登場者プロフィール

林 望(はやし のぞむ)
その他 : 作家その他 : 国文学者塾員

林 望(はやし のぞむ)
その他 : 作家その他 : 国文学者塾員
2025/02/13
『薩摩スチューデント、西へ』を書くまで
今日は「薩摩スチューデント」のお話をいたします。2007年に『薩摩スチューデント、西へ』という小説を書きました。もう今から20年近く前です。私の祖先は田安徳川家に仕えていた侍ですので、どちらかというと薩長の敵で、薩摩とは全然関係なかったのです。それなのにどうして薩摩スチューデントの話を書いたのかというと、たまたまその頃、日本航空が新しく鹿児島便を増便し、JALの広報誌に「薩摩スチューデントのことを書いてくれないか」と頼まれたのが、そもそもの始まりでした。
その頃、僕は薩摩スチューデントのことなんてこれっぽっちも知りませんでしたから、「何ですかそれは」と言ったのですが、どうしてだか私のところにそういう話が来ました(笑)。
何も知らなくては書けないので、急いで取り調べを始め、小文を書いたところ、光文社の編集者がそれを読み、「こんな数ページのものではなく、一つ大長編小説を書いてくれませんか」と言われたんです。大長編小説を書くのはすごく大変だから困ったなと思ったのですが、どこか心惹かれるものがあったので書き始めたのです。結果として私は、これを書いて薩摩スチューデントの歴史的な意義を知ることができ、大変有意義だったなと思います。
薩摩スチューデントとは何か、ということですが、ご案内のように、島津斉彬公というのは大変に開明的なお殿様で、近代的な工場、工場と言っても西洋からみればほんの工場の真似事程度ですが、それをいろいろと作って、いち早く明治に先駆けて文明開化を志向していたことが、よく知られています。
そういう中、薩摩藩が非常に偉かったなと私が思うのは、ただ外国人教師を呼んできて教えてもらえばいい、ということではなく、藩内の有為の青年を選りすぐって当時世界第一等国であったイギリスで学ばせようと考えたことです。
私は執筆にあたり実際に薩摩に行ってみなければいけないと思い、薩摩中を車で走り回って、どういう地勢のところであろうかと調べました。この小説は、着手してから完成まで6年ほどかかっていますが、この間、たびたび薩摩、またイギリスにも参りました。私はもともと文献学者なので、適当に書くことはできないんですね。文献で後づけられるところは極力文献を集め、そして文献の正しく示すところを小説にして、どうしても文献に出てこないところは想像で補う形で、書くことにしました。
ぐるぐると薩摩の山野を駆け巡った結果、私がわかったことは、「まあ、薩摩という国は何という貧しいところだろう」ということです。何しろ桜島がしょっちゅう噴火し、火山灰がどしどし降ってくるわけです。そして年中台風なんかも来る。それから夏は酷熱です。例えば越後のような豊かな水田が広がっていてお米がふんだんに作れるところではないわけですね。
第一、薩摩の国はほとんど山ばかりで、平地がほとんどありません。その平地には火山灰が桜島から降り積もり、火山灰台地になっているので水田は作れません。ですので、薩摩藩は表向きの石高は非常に多いですが、実際にはとても越後みたいな米どころのようにはいかないわけです。薩摩もはずれの坊津(ぼうのつ)あたりに行き、お婆さんとよもやま話をして、このあたりに電気が来たのはいつですかと聞いたら、昭和10年だと言っていました。
そのような辺陬の地であるということをデメリットとみるか、それともメリットとみるかということです。島津斉彬の偉かったのは、この本来デメリットである、辺陬の地で、豊かな土地でないということを、メリットに変えようとしたことです。もしお米ができないのならば、西洋の学術を学んで工業を興して工業立国にしようと考えました。当時諸大名あった中で、こう考えたのは薩摩藩の斉彬だけなのではないでしょうか。
有為の青年の英国渡航を企画
また薩摩は昔から密貿易をやっていたんですね。江戸から遥か遠くにあるということから、さすがに幕府も薩摩半島の向こうまではなかなか密偵の目も及ばなかったのではないかと思います。鑑真和上が着いた、坊津あたりから密貿易船が明・清に出ていたらしい。だから薩摩の男の中には外国人を見たことがある人がいたということです。
当時、そういう密貿易船は、上海や天津といったところに行くのでしょうけれど、そういうところは、当時すでに西洋列強が入り、様々な文物が入っていました。鑑真和上の上陸地点には唐人町もあり、密貿易船に乗って清(しん)国人もきていました。
「薩摩スチューデント」の渡航を企画したのは、五代友厚です。五代才助と言っておりましたが、この五代はしばらく前のNHKの朝ドラ「あさが来た」ではディーン・フジオカが演じていました。なかなかハンサムでかっこいいので皆憧れたかもしれませんが、実物は全然違います。この人は良くも悪くも大山師ですよ(笑)。明らかにはなっていないけれど、上海辺りへ密航していたに違いないと思われる節があります。
