登場者プロフィール

松沢 裕作(まつざわ ゆうさく)
経済学部 教授
松沢 裕作(まつざわ ゆうさく)
経済学部 教授
2023/07/27
本日は講演をする機会をいただきまして、誠に有り難うございます。私は日本近代史の研究、とりわけ江戸から明治の時代にかけての社会の移行について研究しています。そういう者にとって、三田演説館の壇上で話をするのは特別な機会です。言うまでもなく三田演説館という場所は、近代日本において、言葉によるコミュニケーションによって世の中を形成していく試みが組織的に行われた、最初期の現場です。そのようなわけで今日は演説家になった気分でしゃべらせていただこうと思います。
近代日本の原型はいったいどのようにつくられたのか、自分の研究を顧みながら、また多くの先学の研究に学びながら、今日は自分なりの見通しを提示してみたいと思います。「戦争・立身・ジェンダー」と掲げました通り、柱は3つあります。抽象的に言うと、戦争とはつまり暴力の契機です。立身とは競争の契機。ジェンダーとは性別役割分離あるいは性別役割分業の観点です。近代日本は暴力によって、また競争によって、また性別役割分離のあり方が新しくつくり直されることによって、誕生していった側面があったと考えられますが、同時に、近代という時間軸、近代日本の社会の動きの中で新たな暴力、競争、性別役割分離が相互に絡み合いながら、それぞれの新しいあり方が生み出されたと考えられます。
福澤諭吉における暴力の問題
まずは戦争についてです。今日まさにこの日が記念されている所以は、上野戦争です。慶応4年5月15日(1868年7月4日)、上野・寛永寺に立てこもった彰義隊と新政府軍の間に戦闘が行われました。そのさなかにもかかわらず、福澤諭吉はウェーランド経済書の講述を続けました。そして、「慶應義塾は一日も休業したことはない」(『福翁自伝』)、この有名な福澤諭吉の言葉が残されています。
この『福翁自伝』の中の一節に続く部分に、非常に印象的な文章があります。
「夫(そ)れはそれとして又(また)一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云(い)うに、去年から出陣してさん〴〵奥州地方で戦(たたかつ)て漸(ようや)く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てゝその儘(まま)塾に来たと云うような少年生が中々多い。(…)実に血腥(ちなまぐさ)い怖い人物で、一見先まず手の着けやうがない」。
戦争に参加した人たちをいかに義塾の教育の場に取り込んでいったかというエピソードが続くわけですが、戦争の空気が当時の慶應義塾に流れ込んでいたことがここからも窺うことができます。
そして、これも『福翁自伝』に出てくる有名なエピソードですが、福澤は幕末から明治の初期にかけて、長期にわたり暗殺される恐怖を抱えていたことを率直に語っています。いろいろな形で暗殺されかけたエピソードが出てきますが、それをまとめるように「不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である。この味は狙われた者より外(ほか)に分るまいと思う」と書いています。福澤にとって暗殺の恐怖は、幕末の攘夷派はもちろん明治の初めの頃までずっと続いていた。慶應義塾発足期において、福澤が自分の身を暴力から守ること、慶應義塾において暴力をコントロールすることに大きな注意を払っていたことが、『自伝』からは読み取れます(河野有理「暗殺と政治」)。
戊辰戦争を戦ったのは誰か?
暴力行使の拡大と、それがいつ行使されるのか予測がつかない状況が、日本の近世・近代移行期の、明治維新と言われる政治と社会の動きの中に存在していたことを軽く見るべきではない、というのが私の立場です。このような状況がどのように生まれたのかというのが次の主題です。直接のテーマは戊辰戦争ですが、新政府軍と旧幕府軍の間で行われたこの戦争は、かなりの部分で戦闘を交えず、各藩が新政府側に恭順する具合で進みますが、東北地方や北関東をはじめ、局地的な戦闘はあちこちで起こります。
戊辰戦争が軍事史的にどのような特徴をもつかというと、新政府軍も幕府側の軍隊も江戸時代の方法ではなく、西洋近代型の軍制、兵隊で戦ったことです(保谷徹『戊辰戦争』)。新政府軍は直轄軍がいるわけではありません。廃藩置県もしていないので、各大名の軍隊を寄せ集め、それに命令し戦争をしていました。しかし、寄せ集めるに際して、新政府側は江戸時代型の騎馬武者の軍隊で来るな、大砲と鉄砲で編成された西洋式の軍隊で参戦するようにと各大名に求めました。一方、幕府側もその直前に軍制改革を行っており、基本的には西洋型の軍隊の仕組みを整えています。
江戸時代の軍隊は鉄砲、弓、長槍を併用しますが、最終決戦は騎馬に乗った武者による白兵戦で決着をつけることを前提にしています。したがって、その中核には騎馬武者がおり、その周りを固める従者がいました。その前には鉄砲隊や槍隊もいましたが、そういう戦闘ユニットで構成されていました。これは江戸時代の最初にシステム化された軍事力の編制ですが、江戸時代は支配者の武士が、実際に戦闘行為を行うことはほぼありませんでした。
