者としての力不足を恥じ入るばかりです。

漸く2025年7月、全6巻をもって完結いたしました。本日はそのご報告を兼ね、近代知識人として小幡が果たした役割について考えてみたいと思います。ここからは僭越ながら敬称を略して、お話しさせていただきます。

小幡篤次郎は、現在の大分県中津市にあった中津藩の藩士の子として生まれました。福澤家が十三石二人扶持という下士であったのに対し、小幡家はは二百石取りの上士でした。しかし篤次郎という名が示すように、生まれた時には父はすでに隠居して養子が家を継いでいましたので、実子としては長男でしたが、小幡家を継ぐことができない身分でした。幼少期から父や野本白巌(はくがん)らに儒学を学び、その後藩校進脩館(しんしゅうかん)に入学、元治元(1864)年には、同校で教鞭をとるまでになっていました。

一方福澤諭吉は、安政5(1858)年から、藩命によって江戸の中津藩中屋敷にあった蘭学塾で教え始めました。大阪の友人に宛てた手紙から察すると、最初は3、4年教師をして、そのうちまた他の命令が下ると思っていたようです。ところが咸臨丸に乗ってアメリカに赴き、その後幕府の翻訳の仕事も兼務するようになると、文久2(1862)年には約1年をかけて、植民地化された国々と文明が発達したヨーロッパの国々を見聞する機会を得ました。実際に自身の目で西洋文明を見て、福澤がたどり着いた結論は、日本の急務は洋学による人材の育成であるということでした。そしてそのために、自身が教えていた塾を充実させようと決意します。しかし1人の力では限界があります。そこで中津に帰省した際に、周囲の人びとに将来自身の仕事を助けてくれる有望な人材について尋ねました。その時、異口同音に勧められたのが小幡篤次郎でした。

福澤は当初江戸へ出る気がなかった小幡を、熱心に説得しました。そして元治元年6月、彼は弟や5人の仲間と共に福澤の塾に入ります。江戸に出た当初は、アルファベットもわからなかったといいます。小文字のbdpqの区別がつかないので、その形が妊婦に似ているからと、bは右の下孕みと呼ぶようなレベルでした。しかし、わずか2年程の間に英語を習得します。そして幕府の開成所という西洋の学問を学ぶ学校で、英学を教えるまでになります。徳川家の直接の家臣ではない陪臣を雇うことに、幕府内では反対もあったようですが、学術優秀であり翻訳もできることが決め手になったようです。

そしてその後は福澤の期待通り、慶應義塾をはじめ、交詢社や時事新報など、福澤の事業を生涯にわたって支えつづけました。そのため長く福澤の片腕、あるいは今は好ましい表現ではありませんが、「福澤先生の女房役」などと言われてきました。たとえば明治15(1882)年刊行の『自由官権両党人物論』第2編では、福澤は計画をたてることに優れている創業者で、対する小幡はそれを成功に導き維持する守成の臣であると書かれています。また23年3月5日付の『朝野新聞』には、慶應義塾があることを知る者また福澤諭吉の名前を知る者は、必ず小幡の存在を知っているとあります。

更に同時代人の小幡評価は、ただ福澤を助けただけでなく、小幡の学識の高さやその影響が福澤に業績をもたらしたともいいます。14年刊行の『新聞投書家列伝』には、福澤は出版に際して必ず小幡の校閲を得た、なぜならば小幡の学力は福澤より一等抜きん出ていて、また文章の力も漢籍の素養あるが故に、福澤は小幡に一歩及ばないと書かれています。前掲『自由官権両党人物論』第2編では、現在政界で世事、世の中の事を是非する者の多くは、小幡の薫陶によるものであり、自由だ民権だと主張している者は、まさに小幡の思想を伝える者であるとされています。

それほど学識があり、福澤も一目置き、政界に影響力をもった小幡が、なぜ著作集も編まれないままになってしまったのでしょうか。あまりに福澤に身近な存在であったがために、その業績が福澤の中に取り込まれてしまったのかもしれません。また彼の控え目な性格が、自身の業績を強く主張しなかったからともいわれます。しかし小幡の著作をみれば、決して福澤に追従しているわけではありません。福澤とは異なる視点や立場での活動もあります。本日は、小幡がどのような近代社会を構想し、それを実現しようとしたかについて、考察していきたいと思います。

智の共有と翻訳書の出版

小幡が福澤の塾に入ってからわずか4年後に、徳川幕府は倒れ、元号は明治へと変わります。小幡自身も「維新」あるいは「明治維新」と表現している、近世から近代への大きな転機が訪れました。小幡は「維新」を経験し、何を考えたのでしょうか。

福澤の塾は10年程名前はなく、ただ福澤塾とか蘭学塾とか呼ばれていました。しかし慶応4(1868)年4月付の「芝新銭座慶應義塾之記」の中で、ついに「慶應義塾」と命名されます。この「慶應義塾之記」は『慶應義塾百年史』に掲載されている松山棟庵の回想によると、小幡の文案に福澤が加筆してできたものであるといいます。

