登場者プロフィール

駒村 圭吾(こまむら けいご)
法学部 教授
駒村 圭吾(こまむら けいご)
法学部 教授
2025/07/11
1.はじめに―「文体」の問題
もうずいぶん昔の話になりますが、慶應に戻ってきて法学部の助教授に着任したころ、学会仲間のある方から声をかけられ、「最近の駒村さんの文体は……」と切り出されました。私より若い方でした。一体なんて言われるんだろうと期待してきくと、「最近の駒村さんの文体は、東大法学部の某教授の文体に似てきているようで残念だ」と。私、てっきり、福澤諭吉の文体に似てきましたね、と言われるかと期待してワクワクしていたのですが……。少しだけ残念でしたが(笑)、ただ、この指摘をくださった方も、東大の某教授に似てきたのを「残念だ」と評価されており、駒村本来の文体に戻ってほしいという含意があります。
本題に入る前に、「文体」についてもう少しお話しさせてください。
私が慶應義塾大学法学部の学生だったのは1980年代で、今から40年以上前になります。福澤諭吉については、高校の教科書レベル以上はなにも知りませんでした。ただ、学部3年生の時に、土橋俊一先生の『慶應義塾の歴史の軌跡』というような科目があり、「単位が取りやすい」といううわさだけを頼りに履修し──実際、単位は取りやすかったのですが──、出席しました。履修したと言っても、ただ聞き流す程度で、真剣に取り組むことはありませんでした。でも、門前の小僧習わぬなんとやら、ではありませんが、耳学問でも何かがインプリントされたのでしょう、土橋先生の語る変わった名前や言葉(ひゃくすけ、ももすけ、サイエンスではなくサイヤンス、ニンゲン交際ではなくジンカン交際等々)はなぜか心に残りました。もうひとつ教わったのは、『福翁自伝』が『学問のすゝめ』よりもオモシロそうだということです。そういう次第でして、私の福澤読書歴は、『福翁自伝』、もっと言えば、『福翁百話』に始まりました。正直申し上げて、『学問のすゝめ』を読むのはもっと後ですし、『文明論之概略』に至っては、丸山眞男が書いた新書の手ほどきを経て、慌てて手にするという具合でした。
そんな次第で、学部生から院生にかけての私の文体は、血気盛んな啓蒙思想家・福澤のそれではなく、若きころの福澤そして円熟の福澤も実に楽しみつつ用いた「雅俗混交体」の影響を受けています。ご案内のように「雅俗混交体」とは、文語文的表現の中に突然日常的な俗語が組み込まれる文体のことです。私は研究論文も含め文章を書くとき、その影響が文体に出ていまして、「素晴らしい」と書けばいいところを「スバラシイ」とカタカナで書いたり、奇怪を「キッカイ」と書いたり、さらに「(丸い括弧)」を突然用いて、そこに本音をちょっとだけ挿入したりするのが好みでした。例えば「知る人ぞ知る」と書いて済ませればいいところ、すぐにカッコをして「知る人ぞ知る(でも知らない人も多い)」と書きこんだりしておりました。これは、何もふざけてそうしているわけではなく、緊張した硬質な文章の中に突然、柔らかな(これも書くとすればカタカナで「ヤワラカな」と書きたいところですが)、語句にささやかな揶揄を込めることにより、文脈の深刻さを際立たせる、あるいは、カタカナで書くほか表現のしようがない別の含意を際立たせる、そういうつもりで使っております。私は、福澤の「雅俗混交体」の文体も、かかる揶揄を込めた技法、この点、小泉信三の表現を借用すればまさに「揶揄翻弄の特技」(福澤①223頁〔小泉による解題〕)とも言い換えることのできるひとつのワザとして、福澤は好んで用いたものと勝手に解釈し、自分と共振するものを、これも勝手に感じてまいりました。
これはけっこう奏功しておりまして、学外の公法学者や弁護士からは好評を博しており、と言いますか、そういうところだけ読んで楽しんでいる方もいるのですが、概してご理解を得ているところです。他方で、かつて、かなり初期のころ、西日本方面にお住まいのさる大家から「コマムラくん、こういう表現は気品に欠けるのではないか」とお叱りを受けたこともあります。「気品」と言われてしまいますと、慶應の人間としては「当方こそ本家本元である」と言いたくなるのですが、そこはグッとおさえ、当時は"御意に感謝"と応答しました。が、いつかこの点について若干の言い訳あるいは釈明をしたいと思っておりまして、本日いよいよそれを果たせるのではないか、と考えております。数10年を経ての弁明が、本日の講演のもうひとつのねらいであります。
というわけで、本日は、「21世紀のモラル・バックボーン」というタイトルで、福澤の自由論・幸福論、そして、それを受け継ぐ「小泉信三」の思想についてお話しします。モラル・バックボーンですので、「気品の泉源、智徳の模範」で言えば、後者の「智徳」に関する話題ですが、駒村流「雅俗混交体」に対する弁明も含みますので、「気品」の問題にも言及することになります。
2.『学問のすゝめ』初編における福澤の基本思想
福澤は、その代表作『学問のすゝめ』の劈頭で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」と述べました。この第一声があまりにも有名であるため、平等主義者であるかのように言われますが、ご案内のように、《学のあるなし》ではっきりと人間の上下を判別します。その意味では、単純な平等主義者ではありません。これから見るように、福澤にとって、平等は自由をことあげするための前提にすぎません。むしろ、この自然創造の「平等」は、福澤の「自由論」と結びつけて理解すべきです。福澤は先の第一声に続けて次のように言います。
「されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、(中略)もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり」(福澤①11頁〔初編〕)
本来自然創造において人は平等であり、したがって自由自在の存在である、そうであるべきだという前提がまず描かれます。しかし、これに対して直ちに福澤は注釈を付けます。
すなわち、「人の天然生れ附(つき)は、繋がれず縛られず、(中略)自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩(わがままほうとう)に陥ること多し」と言って、福澤は「分限を知る」ことが肝要であると説きます。その「分限」は、身分をわきまえろというような封建的秩序の内面化ではありません。福澤はこう言います。「即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」と(福澤①14頁〔初編〕)。
この「分限」を知る営みこそが「学問」であると喝破するのが、『すゝめ』初編の大要であり、したがって、それは平等論というよりも、自由論の宣言なのです。
このような自由論に立ち、福澤は『すゝめ』初編において2つの重要な帰結を示唆しています。
第一に、上述のような意味での「分限」をわきまえない「無知文盲」を福澤は蛇蝎のごとく扱います。「凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず」と明言し、自分の無知ゆえに貧窮に陥ったにもかかわらず、人をうらやみ、しかも……
「甚だしきは徒党を結び強訴一揆などとて乱妨に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん。法を恐れずとや言わん」(福澤①17–18頁〔初編〕)
……と、このように容赦ありません。
強訴一揆に対するかかる警戒の念は福澤においては深く、『すゝめ』第2編では、「かかる馬鹿者を取扱うには、迚(とて)も道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威(おど)し、一時の大害を鎮むるより外に方便あることなし」と割り切っています(福澤①29頁〔第2編〕)。
「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず」(福澤①17頁〔初編〕)。
……と自由の敵にはしっかりと対峙することを説いております。
しばしば、福澤の言論や思想を、民権論/国権論のいずれかに裁断しようとする主張に触れることがあります。一例をあげますと、明治14(1881)年に公刊された『時事小言』において福澤は国権論に傾くことを明言しました。その後、強訴一揆が民権運動と接続することを警戒し、その抑制を説き、そして、脱亜論につながり、ご承知のように日清戦争を鼓吹する言論につながります。これをもって近代啓蒙思想と決別したと解する見方があります。しかし、さきほど見ましたように、『学問のすゝめ』初編が公刊された明治5(1872)年の時点で──つまり、福澤をして近代啓蒙思想家の代表格と位置づけたあの初編の時点ですでに──彼の「自由論」の反射ないし帰結として、強訴一揆に対する統制派的視点や、一身の独立と一国の独立を同視し、決然と敵に対峙すべきことが説かれていました。したがって、農民の無軌道な行動に政府がこれを鎮圧すべきことを説き、近隣の大国が近代化を阻み、国力を膨張させていることを日本の自由独立を阻むものとみて、国権論を展開するのは、『学問のすゝめ』で展開した近代啓蒙を曲げたのではなく、まさに正しくそれを時局に適用したまでの事と言えるでしょう。少なくとも福澤の哲学世界の中では一貫していたと言えます。
3.福澤の自由論 ―福澤/ミル/バーリン
ここで、福澤の自由論について、その理論的含意とはどのようなものなのかという視点から、改めて、整理しておきたいと思います。
近代啓蒙思想家としての福澤諭吉は、洋学的知性を日本語に変換することに多くの努力を払った人物でした。仏教用語の自由(「自由自在」)が既に日本にも流入していたこともあり、福澤は、liberty/freedom の訳語として「自由」を選択し、これを広めました。これから分かるように、彼は、この訳出を通じて、古来よりわが国において「我儘放蕩(わがままほうとう)」を意味する言葉として流通を見ていた「自由」の意味の近代的転換を図ろうとしたのであります。福澤の自由の定義はシンプルです。『西洋事情』においては次のようにまとめられていました。
「自由とは、一身の好むまゝに事を為して、窮屈なる思なきを云う」(福澤②230頁)
しかし、これだけでは「自由」が「我儘放蕩」と同視されてしまうおそれがありますので、彼は両者の区別を提案します。すなわち、最初の方で引用しましたように、両者を分けるのは「分限」であり、それは、「天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達すること」であり、結局、「自由と我儘の界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」と言うわけです。こうして、次のような整理に至ります。
「この自由の字義は、(中略)決して我儘放蕩の趣意に非らず。他を害して私を利するの義にも非らず。唯心身の働を逞(たくましう)して、人々互に相妨げず、以て一身の幸福を致すを云うなり。自由と我儘とは動(やや)もすればその義を誤り易し。学者宜しくこれを審(つまびらか)にすべし」(福澤②231頁)