ところが、幕末になって国内外で軍事的な緊張が俄然高まると、実力を行使する可能性が高まります。その時は、もう軍事技術は海外では全然違うレベルに達しており、とりわけ幕末・維新期に日本に流入してきたライフル銃が画期的なものでした。ライフル銃とは銃の筒の中に溝が掘ってあり、撃った時に回転して弾が出る。正確に当てるための射程距離がそれまでの銃とはまったく違い、飛躍的に伸びました。軍事衝突の可能性が高まると、当然幕府をはじめ、各藩はそれを導入します。するとライフル銃をより効率的に使う軍隊が強いということになり、騎馬武者の前に鉄砲隊がいる江戸時代型のやり方では勝てなくなります。そこで銃の導入だけではなく、軍隊のあり方も再編成しなければならなくなる。軍制改革によって騎馬武者と従者という戦闘ユニットを解体し、指揮官である士官と兵卒の2層から構成される、集団戦を行うための西洋式の軍制が導入されるようになるのです。
幕末に幕府や各藩で軍制改革が実行されたのは、実際に戦争になる可能性が高まる中で、西洋式を採り入れないと負けてしまう状況があったからです。これも一種の競争で、お互い競い合うようにそれを採り入れていきます。戊辰戦争とは、江戸時代の軍隊から近代の軍隊への移行期に起きた戦争であり、単に技術的に新しくなった武器で戦っただけではなく、軍制改革と連動して社会のあり方そのものが大きく変わるような戦争だったことが重要なのです。
江戸幕府は幕末に、数回にわたり軍制改革を行いますが、江戸時代の軍隊のあり方を決定的に解体したのは戊辰戦争の直前、慶応3年9月の軍制改革でした。軍隊の基本だった旗本たちは、幕府の軍事力の中核的な担い手と考えられてきましたが、この改革で、旗本たちの軍隊が解体されました。彼らはそれまで石高に応じて、馬に乗り、手下を引き連れる軍事奉仕の義務を将軍に対して負っていましたが、それはもうしなくていい、代わりにお金を出しなさい、となり、旗本はそれぞれ与えられていた領地の分のお金を幕府に払うこととなりました。そして幕府はそのお金で兵隊を雇う。いわば直接雇用の傭兵をつくろうとします。
この時、兵士をどのように雇ったかがポイントです。江戸時代には人宿(ひとやど)と呼ばれる、奉公人の斡旋業者があり、武家屋敷だけでなく、土木工事などいろいろなところに労働力を周旋していました。幕府は江戸市中の有力な人宿を「歩卒請負人頭取」に任命し、歩兵を集めさせたのです。大名や旗本はもともとこうした人宿を通じ、市中から奉公人を従者として抱え入れていました。戦闘をするわけではない時は大名ごとに奉公人の需要が変わるため、人宿でその数を調整していました。武家屋敷は基本的に派遣業者に依存していたのです。それを軍事力に転嫁させるというのが幕府の計画でした。こうして幕府歩兵隊がつくられますが、その実態は、現在風に言うと労働者派遣業者である人宿を通じて雇用された都市下層民です。人宿にプールされているのは肉体労働者で、その中から腕っぷしの強い奴を集め、兵隊として雇い入れる形で歩兵隊は編成されました。
幕府歩兵隊は、鳥羽・伏見の戦いや京都での軍事衝突で実際の戦場に投入され、薩摩藩などの新政府に負けて江戸に戻ってきます。その時、徳川慶喜は軍艦に乗って大坂から江戸に戻りますが、幕府歩兵隊は東海道を帰ってきました。江戸に帰ると、徳川慶喜は恭順姿勢で基本的には抵抗しない。一定程度の軍事力を背景にしつつ基本的には逆らわない姿勢を示していました。そうすると、幕府歩兵隊の者たちは仕事がありません。帰ってきたら、もう戦争は起こりそうもなくなっていた。その中で、幕府の中に徹底抗戦派が出て、歩兵隊を率いて脱走する者が現れました。歩兵隊の中には、どのみち失業するだけなので、まだ戦争すると言う人がいるならそれについて戦争しようという者が現れ、歩兵隊の脱走が相次ぐことになります。
暴力の拡散・政治参加の拡散
彼らの主たる戦場となったのは北関東での戦いです。慶応4年4月に北関東で新政府軍と幕府歩兵隊の残党がかなり激しく衝突しました。この時、新政府軍側の参謀に土佐藩の板垣退助がいました。板垣は後に自由民権運動の指導者として有名になりますが、この時は土佐藩のリーダーとして戊辰戦争に参加しており、とくに会津戦争などでは軍事的な活躍をもってその名が知られます。この北関東の戦いの時にも戦場で指揮を執っています。
板垣の回想に、旧幕府軍と戦って「敵の死兵を検すれば、多くは是れ賤劣なる文身彫青せる破落戸」という一節があります。戦場で両方とも相当数の戦死者を出し、戦死者の状況を見に行くと、死兵の多くは刺青を入れている破落戸(はらくこ)(ならず者)でした。この露骨に差別的な表現は自由民権運動の指導者である板垣のイメージと乖離しますが、刺青を入れた破落戸が大勢いたのは、江戸の都市下層の人たちが軍隊に加わっていたからです。こういう人たちが戦場にたくさん投入されたのが戊辰戦争でした。
もちろん新政府軍、旧幕府軍とも、兵卒のすべてが都市下層民だったわけではありませんが、資料によると、何らかの形で労働の請負業者に依存した部隊編成が諸藩で散見されます。とくに有名なのが名古屋の尾張藩の部隊です(長谷川昇『博徒と自由民権』)。ここは博徒の親分が手下を引き連れて軍隊を編成していました。博徒の親分と人宿の斡旋はかなり似通った世界で、腕っぷしの強い人たちをたくさん軍に取り込んで戦争が行われていたのです。こういう人たちの総数は不明ですが、肝心なのは、江戸時代には戦闘員ではあり得なかった人たちが戦場に出ていることです。明治になり、徴兵令が施行され国民に兵役の義務が課されるよりも前に、すでに非戦闘員であるはずの人が傭兵として戦場に出ていたということです。つまり、江戸時代の社会の編成原理を大きく揺るがすものだったことが重要です。