「慶應義塾之記」は、次のような言葉で始まります。「今爰(ここ)に会社を立て義塾を創(はじ)め、同志諸子相共に講究切磋(こうきゅうせっさ)し、以て洋学に従事するや事本(も)と私(わたくし)にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず苟(いやしく)も志あるものをして来学せしめんを欲するなり」。すなわち洋学に従事するということは、私ではなく公である。慶應義塾では身分を問わず、同じ志を持つ者が集まって、切磋琢磨しあいながら学ぶ、と宣言しています。これは、学問が特権であってはいけない、ひろく公に開かれ、智の共有が行われるべきであるという主張であると思います。私は、この人びとが智を共有すること、身分や立場に関係なく智を共有することは、小幡の生涯を貫く信念であり、目標であったと考えています。

小幡は智の共有のために、明治初期には多くの翻訳本を出版しました。明治元(1868)年の『天変地異』は、人びとが怪奇現象や神様の怒りであると思っているようなこと、たとえば雷や地震、彗星や虹などについて、実は理のあることで、原因があり当然の結果として起きていると説明します。この本は、その版の種類の多さから考えて、たくさんの人びとに読まれたと思います。大きくは初版と再版にわかれますが、それぞれに版木の彫りや挿絵に微細な違いのあるものが見つかっています。表紙も3種類以上が確認でき、活字本もあります。それだけ多く読まれた本であると思います。

日本はリテラシーの高い国であったといわれています。蔦屋のように、商売として貸本業が成り立ったということは、それだけ文字が読めたことにつながると思います。しかし、かといって誰もがむずかしい漢籍を読みこなしていたわけではありませんので、小幡はより多くの人びとに読んでもらえるように工夫をしています。

その1つは、意味をあらわす振り仮名を付けることです。これは小幡だけに見られる手法ではありませんが、彼は効果的に使っています。たとえば惑星という言葉には右側には「わくせい」と振り、左側には「まよひほし」と振っています。蛮野には「ばんや」「ひらけぬこと」、貯財には「ちょざい」「たくはへのかね」といった具合です。監督には「みかじめ」と振っています。このようにして、馴染みがないむずかしい言葉でも意味がとれるようにしています。

また挿絵も多用します。さきほど翻訳本と述べましたように小幡の著書は、教科書として執筆したものを除き、元となる原書があります。それは1冊のときも、この『天変地異』のように数冊を合せているときもあります。挿絵も原書に倣うことが多いようですが、たとえば『天変地異』では光の屈折を説明するところで、着物姿の女性が合わせ鏡で後ろ髪を確認している絵を使っています。これは読者がその原理を理解しやすいように、身近な例をつかって説明したと考えられます。

また明治3年に出版した『生産道案内』は、経済学の入門書です。小幡は、人びとが生活の中で意識せず何気なく行っていることにも、理論があることを示します。その中で私が最も重要だと思うのは、経済書です。突然押し寄せてきた資本主義経済の波は、生活に様々な影響をもたらしました。人びとにとって経済学は、食べるための、生きていくための学問ともいえたのではないかと思います。小幡はこの本で、貨幣の役割や外国貿易、国内流通といった基礎的な仕組みから、価格は何によって決まるのか、なぜ租税があるのかなどを説明します。たとえば、5000ポンドを所有している人物が1人いるのと、50ポンドを所有している人物が100人いるのでは、何が違うかが語られますが、その翻訳は資本の存在に関するとてもわかりやすい解説になっていると思います。小幡はこの後、戊辰戦争の上野での戦いの間も福澤が講義していたとされる、フランシス・ウェーランドの経済書を『英氏経済論』というタイトルで7年かけて全訳しました。

彼の経済書は、『天変地異』同様、多くの人に読まれたのではないかと思います。植木枝盛という著名な自由民権運動家がいますが、彼の読書日記を見ると『生産道案内』全2巻も『英氏経済論』全9巻も読んでいるようです。

『学問のすゝめ』初編の誕生

智の共有を広げるという点では、当時のベストセラーといえる『学問のすゝめ』初編の存在があります。『学問のすゝめ』は福澤諭吉の著作として知られています。福澤生前に出版された全集に掲載されていますので、福澤自身も晩年は自分の著作という意識しかなかったと思います。しかし明治5(1872)年に出版された初編は、小幡篤次郎同著となっています。なぜ同著なのでしょうか。

初編の端書には、福澤と小幡の連名で、この書は中津に学校ができるにあたって学問の趣旨を中津の人びとに伝えようと思い綴ったが、ある人が読んで、広く世間に布告すればその益するところも広がると勧めるので、慶應義塾の活字版を以て刷り、同志の一覧に供すると書かれています。この端書は明治4年12月付ですが、その前の月に中津市学校という洋学校ができ、その初代校長として小幡篤次郎が赴任しました。そのためこれまでは、端書にある中津の学校とは中津市学校のことで、中津の人びとに対して、身分の低い下士であった福澤の名前だけでなく、上士であった小幡の名前を加えることによって、幅広い層に関心を持ってもらえる。小幡の名前はより多くの読者を獲得するための、いわば名義貸しであると言われてきました。本当に小幡は名義を貸しだけなのかと疑問を抱きながら、これから『学問のすゝめ』初編の成立について、考えてみたいと思います。