五代は斉彬の治世に、藩庁に「五代才助上申書」というものを出すんです。これに、いかにこれから薩摩藩が新しい時代に向かっていかなければいけないかを書いている。それには藩内有為の青少年を世界第一の文明国で、七つの海の覇者の英国に留学生として送り、そこで理数系を主に、軍事のことや工業などを学ばせて帰って来させる。つまり、今の言葉でいうとテクノクラートを養成するため世界第一の工業国のイギリスに若者を送るのが一番だ、と説くのです。だけど、これはそう簡単なことではありません。この「上申書」は面白くて、どうやってこの薩摩の青年たちをイギリスに送る費用を捻出するか、という方法も書いてあるんです。これを見ると、ああ、五代友厚というのは、本当に山師的才能が満々としているなと思うのです。
当時薩摩は蒸気船を持っておりました。それを大阪の堂島のほうへやりまして、そこで奄美大島が飢饉だから御救米を買い付けると言って、大阪の米蔵で売れ残った米をたくさん買い付けると言うんです。そして、船頭にも誰にも言わずに船出して、奄美大島には行かずに、途中から上海に向かわせて、そこでこの米を売り払うと言うのです。日本の米は大変質がいいので当時も高く売れたのだそうですね。
そこでお金が儲かったら、そのお金で上海でイギリス製の蒸気機関による製糖機を買い、これを船に乗せて帰り、この機械を琉球に置いてくる。当時、琉球では鍋の中に砂糖キビのしぼり汁を入れて煮るという原始的なスタイルで砂糖を作っていましたが、それを大規模なイギリス製の蒸気機関で盛大に作るわけです。そしてまた、それを上海に持っていって売り、今度は武器・弾薬を買ってくる。このようにいろいろと売買して儲かったお金で学生たちをイギリスに送ることは造作もない、と書くわけです。
実際にはそういうことはやりませんでした。ただ五代才助がそのような上申書を藩庁に提出した時、それを受け取った家老の小松帯刀(たてわき)という人が五代才助の後ろ盾になります。大久保利通などもたぶんそのバックにいたと思いますが、帯刀が藩論を操作し、結局、薩摩藩がお金を出し、19人の使節を送ることとなりました。
「薩摩スチューデント」の面々
さて、では「薩摩スチューデント」の面々はどのような人物だったでしょうか。まず、薩摩藩使節として筆頭の位置にいるのは新納刑部(にいろぎょうぶ)(久脩(ひさのぶ))という、大目付御軍役日勤視察という役目の藩の大立者ですね。それから松木弘安。維新後には寺島宗則という名で外交官として有名ですが、彼が御船奉行でした。それから五代才助。それから堀孝之という英語の通弁。この人は長崎の人で薩摩ではありませんが、天才的な通訳だったと言われています。この4人は留学生ではなく、諸般の事情を調査しに行く、あるいは外交をするための秘密使節として行くわけです。同時に新納刑部は留学生一党の取り締まりということでした。
では、実際送られる「スチューデント」です。町田民部(久成)は28歳で薩摩の開成所という学校の先生でした。それから村橋直衛、畠山丈之助、名越(なごや)平馬、鮫島誠蔵、田中静洲、中村博愛、森金之丞。これはのちに初代文部卿となる森有礼ですね。それから吉田巳二(みのじ)、市来(いちき)勘十郎、高見弥一、東郷愛之進、町田申四郎、町田清蔵、磯長彦輔。磯長彦輔は薩摩藩の天文方の若様で、当時まだ13歳の少年でした。一番年長でも高見弥一が31歳で、あとは10代、20代の青少年たちです。おそらく当時開成所にいた人たちがほとんどで、皆、秀才揃いだったと思います。つまり才覚ある若い者を選んで、千里の波濤を越えてイギリスへ送るということなのです。
その中で畠山丈之助と吉田巳二の2人は全く開明派ではなく尊王攘夷に凝り固まった人でした。それから村橋直衛と名越平馬の2人は、もともとは行く予定はなかったのですが、この村橋も島津の分家筋の、いわゆる藩閥の武士ですから全然開明的ではない。「除外者」が島津織之助と高橋要人と2人いて、この2人はどうしても行くのは嫌だと言って受け入れなかったので、村橋直衛と名越平馬を補欠として入れたという事情がありました。
畠山丈之助(畠山義成)という人も当番頭で枢要にいる武士で、全然外国のことなんか興味がない人でした。五代友厚の慧眼といいましょうか、偉かったところは、開明派の学生ばかりを選んだわけではないところです。開明派でない人、外国などに興味のない人も、わざわざ選んで送ったんです。
その理由は、この人たちが帰ってきた後、藩論を左右する時に、開明派の人ばかり送ったら、「あいつらは外国かぶれの連中だ」と言って誰も相手にしませんよ。けれど、もともと尊王攘夷を唱えている藩閥派の若い男たちを連れて行けば、彼らが自分たちのそういう凝り固まった旧弊な考え方は間違っていたと、考えを翻すことがあるだろうと。このことがこの挙の成否にかかっていると思ったのだろうと思います。そこが偉いんですね。