江戸時代の社会は武士が支配者です。武士は軍事力の担い手であり、同時に政治権力の担い手でした。これが江戸時代の社会の基本的な構成原理です。この図式が戊辰戦争では崩れてしまう。社会の根本の部分が機能しないことが戊辰戦争では明らかになりました。
武士だけでは戦争はできないということ、それが暴力の拡散を生んでいくわけです。武士身分以外の人たちが戦場に投入され、その中から後に自由民権運動に参加する人々が出てきます。例えば、先ほどの尾張藩の博徒の親分が組織したような軍隊の人たちは、明治10年代に入ると自由民権運動の一部の担い手として姿を現すことになります。さらに、もう少し知られた例では、後に板垣と並び自由民権運動の指導者として知られる、福島の三春出身の河野広中(ひろなか)という人物は少なくとも武士の家の出ではありません。しかし、戊辰戦争では新政府側に付いて結構な活躍をします。三春藩はもともと奥羽越列藩同盟の一部で新政府と敵対する関係にありましたが、それを新政府側に寝返らせる時にかなり活躍したという自負が彼にはありました。
こういう人たちは、戦争で活躍したのだから戦後ももっと活躍したいという欲求を抱きます。つまり、これまでの社会の編成原理は戦闘員たる武士が政治の支配者であるという理屈で成り立っていましたが、戦場に様々な人が出ると、皆が政治的な決定の場に参加したがる。参政権を求める運動へと転化するという論理の道筋がありました。
しかし、戊辰戦争で勝った側全員に適切な処遇が与えられたわけではありません。板垣退助などは戊辰戦争の英雄となり、新政府でも枢要な地位を占めますが、1873(明治6)年の征韓論政変で政府を追われることになります。すると彼には、自分は明治政府の政治に寄与しているのに、なぜ政権中枢にいられないのかと不満感が当然たまってくる。これは単なる不満感にとどまりません。自分たちは国家に貢献したのだから、然るべきものを言う権利があるはずだという、より強い権利要求を出すようになります。暴力的な戦闘に参加したことによって権利要求を勝ち取る、そういう経路があったのです。私は、明治時代のこうした状況、自由民権運動が始まる状況を「戊辰戦後デモクラシー」と呼んでいます。
「戦後デモクラシー」と言うと、一般的にアジア・太平洋戦争が終わった後の民主化あるいは民主主義の運動を意味しますが、近代日本政治史が専門の三谷太一郎さんは、日本の戦後デモクラシーは複数回あると主張しています(『近代日本の戦争と政治』)。日本では、どの戦争でも、その後に必ず民主化や政治参加の拡大要求が起きている。これはなぜかと言うと、戦争をやると、租税負担の点でも、直接戦場に投入される点でも、国民の負担が増大する。負担の増大は戦後、その受け皿になった人々の権利的な政治要求を認めざるを得ない力として働く。こうしたメカニズムによって、例えば日清戦争の後には政党がそれまでの権力のアウトサイダーから権力の中枢に近づいていくという事態や、日露戦争後に民衆が街頭活動を行う事態が生まれる。あるいは日露戦後を大正デモクラシーの時代と考えた場合に、大正デモクラシーの状況も一種の戦後デモクラシー状況として捉えられる。戦争の負担に耐えたことによって、戦後活発化した幅広い人々の要求を受け止めるための運動と理解できると、三谷さんは説明をしています。
私の言う「戊辰戦後デモクラシー」は、三谷さんの「戦後デモクラシーは複数ある」という発想をその1つ前に遡らせることで着想したものです。戊辰戦争の時にも実は似たようなことが起きているのではないか。これまで戦争に巻き込まれるはずのなかったかなりの人たちが巻き込まれ、それによってその後、政治的な能動性が引き出されたのではないかと論じるものです。つまり、政府に対し、国家に対して貢献したのだから権利を認めろ、と強く出られる人たちが多数存在したことが自由民権運動の条件ではないかと思うのです。
自由民権運動は1874(明治7)年に民撰議院設立建白書の提出から始まりますが、この中で展開されたのは所謂、有司専制批判というものです。有司とは官僚、役人といった意味ですが、とくに根拠もない、選挙によって正統性を得ていない人々がなぜ権力を握っているのか、なぜあの人たちが支配者で、われわれは支配者ではないのか、それについての合理的な説明がないと。権力のレジティマシー(正統性)や支配の根拠がない、その正統性のなさを突くために持ち出された論理でした。
政府が正統性を持つためには、国民──といってもこの場合は限られた人間になりますが──の多数の声によって支えられていることが必要だ、そのために議会を開くべきだという論理が一気に広まる土壌には、このようにものを言う権利が自分にはあると思っている人がたくさんいました。これを引き出す背景の1つが戊辰戦争だったと思います。これは一方で、政治参加要求が発生した時点で暴力の契機を背景に持っていたことと表裏のものであったことを示してもいます。
「一身独立」と「人間交際」
2番目に立身、競争の契機についてお話しします。再び福澤の言葉に戻りますが、福澤が身分制に対し、非常な敵意を燃やし、一身独立論を唱えたことは広く知られているところです。私なりの言葉で言うと、福澤が『学問のすゝめ』で展開した一身独立論は、身分による地位の固定によってではなく、個人が他者に依存することなく、知的に自ら判断し、経済的に自活して独立を果たす。それが社会の基礎であると説いた思想である、とまとめることができると思います。ここでは当然ながら個人の努力の要請があり、一定の努力をしない者は独立できない。だからこそ学ばなければならないということになります。