福澤の自由の定式は、《近代自由論》、つまり自由をめぐる近代西洋の思考様式に通底するいくつかの特徴が見てとれます。
第一に、自由を《自己と他者の間の相互不干渉》と見る点が挙げられます。これは、福澤自身がその著作を通じて親しんでいたジョン・ステュアート・ミルの「危害原理」(harm principle)がおそらくは下敷きになっている。また、相互不干渉あるいは加害の相互抑制は、その反転として、《他者からの干渉の排除》を自由の核心と見るもので、この後紹介しますアイザイア・バーリン──福澤よりずっと後の20世紀の人物ですが──による整理に照らせば、バーリンが言うところの「消極的自由」の考え方に符合するものです。
第二に、自由であることは「以て一身の幸福を致す」と述べている点が注目に値します。古代から近代まで、自由と幸福は隣り合わせで論じられてきた歴史があります。この点、福澤は、《自由は個人に幸福をもたらす》ことを、ある意味当然視し、両者を直結させています。
福澤の自由論の第三の特徴は、《自由と独立の互換的使用》にあります。先に引きましたように、福澤は「また自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり」と述べ、『すゝめ』第3編では「一身独立して一国独立する」と宣言しています(福澤①33頁〔第3編〕)。《一身の自由の確立が一国の自由につながる》。そして、それはまた《一身の独立が一国の独立に直結する》ことを意味する、との定式が見てとれるわけです。福澤は、自由の観念を個人から国家統治までを通貫するものとして構想していたことが分かる。そして、「自由独立」という言い方を福澤がするとき、そこには「独立」と「自由」を同義に捉える視点、あるいは「独立」を「自由」の重要な一側面と見る考え方が垣間見えます。
さて、その「独立」ですが、この点、次のような福澤の言説が注目に値します。
「独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う」(福澤①33頁〔第3編〕)
ここに、福澤が「自由」すなわち「独立」を自己支配として理解していたことが示されています。自己支配とは、憲法や政治哲学で用いられる自己統治/自治(self-government)につながる広がりを持ちます。一身の独立を一国の独立と見た福澤においては、個人が自己支配をきちんとなすことは、一国が自己統治/自治を果たす際の前提となるはずです。要するに、福澤は、《自己と他者の相互不干渉》を自由と見る観点とは別に、《自己支配(= 自己統治/自治)》と見る観点も持っていた。そして、彼は、自己支配を個人の水準から政治共同体の水準にまで拡張し、両者を通貫する思想として捉えていた。自由を自己支配/自己統治/自治として理解する福澤の考え方は、これもバーリンの言う「積極的自由」の概念に相当するものです。
さて、このあたりで、バーリンその人に触れておきましょう。アイザイア・バーリンは20世紀中葉に活躍したイギリスの政治哲学者です。彼が1969年に公刊した『自由論』(Four Essays on Liberty)は、自由をめぐる最重要文献として現在でも常に参照されるものであります。特にその第三論文「自由の二つの概念」(Two Concepts of Liberty)が重要です。バーリンは、既に若干触れたように、自由を「消極的自由(negative liberty)」と「積極的自由(positive liberty)」に区分しました。「消極的自由」とは《他者の干渉の欠如》を指します。これは、「自分のする選択を他人から妨げられない」という自由で、《他者からの不干渉が確保されるべき領域はどこからどこまでか》という問いに対応するものです。これに対して、「積極的自由」とは《自己支配(self-mastery)》つまり、「自分が自分自身の主人である」という自由です。そして、こちらは、《他者からの妨げを受けない不干渉領域を誰が決めるのか》という問いに対応します。両者は言うまでもなく緊張関係にあり、バーリンは前者の「消極的自由」に重きをおきます。つまり、「自己支配とか言っているけれども、今の君は本当の君じゃないよ……」と言って近寄って来る他者がいつの間にか《自己支配》を《他者支配》に置き換えてしまうことを恐れたのです。
いずれにしても、バーリンの二つの自由概念は既に見たように福澤の自由論の中に設定されていました。ミルの危害原理、バーリンの消極/積極的自由概念、幸福と自由の関係、といった近現代の政治哲学が「自由」に関して巡らせてきた、あらゆる論点がすでに福澤の議論の中に用意されていたわけです。急いで付け加えますと、以上のような自由論の下敷きになっている思想こそ、本日の記念講演会に名を冠しているウェーランドの「モラル・サイヤンス」であります。その意味では本日この話をさせていただくのは、ウェーランド先生への恩返しでもあります。
ハナシを戻しますと、バーリンの著作が1969年ですから、そこから見て100年も前に福澤がそれらを語っていたことになります。私は、ここで彼の先見の明を称賛したいわけではありません。が、自由論に対する古代から近現代までのあらゆる言説を素材に自由論を書くことのできたバーリンと、そもそもそれに相応する概念すらなかった日本において、西洋の知見を参照したとはいえ、これだけの思考を深めていた福澤の慧眼には、やはり真の意味で「近代啓蒙思想家」の名称に値する眼力があった、ということだけは確認しておきたいと思います。