もう一人、実はこの他に町田猛彦というのがいて、町田民部の弟なんですが、この人は出発する串木野の近郊の羽島までは行ったのですが、なぜか実際には行かなかった。一説には発狂のためとも言われているし、突然死んでしまったためとも言われていますが、秘密になっていて全然わかりません。何しろこの挙そのものが公にするわけにはいかないから、暗々裏に処理されてしまったのではないかと思います。このように全部で20人行くはずのところが、町田猛彦が欠けたので15人の学生と4人の外交使節が、藩庁のお金で送られたということになります。
「長州ファイブ」と「薩摩スチューデント」の違い
皆さん「長州ファイブ」はご存知ですね。伊藤博文や井上聞多(馨)など長州藩の若者5名が、薩摩スチューデントが渡航する2年前の1863年にロンドンに行きました。
長州ファイブと薩摩スチューデントはどこが一番違うかというと、長州ファイブは密航で本当にこっそり、外国船に乗って、全く奴隷のような境遇で行くのです。記録を見ると、乗ったのは粗末な船でトイレがないので、船から板が出ていて、そこに座って用を足すというんですね。伊藤博文はお腹を下し、命からがらそこで何度も下痢をしたなんていう、汚い記述が残っています。
しかし薩摩のほうは、これも密航は密航なんですが、そういう惨憺たる思いをして行ったのではまったくない。この薩摩一行のバックアップをしたのは、ジャーディン&マセソンです。当時の世界貿易を一手に掌握していた大資本ですね。そのジャーディン&マセソンの手下がトマス・グラバーです。このグラバーがオースタライエン号(Australian)という蒸気船を持っていた。
この船でグラバーが串木野の近くの貧しい漁港羽島まで長崎から迎えに来て香港まで行きます。そして香港にはいわゆる東洋航路を一手に独占していたP&O汽船会社の立派な蒸気船が就航しています。薩摩スチューデント一行は、全員この世界一流のP&O汽船会社の一等船客として行くんです。東洋航路はサウサンプトンから出て、ジブラルタルから地中海を通り、スエズ運河はまだできていませんでしたから、スエズ鉄道でアレキサンドリアからスエズまで行って、スエズで別の船に乗って、インド洋を通って、そしてマレー半島の沖を通って香港まで来るのです。
一等船客で行くということは非常にお金がかかる。香港からロンドンまで、今のお金にすると大体1人2500万円ぐらいかかったそうです。一流のホテルに泊まっているのと一緒です。それが20人分ですから5億円ぐらい。これを薩摩藩はポンと出した。
そのことにどういう意味があったか。そこが薩摩藩の偉かったところだと私は思うのです。長州の伊藤博文たちは食うや食わずでしたが、薩摩は悠々と、一等船客で毎日ごちそうを食べて行った。香港からイギリスまでの船路は、香港からシンガポール、それからペナン、セイロンのガル(ゴール)、そこからボンベイ、アデン、スエズ。スエズからは鉄道でアレキサンドリア、そこでまた別の船に乗ってマルタ、それからジブラルタル、そしてサウサンプトンですが、今申しました港は、すべてイギリス領です。
つまりこのスチューデントたちはすべてイギリス領の港々を辿りながら、ロンドンまで悠々とごちそうを食べながら行ったわけですね。そしてその行った先々の港で、いわば当時の最先端の文明というものを見ることができた。いきなりイギリスに連れて行かれたのでは目もくらむようなものですが、長い船路の間に少しずつ西洋の文明に実際触れ、西洋人とも付き合って、西洋のマナーや服装などを学びながらロンドンに着くというスタイルなんですね。そのために藩庁は今のお金で5億ものお金を惜しまず出した。これはやはり小松帯刀という人が大変偉かったのだろう。また殿様も、それだけの人物だったのだろうと思います。
様々な文献からわかってきたこと
私はできるだけ事実に基づいて描きたいと思いましたので、まずは極力文献を収集しました。実際、彼らがどういう船に乗っていたのかということがわからなければ、船の中のことを描けません。当時のことが描かれたP&O汽船会社の図録本には、船室の設計図だとかそういうのも全部出てくるので、そういうことを調べることで、現実的な情景としてこれを描くことができるようになる。
それから港です。私はこの仕事をやって驚いたのですが、当時イギリスはすでに香港まで海底電線を引いていました。香港は中国経営のために非常に枢要な都市です。そこで商売をする時に、例えば金の値がどのくらい上がったか下がったかといったことを、ロンドンと香港で逐一共有しなければいけない。そのためにはやはり電信線を引かなければということで、これが香港までもう届いていました。すると、香港であったことは、即日ロンドンでわかるわけです。