ただ、福澤における「一身独立」は非常に包括的な概念で、経済的な独立に限られるものではありません。社会の構成員としてのルールに従い、社会に貢献するということも含んだ概念です。福澤自身の言葉を引くと「人たるものは唯(ただ)一身一家の衣食を給し、以(もつ)て自(みず)から満足すべからず、人の天性には尚(なお)これよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分を以て世のために勉(つとむ)る所なかるべからず」(『学問のすゝめ』第10編)と言うわけです。ここで、ソサイエティという概念を翻訳した、「人間交際」という福澤の概念としても非常によく知られたものが出てきて、独立を果たした一身は人間交際の仲間、社会のメンバーとして、1つの道徳的なルールのもとで相互に交際することが求められています。
しかし、福澤の説くところと身を立てることは、近代日本では異なったニュアンスをもち、やや一面的に捉えられていたということになります。福澤研究で有名な松沢弘陽さんは、要するに経済的に独立すればいいのだよ、という発想に対して歯止めをかけようという福澤の努力があったにもかかわらず、「しかし自己利益追求の欲望はおさえようもなく広がり続けた。皮肉なのは、福澤の『学問のすゝめ』による一身独立への訴えが、このような動きを促進する役割を演じたことだった」(『福澤諭吉の思想的格闘』)と述べています。
身分制社会の解体──「袋」から結社へ
それでは、明治期日本社会を特徴づける概念と言われる、立身出世熱、自分が努力することによって社会的な地位を上昇させたいという欲求、欲望はどこから生まれてきたのかを考えたいと思います。これは福澤が批判した身分制社会が解体するところから生まれます。身分制社会と言った場合、私が念頭に置くのは必ずしもピラミッドのようなあり方ではありません。士農工商という概念はもはや高校教科書などで使われなくなって久しいですが、身分制社会は上から下に階層的な秩序があるというだけではありません。私は「袋」の比喩を使ってよく説明していますが、江戸時代の社会とは身分的な集団によって構成されている。その小さな社会集団がたくさんモザイク状に集まってできている社会だというのがポイントだと思います。
袋である小さな集団1つ1つには身分的な位置づけが与えられています。例えば「村」は江戸時代に6万ぐらいありますが、それらは百姓身分を持つ者の小さな社会集団です。兵農分離社会ですから武士は基本的に城下町に住んでいますが、何らかの事情で村の範囲内に武士がいても村人にはなりません。村の人別帳には入らないのです。現在の地方自治体であれば、その自治体の中に住み、住民票を置けば基本的に誰もがそこの住民ですが、そういうものではありませんでした。
都市では「町」と言われますが、町は現在の〇〇1丁目よりもずっと小さく、1つの道路をはさんで両側のワンブロック──両側町と言いますが──、これを町と言います。こういうところに土地と家屋、つまり町屋敷を持っている人が町人です。町人とは町のメンバーであることですが、江戸は全部の場所に〇〇町と地名が付いていたわけではなく、武家屋敷には町名は付いていませんでした。
三田キャンパスがある場所は、現在では三田2丁目と住所がありますが、もともと武家屋敷地ですから、江戸時代に住所はありませんでした。この近辺の道路に面したところには町人地があり、そういう場所は三田〇〇町でしたが、武家屋敷は武士が住み、町人が住むところではないので〇〇町とは言わない。明治になって初めて江戸のすべての場所に地名が付きます。
そういう小さな集団がモザイク状に寄り集まっているのが江戸時代の社会です。それぞれの身分は領主から負荷される役(やく)を負っています。職人が集住している町なら、技能に応じた役が設定されています。例えば「南鞘町」という町なら刀の鞘をつくる仕事を請け負わされているといった役がありました。
その中で根幹的な役は武士が担う軍役でした。軍事力の担い手が支配者であるのは、武士という身分が軍役を負う社会編成になっているからです。身分制社会という社会編成のあり方は、軍事力の担い手が武士であることと表裏一体です。それまで他の役を負っているべきだった人が軍事力の担い手になると辻褄が合わなくなってしまいます。だから戊辰戦争をきっかけに軍事力の担い手が支配者であるという原則が崩壊し、身分制社会の解体が不可避的に引き起こされる事態が生じたのです。
これは計画的に、深慮遠謀のもと、身分制社会をなくそうという計画を立てて新政府が1つ1つ手を打っていったというよりは、むしろ後追い的に身分制社会がどんどん崩れ、成り立たなくなっていったというものです。それにどうやって対応しようかといううちに、新しい制度を一からつくり直さなければならなくなり、身分制社会を解体する諸法令、諸改革が実行に移されていきました。
それが例えば、1871(明治4)年の廃藩置県であり、1872年の徴兵告諭です。ここで国民皆兵が謳われ、武士は無用の存在になります。本来軍役を担っているはずの武士が、ただ座食の徒となり、給料だけもらって何もしない人だと言われるのは、それまでの軍事力の担い手という役割を喪失したからです。
