登場者プロフィール

ウルズラ・フォン・デア・ライエン
欧州委員会委員長
ウルズラ・フォン・デア・ライエン
欧州委員会委員長
ジャン=エリック・パケ駐日欧州連合(EU)大使から伊藤公平塾長にウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長来塾の可能性が伝えられたのは2025年5月半ばであった。フォン・デア・ライエン委員長はドイツで国防大臣などを務めた後、2019年に欧州委員会委員長として選出された。もともとは医師としてキャリアを歩み始めるが、公衆衛生学を学び直し、そして、政治家に転身した。委員長就任後は、新型コロナウイルスのパンデミック、経済安全保障を揺るがす危機の台頭、ロシアのウクライナ本格侵攻、パレスチナ・イスラエル紛争、米国との関税交渉といった数々の難題に取り組む世界でも有数の指導者である。
医学・公衆衛生学の専門知識と経験を基盤にしながらも目の前に現出するさまざまな政策課題に果敢に取り組むフォン・デア・ライエン委員長の姿は、総合的な視点で政策を研究し、提言する大学院政策・メディア研究科の目指すところに合致するとの認識から、委員長来訪に際して同研究科から名誉博士号を授与することになった。
短い訪日日程の中でフォン・デア・ライエン委員長は2025年7月23日に三田キャンパスを訪れ、学生、教職員、EU各国の大使などが集まる三田演説館において演説を行った。委員長は慶應義塾と福澤諭吉について深い理解を示し、現代に生きる学生へのメッセージを発した。以下はその全訳である。
(慶應義塾常任理事 土屋大洋)
伊藤公平塾長、松浦良充常任理事、高汐一紀政策・メディア研究科委員長、常任理事の皆様、教職員の皆様、学生の皆様、各国大使の皆様、ご列席の皆様、このたび慶應義塾大学より名誉博士号を賜り、心より光栄に存じます。
これまでこの栄誉を受けられた方々──ジャック・ドロール欧州委員会委員長、コンラート・アデナウアー独首相、アンドレイ・サハロフ博士、ジャワハルラール・ネルー印首相といった偉人たち──のお名前を拝見すると、今回の授与がいかに特別なものであるかをあらためて実感します。また、これは日本で最初の近代的教育機関である慶應義塾大学の地位と発信力を如実に物語っているとも言えるでしょう。この大学は歴史ある大学であると同時に、まさにグローバルな大学でもあります。
貴学の創立者・福澤諭吉は、日本初の欧州そしてアメリカへの外交使節団の一員として活躍しました。彼は、言語と知識の両方を広めるため、東洋と西洋をつなぐ架け橋としてこの大学を創立しました。そしてこの精神こそが、今日に至るまで貴学の偉大な使命と伝統として受け継がれています。
福澤諭吉の話を最初に持ち出したのは、彼がこの偉大な大学の創立者だから、あるいは近代日本を形作った思想家であり立役者だから、というだけではありません。むしろ、彼の人生と著作が、これから卒業していく学生たちが生きる世界について多くの示唆を与えてくれるからです。
彼の全著作には、文明や教育、政治体制といった主題を貫く中心的な思想があります。それは「独立の追求」であり、個人としての独立、国家としての独立の両方を意味します。この自由と独立こそが、近代社会の礎であり、強靭でたくましい国家や大陸を築くための前提だと彼は考えていました。ご存知のように、これは彼の代表作『文明論之概略』における中心的な概念の1つです。同著が出版されてから、まもなく150年の記念日を迎えます。
記念日というものは、過去と現在を照らし合わせる絶好の機会です。19世紀末は、地域紛争の火種が生まれ、新たな帝国主義の時代が始まった時期でもありました。戦争や勢力圏の争いが、数十年後に世界を破滅の瀬戸際に追いやることになります。しかしその一方で、世界の一部地域では社会が大きく変革し始めていました。産業革命の幕開けとともに、製造、交通、通信など、社会のあり方そのものが変わり始めたのです。人類の進路を大きく左右する新しいイノベーションと技術が登場しました。