そんなことは当時の日本人には想像もつかないことです。江戸からお伊勢さんにお参りするのに、テクテク歩いて2週間。それが地球の裏側のイギリスまで即日に電信で連絡ができるということは驚天動地です。
さて、港々でスチューデントたちは降りて何をしたのか。それは大体わかるんです。一つ資料を紹介します。「畠山義成洋行日記」というもので、「畠山義成君初めて洋行の時の記」というのが正式な題名です。この畠山は非常に筆まめな人で、克明に日記を書いています。
それによると元治2年正月20日に出発をするわけです。この本は鹿児島県立図書館にあり、もともとはおそらく毛筆で書かれたのでしょうが、その本をペン書きで明治時代に誰かが引き写した転写本だけが残っています。ちょっと読んでみますと、「元治二年、乙丑正月二十日晴天、一つ、六ツ半時分刑部殿、お立合い御座なされ候ところ、ただちに立ち出、御同道にて…前へ横井町之着き候」。その次の○○というのは何だかよくわからないですが、「本田弥右衛門殿も同所○○暫時咄共之れ有り。楠公社之我々立ち候、一行参詣、夫れより伊集院町之暫時休息いたし候。妙園寺之参詣、武運を祈誓奉り、苗代川へ七ツ後に着致し候」。
万事がこの調子で書いてあり、読めないところも少しあるんですが、非常にまめに出発からロンドンでの暮らしまでが書かれています。これが私の執筆のための貴重な第一次資料となりました。
また、スチューデントの中に市来勘十郎というのがいます。これは松村淳蔵という偽名があります。当時、密航死罪となる大罪でしたから、あくまでも表向きのこの船出は「甑島(こしきじま)その他、大島諸所へ御手元御用の儀」ということで、藩庁には甑島方面に用があるので船出をするという届が出ています。でも、それは全くの嘘で、実際には、行った人たちは脱藩のような形になっているんです。それが誰かはわかっては困るというので、全員偽名を名乗る。新納刑部は石垣鋭之助、松木弘安は出水泉蔵、五代才助は関研蔵、堀孝之は高木政次という具合です。
でも、その中で、市来勘十郎は明治維新後もずっと松村淳蔵を正式な名前として名乗っています。それから薩摩藩の天文方を務めていた名家の磯長彦輔という人は、長沢鼎という偽名を名乗り、彼も明治維新後はこの長沢鼎を本名として使っています。
この市来勘十郎(松村淳蔵)もある程度日記を残していて、それは『薩藩海軍史』という分厚い本に載っていて、どなたも読むことができます。それから五代友厚については『五代友厚伝記資料』という本があり、五代が藩庁に提出した書類などがそこに記録されて残っています。それから『吉田清成関係文書』というものがあります。吉田清成(巳二)という人は後に外交官として活躍するので正式の文書が残っているわけです。
さらに『鮫島尚信在欧外交書簡録』という本が出ています。この鮫島尚信(誠蔵)という人は明治時代最大の外交官だったのではないかと思います。この人は語学の天才で、正式な外交官になりますからその人の在外外交文書が残って公開されています。そのように正式の文書として残っているものもあるので、こういうものをまず読むことが第一の研究でした。それにしても畠山義成が本当に詳しく書き残しておいてくれたのは誠に有り難かったです。
その他、町田清蔵というのは町田兄弟の四男だと思いますが、明治時代には財部実行と名乗り、それなりの活躍をし、後に史談会で、薩摩スチューデントの渡航の昔話を語っています。面白いんですが、こういう思い出話はずいぶん不正確なので、そのあたりはいろいろな資料を突き合わせて、どこまでが真実かを取り調べなければなりません。
当時の地図から見えてくる港の姿
さて、実際に彼らが立ち寄った港々がどういうところであったのか。シンガポールや香港などは、「ピクトリアル香港」のような図録本に、19世紀初頭の様子などの写真や解説が載っているので、どういう状況だったかはよくわかるのですが、その他の港についてはなかなかわからない。そこで、基本的に私がとった方法はどういうものかというと、一つは地図を収集することです。これは、日本にいたのではできません。私がとった方法は、ケンブリッジ大学に地図室というのがあるので、そこへ行って、港々の地図を調べてもらいました。
イギリスでは大英図書館とケンブリッジとオックスフォードの図書館は著作権図書館で、基本的に全ての著作物はそこに納入されることになっているので、どの町の地図もほとんど毎年のようにあるんです。ですから大体2、3年の違いで、1860年代のペナンやセイロン島のガルの地図を手に入れることできました。