1873年から地租改正が行われますが、これが身分制社会の1つの構成要素であった年貢村請制を解体します。それまでは小さな集団単位で社会は把握され、集団単位で義務を負っていました。ところが、そういう社会は成り立たなくなり、社会集団が壊れていくと、個人に責任を負わせるしかなくなります。地租改正とは、全国の土地を原則として1つ1つ測って地価をつけ、その一定割合を地租という税金で取っていくものですので、これまで村単位でかけていた年貢村請制ではなくなります。つまり納税は個人の責任になります。それまでの村請制では年貢を払えない人がいた場合、誰かが立て替えなければいけませんでした。年貢の立て替えを村役人、名主や庄屋といった人たち、あるいは富裕な人が支えていました。
江戸時代の人は現在に比べて優しかったということは信じ難いわけですが、社会の仕組みとしてそういう連帯責任の仕組みがありました。例えばある人が耕作放棄をして逃げてしまえば、その人の年貢は誰かが払わなければいけません。そういう「強いられた連帯」みたいなものが年貢村請制のもとではありました。しかし、地租の納税責任を個人が負うことになると、その人が払えなければ財産や土地が差し押さえられ、競売にかけられるという話になる。「強いられた一身独立」みたいなことになるのです。
これを私の比喩では「袋が破れる」と言っています。社会集団という袋に含まれている人たちは、一面では閉じ込められていたとも言えるわけです。その中に閉じ込められていたとも、包まれていたとも言える人たちが、好むと好まざるとにかかわらず、わっと出てきてしまうことになり、これが社会の非常な流動化を生む。これはある人にとっては当然チャンスです。これまでなかった機会が開けてくることで、そういう可能性にかける人たちは立身出世の道をつかもうとします。また、ある人たちにとってはそれまでの生活が続けられなくなり、不安でしかなくなります。
そうした中で、完全にばらばらな1人になってしまうとつらいので、何らかの形で社会のあり方をつくり直そうとする試みが行われます。その1つが結社というものです。明治の前半期はさまざまな結社が生まれた時代として知られています。学習結社が中心ですが、経済的な目的でつくられた結社や、農業技術を研究するための結社などが、中央、地方を問わずたくさん生まれます。言うまでもなく慶應義塾もそういった結社の理念をもってつくられた場であり、社中という言葉が今日もなお義塾の関係者を指す言葉として使われ続けているのはこうした背景があります。
立身出世の時代
しかし、そうした自覚的な人々による集団形成は限界があり、急激な身分制社会の解体の中ですべての人の防波堤の役割を果たすことは結果的にできませんでした。よるべき集団を持たない個人は自己の努力による立身出世を図ります。成功熱という言葉が出るほど成功に対する願望や欲求が非常に高まるのです。
そうした中で、社会の中に苦学生と言われる存在も生まれます。現在、苦学生という言葉はどちらかというと、学籍を持っていて、学費が払えずにたくさんアルバイトをしなければならず苦労している学生を指しますが、明治時代の苦学生は、学校に入る前の段階で使われていました。つまり、学校に入るために都会に出て、働いて学資を貯めながら受験勉強をする、という人です。
苦学してでも高等教育を受けたい人はあちこちにおり、そういう人たちを煽る本も売れました。一例に『自立自活 東京苦学案内』というガイド本があります。東京に出てきて苦学するならこういう学校やバイト先がある、といったことが書いてある本です。この本の序の一部を抜粋すると、「諸君が憤起一番した時は親をも頼まぬ、親類も頼まぬ、頼む所は鉄の如き決心と火の如き熱心だ。(…)健康な身体と独立の精神さへあれば諸君の学資位は心配無しにできる」と書いてあります。しかし、実際には努力は何ら成功を保証しません。多くの苦学生はいかに決心固く東京にやってきても、人力車を引くような過酷なバイトをし、残りの時間で勉強ができるかと言えば疲れ果てて眠ってしまう。中には悪辣で、苦学生に勉強や進学の案内をすると称して人を集め、実際には日雇い労働に従事させて勉学の機会は与えないという派遣業者もいました。
もちろん数少ない成功者もいます。逆に言うと、努力しない人はこういう社会では絶対成功しません。ですが、努力したからといって成功するわけではない。人間には当然運不運があり、病気になったり、家族の事情だったり、いろいろな事情で行く手を阻まれることはいくらでも考えられます。しかし、努力しないと成功しない社会では、結果的に成功した人はみんな努力した人です。すると、成功した例だけを見て、道徳的に正しい行為を続けていれば成功すると思い込む。結果だけ見て、頑張れば成功するというのは、今で言う生存バイアスと言われるものです。
そうすると成功している者は道徳的にも正しいことになり、失敗した者は道徳的にも敗者になってしまう。要するに「頑張らなかったのでしょう」という話になります。それがさらに、頑張れば成功するわけではないことはみんな知っているわけですが、成功しさえすれば、後追い的に、道徳的に良いことをした、頑張ったということになります。ともかく成功すればいいということになると理屈が転倒してしまうわけです。すると、手段を選ばなくなり、場合によっては不正な手を使ったり、他人を蹴落としても構わないというような立身競争が展開されることになります。こうして身分制社会の解体の中から、立身出世ブームという時代を特徴づける1つの性格が表われてくるわけです。