明治4年7月14日に廃藩置県の詔がでます。版籍奉還後、質は変化したが存在はしていた中津藩が、ここで消滅し中津県が誕生します。その直後20日付で友人の山口良蔵に宛てた手紙で、小幡はこの度の「非常之ご改革」について、600年来の封建体制を解き一気に郡県制となした、1800年代の美談であると述べます。もしこれで体制が安定すれば、外国からはアジアのイングランドという評価も受けると聞く、これは単に徳川体制の崩壊ではなく、武士が政権を握って以来、すなわち600年来の大改革で、それを一気に成し遂げたと評価しています。そして彼はこの機に乗じて、文学すなわち学問のことですが、学問の根を深く植え込みたいといっています。人びとの間に学問が実を結べば、人心は少々の変遷があっても大破することはなく、次第に佳境に入る。つまり彼は廃藩置県という大変革に際して、人びとが学問をし、智を共有していくことによって、安定した新しい社会が形成されていくと考えました。

そこで『学問のすゝめ』との関係です。中津市に保存されている資料の中に、廃藩置県後中津県が大蔵省に提出した書類の控えがあります。中津県の用箋であり、中津藩の公印(これはまだ中津県の公印ができていなかったので、中津藩の公印を代用したのだと思います)が押されており、提出先の大蔵省の割印もありますので、正式な文書です。その中に明治4年10月2日付、廃藩置県から凡そ3カ月後に提出された、布告文上木伺がありました。上木伺というのは出版願です。その内容は、洋学校を設立する許可をいただいた際に伝えていた「県内士民え布告文」を、「所望之者」があれば「新聞紙」同様にあまねく広く世間に流布させたいと、そのための出版許可を願い出たものです。中津に学校をつくる計画があって許可を得たが、そのときに「県内士民え布告文」というものを示した。それを希望者に広く配布したいというわけです。

この「県内士民え布告文」とは何か。福澤研究センターが中津の郷土史家から寄贈を受けた資料と中津市がもっている資料の中に、「県内士民え文学告諭文」と題した綴りがありました。どちらもほぼ同じ文です。それを読むと、なんと「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」で始まっています。『学問のすゝめ』の初編と同じです。さらに冒頭だけでなく、ほぼ8割程度はまったく同じ文言です。最後の方になると、ところどころ異なる部分も出てきますが、完全に異なるのは、『学問のすゝめ』でいうと末尾の240字分になります。「県内士民え文学告諭文」は、まさに『学問のすゝめ』初編なのです。そして、この出版願から1週間ほど後に、中津県から洋学開業願が提出され、そこには慶應義塾の協力を受けて洋学校を設立することが記されています。

つまり新しい学校の設立が決まり、中津の人に向けて福澤が文章を書き、それを読んだ人に勧められて慶應義塾で出版したという、『学問のすゝめ』初編の端書と矛盾するわけではありませんが、何となく違和感があります。違和感の一番の理由は、慶應義塾の援助を受けて洋学校を開業するという洋学開業願が後に出されている。それよりも前に、出版願が出されているという点です。つまり告諭文に関しては、最初から出版の意図があったのではないかと感じてしまうのです。

ここで考えなければいけないのは、まず誰が中津に洋学校を建てようと考えたのかということと、「県内士民え文学告諭文」と『学問のすゝめ』初編で異なっている部分は何かという2点になります。

まず学校について、これは福澤の手紙を見る限り中津の人びとの発案です。明治2年4月に福澤が従弟に宛てた手紙の中で、中津で洋学が盛んになったと聞いた。洋学校ができるなら何といっても父母の故郷であるので、自分も出かけて行き協力すると述べています。ただそれから2カ月程後の中津人同士の手紙には、福澤を招聘しようとしたら、非常に高額の給料を要求された。その金額なら40名を東京に留学させられるので、留学が妥当と判断したという伝聞が書かれてもいます。福澤には中津の学校に積極的に関わる意思がどの程度あったのか、気になるところです。

また、「県内士民え文学告諭文」と『学問のすゝめ』の異なる部分ですが、前者は表題が示すように、後半になると県が人びとに布告するという立場が明確に出ています。また学問を勧めるために、村役人は配下の農民の学問の世話をするようにといった、行政機構の利用も説かれます。そして中津県の官員、つまり役人である自分たちが、朝廷のご趣意を奉じて諸々の民に伝えることとして、知見徳義を備え、職分を知り、一身の独立を大日本国独立のための助けとすべきと説かれています。官員であることを主張し、朝廷や「御一新」への敬意がちりばめられているこの文章を、果たして福澤諭吉が書いたのか。

結局、廃藩置県の4カ月後に府県の合併が行われて、中津県は小倉県に併合されてしまうので、中津県としては「県内士民え文学告諭文」を出版することも、洋学校を建てることもできなくなってしまいます。学校の設立準備は進んでいたので、11月末に旧藩主と旧中津藩士たちの互助組織からの醵金によって中津市学校が設立され、前述のように初代校長として小幡篤次郎が赴任します。

この中津市学校の開校時に、旧藩主の名前で「中津市学校之記」という文章が記されて人びとに示され、その中に学問に関する文書を読むように勧める一節があります。「中津市学校之記」には福澤諭吉の字で加筆訂正された原稿が残っており、福澤は自ら、その学問に関する文書を「県庁よりさとしの文」という表現から「教師の著せし学問すゝめ」へと訂正しています。ようやく小幡篤次郎が登場してきましたが、もう少し、前提条件に耳を傾けていただければと思います。