その当時の地図というのは今の地図と違い、例えば島の近くの水深が書いてあったりするんです。そうするとどちらの方向から船がこの港に侵入したかが、水深を見ればわかるんですね。それから、地図の海のところの余白に、こちらの海上から見たこの島のスケッチが描いてあるんですよ。それから地図をよく見ると、ここはヤシ畑とか、荒れ地とか、いろいろなことが記号で入っている。
こういうものを見ますと、船がどの方向から、どういう風景を見ながら陸に接近していき、そして着いてからどういう風景が見えたか、大体想像がつきます。そういう基本的な調査が歴史小説では非常に大切で、どこまで本当に近いところに迫れるかということが死活問題です。
それから、スエズ運河の成り立ちをすべて書いた『スエズ』という本があるんですね。図版が豊富で、当時どのようになっていたかがよくわかる。またThe IllustratedLondon Newsという当時の有名な英字新聞の1863年2月21日号に、スエズ運河の工事現場の銅版画が出ております。こういうものも丹念に、イギリスの古書店などで探して見つけて買ってくるわけです。
実はアラビア半島のアデンは私の家とゆかりがあるのです。私の曾祖父は林譲作という人で、明治時代、大変優秀な海軍士官でした。築地に海軍兵学寮(後の兵学校)ができた時のごく初期の生徒で、水雷科の俊秀でした。そして、フランスに建艦を依頼していた軍艦厳島の受け取り士官として現地に行きました。ところがナポリの王様に謁見したりして、ごちそうを食べたら腸チフスになってしまい、帰国途中アデンで死んでしまうんです。当地で火葬にふしたので曾祖父はアデンに眠っています。
そのアデンはどのようであったか。アデンは辺境ですからなかなかわからないんです。ロンドンの大英博物館の前に古本屋さんがたくさんあり、そこにオリエンタルブックショップという、東洋関係のものばかり扱っている店があります。そのユダヤ人の主人がなかなか曲者で、「林さん、これどうですか」と、いろいろなものを出してくるので、ついつい彼の出してきたものを買ってしまう。
そのようにしてだんだん仲良くなりまして、何度か行っているうちに、「19世紀の終わり頃のアデンを知りたいんだけど、何か資料はありませんか」と聞いたら、奥から当時のアデンを撮った、鶏卵紙の生焼き付け写真を2枚持ってきて、1枚25ポンドで売ってくれました。
そんなふうに港町は一つ一つ、極力目に見えるような形で調べて、どこへ、どのように彼らが立ち寄ったかということを小説では書いています。このように資料の裏付けを取って書いているということをおわかりいただけると有り難いです。
サウサンプトンからロンドンまでの風景を辿って
さて、スチューデントが実際にイギリスに着いてからはどうであったか。この船はサウサンプトンに到着するんですが、当時イギリスの貿易港としてここは非常に栄えておりました。サウサンプトン港は天然の要害のようなところで、非常に波静かなのです。ドーバー海峡のあたりは、波が荒くて風が強いのですが、サウサンプトンはそんなことはなくて、港に非常に適している。
すでに当時、サウサンプトンからロンドンまでサウス・ウエスタン鉄道が通じていました。このサウサンプトンのターミナル駅の駅舎は、現在も建物が残っていて、これがすなわち薩摩スチューデントが見たものです(写真)。低いほうの建物がサウサンプトンの終着駅だった建物です。サウサンプトン・ターミナスという名前で呼ばれていました。隣の建物はサウス・ウエスタン鉄道が経営していたターミナルホテルです。彼らはサウサンプトンに朝早く着くと、このホテルに入って休息し、夕方の列車でロンドンに向かうのです。
現在のサウサンプトン駅は別のところにあり、ターミナスの駅舎は現在カジノとして使用され、隣の旧ホテルはリゾートマンションに転用されています。このようにイギリスというのは、150年程度の昔であれば、今でも建物が残っているのですね。建物の中も見せてもらいましたが、当時のレールが残っているんです。このレールを通ってロンドンに行ったのだろうと思います。今も鉄道は当時のサウス・ウエスタン鉄道と同じ路線を走っていますので、スチューデントがロンドンまで行くのにどういう風景を見たかがわかります。
それで私は東大で景観学というものを勉強している助手を連れてまいりまして、私が進行方向左側、その学生は右側に座って、同じ鉄路を行ったり来たり何度も往復しながら、何が見えるかを逐一メモしました。そのように調べて、当時の薩摩スチューデントが見た風景を小説の中に書いています。幸いにイギリスは当時とあまり風景が変わらないのでとても有り難いんです。
ロンドンでの留学頓挫の事情
本来、この薩摩スチューデントは2年ぐらいロンドンのユニヴァーシティ・コレッジに留学させる予定でした。当時、オックスフォードとケンブリッジは、原則としてイギリス人、特にイギリス国教会の信者でないと入れてくれないんですね。そこで、ロンドンに新しく庶民のための、宗派に関係なく入ることができるように作られたのがユニヴァーシティ・コレッジという当時最先端の大学です。