4.福澤の幸福論―実利教/怨望論/外的選好論
以上見たように、福澤は、自由を《侵さず侵されず》と定義し、もって幸福を致す(つまり、幸福が自由によって帰結する)と説きました。彼は、自由と幸福を結合させて考えていた。福澤にとっては、両者は同義であったわけです。
さて、福澤はしばしば「功利主義者(utilitarian)」と呼ばれます。当時の言葉で言えば、「実利教」の信奉者ということになるでしょう。彼は、ミルの『功利主義(Utilitarianism)』第5版(1874年)を読んでおり、その書きこみに「大幸福」とありまして、功利主義の一大テーゼであるところの《最大多数の最大幸福》という原理ももちろん知っていたでしょう(安西72-74頁)。
功利主義者は、各人の選好を相互に比較査定しません。幸福の良しあしを査定せず、等しく査定・集計します。確かに、福澤もそのようなところがあります。例えば、『学問のすゝめ』第13編において、「貪吝奢侈(どんりんしゃし)誹謗の類」また「驕傲(きょうごう)と勇敢」「粗野と率直」「固陋と実着」「浮薄と頴敏(えいびん)」はいずれも徳とも不徳とも断定できない。つまり、「何れも皆働きの場所と、強弱の度と、向かう所の方角とに由って、或いは不徳ともなるべく、或いは徳ともなるべきのみ」(福澤①135頁〔第13編〕)と言います。要するに、人間の各種欲望や選好を等しく扱うということです。そして、それらは、行為の結果次第で徳にも不徳にもなり得るという「帰結主義」が採用されます。
しかし、と福澤は言います。そのような価値の相対性を排し、断固として排除すべき情動ないし選好があると彼は言います。それが「怨望(えんぼう)」です。
「独り働きの素質において全く不徳の一方に偏し、場所にも方向にも拘わらずして不善の不善なる者は怨望の一箇条なり。怨望は働きの陰なるものにて、(中略)その不平を満足せしむるの術は、我を益するに非ずして他人を損ずるに在り。譬(たと)えば他人の幸と我の不幸とを比較して、我に不足するところあれば、我有様を進めて満足するの法を求めずして、却って他人を不幸に陥れ、他人の有様を下して、もって彼我の平均をなさんと欲するが如し」(福澤①135頁〔第13編〕)
福澤の論旨は明白であります。怨望は、その帰結ではなく、そもそもその「素質」において悪である。それは、自己の幸福を満足させるのではなく、他人の不幸を願うはたらきである、と彼は言うのです。たとえ、功利主義に出たとしても、その幸福の集計最大化にあたっては、「他人の不幸を願う」ような幸福は計算に算入してはいけないと言うことです。
ここでいきなり現代に話を飛ばせてください。いわゆる選択的夫婦別姓を求める声があります。最高裁で二度争われましたが、選択的夫婦別姓を認めない現行民法は憲法違反ではない、夫婦同氏制は合憲だという判断が定着しております。そんな中、草野耕一裁判官は反対意見を書き、選択的夫婦別姓を認めないのは憲法違反だと言いました。ちなみに草野裁判官は、東大をご卒業後、大手渉外法律事務所のパートナー弁護士であると同時に本塾ロースクールの教授もお務めになり、最高裁入りした方です。そして、根っからの功利主義者です。
さて、草野反対意見も、次のような功利主義的なものでした。いわく、選択的夫婦別姓を導入したところで、誰も不幸にならない。同氏を求めるカップルは従来どおり婚姻できるし、別姓を求めるカップルも晴れて婚姻ができるようになる。要するに、幸福の社会的総量は増えるだけで、決して減少することはない。しかるになぜ、法改正されないのだろうか。草野裁判官は、その理由として政府が挙げる、子の福利、家族の在り方に関する麗しき伝統、等を取り上げ、逐一論破していきます。
この草野反対意見の問題提起に私なりの回答を試みるとこうなります。皆が幸福になり、社会の幸福の総量が増加するにもかかわらずなぜ選択的別姓が実現しないのか。この疑問に対するあり得るひとつの応答は、《他者の幸福を望まない人々がいる》というものです。つまり、"自分は夫婦同氏を選ぶが、他者にもそれを選んでほしい"、"他者に夫婦別氏を選んでほしくない"、といった選好の充足を願う一群の人々がいるということです。これは、《自分はこうしたい》ではなく、《他者にこうしてほしい》《他者にはこうしてほしくない》という選好であり、外的選好(external preference)と呼ばれています。"他者に別氏を選択してほしくない(あるいは同氏を選択してほしい)"と望むのは、"同氏を選ばない人は結婚してもらいたくない、別氏を選ぶ人は結婚できなくてかまわない"ということと同じであって、婚姻がスバラシイものであればあるほど、この外的選好は、"別氏選択者には幸福になってもらいたくない"という選好を含意することになるでしょう。要するに、《別氏にこだわる人は不幸なままでいてほしい》という、常人には理解できない歪んだ選好です。このような外的選好を功利計算から排除すべきことは、かつて法哲学者のロナルド・ドゥウォーキン(Ronald Dworkin)が説いたところですが、まさに、福澤が説いた本質的悪である「怨望」排除論は、《他者の不幸を願う情念》を功利計算から排除すべしとする、草野+ドゥウォーキンの「外的選好」論と同型の議論をしていることになるのではないでしょうか。