転換期の中津藩、中津県の文書を読んでいると、日々の行政をどう処理していくか、これまで作ってきた文書の書式をどのように変え、提出先をどこにすればよいのか、悩みながらも業務をこなしていく役人達の姿が窺えます。体制が変わっても、休むことなく人びとの日常生活は続くわけですから、「ちょっとよくわからないので、窓口は閉めます、いつ開けるかわかりません」とはいかないわけです。この転換期を乗り切った行政担当者の手腕は、もっと評価されてしかるべきではないかと思います。幕末期の藩政を担い、版籍奉還から中津県の消滅までを担った旧藩士達の優秀さに、もっと着目しなければいけないと考えます。

ここで桑名豊山(くわなほうざん)という人物を紹介したいと思います。天保8(1837)年の生まれですので、年齢は福澤と小幡のちょうど真ん中くらいです。彼は京都留守居家老を務め、大政奉還時に二条城に召集された四十藩の重臣の一人です。福澤は中津のことを小藩、小藩といいますが、譜代の十万石ですから、決して小藩ではないと思います。桑名が幕府の対外政策の諮問に対して、藩主に代わり答申した文書も残っています。版籍奉還後は、中津藩において大参事を務めました。藩政の混乱が必至であったときに、実務のトップとして切り盛りした人物といえます。私は中津藩、中津県での彼の立場を考えると、「県内士民え文学告諭文」や洋学校の設立に、彼が関わっていないということはありえないと思います。

桑名は合併後、最初は小倉県に出仕しますが、辞職して東京の慶應義塾で英学を学びます。やはり中津藩士で福澤の門下生であった雨山達也(あめやまたつや)の回想によると、小幡がドレーバーの『科学及宗教の衝突』を講義した際には、桑名がその講義を筆記したそうです。そして明治10年小幡が、J.S.ミルのThree Essays on Religion を翻訳し『宗教三論』と題して出版した際には、第1編、2編共に校閲者として桑名豊山の名前が併記されています。つまり桑名と小幡には親しい交流があり、初代校長となった小幡も、当然、洋学校設立準備には関わっていたであろうと思います。

自筆原稿が出てこない限り結論はでないのですが、私は少なくとも「県内士民え文学告諭文」には福澤以外の手が入っていると考えています。そして『学問のすゝめ』初編へと改訂する際に残った部分があるからこそ、最初は「教師の著せし学問すゝめ」といい、同著としたのではないかと疑っています。しかし2編、3編と続き、年も経て行けば割合は薄まっていきますので、『学問のすゝめ』は福澤の著作として認知されていったのではないかと思います。

君民同治と日本人の創出

いずれにしろ、明治を迎えて小幡がまず取り組んだことは、学問を特権にしないこと、すなわち人びとと智を共有することでした。学問を根深く植え込みたい、そうすれば社会は安定すると考えていたわけです。

明治7(1874)年2月に創刊された『民間雑誌』に、小幡は「農に告るの文」を掲載します。その中で彼は、人びとが政治に関心を持ち、自分の村のことのように国のことを考えることが必要であるといいます。政府の所業の良否を知るのは「一国人民」の職掌で、日本人として生まれた限りはいかなる立場であっても、運上や地券、学校、説教、つまり税制や学制などを弁じ、日本の政府の良否を考えるべきである。読書を心掛け、新聞紙を読むことによって事態を知る。いずれ人びとの中から、議事院に立って日本の政治を行う人が出てくると述べています。

小幡は人びとが学問をすることによって、君主と人民の代表が共同で政治にあたる体制、すなわち君民同治が実現できると考えました。人民の意向を反映した政治が行われれば、そのことによって社会に安定がもたらされると主張します。小幡が目指していたのは、人びとの意思が政治に反映される社会でした。

明治14年7月に出版された『英国憲法論』に小幡が書いた序文には、開国以来日本の学問や技芸は一朝にして変化し、政治体制も変化していくが、とどまるべき姿は君民同治であると記されています。22年、国会開設前年の正月には、600年来の封建世禄の陋態から、西洋文明の映射を受け、武断政治を倒し、「大政維新」と5か条の誓文によって君民同治の端緒が開かれたといいます。そして憲法発布と国会開設は、「我国未曾有の大盛事」であり、「我三千五百万の兄弟」は共にこれを慶賀すべきであると述べています。彼は「維新」以来一貫して、人びとが政治に関心を持ち、君主と人民が分掌する政治体制を目指していました。

小幡は、明治8年6月に刊行された『民間雑誌』に、アレクシ・ド・トクヴィルの Democracy in America を援用して、「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」を執筆します。封建制から一気に郡県制へと変化を遂げた、その変化を強固なものにするためには、封建社会の基幹をなしていた「家」制度の転換が必要である。そのためには長男にのみ相続の特権を許すのではなく、男女を問わず子どもたちには均等に相続させるべきである。均等相続が実現すれば、家庭内に特権階級がなくなる。その結果、男女同権が行われ、民権が復し、道徳が興り、敢為(かんい)の風潮になると主張します。小幡が、民権が復するという、この「復する」という表現に小幡の意識が表れていると思います。すなわち民権はもともと人びとに存在するもので、600年間の封建体制下でそれが失われてしまっていた。新しい体制の下では、人びとが再びその手に取り戻すべきであると考えるわけです。