福澤女性論と「家」型家族・近代家族
3番目にジェンダー、性別役割分担の話をします。ここまでは基本的にほとんど男の話でした。戦場に出るのも、立身出世や成功を願うのも主体は男です。では女性はどうなのか。ここでまた福澤の話に返りますが、福澤の女性論は私の乏しい学識では到底歯が立たないほど難解です。論点が非常に多岐にわたり、財産権のことや、婚姻のこと、あるいはセクシュアリティの問題など、複数の論点があり、複数の読み方があるだろうと思います。
ただ1つはっきりしている点があり、福澤諭吉は何と戦っていたかということだけは非常に明瞭です。日本近代史研究にかかわらず、歴史学において家族といった場合に近代家族という概念があり、近代家族とそれ以外という区別があります。日本近代史では、とくに近代家族型ではないものとして「家」型家族を想定するのが一般的です。家型家族には、農家も含め伝統的な〇〇屋といった小経営のイメージがあります。つまり家とは単なる消費と生活の場ではなく、収入を得て生活をするための生業を営む家族労働の場です。それは当主、妻、その前の世代、次の世代を含め、皆が労働をするという家族のあり方です。
日本の「家」型家族は男子の直系相続であることが一般的で、男が跡を継いで縦につなぐというものです。歴史学では家名・家産・家業の一体性と言われます。江戸時代に苗字は許されませんでしたが、〇〇屋という屋号や、家の財産である家産、農家であれば土地、商人であれば店舗があり、それらを代々一体的なものとして当主が継承する。〇〇屋の仕事は何であり、親が農民なら子も農民であるというように家業があるのが一般的でした。
小経営で直系相続の、こうした承継型の家族が江戸時代の初めに広がった日本の家族のあり方だと考えられています。これはお墓などを見ると明瞭で、江戸時代より前は、先祖の墓はなかなか見つけることはできません。墓を継続的につくり始める、つまり子孫が祀ってくれることを前提とする墓は17世紀以降の農村に出てくるのが一般的です。
これに対し近代家族は、理念的には職住分離を前提にしています。仕事をするために家から出て、会社や工場で働く。これは同時に性別役割分業を伴っていました。男性は外で働き、女性は家事と育児を担当するという性別役割分業です。後で述べるとおり、実際はそうではないことがしばしばありますが、理念的にはそういうものが近代家族と言われます。家族は生産、営業の場ではなく、消費の単位に単純化されます。
福澤の主要な批判対象が当時における「家」型家族のあり方であったことだけは、どれを読んでも疑問の余地はないと思います。近代家族に対し、どういう考え方をとっていたかはいろいろな読み方があり、私もよくわかりませんが、「家」型家族は江戸時代にも、明治時代においてもごくごく一般的でした。明治時代の社会は圧倒的に農業社会で、農家は皆「家」であり、「家」単位の都市の小営業あるいは職人や商人の世界が分厚く存在しており、工場や会社の世界はまだ部分的にしか存在していませんでした。
「家」と労働
このように明治においても職住が分離している近代家族型のスタイルはごく少数で、「家」型家族が標準的なものとみなされていました。男性は家を相続して維持し、発展させ、家を継承できなかった者は家を新たに興す。家経営体の主人となることが目標であり、経営体かどうかにかかわらず、立身出世と言った時の1つのイメージが自ら家の祖となることでした。
明治期の工場労働者にとって、キャリアの目標は企業内で出世を重ねていくことではなく、最終的には独立して町工場のような作業場を持つことだと広く考えられていました(尾高煌之助『新版 職人の世界・工場の世界』)。長期勤続してだんだん上がっていくのではなく、いろいろな工場を渡り歩き、技能を身につけ、自分の工場を興すのが職人にとってのキャリアの上がりであるとみなされていました。小経営の主となるのが到達目標とされていたのです。「家」は近代にも広く存在しており、その意味で「近代家族」はやや誤解を招く概念なのであまり使いたくないのですが、便宜的に使います。
江戸時代の社会でも「家」は基本的な単位ですが、先ほど話したように、社会集団の中に包摂されていました。ところが明治時代に入ると、身分的な社会集団が消滅してしまい、家同士の直接的な相互競争が生まれます。そうなると「家」経営体が相互に生き残りをかけ、例えば農家は労働集約的になっていく。女性は男性家長の指揮のもと、生産労働・家事労働の双方で家への貢献が求められる度合いがより強くなります。
農家副業のことを考えるとわかりやすいのですが、農家は農業だけをやっているわけではありません。農閑期には例えば、糸の供給を受けて織物を織り、手間賃をもらうといった副業が行われ、それは女性が担当します。つまり余っている労働力をことごとく使うことで生き延びていこうとする戦略を取る。農業技術自体も相当労働集約的になっていき、家族の中でできる限り稼げる人が稼ぐ仕組みへと圧が高まっていきます。
当然、専業主婦などは存在しません。しばしば見られることですが、子どもが小さいうちは、その母親の世代はもっと働ける場面があるわけです。畑や田んぼに出ることも可能ですし、織物を織ったり、農家内での家内工業に従事することもできました。母親はそういうことを優先的に行い、祖母の代が育児と家事を担当するという労働力の分配が見られました。母がつねに子育てを担当するわけではなく、とにかくみんなずっと働いているという構造があったのです。