このように、仮に福澤を功利主義者と見るにしても、その帰結主義的論理は一貫しておらず、怨望排除論がある種の"義務論"として顔を出しています(功利主義は哲学的には"目的論"に属し、"義務論"とは対抗的な立場です)。この点、丸山眞男が指摘するように、福澤を捉えるには功利主義か義務論かという見方よりも、プラグマティズムの人と見るほうが適切かもしれません(丸山81- 82頁)。帰結主義にせよ、義務論にせよ、机上の計算でなく、また観念的な道徳論でもなく、ともかく現実にその実用性を実験テストしてみるべし、と考えるのが福澤の真骨頂かもしれません。いずれにしても、近現代の自由論の諸論点をすでに網羅的に用意していた福澤。功利主義、義務論、プラグマティズムという現代においても有効な思想哲学のさまざまな相貌を見せる福澤。そのような福澤こそ、まさに《自在の人》と呼べるでしょう。
5.俗界百戯と独立自尊―宇宙/戯れ/蛆虫の本分
さて、繰り返しになりますが、福澤の自由論・幸福論においては、幸福と自由が、そして目的論(功利主義や帰結主義)と義務論(怨望排除論)が、おそらく矛盾なく併存し、それらが自ずと連動するものと、ある意味楽観的に考えられていたフシがあります。特に幸福と自由のそれこそ素敵なマリアージュは、現代ではあまりにも楽観的にすぎるでしょう。
「われに自由を与えよ、然らずんば死を」
これは、18世紀に活躍した革命前夜のアメリカの政治家であるパトリック・ヘンリーの名台詞です。福澤と同じく、自由と幸福の表裏一体性を示唆しています。自由がなく鎖につながれた奴隷状態は「死」に等しい。自由なき世に生きる限り一切の幸福はあり得ない、絶望的状況であるというわけです。《不自由か死か》の二者択一では死を選ぶという状況は、まさに自由が輝ける希望であった時代のハナシです。
では、現代ではどうでしょうか。ここに法学部の同僚である法哲学の大屋雄裕教授の名言があります。
「自由か、さもなくば幸福か」
大屋教授によれば、20世紀は、自由と幸福のマリアージュは破綻し、両者は徐々に距離を置くようになった。つまり、両方を得ることは困難になり、いずれかの選択を迫られるようになったと言うわけです。
確かに、21世紀、情報化とグローバル化は飛躍的に進展しましたが、情報の津波の中での自己決定をし続けることに人々は耐えられなくなり、異なる価値や異なる他者との関係構築に疲れ果ててしまっている。情報が過剰にあふれる社会にあって私たちは膨大な情報収集・分析を強いられ、無数の選択を繰り返さなければならない。選択肢が多ければ幸福になれるわけではないのであります。
新しいアプリやデバイスに慣れるのにも時間がかかり、注意書きや取扱い説明書も理解不能だし、そもそも読まない(読めない)。どうでもいいファイルにもIDとパスコードが要求される(もう開きもしない)。リモートは休日でも海外にいても追いかけて来る。メールやSNSに返事をするのに半日を費やす。フェイスブックで「いいね!」が来ているかどうかを定点観測するので夜は忙しい。睡眠学習しないと周りについていけない……。
自由とは、結局は、「選択の自由」です。そして、選択とは自己決定であります。自己決定の背中には自己責任が張り付いている。決定に伴うコストは、先ほど述べましたように、膨大です。だれもが決定が伴う負担を呪うようになる。つまり、自由を呪うようになる。
これを私なりの雅俗混交体の文体で述べるとしますと、こうなります。現代は、自由と幸福を切り離しただけではない、《自由であると不幸になる時代になった》と。幸福になるには自由を手放し、選択や決定の自由を放棄して、デフォルトを誰かに決めてもらい、自由のコストから解放される必要がある。このような時代です。福澤においては、自由であるためにこそ独立自尊が必要でしたが、それは18世紀、19世紀までのハナシです。21世紀は、独立自尊を守ろうとすると不幸になる時代となってしまった。
では、このように複雑で忙しいカオスの時代にあっては、福澤の求めた智徳の模範、すなわち独立自尊は成立し得ないのでしょうか。独立自尊に代わり得る、現代にマッチした福澤思想のレガシーはどこかにあるのでしょうか。
ここで、冒頭に述べた私の一番推しの福澤作品、『福翁百話』の出番です。これは、福澤の最晩年に書かれたエッセイです。福翁がまさにほんとうにお爺さんになった時に書いたものですから、ある種の透徹した、透明な境地が書かれています。
『福翁百話』冒頭は、「宇宙」と題するエッセイから始まります。広大無辺な宇宙にあって、人間はちっぽけな存在である、人間の一生は一瞬のことにすぎない。その宇宙の神秘、つまり自然法則・物理法則こそ我々の求めるものだと福澤は説き起こします。ある意味で「窮理図解」を称賛していたころの福澤に先祖返りするわけです。
このような広大な宇宙にあって、人間はちっぽけな存在だと言う福澤は、とうとう、人間を生き物のなかでも最もちっぽけな「蛆虫(うじむし)」にたとえ出すのです。人間なんてしょせん「蛆虫」のごときだと。それに加えて、この世は、しょせん「戯(たわむ)れ」であり、遊びに過ぎないと。この福澤のある意味で余計なものをそぎ落とした境地を私はとても好きなのです。
そして、いよいよ本日の講演の核心に入りますが、この「宇宙」「戯れ」「蛆虫」について興味深い文章が『福翁百話』の中に出てきます。それは次のようなものです。
「人生本来戯と知りながら、此一場の戯を戯とせずして恰(あたか)も真面目に勤め、貧苦を去て富楽に志し、同類の邪魔せずして自から安楽を求め、五十七十の寿命も永きものと思うて、父母に仕え夫婦相親しみ子孫の計(はかりごと)をなし、また戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛るこそ蛆蟲(うじむし)の本分なれ。否な、蛆蟲の事に非ず。万物の霊として人間の独り誇る所のものなり。ただ戯と知りつつ戯るれば、心安くして戯の極端に走ることなきのみか、時にあるいは俗界百戯(ぞくかいひゃくぎ)の中に雑居して独り戯れざるもまた可なり。人間の安心法は、およそ此辺にありて大なる過なかるべし」(福澤③31- 32頁)(太字筆者)