ここで申し上げたいのは、[福澤諭吉が生きた19世紀末は]今の時代と通じるところが明瞭にあるということです。つまり、勢力圏の復活から人類の未来を左右する技術の台頭まで、そして150年前と同じく重大な脅威が差し迫っている点から有り余るほどの機会が存在する点まで共通しています。今日の私たち、特にこの演説館にいる学生の皆さんが直面しているのは、この歴史の転換点をどう生き抜くのかということです。
私たちの周りにある不安定な世界情勢を見渡す中で、欧州にとっても、日本にとっても、福澤諭吉の教えにこそ答えがあると私は確信しています。それが「自由」と「独立」の追求です。
皆さん、自由と独立、これらは、時に過去の時代の言葉と捉えられることがあります。しかし、私は熟慮の上でこれらの言葉を用いています。私の議論の出発点は、何世代も前の記憶の中の世界ではなく、今の現実の世界と向き合うことにあります。私たちは、歴史の転換点において直面している課題を直視しなければなりません。私たちが今いるこの時代──そしてそれに対し私たちがどう対応するか──が、今世紀の行方を決めると私は考えています。
だからこそ、直面する劇的な変化にただ揺さぶられるだけであってはなりません。さもなければ、いずれ嵐は過ぎ去るだろうという「まやかし」にまたも翻弄されることになります。つまり、ある地域の戦争が終わりさえすれば、関税交渉が決着しさえすれば、次の選挙で違う方向に行きさえすれば、物事は元に戻るはずだというまやかしです。その理由は、地政学的な逆流があまりにも強いからです。私たちの安全と繁栄の土台そのものがあまりにも不安定だからです。
だからこそ私は、21世紀のための新しい自由と独立の形を築くときだと考えています。自らの防衛と安全保障を担うことを重視し、私たちの繁栄の礎となる新たな経済・産業モデルの創出に注力し、そして、民主主義と自由の基盤となる価値を守ることに取り組むのです。
安全保障、繁栄、民主主義──これらすべてにおいて、欧州は今、歩みを進めています。ここ数週間、数カ月の間に、わずか1、2年前には考えられなかったレベルで防衛投資に関する提案を行ってきました。また、その投資に見合う形で産業とイノベーション、技術と科学を経済の中核に据える計画を提案してきました。そして、民主主義が直面し、増大しつつある脅威から私たちの民主主義を守るべく毎日取り組んでいます。自国における非自由主義の台頭や、私たちを不安定化させることを狙った敵対勢力の試みといった脅威です。
しかし、私は、独立とは何かという点について、そして、それが欧州や日本のような密接な友人たちとのパートナーシップにとって何を意味するのかを明らかにしておきたいと思います。独立とは、その本質において、私たち自身の未来を選び取る自由と能力を持つことであり、それは依存関係を断ち、脆弱性を補うことです。そして独立が内向きの戦略であるという誤った通説、あるいは、自らの境界内への退却だという通説を払拭したいと思います。むしろその逆なのです。まさに、欧州と日本の間の関係とパートナーシップが適切な事例です。私たちは地理的に離れ、異なる課題に直面していても、対応すべき脅威は多く、そして共通しています。欧州と日本はともに、保護主義の衝動が台頭し、弱点が武器化され、あらゆる依存性が悪用される場として周囲の世界を見ています。したがって、2つの志を同じくするパートナーが互いを強くするために団結するのは当然のことです。私たち自身の独立を築くだけでなく、互いの独立を強めるためなのです。
例えば不公正な競争に直面し、私たちはサプライチェーンを強靱化するために経済安全保障で協調しています。それによって私たちが重要物資で不足することは決してないよう、欧州と日本は「競争力アライアンス」を構築し、供給源を多様化することで単独のアクターが私たちの手を縛ることを阻止します。私たちは互いの安全保障に投資することで、抑止の信頼度を上げ、安定を持続させます。さらに、クリーン・テクノロジーやデジタル・イノベーションといった取り組みでも協力することで、価値と利害を共有するパートナーによる未来が構築されるでしょう。