女性の「立身」
これが第1次世界大戦後、産業構造が変化すると、次第に職住が分離する近代家族型の家族が増えていきます。ただし近年の研究では、第2次世界大戦後においても実際には専業主婦化はそれほど顕著ではないと言われています。高度経済成長期には女性が家庭に入り外で働かないスタイルが一般化したかというとそうでもないというわけです。職住が分離したからといって女性がすべて専業主婦になるわけではなく、女性が働き続けるのは当たり前という労働文化は、第2次世界大戦後に至るまで、かなり幅広くあったのではないか。一方、家庭におけるケア責任、つまり一家の食事を準備したり、洗濯や掃除をしたりというケア労働を担うのは女性だという性別役割分業の規範は強いという指摘が最近の研究にはあります(満薗勇『消費者をケアする女性たち』)。
こういう状況の中で、明治期の立身は男性を主語とする概念で、女性は基本的に入っていませんでした。しかし、女性の一部にも立身出世の欲求は存在し、同じ言葉で自らのキャリアを語る人は明治期に存在します。例えば『青鞜』の同人の中に岩野(旧姓・遠藤)清という人がいます。
岩野については、坂井博美さんのくわしい研究(『「愛の争闘」のジェンダー力学』)があります。彼女は地方で学校教員をやっていましたが、東京に戻る時に「生存競争場裡に立たなんとて再び都に帰りぬ」という言葉を使っています。これは自らの力量でもって積極的に競争の場に参加する意思があったということです。男性の立身出世と似通った言葉遣いで自分のキャリアを語ろうとしており、彼女は事務員を経て記者になり、書く人として身を立てていくキャリアを選びます。
こういうケースがある一方、立身出世という言葉で語られるあり方としてもう1つ、これは私自身の研究ですが、逓信省、後の郵政省であり現在は総務省の一部ですが、その中の郵便貯金を取り扱う貯金局という部署に女性の官僚、当時で言う官吏がいました。こうした人たちが立身、あるいは出世という形で語られている現象があります。
これを通して近代日本のジェンダー構造の一端を見ていきたいと思いますが、明治期の日本では原則的に、女性には現在の国家公務員に当たる官吏の資格がありませんでした。戦前の官吏の身分は上から勅任官、奏任官、判任官と3つに分かれており、勅任官は次官や局長級の偉い人、奏任官は今風に言うとキャリア官僚、判任官はノンキャリア官僚のようなイメージです。官吏の下に雇員・傭人がおり、雇員は主として事務職労働者、傭人は現業労働者に使われる言葉です。この人たちは官吏のように国家に対して特別の義務や身分保障があるわけではなく、現在で言えば非正規雇用の官庁職員に近い人たちで、雇員の中には女性がたくさんいました。
近代日本の官吏の登用システムの原型を決めたのは1893(明治26)年の文官任用令及文官試験規則ですが、これは20歳以上の男子に受験資格を限定しており、女子には受験資格がありません。ただ、例外として特別任用ポストというものがありました。特別任用とは、試験を経ずして公務員のポストに就くことができる職で、例えば官立学校の教員などは官吏にあたりますが、文官試験を受けて就任するわけではありません。したがって、官立学校の教師に女性が就くことは可能でした。例えば、東京音楽学校の音楽教師や女子高等師範学校の教員などは官立学校の教員ですから官吏です。さらにもう1つ、5年以上雇員を続けると、その部署限りの試験を経て官吏に登用できる規定がありました。
特別任用と5年以上雇員をやっている実績の組み合わせのような形で、一部の官庁では女性を官吏の枠に採り込んでいくことが行われました。これを最初にやったのが1906(明治39)年の逓信省貯金局です。なぜ逓信省貯金局が判任官のポストに女性を任用できたかと言うと、ここに特別任用のポストが最初からあったからです。逓信省は膨大な数の職員を抱えており、いちいち全員の試験採用をやるわけにはいきません。郵便局の事務職員などを全員文官試験で採用することは合理的ではないという判断があり、逓信省に限りそういうポストの採用がどんどん行われました。1906年に女性を採用したことについて、当時の貯金局局長で、終戦時に内閣情報局総裁を務めた下村宏が、新聞に「男子よりは給料が安いので、安い割合には役に立つ」と身も蓋もない説明をしています。現在の省庁なら即クビですが、当時はそういうジェンダー意識でした。
採用される人たちはだんだん増えていきますが、この人たちの主たる仕事はそろばんを使い貯金を計算することでした。全国各地で行われる郵便貯金の引き出しや払い込みの伝票が、中央の貯金局に紙で送られ、これを全部計算して合計額を出す作業をしていたのです。かなり競争的な環境なので、そろばんをはじく速さを競う珠算競技会があり、逓信省の大講堂にそろばん使いが集められ、大臣や次官が見ている中で100枚の伝票を何秒で計算するかといったことを競わされました。その中に、長期間勤続した人が見出されます。私が調べることができたのは、そろばんの達人と称された三木を美喜(みき)という人です。この人は旧姓清水と言いますが、史料の中に見つけた時に、結婚しているのだろうと思いました。三木という姓に、を美喜という名前を付けるとは考えにくいからです。つまり、結婚しているくらい長期勤続したのだと思い、この人を追いかけたところ、かなり詳しいことがわかりました。