そこで次に、地方自治について考えたいと思います。

地方自治への関心

福澤は、明治9(1876)年に「分権論」を執筆しますが、その中で「小幡君が抄訳せる仏人「トークウヰル」氏の論に云(いわ)く」として、小幡が同年12月発行の雑誌『家庭叢談』に掲載した、政権と治権に関する論説を参照しています。福澤が分権論を執筆したのは9年11月ごろなので、時期を考えると、福澤は小幡の掲載前の原稿を見たか、あるいは翻訳にとりくんでいる小幡の意見を聞きながら、自身の意見をまとめたのではないかと思われます。小幡のトクヴィルからの訳出とその福澤への影響については、柳愛林(リュエリン)さんのご研究(『トクヴィルと明治思想史〈デモクラシー〉の発見と忘却』)に詳しいので、そちらをご参照ください。私が強調したいのは、小幡の業績が少なからず福澤に影響を与えているということです。そしてなぜ地方自治について、小幡の方が福澤よりも先に、しかもより具体的に考え、トクヴィルの翻訳に取り組んだのか。

さきほど桑名豊山に触れましたが、もう1人鈴木閑雲(かんうん)という人物についても紹介したいと思います。彼もまた大身衆という中津藩で家老となる家柄の出身です。天保3(1832)年の生まれですから福澤より2つ年上で、版籍奉還後はすぐに中津藩の参政を務めています。桑名同様、近世から近代への過渡期に、政府が朝令暮改する混沌とした情勢の中で、行政を担った人物になります。

小幡は明治4年11月に中津市学校の校長となって中津に赴任し、中津に滞在する1年半強の間、鈴木とある案件について相談をし、東京にもどってからも頻繁にやりとりをしています。小幡と鈴木が相談をしていた案件とは何か。それは士族たち、旧武士層への授産です。明治になり俸禄は続いているものの、いずれなくなる。士族の経済的な自立は大きな課題でした。鈴木と小幡は士族たちへの授産について、養蚕製糸業を中心に、教師の問題から資本や苗木等原材料の調達などあらゆる課題について相談しています。つまり小幡は福澤よりは格段に、士族の身の振り方について現実問題として考えざるを得ない、そういう立場にあった。それ故に、地方自治論についても高い関心を抱いたと考えられます。

また、桑名豊山も鈴木閑雲も、大変興味深いのは、明治11年に政府により三新法が定められ、地方自治の新しい体制が定まっていく中で、地方自治の現場に戻っていくことです。桑名は11年の日田郡長を皮切りに、大分郡長、東国東郡長を歴任します。鈴木は11年から長い間、中津を含む下毛郡長を務めます。つまり再び、転換期を乗り切った官吏たちの手腕に頼らざるを得なくなった現実があるのではないかと思います。廃藩置県によって大きな変化を迎えて一度は断絶に成功したとしても、結局は、近世末に行政の現場にあり、混乱の時期を乗り切った手腕に、頼らざるを得ない現実があった。小幡は中津の課題を間近で見ていたことにより、日本が抱える地方自治の課題にいち早く関心を抱き、解決法を探ろうとしたのではないでしょうか。

条約改正問題

次に、外国との関係についての小幡の考えを、考察したいと思います。

明治8(1875)年2月に、小幡は『民間雑誌』に「内地旅行の駁議」と題する論説を書き、人びとの心がまだともすれば崩壊しそうな時期にあって、外国とどのように付き合えばよいか、日本にとって必要なものは何かを述べています。

小幡はパワーイズライト、威力が権力となる世界で、暴力的にならず、おもねることもなく、国の独立を維持するためには、兵力ではなく、「勢力を養ふ」ことが必要であると説きます。では、勢いと力は何によって育まれるのか。彼は、それは「綱(つな)」だといいます。小幡は、昔物語を共にするの綱、一政府を仰ぐの綱、言語を同(おなじ)ふするの綱、風俗習慣を同ふするの綱、墳墓の地を同ふするの綱、祖先功労を共にするの綱、学校を共にし遊戯を同ふするの綱があるといいます。そしておよそcommon cause (国自慢の種)となるものが千種万類重積すれば、それが人心を維持し国体を固める道具になるといっています。人びとの紐帯であり、個人が日本の国と結びつくidentity です。そうした「綱」によって、日本人という意識を持つこと、それが勢力を養うことに繋がり、暴力的にならず、また他におもねることもない、国の独立の維持に繋がると主張します。

福澤は『文明論之概略』の中で、この論説を「真に余が心を得たるもの」と述べています。この論説が『文明論之概略』に与えた影響については、平石直昭先生のご研究(『福澤諭吉と丸山眞男 近現代日本の思想的原点』)をご参照いただければと思います。