なぜこの小説が『薩摩スチューデント、西へ』となっているかというと、この薩摩スチューデントという挙は、実はちゃんと成果を収めたとは言えないんです。まず、着いたのが夏休みでユニヴァーシティ・コレッジはまだ始まっていなかった。そこで秋の新学期が始まるまで、彼らはケンジントンのベイズウォーターの近くに一軒家を借りて下宿をし、そこに賄い婦と語学の先生など何人かを雇った。ちょうどケンジントンパークの北側のところです。あのあたりは今でこそ大変繁華ですが、1865年前後は新興住宅地で、そこからちょっと西に行くと、まだ一面が牧場のような田園だったんですね。
そして、大学がいよいよ始まる頃になりますと、日本では段々幕末騒乱の時期となって、当時薩摩藩は矢継早に九艘の蒸気船をイギリスから購入したりしていますので、さすがに予算が逼迫してきたとみえます。これは幕府の水軍に対抗するためでしょうね。それも全部いくらで買ったということまでわかっています。そういう資料を見ると、なぜ薩摩スチューデントの留学の挙が挫折したかは、結局お金がなくなってしまったからなのだとわかります。
さあ、これから新学期と張り切っているところに、藩費が続かないから帰国せよという命令が出るんです。それでこの学生たちは、アメリカやフランスに移ったりしてちりぢりバラバラになって、それぞれの道をたどって帰国してしまいます。薩摩スチューデントがその後イギリスでどういう勉強をしたかをどうして本に書いていないのですかと言うけれど、勉強をしようと思っているときに、その挙そのものがなくなってしまったんですね。だから、西に行くまでの旅の間の見聞が彼らの一生を規定したんだ、ということが、一番私がこの小説で書きたかったことなんです。
旅の途上で西洋文明を知る
西に行くまでの旅の間の見聞が彼らに大きな影響を与えたということは様々なところからわかるんです。例えば香港に行った際、ライル・ホームというグラバーの番頭みたいな人が案内役として付くんですが、彼がボタニカルガーデンに一行を案内する。これはその前年に香港に開かれた植物園で、今で言うイングリッシュガーデンです。ボタニカルアート、ボタニカルガーデンというものはイギリスの非常に重要な文化の一つですが、そういう出来立ての美しい庭園を見せられたわけですね。それから当時、イギリス人が持っていたドックへも見学に行っています。
シンガポールに着いた時は、2つ大きなことがありました。これは松村淳蔵の日記のほうに詳しく、「土地の人、黒人裸体またよく水に入り、銭を水に投ずるに入水してよく水心知る」とあります。つまり黒人の少年たちが海で泳いでいて、そこに銭を投げると、この少年たちがその銭を拾うということがしきりと行われていたというわけです。そういうものを見て、薩摩の学生たちはどう思ったでしょうか。もし自分たちの薩摩、日本がシンガポールや香港のような植民地になったら、西洋人の投げた銭を喜んで拾ってくるのは自分たちになってしまうのではないかと思ったに違いないと思います。
もう一つ、これは畠山義成も松村淳蔵も日記に詳しく書いているのですが、オランダ人の商人らしき人がシンガポールにおり、この人の奥さんと子どもはオランダに帰ることになった。そしていよいよ家族が別れるという時のことをこう書いています。「西洋人訣別甚切なる物也、爰に和蘭(オランダ)の人、此「シンガポール」の隣国に商売にてか来たりて居し、然るに故有て其妻は先に帰国なる、其時其夫送別に船迄来たる、尤子四五人有ると見え候、互いに別離の愛情難忍見へ候。期に臨て訣袖の時は、夫か右の妻の口を吸ひ候て別候。その次第実に傍よりも痛敷みえ候。扨一度にては落着かず、再び吸合ふたる傍には開帆の事に、欧羅巴印度船客に送別に来る人数百人来たりし中には、とんと傍に人なきが如くみへ候。子供にも同断、右の親が口を吸ひつつ別れけり、我輩は斯ることははじめて見たることにて驚嘆して居し、親敷別には口を互に吸ふが尤もよき禮と聞き及び候」(松村日記)。
日本人の当時の考えでいうと、口吸い(接吻)というのは人前では絶対にしない。これは房事、寝室の中の色ごとに属していましたから、子どもも見ている、衆人環視の前で何度も口を吸い合っているのは、すごいショックだったと思います。でも、これが西洋人の流儀だということを、おそらくホームからでも教わったのでしょう。後に新納刑部は留学中だった自分の息子にこのことを手紙で書き送って、これが西洋人の流儀だと言っております。そういう一つ一つのことから、ずいぶん文化というのは違うものだと知ったのだと思います。
また、香港はガス灯が点いているから、夜もこうこうと明るい。鹿児島の町なんか、夜になれば真っ暗けだ、これは全然違うんだと、こうやって西洋の文物を学んでいく。
スエズで製氷所を見学