この福翁の最終到達点が私の心を打つのです。この世は、そして人生は、しょせん、「戯れ」である。しかし、戯れと知りながら、ウジムシに過ぎない人間はそれを真剣に生きている。一瞬の遊びでしかない人生をどうにかしようともがいている。福澤は、そこにこそ「蛆虫の本分」があると説きます。一寸の虫にも五分の魂、と言うわけです。
では、「蛆虫の本分」とは何か、それが前記引用で私が太字にした箇所に現れています。所詮、戯れだとすれば、極端に走ることはないだろう、そう熱くはならなくて済むだろう、と。が、他方で──ここが福澤のスゴイところだと思うのですが──「時にあるいは俗界百戯の中に雑居して独り戯れざるもまた可なり」とも言うのです。つまり、戯れだからこそ、ひとり戯れからはずれて、孤高を気取ることができると言うのです。
なんという逆説でしょうか。戯れだからこそ、「大真面目」を気取ることができる。要するに、「俗界百戯」の中にあっても「独立自尊」の主体でいられるのだ、と言っているわけです。
人間個人の独立が国家の独立につながると、個人を鼓舞していた福澤が、晩年は、人間をウジムシ呼ばわりする。独立自尊を説きながら、そんなに熱くなるなよ、と言う。しかし、最後の最後のところで、ウジムシでも俗界に交わらず、独立自尊の存在でいられるのだ、と福澤は喝破します。慶應義塾のレガシーの未来を「蛆虫の本分」に託そうとしたわけです。
6.《逆説自在の人》、福澤
福澤は、自由独立の人でありました。同時に、世の中は所詮「戯れ」だと言いました。そして、常に逆説の人でした。国会開設の建白も、それが民権を推すような外見を装いながら、むしろ国権的統制派になり得る逆説的帰結を見ていた、アジアをものすごく意識しながら「脱亞」を説いた、宗教なんかまったく関心のないふりをして最後はある種の宗教に近づいた。若いころは「医者など信頼するな」と言っておきながら、晩年は「医者の言うことを聞かないのはバカだ」と言った。徹頭徹尾、逆説の人であり、様々な思想の間を回遊し戯れた、自在の人でもあった。福澤こそは、《逆説自在の人》でした。
その《逆説自在の人》福澤が最後にやってのけた逆説こそ、本分を果たすウジムシこそが独立自尊の存在たり得る、という逆説でした。21世紀を生きるわれわれは、この「蛆虫の本分」こそを慶應義塾の「智徳の模範」として受け継いでいく必要があるでしょう。
7.小泉信三の苦悩―モラル・バックボーンを求めて
さて、以上で今日のお話は終わりになります。これからは、「付け足し」のハナシです。しかし、「付け足し」と言 ってあなどってはいけません。講演は、往々にして、付け足し、脱線にこそ本音が隠されており、付け足しの方が時間が長かったりします。私も、本日は、逆説の人、福澤よろしく、付け足しにこそハナシの核心を込めたいと思います。
そこで取り上げるのは、小泉信三です。福澤に並ぶ慶應義塾のキラーコンテンツである小泉を取り上げたいと思います。なぜかと言えば、小泉は、福澤と、ある意味で大きなコントラストをなす人物であると思うからです。
小泉は、ご承知のとおり、戦争の時代、あの暗い時代に塾長でした。そして、本日ウェーランド経済書講述と同じことをやりました。昭和20年、空襲警報の鳴る中、福澤先生の誕生日を祝う会合を三田で開いたのです。その時小泉は、はっきりと、《戦火の中で慶應義塾ここにあり》というところを見せようではないかと、ウェーランド講述を再現するのだと述べて、12名ほどの同志が三田に集まったのです。
そして、福澤が日清戦争を推進したのと同じように、太平洋戦争を小泉は推進しました。義塾の学徒を戦場に送り出し、ある意味必要以上に好戦的姿勢を示したのです。
もちろん、ここでしっかりと付け加えるべきは、小泉は、戦争を始めることにきっぱりと反対する上申を天皇に届けようとしていたのです。しかし、いったん開戦と決まれば、祖国のために国民一丸となってこれを推進するという、極めて律儀な立場を取りました。敢えて好戦的に見せたのはそのためでしょう。もちろん、長男の小泉信吉(しんきち)の戦死も、確実に戦争の大義を称賛する動機を形成していたと思います。
戦争に反対だった小泉が、戦争の大義のため塾生、そして息子を、死地に赴かせたことの慚愧の念は想像を超えるものがあったと思います。多くの塾生が幻の門を出るのを小泉は激励督励して送り出しました。多くが帰らぬ人になりました。幼稚舎の神吉創二教諭はこの時の小泉の心情を次のように書いています。「信三はその責任に名状し難い心苦しさを感じていました。信吉の戦死を『贖罪』と感じたこともあったかもしれません」(神吉133頁)と。私もそのように推測します。
以上のような背景から、小泉は、戦後、次のような「反省」と題する文書を書いております(「サン・ニュース」昭和24(1949)年)。
「終戦以来、この戦争には反対であったと、人は口々に言う。……問題は、その反対であった戦争をなぜ起こさせたかである。……どうして人々の反対する戦争が起こされたか。悪に強きは善にもと、諺に言うが、日本国民殊にその識者と言われるものはいかにも善に弱かった。……伝統的な面目と廉恥の観念と、そうして儒教によって養われた強い義務心とは、彼等日本の士族を道徳的背骨(モラル・バックボーン)のある人間とした。……彼らが大局から見て、兎にも角にも国の大事を誤らなかったに就いては、此事を考えなければなるまい。この背骨をしっかりさせることが、その後の日本において怠られたのではなかったか。……これが日本人の犯した過ちではなかっただろうか。兎にも角にも何物か心に守るところのある国民となること、これが何よりも大切な事ではなかろうか。明治を回顧して私は頻りにそれを思う」(小泉①)