重要なのは、未来が不確かな時に内向きになりたがる本能に抵抗することです。壁を高くし、心を閉ざすということに私たちは抗うのです。それが間違った選択だからです。他者と協力することが強さの証です。それが私たち自身の独立を構築する方法です。
例えば貿易においては、より強固な基盤の上に米国との貿易関係を再構築しようとしています。しかし、世界貿易の87%は米国以外の国との間で行われていることも私たちは知っており、その多くの国々が安定と成長の機会を求めています。今回私が日本を訪問しているのも、まさにそのような関係を深めるためです。世界中の国々──インド、インドネシア、南米、韓国、カナダ、ニュージーランドなど──が欧州と協力を求めています。これは、そのような国々の一部でしかありません。
要するに、私たちは皆、それぞれの強さと独立を追い求めているのですが、しかし、協力することによって初めて、その強さと独立を実現できるのです。
お集まりの皆さん、学生の皆さん、こうした思いに導かれ、この誉れの高い大学、そして何よりも、本日演説館のドアを通じて集まってくれた学生の皆さんに向けてお話しします。
今日私が伝えたいメッセージが1つあるとすれば、それはこの大学の創立者・福澤諭吉がずっと前に掲げたことに他なりません。つまり、自身の責任は皆さんの家の敷居をはるかに超えて広がるのだということです。
30年前、私は公衆衛生学の修士号を得るために大学に戻りました。医師として私は、目の前の患者、その症状と治療法、個々のニーズに集中するよう訓練されました。しかし、公衆衛生学は視点を広げることが求められました。患者個人だけではなく、より広いパターンを見るのです。「どうやったらこの人を救えるのか」から「どうやったら皆を助けられるのか」へと視点を変えるのです。
私が学んだ最初の教訓の1つを今でも覚えています。あなたの健康は私の健康に、私の健康はあなたの健康に依存しているというものでした。当時は理論として理解しただけでした。30年後、その教訓が現実となり、切実かつ個人的なものとなるとは思っていませんでした。ましてや、世界的なパンデミックを克服するために欧州が結束した結果、この名誉博士号を今日ここで、皆さんの前で受けることになるとは思ってもいませんでした。
パンデミックが欧州を襲った時、何百万人もの欧州市民が袖をまくり上げ、隣人を助けようとしました。欧州の人々は自身のコミュニティを守ったのです。欧州全体でそうしたのです。パンデミック発生から最初の2年間で、欧州連合(EU)域内に10億回分のワクチンを届けました。同時に、域外150カ国に14億回分を提供しました。私たちは世界最大のCOVID-19ワクチンの供給者となりました。当時、多くの人がこのアプローチを嘲りました。しかし、これが私たちの責任だったのです。
慶應義塾大学の学生の皆さんに最後にお伝えしたいメッセージがあります。世界のあらゆる地域から集まった人々に囲まれたこのような大学では、皆さんの行動が自身の内輪の枠をはるかに超えるということを理解しているはずです。あなたの気候変動の研究が訪れたこともない海沿いの町を守るかもしれない。あなたの生物医学の発見が遠い大陸の患者に影響するかもしれない。それこそがグローバル・コミュニティの一員であるということです。皆さんが他者のために責任を果たす時、他者もまた皆さんのために責任を果たしてくれるのです。
これが欧州と日本の物語であり、福澤諭吉が世界に遺したメッセージです。そしてこの大学の学生一人ひとりが、これからの人生の新しい章を歩む際に胸に刻むべき物語です。
この栄誉に心から感謝します。慶應義塾大学よ、永遠なれ。欧州と日本のパートナーシップと友情よ、永遠なれ。
(冒頭にあるように、本文は2025年7月23日に三田演説館にて行われた欧州委員会委員長ウルズラ・フォン・デア・ライエン氏に対する慶應義塾大学名誉博士称号授与式での同氏のスピーチ全文の日本語訳である。訳は土屋大洋慶應義塾常任理事による。なお英文はこちらより閲覧できる。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。