そしてスエズに着くと、そこから汽車に乗るのですが、途中のカイロ駅のホテルで休息するんですね。そのときに駅に着くと、「薩摩ご一行様、こちら」という大きな札が出ていた。どうしてこの人たちは何百里も離れているのに、俺たちがこの汽車で着くことがわかったんだろうと、不思議でしょうがない。そうするとホームが、「いや、もう電信で知らせてありますから」と言う。電信とは何かと言うと、線路の脇に線がずっと立っている、あれで知らせると。
また、スエズ運河を作るのに、人夫たちのキャンプみたいな飯場がずっとあるわけです。人力で運河を掘るわけですが、砂州に近い、干潟に近い浅いところはdredgerという浚渫船を使って、砂を掘ってスエズ運河は作られているんです。そういうところも見て、運河を作るには、こういう船も必要なんだと学ぶ。
スエズでは製氷所も見学に行っています。それより以前にインド洋を走っていた時、一行はアイスクリームを食べるんです。酷熱のインド洋で、一等船客にはアイスクリームが振る舞われた。薩摩のお侍さんたちにとって、このように冷たいものがどうやってこの酷熱の船の中に置いておけるのだろうと不思議でならない。まさか氷を作っているとは思わないですから。すでにこの頃、アンモニアを使う製氷機ができていたのですね。
それで、スエズで製氷所を見に行くのですが、その前に製水所があり、そこは海水を汲み上げて石炭を燃やして蒸発させて真水を作るんです。そういう水工場と製氷所があるわけです。それがなければ、あんな砂漠の中で何千人という人夫を働かせることはできない。その巨大なる計画を見て、びっくり仰天したことが書かれています。
そんなふうに、行く先々で彼らは西洋文明というものはどういうものなのかを実地に学んでいく。ここに、薩摩藩が一等船室の客として若い人たちを旅させたことの意義があって、向こうに行って学んだことは実はそれほどでもないにしても、この長々とした旅の間に彼らが学んだことは実に莫大なことであったと思います。
モンブラン伯爵とオリファント
この時代は、怪しい輩もいっぱい暗躍するんです。モンブラン伯爵(コント・モンブラン)というフランス人がいて、「北義国(ベルギー)商社条約」とかいうようなものを薩摩藩と結ぶんです。薩摩藩の海外貿易はすべてこのモンブラン伯爵がエージェントになるという条約なんですが、薩摩藩はこの条約を全く守りませんでした。
なぜかというと、たぶんこのモンブランは最初は幕府に接近したと思うんですが、相手にされなくて、それではというので薩摩のほうに来たらしい。ちょうどそのとき五代たちの使節役がイギリスにいるのを、モンブランはフランスの自分のお城に招待して大歓迎するんです。それですっかり五代は信用して条約を結ぶ。ところが白川(斎藤)健次郎という通訳が付いているんですが、これが実にいかがわしい人物なんです。後に鮫島誠蔵が手紙で、誠にいかがわしい人物と書いている。このように薩摩藩の枢要のところに、「モンブラン信用するべからず」ということがおそらく行ったと見えます。だから一応条約は結んだけれど、少しもモンブランを相手にしなかった。
そこで後にモンブランは条約違反ではないかと文句を言って、鹿児島までやってくるんです。ところが五代友厚はモンブランよりも山師的才能では一枚も二枚も上なんです。開聞岳のふもとの温泉場に連れていき、そこでごちそう攻めにしまして、ああだこうだと、一切言うことを聞かずにそのまま帰してしまい、薩摩藩はモンブランに騙されないで済むんですね。それもやはり彼らがイギリスで、ヨーロッパの人たちの有り様を見ていたからだと思います。
また、当時イギリス外交部で松木弘安らの相手をしたのはローレンス・オリファントという人です。このオリファントは日本で浪人に斬られて重傷を負ってひどい目にあったんですが、終生非常に親日的でした。ちょうど松木たちがロシアの状況も視察してイギリスに帰ってきた時、あの国は自分たちのことしか考えない国だから信用するなと言うんです。
ところがオリファントが偉いのはそれだけではない。ロシアは信ずべからざる国だ。だけど、ではイギリスは信じるべき国かと言ったら、そんなことはないと言うんです。ヨーロッパの列強というのは、相手に隙があったらこれを食い物にしようと思っている連中なんだから、日本はヨーロッパと付き合うにはゆめゆめ騙されないように、油断してはいけないと言うんです。
蒸気耕運機を即座にマスターした日本人
ロンドンでこの薩摩の一行を指導したのは、アレグザンダー・ウイリアム・ウイリアムソンという人なんです。この人は右手が少し不自由で、化学者なんですが、非常に篤実、誠実の士であった。このウイリアムソン博士が彼ら一行を、7月29日にベドフォードというところに案内します。このベドフォードには当時、ブリタニア鉄工所という大工場がありました。ここではチャンピオン号という蒸気耕作機械を世界最先端の技術で作って、アメリカなど世界中に輸出していました。