三木(清水)さんは1904(明治37)年に雇員として採用されています。1911年に判任官に登用され、1932年に退職しているので、28年にわたり逓信省に勤めています。班長のポジションにまで出世し、男性の部下がいました。1932年の時点では同じ係の他の班長は男性でした。そういう状況で女性として出世している。ただ、その上には係長がおり、係長になった女性はいません。
彼女は回想記を残しています。それによると「当時我国はロシアと戦争中で、娘ながらも何か御国の為に働きたいと思い従軍看護婦を志願したところ、15歳という年齢制限で、希望は果たせませんでしたが、やはり何か御国の為にもと思い、丁度友人が勤めておりました貯金局ではそろばんを使っていると聞き、少なからずそろばんに興味を持っていたので早速入局させていただきました」(「珠算一筋」)とあります。日露戦争があり、彼女は末娘か何かであまり親から気を遣ってもらえず、自分の未来は自分で切り拓かなければならない状況にあったということですが、従軍看護婦になり、御国のために貢献して自分の道を切り拓きたいと思ったが、年齢制限でかなわず、貯金局が募集していたので、これも御国のためということで就職したと書いています。ここでも立身の契機が戦争であることに注目してもらいたいです。
彼女は同じ貯金局の判任官だった三木源太郎さんと職場結婚します。2人が同じようなキャリアで上がっていくのは非常に面白いのですが、やがて子どもが生まれます。長男、次男が生まれた時には、源太郎の母、を美喜さんにとっての姑が育児をしていました。三男が生まれた時には姑が高齢のため、このタイミングで退職することになったと三木さんは回想しています。夫も後に退職し、特定郵便局の局長になっています。当時3等郵便局ですが、特定郵便局はある種の家族経営なので小経営の家族になったのでしょう。
ここで注目したいのは、立身出世に女性が参入した場合のジェンダー非対称性のことです。1906年の女性の判任官登用はかなり大々的に報じられています。同年7月30日の『東京朝日新聞』には、「曰く那(あ)の子もとうとう出世しましたが其内には能い婿を捜して遣度(やりた)く存じます、久しく開化開化といふ事を聞いて居ましたが那の子が判任官になるとは夢にも知りませんでした」という家族のインタビュー記事が載っており、出世という概念がはっきりあります。しかし、男性が判任官になるのは出世ではありません。男性向けの立身出世雑誌『成功』を見ると、「普通の判任官となると(…)甚だつまらぬ者と云わねばならぬ、故に成る可く其位置を得て居る間に専心勉強して、他日に安心の資格をつくり置く事が肝要であると信ずる」と書いてあります。判任官なんてつまらない仕事であり、上が決まっているから、資格試験の勉強でもして転職活動をしたほうがよいというわけです。
女性にとって出世と言われる出来事が、男性にとってはまったく出世ではない。ここにジェンダーの非対称性が見られます。さらに言うと、女性が長期にわたり官庁に勤務する際に3世代同居があり、それによって支えられている構造が、三木のキャリアから見られます。
むすび
以上、三田演説館の壇上という近代日本にとって特別な意味を持つ場所から近代日本を振り返ってきましたが、明治期に福澤と慶應義塾が直面した主題が、現代の私たちにとっても形を変え、切実な主題として存在していることがわかります。
例えば、現代的な課題として、ケア労働とジェンダー構造の問題を挙げることができると思います。今日を記念して言われる「慶應義塾は一日も休業したことがない」という言葉、これはあくまでシンボリックな表現ではありますけれども、慶應義塾が本当に1日も休まない場合、休まない義塾のメンバーのために食事をつくったり、掃除をしたりするのは誰なのかという問題はやはり問われるだろうと思います。
フルタイム男性労働者が1人で家計を支える構造は、ジェンダー不均衡を再生産し続けてきたのではなかったか。生き馬の目を抜くような競争社会で、そうしたケア労働に男女がともに参加する時間的余裕があるのかと言えば、それはないでしょう。だとすると、こうしたことを可能にする社会のあり方、人と人との結びつきはどのようなものであるべきなのか、という問いに戻ってくるわけです。近代日本の経験はそうした問いを想起させる素材に溢れています。
そして、暴力の契機です。競争が暴力行使に転化しないためにはどうしたらよいのか。あるいは暴力行使がなければ不利な立場に置かれた人々が参入できない社会の仕組みはどのように避けられるか。福澤はウェーランド経済書講述の日に、当時慶應義塾があった新銭座と上野は2里も離れており、鉄砲玉が飛んでくる気遣はないと書いていますが、福澤の時代よりもはるかに狭くなった現代の世界において、上野は遠いのか。どこの砲声ももはやわれわれにとって遠いとは言えないのではないでしょうか。私たちはテロの恐怖を生々しく語る福澤の、暴力に対する敏感さをもまた共有すべきではないかとも思う次第です。ご清聴有り難うございました。
(本稿は、2023年5月15日に三田演説館で行われた福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会での講演をもとに構成したものである。文中の福澤諭吉の原文は『福澤諭吉著作集』(慶應義塾大学出版会)による。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。