この「反省」という文章が意味することは明らかです。皆が反対していた戦争が行われてしまったのは、明治の士族が持っていた「道徳的背骨」をその後の日本国民が失ってしまったからだと。「何物か心に守るところがある国民」であれば、敢然と立ちあがり、反対しただろうと。そして、重要なのは、この「反省」が、小泉が単に一知識人として日本のあり方を客観的に分析しているだけではなく、おそらくは小泉自身の慚愧の念と繋がっていることにあると思います。
8.《孤忠贖罪の人》、小泉
さて、小泉の「モラル・バックボーン」はどこから来たのでしょうか。
彼の作品のひとつに、『わが文芸談』という書物があります(小泉③)。かつて義塾には、久保田万太郎の寄付により開講されていた「詩学」という講座がありました。これは西脇順三郎、土岐善麿などそうそうたる顔ぶれが、文学論を展開するという科目です。そして、昭和40(1965)年に小泉は、この講座の担当になります。周知のとおり、小泉はものすごい読書家で文学への関心が深く、学部時代に永井荷風の講義にも潜り込んでいます。
話はそれますが、この『わが文芸談』はとても面白い。決定的に面白いのでぜひ読んでみてください。何が素敵かと言いますと、小泉がとても楽しそうなのです。いろいろなことから解放されて、自由に話している。学生の集まりが悪い日は、講義をやめて、学生たちとざっくばらんに文芸談義をしていたりします。
私はこの著作において、一瞬、小泉に福澤が憑依したと思うくらいです。苦悩と求道の人(と私の印象では小泉はそう映ります)が、つかのま自由を得て、一瞬、《逆説自在の人》となったような印象です。
ハナシを戻すと、この講義の中で、小泉はかなりの時間を夏目漱石論に費やします。その中で彼は、夏目はかなりのモラリストであることを指摘し、特にその道徳的なスタンスを愚直なまで貫徹することを称賛しております。漱石が文部省から博士学位の授与を通知されたとき、漱石はそれを強く辞退したのでした。この姿勢を、漱石の英語の先生であるマードックがほめたたえ、その書簡の中で、「君はよくやった。君は自分のモラル・バックボーンを示した」と賛辞を送っています。小泉はこれをとても重視しており、このマードックによるモラル・バックボーンの使用がわが国で最初のものではないかと述べています(小泉③114–115頁)。
おそらくかなり早い時期にこのモラル・バックボーンという言葉が小泉の琴線に触れるものとして心に残ったのでしょう。先ほどの「反省」という文章にもそれが出てきますし、ヴァイニング夫人にもそれを語ります。また、岩波書店から出版された『福澤諭吉』の最終章のサブ・タイトルは「福澤の道徳的支柱」で、福澤自身のモラル・バックボーンがどこにあったかを探究しているのです(小泉②165頁)。
こうして、明治期にはあり得たが、戦中戦後失われてしまったモラル・バックボーン、そして戦争に抵抗しきれなかった小泉自身が持ち得ていなかったモラル・バックボーンの探究が始まります。それは、ある種の《贖罪の一環》として、自身に背負わせた十字架のように私には思えてくるのです。
では、小泉はどのようなモラル・バックボーンを獲得するに至ったのでしょうか? この点、優等生的回答は、キリスト教だと答えるでしょう。小泉は64歳のときに洗礼を受け、聖公会に属します。これは、小泉が信吉に続いて、初孫であるエリを病死で失ったことがきっかけとなったと言われておりますので、相当な召命を感じてのことでしょう。しかし、やや強引かもしれませんが、私は、小泉は生涯、結局、モラル・バックボーンを見つけることができなかったのではないかと思います。初孫の死をきっかけにしたという劇的な契機が確かにありましたが、小泉自身は、洗礼を受けるにあたり、友人に送った書簡で、大要、自分のキリスト教理解は皮相的・断片的なものでもっとよく研究してから洗礼を受けようと思ったが、むしろ洗礼を受けてからしっかり研究しよう、「クリスチャンというものを未だよく知らない、これから知ろう」というのですと述べています(小川原180頁)。
しかし、没する78歳までの14年間、小泉はしっかりとクリスチャンであることの意味を研究し、自己のモラル・バックボーンとしてそれをしっかり確立したかもしれません。また、そうではないかもしれません。このあたりの消息は今後しっかりと勉強していきたいと思います。
ただ、彼にとってモラル・バックボーンになり得たものはたくさんあったわけです。明治のころの士族の精神、慶應義塾ないし福澤諭吉ないし独立自尊、皇室、そしてキリスト教。が、それらについて明確な決別があったわけではない。最後はキリスト教にたどり着いたのかもしれませんが、戦争期の塾長としてのある種の慚愧の念から、モラル・バックボーンを求める求道の旅を、《贖罪の一環》として自分に課し続けた後半生ではなかったか。バックボーンを形成する以前に、拠るべきモラルの選択について慎重だったのではないか、そう思うのです。
しかも、小泉はあるエッセイの中で、嫌いなもののひとつとして「演説」をあげるのです。気持ちよく喋れたことは一度もない、と(山内他①67頁)。
もうおわかりでしょう。小泉は福澤と対照的であるということです。人間交際の福澤に対して、孤独好きの小泉。演説の人(演説館までつくった人)、福澤に対して、演説嫌いの小泉。戯れの人、福澤に対して、求道・実直・苦悩の人、小泉。