小幡が明治15年3月刊行の『交詢雑誌』に掲載した「条約改正論」では、国の治乱盛衰に最も関係するのは外患、外交問題であると述べています。そして小幡が指摘するのは「幾微の不利」、条約の中にうまく隠れてしまっている不利益です。小幡は、外交関係で何が問題であるのか、あるいは現在国が置かれている事態が的確にわかっていれば、解決方法を探ることができるといいます。しかし「知るなきの禍は、発せざるの前に之を拯(すく)ふに由なく、発するの後に之を拯ふの術なし」、つまり何が問題であるのかがわかっていなければ、防ぎようがなく、また禍が起こってから救う手立てがない。日本が直面している条約改正に必要なことは、日本の置かれている立場を正しく理解しようとする「我が民衆」の意識で、そうすれば政府は「国民の心を得て」条約改正交渉を行うことができるといいます。

『福澤諭吉著作集』第8巻の解説で岩谷十郎さんが実際の訴訟結果を引きながら、治外法権は一般的な日本人にとっては身近な問題ではなく、だからこそ福澤諭吉は明治17年の「条約改正論」や「通俗外交論」で「日本国中、津々浦々の小民に至るまでも」治外法権を自分の身に引き受けて心配することを説いたと解説されていますが、小幡は明治15年執筆の「条約改正論」の中ですでに、日本人が「幾微の不利」の意味、それが何をもたらすのかを理解することが必須であると述べています。

智の共有を目指した小幡がその先に重視していたのは、日本人としてのidentity を持つこと、いわば"日本人の創出"でした。日本という単位、ひとつのまとまりを理解することによって、国内政治や外交関係を自分の事、自分の問題として認識することができる。それが新しい近代社会を成立させ持続させる、そして日本の独立を守ることに繋がる。小幡はそのように考えていました。

徳の共有

これまで智徳の智について考えてきました。ここで徳について考えてみたいと思います。先に述べた「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」の中で、封建体制の象徴といえる「家」制度をなくすことで、小幡は徳が「興る」といっています。彼は近代においては、その時代にふさわしい新しい徳が必要であると考えていました。『福澤全集緒言』には、明治元(1868)年の頃、小幡が散歩の途中に古本屋でウェーランドのThe Elements of Moral Science を見つけて持ち帰り、みなで夢中になって訳したエピソードが書かれています。小幡が近世から近代への転換期に、新しい徳について関心を持っていたことがわかります。中津市には小幡の遺言で寄贈された彼の蔵書があり、その中には道徳学や倫理学に関するものが散見されます。

またJ.S.ミルのThree Essays on Religion も、1874年にロンドンで出版されるとすぐに関心を抱いたようです。中津市に小幡の蔵書として残っているものは、その年に出た第2版で、翌年の7月3日には早くも三田演説会でこの本を取り上げ、演説内容は8月2日の『郵便報知新聞』に掲載されています。演説会に参加した自由民権運動家の植木枝盛は、日記に「自然に任すべからざる論」と書いています。小幡はこの書をのちに翻訳し『宗教三論』の題で出版したことを先に述べましたが、その第2編の序で、ミルが「人道」を宗教外にたてようとしたことに触れ、数百年来宗教の外で思想を展開してきた日本の知識層は、人道が宗教から独立して存在することができることを確信できる、すなわち、宗教に基づかないモラル、徳が存在することを述べています。

そして小幡は、日本の近代社会、新しい社会において、最もふさわしい徳とは何かを模索し、確立することを目指しました。貴族院議員時代のエピソードを2つ、ご紹介します。

1つは、明治29年2月に第9議会で議論された国費による小学校の修身教科書の編纂に関してです。小幡は、修身論は古今の学者が論じ尽しても、標準というものが決められないむずかしいものである。意見を取り集めて取捨選択、あるいは折衷して作り上げられる性質のものではないと主張し、国費により編集委員会を作って1冊にまとめるという手法に反対します。

また明治32年2月の第14議会では、未成年者喫煙禁止法案が出され、小幡はそれに反対します。一瞬おやっと思われるかもしれません。小幡は未成年の喫煙禁止には、もちろん同意します。しかし、それは親が監督すること、親が教育上行うべきことであり、それを政府の力、巡査の力で制するというのは恥ずべきことだと主張するのです。どちらも小幡の反対案は却下で、法案は成立しました。

これらの主張に、彼の徳に関する考えが表れていると思います。徳とは人と人との交わり、家庭や社会において涵養されるものでなければならない。社会にふさわしい徳を、人びとが主体的に作り上げていくことを重視していたことがわかります。

近代社会を支える情報ネットワーク

小幡が生きていた時代と、今私たちが生きている時代を考えたとき、情報革命という点では、同じような状況にあると感じています。1853年のペリー来航以来、情報の質も量も大きく変わったといわれています。身分や地域という垣根がなくなり、人びとはいわば情報の洪水に飲み込まれていきました。まさに1990年代からの急速なITの進歩に翻弄されている現代も、同じような気がしています。

封建体制の下では、情報の出所は限られていて、その出所により内容の信憑性がある程度保証されていました。しかし封建体制の崩壊と共に、その保証がなくなってしまった。情報の洪水にさらされながら、何が正しくて何が誤りであるのかの判断基準がわからないわけです。