私は実際にブリタニア鉄工所跡に見学に行きましたけれど、もう全く工場は残っていなくて、門だけが記念物としてありました。そこでの彼らの様子は、『The BedfordTimes & Bedfordshire Independent』という新聞に出ています。
「去る土曜日、大英帝国の農業ならびに工業に関する知識を得るために日本の諸侯より派遣された日本人の一団がブリタニア鉄工所を訪問した。彼らはロンドン大学のウイリアムソン教授ならびにグラスゴー大学の自然哲学教授その他著名の科学者に引率され、探究に当たってその指示に従った。日本人は、その風変わりな体つきがかなり興味を引き、蒙古人風の風貌が印象的であったが、しかし彼らは機械ならびにその工場における操作の過程に多大の興味を寄せた。とりわけ、おのおの細部に至るまで驚くべき速さで理解するようであった。工場を立ち去るについて、彼らはきわめて名残惜しい風情を見せたが、とりわけ最新型の蒸気耕運機の運転を目の当たりにして、およそ15人ほどの日本人たちはその機械に殺到して、まさに足の踏み場もないというようなありさまであった。そしてその広い中庭を喜び勇んで右往左往しつつ見学して回るのを見るのは、まことに興味深い風景であった。工場で3時間ほど過ごした後、一行はわれらが敬愛する市長(ジェームズ・ハワード氏)との昼食に臨み、そのあと、ハワード家のクラパムの農場における蒸気鋤の実見に赴いた。そこで、彼らの驚きは極点に達した。そのマシンの操作が、想像していたよりもはるかに容易であることを発見したからである。あまつさえ、そこで作業中の刈取り機の操作を、彼らはたちどころにマスターして、巧みに操ってみせた。ついでに、彼らはビドナムのチャールズ・ハワード農場へ、有名な短角牛と羊を見学に赴き、その後またハワード市長邸において晩餐を共にして、最終列車でロンドンへ帰った」(林訳)。
つまり当時世界最先端の機械であった蒸気鋤の操作を、彼らはたちどころにマスターして運転して回ったというわけです。その優れた知性と科学的な思考法を見て、イギリス人は日本人に対してちょっと特別の感情を持った。そして薩摩藩とイギリスが特別の友誼に結ばれていたことは、その後の明治維新の展開に非常に大きな意味を持ちました。
ロンドンで結ばれた薩長の若者たちの絆
維新から約30年後、日露戦争の前に、両国間に日英同盟が結ばれます(1902年)。日英同盟というのは、言ってみれば海軍の同盟です。明治政府で海軍は薩摩が作り、陸軍は長州が作ったんですね。条約改正に真っ先に応じた(1894年)のもイギリスです。その時に、この薩摩スチューデントたちがいわゆるテクノクラートとして、陰になり日なたになり、大きな役割を果たしただろうことは想像するに難くないわけです。
そういうことは、いわゆる明治の元勲の働きというものとはまたちょっと違うので、あまりテレビドラマなどにはなりません。けれど、例えば畠山義成は東京大学の前身である東京開成学校の初代校長です。それから、東京博物館(現国立科学博物館)、今の国立国会図書館の前身である東京書籍館の館長もこの畠山が兼務したのです。
明治維新というといわゆる西郷隆盛や大久保利通といった元勲ばかりに目が行きますが、実際には明治政府を運転していたのは、薩摩スチューデントに代表されるテクノクラートたちでした。山尾庸三という「長州ファイブ」の一人がいますが、その人はイギリスに来た時、グラスゴーに工業の勉強に行きたかったけれど、彼らにはお金がなかった。そこで薩摩人がロンドンにやってきた時、山尾がグラスゴーに行きたいけれどお金がないと聞いて、皆1ポンドずつ出し、彼を工業の勉強に行かせたことがありました。後にこの山尾は日本インダストリーの父と言われて工部卿になりますが、そうなったのは薩摩スチューデントが喜んで協力して、彼をグラスゴーに送り出したからです。
「長州ファイブ」という映画があるけれど、あの映画は、長州の5人と薩摩の学生たちは酒場で喧嘩をしたようなことを言っているらしいんだけど、それは大嘘で、真実は、薩摩の学生たちが着いたその3日後には、長州の学生たちは面会を求めています。その仲立ちをしたのがグラバー商会のホームです。薩長同盟は坂本龍馬がやったと言われますが、薩長同盟ができる前に、ロンドンでは薩長の若者たちは手を携えて、日本の将来のために勉強をしていた。このことは忘れてはならないのではないかと思います。
時間が過ぎてしまいました。今日はこのぐらいにいたします。有り難うございました。
(本稿は2024年12月4日に行われた「第713回三田演説会」での講演を元に構成したものです。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。