小泉を一言で表現することが許されるのであれば、《孤忠贖罪の人》と言えるでしょう。もちろん、この呼称については、小泉を、福澤との対比を際立たせるために、私がある意味強引に整理しているところがあります。法学者は白黒つけるのが仕事ですから、どうかこの点、お許しください。
私は、《孤忠贖罪の人》と小泉を呼ぶことで、神格化された小泉像を破壊しようというのでは、まったくありません。むしろ、《孤忠贖罪の人》であるからこそ小泉を高く評価したいと考えます。そして、それは福澤精神で染め上げられた慶應義塾の「もうひとつの相貌」であると申し上げたいと思います。この側面の継承も慶應義塾は忘れてはならないのではないでしょうか。
そして、福澤の言う《蛆虫の本分》のうち、「俗界百戯の中に雑居して独り戯れざる」、そのような精神の一つの在り方を愚直に示した人物こそが、小泉だったのではないか、そう整理したいのです。
9.おわりに―21世紀のモラル・バックボーン
小泉は、バックボーンによって支えるべきモラルそのものを見つけ出すことができなかった、見つけ出すことに慎重であったと思われます。武士道、慶應義塾・福澤精神、皇室、キリスト教、どれも通り過ぎていったのかもしれません。もっとも、どれかひとつを選択することはあまり重要ではない。特定の「モラル」の選択の是非ではなく、いずれにしても、それを「バックボーン」にすることの大切さを、小泉は語っていたのではないかと思われます。小泉が模索したのは、「何物か心に守るところ」を持ち、そして、それを自分の心の中で大切にするだけではなく、いざというときにそれを背骨としてしっかりと立てて、屹立した意志をもって、発言し、抗う、そういう姿勢を求めたのではないでしょうか。
その意味では、小泉の名言、「善を行うに勇なれ」は、極めて示唆的であります。福澤で言えば、「気品の泉源、智徳の模範」を「口に言ふのみにあらす躬行実践以て全社会の先導者たらんことを欲する」につながります。ほんとうの危機に際して、「蛆虫の本分」を発揮できることこそが、21世紀のモラル・バックボーンとして私たちが受け継ぐことです。
そして、まさに今日の政治状況が私たちのそれを試しています。小泉はかつて戦争に突入していったとき、なぜ自分たちはモラル・バックボーンを発揮できなかったのかと自己を問い詰めました。私たちも、やや気軽に、当時の知識人や言論機関、市民や政治指導者がなぜ敢然と異を唱えることができなかったのか、と非難することがあります。が、昨今の不安定化する安全保障、浸潤する言論弾圧、炎上商法化する政治的言論空間にあって、このことは、まさに今の私たちが問われていることなのです。
福澤は『学問のすゝめ』第4編において、慶應義塾が「私立」であることにこだわりました。アメリカを中心に、大 学の自治、学問の自由が危機に瀕しているとき、私たち大学人が本来有しているはずのモラル・バックボーンを示し、死守することができるかどうかが問われています。
さて、最後に《私自身の課題》についてひとこと申し上げて終えたいと思います。
冒頭に触れました「文体」の問題です。「気品に欠けるのでは……」との指摘を受けた私の雅俗混交体ですが、これについての弁明です。義塾の目指す「気品」とは謹厳実直な堅苦しいものではない。福澤によれば所詮人生は「戯れ」でしかない。おそらく、気品とはふさわしいときにふさわしい場所で、謹厳実直の緊張をやぶり、「戯れ」をそれとなく発揮しても野卑にならないスタイルのことではないか。揶揄翻弄のワザを使っても、自身の位格を下げることのない気風のことでしょう。「気品に欠けるのでは……」ではなく、願わくば、「コマムラさんの文章には戯れがあるね」と言ってほしかった。まだまだ修行が足りないということでしょう。
以上の「雅俗混交体」あるいは「揶揄翻弄の特技」に付会して、21世紀に果たすべき役割を、義塾の末席を汚す、法学者・駒村圭吾自身の課題に置き換えれば、要するに、《逆説自在の人》福澤の使った雅俗混交体、揶揄翻弄の技法をもって、《孤忠贖罪の人》小泉の苦悩を書く、ということになるでしょう。《福澤の文体で小泉の苦悩を書く》、それが私自身にとっての課題であり、結論となります。ご清聴ありがとうございました。
(引用参照文献)
福澤①:福澤諭吉『学問のすゝめ』(1942年、岩波文庫)
福澤②:福澤諭吉(マリオン・ソシエ、西川俊作編)『福澤諭吉著作集第一巻 西洋事情』(2002年、慶應義塾大学出版会)
福澤③:福澤諭吉「福翁百話」富田正文編集代表『福澤諭吉選集11』(1981年、岩波書店)
福澤④:福澤諭吉「福翁百余話」富田正文編集代表『福澤諭吉選集11』(1981年、岩波書店)
丸山:丸山眞男(松沢弘陽編)『福澤諭吉の哲学』(2001年、岩波文庫)
小泉①:小泉信三「反省」サン・ニュース(1949年1月5日)
小泉②:小泉信三『福澤諭吉』(1966年、岩波新書)
小泉③:小泉信三『わが文芸談』(1994年、講談社文芸文庫)
神吉:神吉創二『伝記 小泉信三』(2014年、慶應義塾大学出版会)
安西:安西敏三『福澤諭吉の思想的源泉』(2025年、慶應義塾大学出版会)
小川原:小川原正道『小泉信三』(2018年、中公新書)
山内他①:山内慶太他編『小泉信三エッセイ選1 善を行うに勇なれ』(2016年、慶應義塾大学出版会)
山内他②:山内慶太他編『小泉信三エッセイ選2 私と福澤諭吉』(2017年、慶應義塾大学出版会)
(本稿は、2025年1月10日に行われた第190回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。