小幡がその担保を新たな組織で担おうとしたのが、明治13(1880)年に発足した交詢社でした。交詢社はイギリスの紳士倶楽部を手本にした「知識交換世務諮詢」を行う社交クラブと説明され、その発端は、福澤の手紙を信じるとするならば、小幡の発案によるものです。ただ12年に福澤が出した手紙のうち、交詢社に言及しているものは21通、そのうち入会を勧誘しているものも11通に及びますので、交詢社設立は福澤の意向で始まったが、福澤が表に出ることで政治的な組織と思われることを嫌い、あえて小幡を前面に自身は黒子に回った、と説明されることが多いと思います。このあたりは何とも考証がむずかしいところですが、少なくとも発足後、正確な情報を発信し、都会と地方の情報格差をなくすための組織となることに尽力したのは、小幡篤次郎でした。

交詢社は明治13年1月25日に発足すると、翌月の5日には『交詢雑誌』を創刊します。この雑誌では各地の交詢社員が、病気や土地の売買、相続など実に多様な質問を幹事に送り、質問が雑誌に掲載されると、他の社員が回答する、あるいは本局でふさわしい専門家の回答を準備して掲載することが行われました。小幡は発足以来幹事を務め、大会では来簡について報告しています。残存している彼の手紙からは、回答者探しに奔走する姿が垣間見られます。智の共有はまた、情報の共有でもありました。

「家といふ空なもの」から「健全にして且楽しき新家族」へ

先に、小幡が「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」という論説を著し、封建体制の根幹をなす「家」制度の転換が必要であると主張したことを述べました。小幡は、明治31(1898)年6月4日から7日にかけて、その修正を協議する貴族院の特別委員会に出席し意見を述べています。

明治民法親族論についての政府側の説明には穂積陳重(ほづみのぶしげ)や梅謙次郎らが当たり、日本には他国に例をみない、素晴らしい純然たる家族制度があることを主張します。法律には社会の習慣を変える力はなく、我が国の実際の社会の有様に基づくことが必要で、故に伝統的な家族制度を重視して民法を編纂したというものでした。

小幡はそれに対し、民法で制定しようとしているのは、日本の伝統的な家族制度ではないと反論します。政府が日本の純然たる家族制度といっているのは、徳川幕府がその封建体制を支えるために、形骸化した家族である「家」を維持するために作り出し、守ってきた制度に過ぎないと主張します。そして政府が考える家族の本源、家族を家族と規定する源は何なのかと尋ねます。

小幡は実体を伴わない、ただ家という空なものを作ってはならないと考えます。たとえば彼は政府委員に、もし婚外子が生まれて母の「家」がその子を戸籍に入れることを拒絶した場合、その子の戸籍は独立して作るのかと尋ねます。すなわちゼロ歳の赤ん坊のみが記載されている、家族としての実体のない戸籍を作り、それを一家とするのかと質問するのです。政府の答えはイエスです。小幡は、家族がそのような姿であってはいけないと考えます。それは封建体制を維持するために、武家が作り上げた慣習に過ぎない「家」制度に基づくもので、決して日本の伝統的な家族とはいえない。

彼は、家族は智や徳を共有できるような、実体を伴う集団であり空間であるべきだと考えていました。小幡は明治21年に『小学地誌階梯』という教科書を執筆します。これは生徒たちが5泊6日の研修旅行をするという設定で、毎日見聞するものをその場で解説するというユニークな体裁をとっていますが、その記述には見聞で得た新知識、鉄道であるとか、電信、電灯、瓦斯灯(がすとう)といったもの、そうした新知識を父母への土産とするというコンセプトが含まれています。つまり家族における智の共有は、親から子へだけでなく、子から親への拡がりもあるわけです。

また先ほど徳の共有のところで述べた、徳はいかなる場面で育つか、あるいは育てるべきかに関する小幡の考えも、家族のあり方に関わっていると思います。

小幡は特別委員会で、家族の本源について、家族に何を求めるのかについて議論をしようとしますが、民法における家族が日本の"伝統的姿"という隠れ蓑をまとってしまったがために、本質の議論にはたどり着かず、結果、小幡は何度も同じような質問をすることになりました。現在夫婦別姓や同性婚の議論がなされていますが、私にはすぐに不便か否かの議論にすり替えられるようにみえます。議論の本位は、なぜ夫婦の姓が同じならば家族で違えばそうではないのか、性別が違えば家族だが、同性ならば家族でないのか、その点に皆が納得のいく説明がなされることではないかと感じるので、まさに小幡の心情が理解できる気持ちです。

結局小幡に突き付けられるのは、まだ議論の続きをするか、それとも条約改正という重大事案を前に民法を成立させるかという選択でした。彼は条文には理解しがたいものがあるとはしながらも、故にむしろ専門家である政府の委員を信じて、それよりもこの機に諸外国が認める法律を制定し、条約改正の時機を失わないことが大事である、臍(ほぞ)を嚙むような後悔をしないことであると述べ、いわば政治的判断で法案賛成にまわります。

実はこの時小幡がこだわっていたことが、もう1つあります。それは女性の再婚禁止期間と離婚後に妊娠がわかった際の父親の認定に関係するものです。彼は婚姻関係が破綻した時期と、離婚が成立する時期には必ずタイムラグがあるので、それを考慮せず法文化するのはおかしいと主張しました。この規定が撤廃されたのは、なんと2024年の4月です。小幡が自身の家族論を通すことは、むずかしかったのだろうと思います。

敢為の人

小幡の歿後、明治38(1905)年5月14日から6月26日にかけて、『時事新報』に彼の逸話が掲載されます。その中で、共に中津から江戸に出てきて福澤の塾で学び、塾長も務めた浜野定四郎は、小幡の事を「温厚篤実」「温良恭謙譲」という言葉をもって評すべきだが、中には猛烈の心火が燃えていて、しかし奇を好まぬために、その炎を押えて万事穏和を主としているようであったと述べています。

小幡の内にあって「猛烈の心火燃ゆる」ことは何であったのか。それは日本において近代社会をいかに形成するかという課題であったと思います。小幡は、近代社会において重要なことは、人びとがごく周囲の人との関わりだけでなく、国の政治について主体的に考えること、他人事ではなく、自分の事として捉えることであると考えていました。600年来の封建体制から転換し得た新しい社会は、人びとが智と徳を共有し、権利と、敢為の風潮を維持できる社会でなければならないと考えていました。

そのための礎石として、日本に対する意識、日本人としてのidentityの創出を考え、それを育て維持するものとして、情報ネットワークや新しい家族のあり方を考えたといえると思います。小幡自身が敢為の人であろうとするのと同時に、日本に新しい社会を作り上げるためには、人びとにも敢為の人であってほしいと願っていたと思います。

おわりに

小幡篤次郎を紹介する時に、どのように形容するのがよいのか、いつも悩んでいます。今回ご案内にも、近代日本の一知識人と書きましたが、そもそも知識人とは何か。

近世から近代への過渡期、小幡の時代における知識人とは、その「智」をもって社会と関わることができた人であったと思います。現代においては発信ツールがたくさんありますが、当時は社会に対して発信できる立場は限られていました。その中で「智」をもって社会へ発信し、社会と関わることができる、まさに小幡はそうした人物であったと考えます。その影響力も、たとえば先に述べた、人びとが政府の所業の良否を知るべきと述べた「農に告るの文」は、権中判事北畠治房の激しい弾劾を受けます。北畠は福澤と小幡ほど、世間を惑わし、民を誣(ふ)する兇奸はいないと批判します。

小幡は人びとに智を提供し、徳を示し、それらを人びとが共有することをめざし、また日本人としての意識のもとに、独立を守ることを提言します。ここで私達が小幡の考えを誤って解釈してはいけないのは、これまで見てきた彼の言動からもわかるように、彼が主張しているのは、国内政治にしても外交にしても、人びとが自分事として考える重要性、そのための日本人としての意識です。日本人第一主義とは違います。彼は「農に告るの文」の中で「程々に智恵を磨き」といいます。これも誤解を生じそうですが、程々というのは身の程を知れといっているのではなく、適切なということです。自分の事として考えられるだけの、情報を身につけるということなのです。新しい社会を形成するための必須条件を発信し続けた、それが小幡篤次郎の、近代日本における知識人としての姿であったと思います。

先日、中津市でワークショップを開いた際に、「もし小幡先生に会えるとしたら、何を尋ねたいですか」と聞かれました。私は迷わずに「明治30年頃の小幡先生に会って、これから日本はどうなっていくと思いますか」と尋ねてみたいと答えました。その頃から、私は小幡の考えが少しずつ変わっていったのではないかと考えています。先程、修身教科書の作成や未成年者喫煙禁止法について、小幡の意見が通らなかったことを紹介しました。それらだけでなく、貴族院議員としての小幡の提言は、ほとんど採用されません。中でも最も大きな挫折は、明治30年の金本位制度の導入です。彼は銀本位から移行する必要はなく、金本位制導入は時期尚早であると主張し続け、遂に貴族院で最後の1人となります。本会議で最終の反対弁論の機会を与えられた彼は、大勢はもう決定していると述べながら、審議の開始が銀本位制から変える必要があるか否かであったことを悔しがります。15人中8人が変えるべきと主張したため、銀本位制からの転換が出発点となってしまった。しかし8名のうちの2名は、金銀複本位制を主張していたので、金本位か銀本位かで言えば6対7で後者が多く、当初の設問が金本位制にするか否かであれば、6対9で銀本位か複本位かの議論になったはずです。彼は議員活動の中で、このような現実に多く直面していきます。

小幡は明治38年に胃癌で亡くなる前年から体調が悪く、別府などで療養し、そこから家族に手紙を書いています。手紙の中で彼が常に気にしているのは、日露戦争の戦況です。軍艦が撃沈されたとなると悔しがり、勝利の報には手放しで喜びます。小幡の考えは兵力よりは勢力ではなかったのか。そのための日本人の智徳ではなかったのか。日本の進むべき道は変わってしまったのか。

しかし、小幡先生に会うことは叶いませんので、私自身が学ぶことによって、その謎を解いていかなければなりません。20年前に服部禮次郎さんが、多くの人びとが小幡研究に参加することを可能にするために、著作集が編纂されなければならないとおっしゃいました。まだ不足はありますが、この度著作集全6巻が刊行に至りました。若い研究者の方々も小幡研究に取り組んでいただけるようになれば、たいへん嬉しく存じます。

ご清聴いただき、誠にありがとうございました。

(本稿は、2025年1月10日に行われた第190回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。